シー・スルー・ユー 缶からドロップがカラコロって手のひらに転がってくる。見慣れた色は見つめるだけで味が想像できた。でも俺はこの栗の渋皮みたいな色をした飴の味を知らない。
手のひらには三つの、沈んだ色の飴。チョコ味って聞いてるけど俺は食べたことがない──正確には、忘れている。昔は食べたことがあったはずなのに、もうこれは俺の物じゃないって考えているから忘れてしまった。だって、これは親友のためのものだから。
缶に飴を戻す。もう一度、缶をよく振ったあとに傾ける。出てくるのは深い茶色をした飴だけだ。きっともう、これだけしか残っていないんだ。
俺はそれを缶に戻して蓋を閉めた。どうしても思い出を口に含む気にならなかった。これはどうしたって、親友の笑顔と紐付いていた記憶だった。
アイツはチョコ味の飴が好き。
缶を傾けて茶色の飴が出てくると、真っ先にそれを奪って笑ってた。おいしいんだって言うくせに、俺に「食べるか?」だなんて聞かずにそれを口に放り込んで嬉しそうにしてた。俺たちは対等で、俺は対等だった気でいるけれど、あの時だけはアイツは弟みたいに甘えてたんだと思う。
俺も寄りかかればよかったんだろうか。でも俺はオレンジもイチゴもレモンもパインも好きだから、そもそも甘えるって発想がなかったのかもしれない。だって、運試しみたいに缶を振って、出てきた飴を分け合えるだけで幸せだったから。
新しく、飴のたっぷり入った缶を買ってこよう。この缶はしまいこんでしまおう。チョコレートの味を知るのがひどくこわい。だってこれは、アイツのためのものだから。
***
「おはようございます。……ん、秀。懐かしいものを食べているな」
「おはようございまーす。あ、それ見たことある。飴の缶だ」
「おはようございます。懐かしい……かぁ。お爺ちゃんがちょくちょく買ってくるから、懐かしいって感覚なかったです」
おみくじみたいなものだ。缶を振って飴を出す。何色が出るか、だなんて考えていたら百々人先輩と鋭心先輩が来た。レッスン室には俺が止め忘れたメトロノームが鳴っている。
「結構味があるんだよね?」
「確か果物以外の味もあったな」
先輩達が物珍しそうに缶を眺める。そういえば鋭心先輩は果物が好き、なイメージがある。こういう偽物めいた飴玉も好きなんだろうか。
「食べますか?」
好きな味が出るまで缶を振ってもよかった。ごろごろと、五つくらいの飴を一気に手のひらに出す。こういうのは一回出したら戻していいのかとも思うけど、爺ちゃんが俺の食べたい味が出るまで飴を出し入れしてくれたことが癖になってしまってなかなかやめられない。誰だって、好きなものが食べたいじゃん。
「……これが林檎味だったか?」
「そうですね。で、これがオレンジで……こっちがチョコ。あとはレモンと……」
「あ、じゃあ僕はチョコがいい。いいかな?」
とく、と心臓が一度、大きく鳴った。これはダメですって言って缶に戻してもよかった。それでも俺は操られたように、裏切りみたいに彩度の低い飴玉を百々人先輩に差し出す。
「なら俺は林檎をもらおう」
「ひさしぶりに食べるなぁ。いただきます」
「頂きます」
鋭心先輩のことを忘れて、百々人先輩が飴を食べるのを見た。なんだかスローモーションみたいだった。三本の指先でビー玉みたいにつまんだ飴玉を舌の上に乗せて、繊細な歌声を紡ぐための口を閉じる。バキ、という鈍い音がして、俺は我に返ることもできずに思い出す。ああ、アイツもこうやって飴玉をすぐに砕いていた。歯を見せないで、ひっそりと見えないように壊していた。
「舐め終わったらレッスンを始めるか」
鋭心先輩がぽつりと呟いた。俺は何かに浮かされて問い掛ける。
「百々人先輩、」
「ん? どうしたの?」
「百々人先輩は……チョコ味が好きなんですね」
「え? うん……おいしいよ? 食べてみたら?」
あ、違う。百々人先輩は違う。チョコレートの飴玉で誘惑される。それでも、そのとき、俺はなんであんなことを言ったんだろう。
「いらない」
「……え?」
「チョコの飴、百々人先輩にあげます。全部」
百々人先輩はなんて言おうとしたんだろう。急き立てるようなメトロノームを止め終えた鋭心先輩が戻ってきて、全部がうやむやになってしまった。
助かった、って思った。
***
「……全然、似てないんだよなぁ」
カラコロと缶を振る。たったみっつ残っていた飴玉が顔を出す。パイン、イチゴ、ハッカ。
チョコ味は残ってない。全部百々人先輩にあげてしまったからだ。百々人先輩はおいしいって言ってた。笑ってた。あれ以来、俺にチョコの飴を勧めてこなくなった。
スマホが鳴って、明日のレッスンに関しての追加連絡事項が伝えられる。俺は先輩達と少しだけトークを交わす。百々人先輩のスタンプはかわいい。
親友は意味のわかんないスタンプしか使わなかった。それでも俺たちはわかりあえてたはずだった。こんなにわかりやすくかわいらしいスタンプを見つめても、たまに俺は百々人先輩がわからない。それが、ひどくこわい。きっとあの人は俺を傷つけることはできないのに、その逆は容易いんだと気づいていた。
チョコレート味、全部あげていい。幸せになってほしい。違う、傷つけたくないだけ。
もう誰にも無理をさせたくない。でも俺は世界を変えなくちゃならない。そうして、アイツを笑顔にしたい。
「……無理じゃない」
百々人先輩は弱くない。でも、じゃあ、なんでこんなに不安なんだろう。
「……わかんないのは嫌だ……」
なんで、思い出してしまうんだろう。そう考えてふと怖くなる。
「思い出したりしない……」
思い出すためには、忘れなければならない。
「忘れた事なんてない……」
スマホを開く。トークを開く。未読がつかない画面を眺めていたら、グループトークに通知がきた。漫画みたいなタイミングで、明日のレッスンに鋭心先輩は来れないっていう連絡が来た。
***
もう何十分、ここで読み合わせをしているんだろう。
「百々人先輩、休憩しましょう」
「まって……ここ、ここだけ、あと少し」
百々人先輩は強情だ。俺と鋭心先輩がふたりがかりでやっと休ませることができる人間を、俺ひとりで休ませることがこんなに難しいのも当然だった。
こういうとき『ぴぃちゃん』がいればしぶしぶだけど百々人先輩だって休んでくれるけど、ここには俺しかいない。
「まずは水を飲みましょう? 一息ついて、そこからまたやればいい……時間だって、」
「余裕なんてないよ、僕には」
「それでもしっかり休憩しないと……」
「……アマミネくんは出来てるからそんなこと言えるんだよ」
「……っ!」
あ、ダメだ。いま俺は傷ついてしまった。いやだ、たったひとつだけ、アイツだけが俺を傷つけることができるはずなのに。この人は繊細なガラス片だ。砕けて、俺を傷つける。なら百々人先輩を砕いたのは俺なのか?
百々人先輩がもう一度立ち上がって息を吸う。その腕を取って動きを封じた。
「ダメだ」
「……アマミネくん」
「無理したら、ダメになる……!」
「……ねぇ、アマミネくん」
百々人先輩がばさりを台本を落とした。俺は百々人先輩の顔を見つめる。嫌になるほど身長差を思い知る。
「僕を通して……誰を見てるの?」
隠すことなんて一個もなかったのに、『バレた』って思った。俺ですら気がついていない、俺の淀んだ部分が見抜かれた。
「僕はダメにならない」
「……そんなの、そんなの信じられない」
「最低」
蔑むような声色を吐き捨てるくせに、宝石みたいなうっすらと透ける紫陽花色の瞳が柔らかく笑う。歪な人だと思う。
「……教えてよ。僕がなにをすると、キミの傷をなぞっちゃうのかを」
百々人先輩の指先がそっと俺の心臓に触れた。つつ、と肋骨をなぞってからだの中心を上って、喉元に人差し指を突きつける。
「……傷つけたくない人がいたんです」
「……うん」
「傷つけたくなかった……違う、傷つけるだなんて一回も考えたことなかったんです。だって俺たち、なんでもできたんだ」
アイツがチョコ味を食べて、俺はなんだって食べて。それでよかったと思ってた。そんなの、アイツの食べる分が足りるわけないのに。
「それだけ」
「嘘」
「本当にそれだけ……それだけなんです。傷つけたから、もう誰も傷つけたくない」
間違いたくない。それは償いにはならないけど。
「……俺が間違うとしたら、それはきっと百々人先輩、アンタになにかをしてしまうんです」
「……マユミくんは?」
「わからない。でもきっとアンタだ。……俺はきっともう、百々人先輩が特別なんです」
特別だった。特別好きなのかはわからない。でも、俺はきっと、この人を傷つけることが特別に怖い。
「……その人のこと、考えちゃう?」
特別だと言った俺の唇を無視して、包み込むように百々人先輩は言う。
「はい。……でも、わかんないんですよ。だって百々人先輩はアイツじゃない。アイツは百々人先輩じゃない。……アイツも百々人先輩も、ただ、チョコ味の飴が好きなだけ……」
ぐ、と腕が引かれて、俺のからだが百々人先輩の胸に納まった。優しさのきっかけがわからない。嬉しいのに、わからないのはこわい。
「……わからないけど、質問に答えます」
「うん」
「……きっと俺は、百々人先輩の背後に『後悔する自分』を見ているんです……」
怖くてごめんなさい。涙で声が滲んだ。百々人先輩は一言だけ、「そっかぁ」と口にしてからだを離した。
「僕が一番好きな飴、あるじゃない」
「……チョコ」
レッスン室のはじっこに座った俺たちは休憩にしては長すぎる時間をぼーっと過ごした。ふいに、百々人先輩が口にした声に言葉を返す。
「チョコだと思ってるでしょ? でもね、僕が一番好きなのはパインだよ」
「え……?」
百々人先輩が悪戯に笑う。嘘にも、本当にも聞こえる。
「だって、あの時チョコが好きって、」
「パイン味が出てこなかったから。だから出てきてるなかで好きだったチョコにしただけ」
ありったけの味を出したつもりだった。いや、癖でチョコがでるまで振っただけかもしれない。他の色なんて、見てなかったのかも。
「……でも、キミがずっとチョコをくれるの、嫌じゃなかった」
百々人先輩が台本を持って立ち上がった。きっと、あといくつかの息を吐いたら俺たちは台本の通りの言葉しか交わせない。
「……次からはパイン味をもらうよ。チョコは取っておいたらいいんじゃないかな……キミはチョコが減っていない缶を持って、僕以外の人のところに行く」
「……パイナップル、本当に好きなんですか?」
「また疑う」
百々人先輩は口を尖らせて、目を伏せた。
「……飴は腐らないから、チョコ味は取っておいて」
僕は余った味でいいから。そう百々人先輩は呟いて台本を開く。
やっぱりこの人は似ていない。だってアイツはこんな感情で傷つかないし、俺だって、自分の感情でぐちゃぐちゃになるつもりはなかった。