ももは魔除けになるらしい「百々人、名前借りていいか?」
右手にサインペンを、左手にコーヒーゼリーを持った天道さんが僕に問いかけてきた。僕が疑問を返す前に天道さんはおまじない、と口にして「百々人の名前を書くと漣に食べられないんだ」と笑う。
そこでようやく合点がいく。事務所の冷蔵庫に何かを入れるときには名前を書くルールがあるから、牙崎くんが食べないように僕の名前を借りたいということだろう。そう、牙崎くんは冷蔵庫にあるものを勝手に食べる。
「いいですけど……僕、一度食べられたことありますよ?」
僕も一度やられた。正直かなり怒ってるし根に持ってる。そんなこと、言い出せなかったけど。
「そうなのか。でもその一回だけだろ? 享介と四季が実験してたみたいけど、百々人の名前を書いとくと漣は手を出さないんだと」
そういえば名前を貸してくれと頼まれるのは初めてじゃなかった。伊瀬谷くんの頼みごとにそんな理由があったなんて。
「そうなんですか? 僕、牙崎くんに何かしたかなぁ……」
僕は特例らしいが心当たりはとんとない。天道さんも理由はわからないようで、首を捻りながら、そこからさらに数人の名前をあげた。
「かのんとか、直央も取られないみたいだな」
「僕、小学生と同じ扱いなんですか……?」
「志狼は取られるらしいぜ? あとは……ピエールと咲も無事らしい」
それから数人ほど取られにくい名前は挙がったが、確実なのは僕を含めた五人みたいだ。
「んー……その四人はかわいいと思うけど、僕はかわいくないですよ」
「そうか? 俺から見たら事務所の子供はみんなかわいいけどな。まぁ咲に関しては理由が違うと思う。漣は前に咲のケーキを食べて、お詫びに髪をいじらせろーって追っかけ回されてたから懲りたんだろ」
天道さんの笑い声につられるようにデスクの方からぴぃちゃんの笑い声が聞こえた。ぴぃちゃんは「盗み聞きしてすみません」と謝って、困ったように口にした。
「漣さんには言い聞かせてるんですけどね……面目ない」
「ぴぃちゃんは悪くないよ!」
ぴぃちゃんは悪くないのにぴぃちゃんが謝ってる。こうやってぴぃちゃんを困らせる牙崎くんは苦手だし、あんな人のためにぴぃちゃんがこんな笑顔をするのもなんだか嫌だった。
「ありがとうございます、百々人さん。いやぁ……道流さんも叱ってくださってるんですが、どこ吹く風で……」
「ああ、道流って言えば、道流って書いたものは十中八九食べられるってさ。研究結果が出てる」
タケルと書いても食べられてしまうらしい。何というか、あんな傍若無人のお手本のような人間が相手を選んでいるのは驚きだった。
ぴぃちゃんは天道さんと少し言葉を交わした後、柔らかい声で呟いた。
「漣さんは決していい子ではありませんけど、優しい人ですから」
僕はぴぃちゃんの言うことを信じてるけどこれはちょっと信じられない。悪い人ではないことはわかるけど、優しいかと聞かれたら頷けない。
「……優しい人は誰かのものを食べたりしないよ」
正論を言ったと思う。ぴぃちゃんは苦笑する。
「困ったことに、優しい以上に自分勝手な子なんでしょうね」
天道さんは僕らのやりとりをふんふんと聞いていた。気づいた僕が「あ、名前はどうぞ」と言えば、お礼を言ってコーヒーゼリーに僕の名前を書き始める。
「……ああ、百々人さんのものが取られないのには心当たりがあります」
「え?」
「そうなのか?」
僕と天道さんは同時にぴぃちゃんを見た。ぴぃちゃんは苦く笑う。ぴぃちゃんが牙崎くんのことを説明するときは、大抵こんな顔をしている。
「漣さんが勝手に食べた百々人さんのおやつ、あれは百々人さんが私のために買ってきてくださったものだったじゃないですか」
「……うん」
そうだ。牙崎くんは僕がぴぃちゃんに食べてほしかったおやつを食べた。だから僕は覚えてるし、怒ってる。
僕が食べるおやつならここまで怒っていない。みんなみたいに、あー、やられた。なんて苦笑できるのかも。でも、あれはぴぃちゃんのためのものだったのに。
「だから言ったんです。『あれは百々人さんが私を想って、私のために買ってきた、心のこもったおやつなんですよ』って。……漣さんは意外と、罪悪感には耐えられないんですよ」
きっと、ですけど。そうぴぃちゃんが言う。ぴぃちゃんの言うことだから間違いはないと思うけど、さっきみたく、やっぱり少し信じられない。
「多分漣さんは、怒られるよりも悲しまれるほうが堪えるんです」
「……僕以外の人がぴぃちゃんのために何か買ってくるとは思わないのかなぁ……」
想像力が足りないよ。そう言えば天道さんは何故か僕の頭をわしわしと撫でた。
「漣なりに、誰が何を大切にしてるのかを考えたんだろ。百々人はプロデューサー思いだからな」
「そうですね。いつもお気遣いありがとうございます。……あ! でも差し入れは経費で落とさせてくださいね!? これからはちゃんと領収書をもらって……」
ぴぃちゃんがハッと気がついたように早口になる。天道さんはそうだぞ、と僕に投げかけて、それからわざとらしく口を開く。
「俺だってプロデューサーにコーヒー差し入れたりしてんだけどなー?」
「輝さんは成人でしょ! 百々人さんは未成年なんですから……」
「冗談だって。じゃ、俺はそろそろ行くよ。百々人、名前ありがとな」
そう天道さんが別れを切り出した瞬間、アマミネくんがやってきた。なんというか、怒ってる。
「……プロデューサー、今日漣来てたでしょ」
「……やられましたか……」
「俺のプリン……」
昨日はあったのに、とアマミネくんがうなだれる。やっぱり牙崎くんはいい子じゃないし、優しくもないと思う。僕だけが特例になったって嬉しくないし、でも、悪い人ってよりは想像力が足りないのかも。
「……残念だったね。おまじない、教えてあげるから元気だして?」
僕と天道さんは伊瀬谷くんたちが調べた研究結果をアマミネくんに伝える。アマミネくんがそれはみんなにシェアするべきだと呻くので、僕は冷蔵庫の中身が僕の署名だらけになっているのを想像して少しだけ困って、ほんのちょっと笑ってしまった。