猫の手も借りたい 牙崎を探していた。レッスンの時間になっても現れなかった牙崎を大河と円城寺さんが探していたので、俺が探すからレッスンに行くようにと言ったからだ。そのときにLINKで秀と百々人に協力を仰いだのだが、先程慌てた様子の百々人からすぐに事務所に戻ってプロデューサーを捕まえておいてくれと頼まれたので事務所に戻り、今に至る。プロデューサーは急を要する仕事が一段落ついたらしく、俺たちが牙崎を探していると知って礼を言ってきた。
現状を伝えねばと思ったが、俺自身も何が何だかわかっていない。することもないので牙崎がいなくなるのは初めてなのかと質問をしていたら、突然事務所の扉が大袈裟に開いた。
「ぴぃちゃん大変! 牙崎くんが……っ!」
事務所に普段は声を荒げない百々人の声が響く。様子がおかしいと慌てて近寄ってきたプロデューサーが何かを言う前に、真っ青になった秀が言葉を重ねた。
「左腕が……なくなってて……」
二人に引きずられてきた牙崎は不満げだった。両側をがっちりと秀と百々人が掴んでいたのがよかったのだと、後に大河が言っていた。自分では──そしておそらく俺でも逃げられていたと大河は続けた。牙崎は自分よりも明らかに弱いとみなした相手には強く出られないから、相手が秀と百々人でよかったのだ、と。
牙崎はなにかから守られるように、あるいは罪人が連行されるときのようなパーカーの被せられかたをしていた。そのため腕は見えないが、秀の表情や百々人の剣幕からは冗談を言っている気配はない。しかし突拍子もない言葉には驚きが追いつかず、ただ言葉を待った。
「えっ……と……、漣が……」
ばさりとパーカーが落ちる。当たり前みたいに現れた牙崎のからだには、ついているべき腕がない。肩から先の袖がぺたりとしていて、だらりと垂れ下がっていた。ヒュッ、と自分の呼吸が詰まるのを他人事のように理解する。プロデューサーが悲鳴をあげるまえに、事務所の扉が開いた。
「いま戻った……なんだオマエ、またか」
大河の声は普段通りの固さをしていた。完全に驚くタイミングを失って置いてけぼりになった俺たちをよそに、会話は淀みなく続く。
「レッスンはとっくに終わったぞ。いまさら何をしに来たんだ」
「うるせー。オレ様がどこにいようが勝手だろ」
「どこにいてもいいが、決められた時間には決まった場所にいろ」
「オレ様に指図すんな! だいたい、」
「大河くん! 牙崎くん……腕が……」
会話に割り込んだ百々人は泣き出す一歩手前だった。秀だって今にも倒れそうな顔をしているし、プロデューサーは呆然としている。それをくるりと見渡した大河はもう一度確認するように牙崎を見つめ、呆れたように問いかけた。
「……また貸したのか?」
意味がわからなかった。しかし、牙崎には伝わったようだ。牙崎は吐き捨てる。
「……ジヒだ。たんなる気まぐれだ」
空気が張り詰めるが当人たちは全く気にしていない。どうすることも出来ないでいると、もう一度扉が開く。
「師匠! 戻りまし……なんだ、漣。またか?」
「あーもううるせぇよ! オレ様の腕をどうしようが勝手だろ!」
秀と百々人を振り切って、牙崎は事務所を出ようとする。それを大河と円成寺さんが遮った。
「……次のレッスンまでには戻るんだろうな?」
「ハァ? んなもんチビに教えっかよ」
「れーん」
笑顔のまま円成寺さんが威圧する。牙崎は怯みこそしなかったが、本当に面倒そうに呟いた。
「……明後日には返ってくる」
そう言って、牙崎はくるりと方向転換をしてソファに向かっていった。もう外に出る理由はないんだろう。
「……えっと……」
「……どういうことでしょうか……?」
秀と、百々人と、プロデューサー、そして俺の疑問を浴びせられて、大河は当たり前のように、円成寺さんは洗濯物を干してきたのに雨が降ってきてしまったときのように言葉を返す。
「えっと……そうだよな、びっくりするよな」
「うーん、どこから説明したらいいのか……とりあえず漣は大丈夫ッスよ」
「大丈夫って……腕がなくなってるんですよ!?」
止まっていた時間が動き出すように、百々人が悲鳴を上げた。プロデューサーは寝転んだ牙崎を少しだけ見たあとに、不安そうな顔で円成寺さんを見つめている。
「いやー、漣はからだの一部が欠けたことが前にもあって……」
「俺たちも一回しか見てないんだが……そのときに言ってた。貸したって」
「……貸す?」
「……からだを?」
単語を繰り返すことしかできない秀と百々人の声を聞いて、大河は大きなため息をついた。
「……そりゃ驚くよな。でも、そうなってるみたいなんだ」
アイツに道理は通じない。諦めたような大河の言葉に大きな舌打ちが被さる。牙崎だ。
ソファに寝転ぶ牙崎には、やはり片腕がない。本来なら痛々しいはずの光景に半ば慣れてきている現状に頭痛がするが、こういうものだと受け入れるほかはないようだ。
「誰に貸してるのかは知らないが……まぁ、大丈夫だ」
「本人は明後日って言ってるし、信じても大丈夫だと思うッス」
大丈夫だと、ふたりは締めくくる。数秒の沈黙を挟んで百々人が呟いた。
「……痛く、ないのかな」
その声は辛そうだった。この不安にこそ『大丈夫』の一言が欲しいのに、大河も円成寺さんも無責任なことは言ってくれない。
「わからない。そもそも痛がりもしないなら、俺たちにはなにもできない」
「漣にもプライドがあるからなぁ……。言わないってことは触れないでほしいことなんだろう」
二人も牙崎を見た。さっきまでつまらなそうな視線を虚空に向けていた牙崎は、数分もしないうちに眠っていた。
「……心配じゃないんですか? 腕、なくなってるんですよ?」
秀が、隠すようにこっそりと問いかける。その悲壮さに向けられたのは、相応しくない苦笑いだった。
「まぁ、もう貸してしまってるからなぁ……。漣も元気だし、」
「本人が好きで貸してるんだ。放っておけばいい」
円城寺さんの言葉を遮って大河が不機嫌な声を出すが、それすら受け止めて円成寺さんは朗らかに言った。
「自分たちは前に心配し尽くしてしまったんだ。前なんて、タケルはそりゃもう心配して……」
「円成寺さん。俺はアイツのことなんて心配してない」
「なんだ、心配するのは悪いことじゃないだろう。みんなも心配してくれてありがとうな」
「円成寺さん!」
「照れるな照れるな。あ、師匠。さっきコンビニで買ってきたんですけど、ポテチに新製品が……」
「いや、ポテチは置いといてください……!」
大河と円城寺さんは一瞬で日常に溶け込んでしまった。プロデューサーは円成寺さんに何度も確認を取っていたが、やがて理解したように、あるいは雰囲気に飲まれるようにして納得をしていた。取り残された俺たちはいくつか、言葉を交わす。
「……貸したんですって、左腕」
「貸せるんだぁ……」
「……まぁ、牙崎が無事でなによりだ」
「無事……で、いいんですよね?」
三人揃ってもう一度牙崎を見る。左腕がない以外、全てが完璧な牙崎がそこにいる。不安からだろうか、俺にぴったりとくっついていた秀と百々人がぱっと離れた。プロデューサーが来たからだろう。そのまま、百々人はプロデューサーのそばによる。
「三人とも、おつかれさまです。……びっくりしましたね」
ごめんなさい、と謝るプロデューサーに俺たちは首を振る。
「ぴぃちゃんのせいじゃないよ」
「そうだ。元はと言えば俺が牙崎を探すと言い出したから……」
「アイツが迷惑をかけたな。すまない」
いつの間にやら大河と円城寺さんもそばにきていた。律儀に頭を下げる大河を止めながら、大河が牙崎のために頭を下げるという事実について考える。
「一応アレは見られたら騒ぎになるんで、腕が戻るまで漣は自分の家で預かります」
円成寺さんが報告のようにプロデューサーに伝えていた。牙崎は一人暮らしなのだろうか。
「確かに、片腕だと不便ですもんね」
「いや、そもそもアイツは家がないから」
「えっ……?」
「……家……ないの?」
「嘘でしょ……?」
嘘を吐いているようには見えない。しかし、大河が冗談を言うタイプにも思えない。咄嗟に見た円城寺さんは困ったように笑ってた。
「……まぁ、自分の家があるから大丈夫だ」
大丈夫、なのだろうか。初めて知った事実は平時であれば心底驚いていたに違いないが、消え失せた腕の前では「そうなのか」くらいにしか思えなかった。家のない人間を、初めて見たというのに。
「明日は男道らーめんが休みッスから、師匠の時間があれば漣の様子を見に来てほしいッス」
円城寺さんは動揺の抜けきってないプロデューサーの返事に笑顔で応えつつ、その笑顔を俺たちにも向けた。
「C.FIRSTの三人も来たらいい。ラーメンを食わせてやるからな」
「あ、ありがとうございます……」
レッスン後のラーメンはうまいぞ。円城寺さんの言葉を最後に、何も解決しないまま騒ぎは収まった。
***
翌日、レッスン後に男道らーめんへ行くと大河が閉まっていた扉を開けてくれた。どうやらプロデューサーは一足先に来て、牙崎の様子を見たあとラーメンを食べて次の現場に向かったらしい。
何度かここに来たときと同じように大河と牙崎は同じ席に腰掛けている。俺たちもそのすぐ後ろのテーブル席に座りながら、なんとなしに言葉を探す。挨拶と礼を終えたあと、沈黙が挟まる前に円成寺さんが口を開いた。
「今日はラーメンしか出せないんだが、味はいつもと変わらない。たくさん食べていってくれ」
「ありがとうございます」
各々はなにかしらを言いつつ、視線は牙崎に向いていた。大河と牙崎はラーメンを食べていたが、相変わらず牙崎の左腕はない。
大河も言っていたが、本人が平然としているからこちらも騒ぎようがない。俺はいままでに見ていた映画のシーンを思い出してしまったが、どれもこれもパニック映画だから困る。作り物よりなめらかに、牙崎の左肩から先は存在が欠けている。
「……痛くない、んだよね?」
おずおずと百々人が問いかける。百々人はずっとそれを気にしていた。大河や円城寺さんはああ言っていたが、どうしても口に出さずにはいられなかったんだろう。
「アァ? テメーには関係ね」
「れーん」
湯気の向こうから聞こえる、円城寺さんの声。
「……別に。なんともねぇよ」
牙崎は右手で箸を操り、器用にラーメンを持ち上げて啜る。左腕がないことを、一切感じさせない動きだった。
秀は話すべきか悩むそぶりを見せ──沈黙を選ばなかったのだろう。ふわりと口にした。
「……利き腕、残っててよかった」
「オレ様リョーキキだし」
「あっ、そうなんだ……」
知らなかった。いや、昨日からずっと、知らないこと続きだ。牙崎はからだの一部を貸す。貸すような相手がいる。そして家がなくて、両利き。俺は牙崎のことをなにも知らないし、考えてみれば秀や百々人のこともロクに知らない。
「……牙崎。質問がある」
会話を繋ぎたかったのか、本心から気になっていたのかはわからない。わからないまま、俺は問いかけた。
「先方はなぜ左腕を?」
「どーでもいいだろ。だいたいオレ様に」
「自分も知りたいなぁ! なぁ漣。よかったら教えてくれないか?」
「……別に。腕じゃなくてもよかったし」
もうひとつを知る。牙崎は円城寺さんに弱い。
「腕か足。足は前に貸して散々だったから腕にした。腕ならどっちでもいいって言うから、左腕」
独り言のように呟いて、それきり牙崎はラーメンに集中してしまった。かと思えば数秒後、牙崎が盛大に舌打ちをした。どうやら大河と手がぶつかったらしい。
「おい、舌打ちするな」
「うるせ。邪魔なんだよ」
「邪魔なのはオマエだ」
「チビだし」
「オマエだ」
ふと、気がつく。これは言わないほうがいいのだろうか。
ただ、これは秀も百々人も思っているに違いない。その証拠に百々人は魚の小骨が引っかかったような顔をしている。
「……思ったんだけどさ」
秀が言いそうだ。
「お店、ガラ空きなのになんで隣に座ってんの?」
言った。
「うん……ぶつかっちゃうよ?」
百々人も言った。
はぁ、と大きなため息を吐く大河を無視して、牙崎が声を上げる。
「チビが勝手にここに座ってるだけで、ここはオレ様の席なんだよ!」
そうなると、大河も黙ってはいない。
「言ってろ。ここは俺の席で、オマエが隣にくるんだろ」
「チビがどけばいいだけだろ。泣かすぞ」
「できると思うならやってみろ。泣くのはオマエだ」
一触即発。なのだが、事務所でよく見る光景すぎて焦ることもできない。こんなに当たり前のことをされると、なんだか片腕のない牙崎もそういうものかと思えてしまう。俺が順応しつつあるそばで、秀と百々人はしみじみと口にする。
「なんというか、ふたりとも仲いいね」
「うん。楽しそう」
「ハァ!?」
「待ってくれ秀さん。俺たちは仲良くない」
言い争っていたふたりの矛先がこちらに向かう。しかし、こんなにも席の空いた貸し切りの店内でわざわざ隣に座るなんて、よっぽど仲がいいとしか思えない。二人分の反論を浴びてなお、秀が天才の名に相応しく、とあることに気がつく。
「……ああ、だから左腕なんだ」
「え?」
「どういうことだ?」
ここにいる人間が全員キョトンとしていたと思う。すべての視線を集めながら、秀はケロリと言い放った。
「どっちでもいいなら、右腕でもよかったわけでしょ? でも、右腕を貸したらタケルにぶつかれなくなるから左腕にしたのかな、って」
「は?」
「なっ……!」
がらん、と牙崎のレンゲが落ちた。
「前に来たときもその前も、ふたりとも腕がぶつかって揉めてたじゃん。あれって、ふたりなりのコミュニケーションだったん、」
「っ……ざけんじゃねぇぞ!」
牙崎が大声を出した。声だけならば、大抵の動物は逃げ出すか、声も出せなくなるに違いない剣幕だ。
だが、その顔は赤い。これは、
「……牙崎くん、照れてる?」
「本当だ。漣も照れるんだ」
「照れてねぇ! 泣かすぞ!」
「だって、隣にいるし右腕だって……」
「左でも右でもどうでもよかったって言ってんだろ! 偶然だ!」
「おーい、ラーメン取りに来てもらっていいか?」
「はい。いま行きます」
俺が三人分のラーメンを運ぶ間、牙崎は騒ぎながら凄まじい速度でラーメンを食べて、出ていこうとした瞬間に円城寺さんに担がれてどこかへ消えた。俺たちが疑問を挟む前に、大河が「たぶん、円城寺さんの家」と言う。その大河の頬にも、少し赤みがさしていた。
「……大河くんも照れてる?」
「勘弁してくれ……」
「まぁ、頑なに席を移動しないあたり同類というか相思相愛というか……」
「秀さん……っ!」
「牙崎も可愛らしいところがあるんだな」
「アイツに可愛いところなんてひとつもない」
無口な大河が矢継ぎ早に返してくる。そんなに照れることでもないだろうに。
「いや、すごいことだと思いますよ。腕がなくなるって一大事に、冷静にこの位置関係を考えるなんて……」
「よほど大切にしたい関係なんだろう。よい友人に恵まれたな、大河」
「うん。僕もそういうの、とっても素敵だなって思うよ」
俺たちも秀の影響を受けているのか、人を褒めるのがうまくなったように思える。しかし、俺たちの言葉でなぜか大河はしおしおになってしまった。
「……だろ……」
「え?」
絞り出すような、大河の声。
「そもそも腕がなくなるのがおかしいだろ……!」
「それはそう」
「うん」
「本当にな」
そうだった。人間の適応力に流されていたが、この状況はだいぶおかしい。慣れきっていた様子の大河もこう言っているし、冷静になると、やはりこれはおかしいことだ。それでも俺たちにはどうすることも出来ないから、伸びないうちにラーメンを味わうことにした。