おかしな話 目の前の狐が似合わない雑誌を持っている。ホワイトデー特集と大きく書かれた雑誌はおそらく女性誌で、そういう一種のちぐはぐさは骨ばった長い指に支えられて奇妙なバランスを保っていた。
「雨彦さん、珍しいものを見ているねー」
似合わない、と言外に告げたつもりはないが、まるで避難されたかのように肩をすくめて雨彦さんは返す。
「よう北村。なに、面白いと思ってな」
「おもしろいー?」
「見てみるかい?」
そう言って雨彦さんが広げたページにはホワイトデーと聞いて連想できる限りの──あるいは想像の外にあるような様々なお菓子が散らばっていた。そこに、何かが書いてある。
「えっと……お返しに込められた意味ー?」
「ああ、奇妙なもんだ。どんな菓子をやるかによって、伝えたいメッセージが決まるんだと」
キャンディは『あなたが好き』
マカロンは『あなたは特別』
マシュマロなら『あなたが嫌い』
クッキーなら、チョコレートなら、マドレーヌなら。
「……ふーん。雨彦さんはこういうのが面白いと思うんだ」
僕は少し不服だった。不気味だったと言ってもいい。何も知らずに親愛を込めてマシュマロをプレゼントした少年がどこかにいるのかと思うと、なんともやりきれない気持ちになってしまう。
「不思議なもんだと思ってな。……いや、恐ろしいと言った方がいいのか。迂闊に菓子も贈れない」
「そうだねー。僕、うっかりマシュマロを買っちゃうかもしれないよー」
いいことがない。そう結論づけた。僕は雨彦さんの隣に腰掛ける。そういえば、雨彦さんとクリスさんにあげようと思ってお煎餅を持ってきていたっけ。
これにも勝手に意味が込められてしまっていたら。そう考えるとこのお煎餅は鞄に食べさせておくのが正解な気すらしてくる。かといって、こんな世間の言葉遊びを見たくらいで今日のおやつを引っ込めるのも癪だった。
「北村」
ふと、声を投げかけられる。通り雨に似た、不意打ちのような言葉だった。
「……なにー?」
思わず身構えた僕を見て、雨彦さんは珍しい笑い方をした。
「……ホワイトデーのお返し、俺が北村にやると言ったら……なにが欲しい?」
「……お返し?」
「ああ、何でもやる。欲しいもの、なんでも」
キャンディでも、マカロンでも、マシュマロでもいい。雨彦さんは言い慣れてなさそうな洋菓子の名前をポンポンと並べ立てて、意味ありげに雑誌を指でなぞる。
好きの言葉も、特別も、嫌いという決別もこの人は望んだらくれるんだろうか。
「……僕の気持ち、気づいてますかー? それなら、本当に意地が悪いよー」
「なんだ。欲しいものをやるっていうのに、不満かい?」
「いらない」
両手を伸ばして、ぱたんと雑誌を閉じた。雨彦さんの指先がぺらぺらの紙に挟まれて見えなくなるのを見送って、紙の上から思い切り力を込めて雨彦さんの指を潰してやる。
「お返しなら、いらない」
いつか、お返しでいいから欲しくなる時がくるんだろう。僕が声を張り上げて、そうして向けてくれた瞳に、涙が出るほど焦がれる日だってきっとくる。
それでも。
「僕にも意地があるよー。まだ僕は雨彦さんにバレンタインをあげてない。お返しなんて、もらう義理はない、かなー」
長いつきあいになるんだから、こっちは未成年の意地にくらい年の功で付き合ってもらうつもりなんだ。
「お返しじゃないならいくらでも受け取ります。雨彦さんが僕に、自分からあげたいって思ったものを、いつでもいいよ。ください」
なんでも受け取るから。そう言って雨彦さんの手を解放すれば、雨彦さんは僕の手から雑誌をとってテーブルに放り投げた。
「……何をやっても、誤解なんてしないでくれよ。たとえマシュマロをやったって、早合点はしないでくれ」
「マシュマロもー好きの言葉で愛になる。そういうのはちゃんと言ってよ。誤解する余地もないくらい、はっきり、自分の言葉で」
努力する。そう呟いた雨彦さんは、次の瞬間にはいつもの食えない顔をして笑う。
「……俺からやることは前提なのか」
「わかんないよー。僕が我慢できなくなって百本のバラを贈るかもしれないし……うかうかしてたら、別の人に絆されて結婚式のスピーチなんて頼んじゃうかも」
「それは……愉快なのかな、どうかな……」
わからない。雨彦さんは伏し目がちに口を開いた。この人が目線を下げてくれると、身長差のある僕はようやく目線があう。
「何かを贈りたくなったら受け取ってくれ。……贈りたいとは、今だって思ってるんだがな。ただ、何をやればいいのかわからない。お前さんにも、古論にも、プロデューサーにも……」
「待ってますー。いや、どうだろうね。僕の意地なんて、あっさりなくなったりするのかも。とりあえず、これはあげるよー」
僕は鞄からお煎餅を取り出した。大切に持ってきたはずのそれは、鞄の中でみっつに割れていた。