キミの好きな人 鋭心先輩とプロデューサーにコーヒーを手渡してきた百々人先輩が戻ってきた。二人は仕事の打ち合わせをしていたけれど、無関係ってわけじゃないから話に入ってきてもよかっただろうに。百々人先輩は俺にもコーヒーを差し出して、魔法のように呟いた。
「アマミネくんは、ミルクとお砂糖をひとつずつ」
はい、と穏やかな声が伝ったみたいに真っ黒な水面が波打った。俺はソーサーに乗せられたコーヒーフレッシュの先端をパキリと割りながら言葉を返す。
「百々人先輩はミルクがひとつだけ。でも、」
「疲れてるときはお砂糖みっつ。アマミネくんも、レッスン後はお砂糖をみっついれる」
おそろい。そうにこにこと笑う百々人先輩から一度目をそらして、スティックシュガーを真ん中から割った。これはプロデューサーのクセだけれど、確かに片手で出来るのはいいかもしれない。失敗することもあるから外ではやらないけれど、事務所では時々こうやって試している。
スティックシュガーは真ん中から、バキッと割れた。ダムが開かれるみたいに雪崩れだした砂糖が、ミルクで真ん中だけきれいに濁ったカップの中に吸い込まれていった。
「百々人先輩、みんなの好みを覚えてるんですか?」
「みんな? うーん……事務所のみんなって言われると、ちょっと自信がないかなぁ」
「でも、俺とか鋭心先輩とか……プロデューサーの好みは結構知ってますよね?」
「本当? よかったぁ。やっぱり、差し入れとかするなら好きなものを差し入れたいから」
百々人先輩はなんだか嬉しそうだった。一緒に行動するようになって知ったけれど、百々人先輩は人になにかを差し入れたり、してほしい手伝いをしたり、そういう細やかな気遣いがうまい。こういうところが愛されるんだろうけど、それでもずっと行動していると、俺たちはちょっと特別なんじゃないかなって勘違いしそうになる。
「……いろいろ、してくれますよね」
「そうかな? 気にさせてるとしたら申し訳ないなぁ……」
「あ、そうじゃないです。ただ……百々人先輩、こんなに愛想がいいと学校とかで勘違いされそう」
百々人先輩に惚れてる子、すっごいいると思いますよ。そうからかえば百々人先輩は困ったように眉を下げながら口元だけで笑ってみせた。
「誰にでもニコニコしてるわけじゃないよ。それに、誰にでもやさしいわけじゃない」
くる、と百々人先輩は首だけを後ろに向けた。後ろのスペースで話し合いをする鋭心先輩とプロデューサーを強く意識したんだろう。こちらに向き直るときには困惑の抜けた、温和な笑みが顔一面に広がっていた。
「……内緒だよ?」
百々人先輩が口元に手を当てた。すっと細まった目は蠱惑的だ。声も潜めずに百々人先輩は言う。
「僕がマユミくんやぴぃちゃんに優しいのは……僕がふたりのことを特別に好きだから」
えこひいきだよ。人間らしいことを白状して、百々人先輩は俺をじっと見た。コーヒーに手もつけず、明確に俺の言葉を待っている。
「……俺のことは?」
聞くのもバカバカしいけれど、この人の挑発に乗るのは嫌いじゃない。百々人先輩はコーヒーフレッシュをぱきりと折る音が鮮明に聞こえるくらいの沈黙を挟んで、楽しそうに宣った。
「アマミネくんにやさしいのはね、キミが僕を好きだからだよ」
くるくると、コーヒーにミルクが混ざって柔らかな色になる。こういうとき、蝶々は飛んでいるのを眺めるのが美しいのか標本にするのが正しいのか、ふとわからなくなってしまう。
「……まぁ否定しませんよ。俺は百々人先輩が好きですから」
だから俺はブラックコーヒーが飲みたいときはいつだって百々人先輩に隠れてコーヒーをいれるんだ。俺の為になにかを覚えて、それをしてくれる百々人先輩を見るのが罪悪感を覚えるほどに好きだから。
「……百々人先輩は、俺のこと好きですか?」
「そういうこと言うところはきらい。……ダメだよ、そんなこと聞いちゃ」
「百々人先輩はミルクがひとつ。疲れてるときは砂糖がみっつ。……俺は百々人先輩のことが好きだから覚えましたよ」
「マユミくんの好みだって覚えてるくせに」
特別がないなら、特別にはなってくれないんだろうか。瞬時にいくつも浮かんだ特別は、どれも受け取ってもらえる気がしない。指輪でも贈ってプロポーズでもしてやろうか。俺が口を開く前に百々人先輩がゆっくりと息を吐く。
「……でも、ありがとう。今度コーヒーにあうお菓子を買ってくるよ。だから、アマミネくんがコーヒーをいれてね?」
おいしい焼き菓子の店を友達に教えてもらったんだ。そう笑う百々人先輩に「それは『ぴぃちゃん』のためですか?」と問い掛ければ、百々人先輩は人差し指を唇にあてて、隠し事を晒しながら柔らかく微笑んだ。