586のアドバンテージ アルコールの甘ったるい匂いがする。世の中にはいろんな酒があって、そのいくつかが甘い匂いじゃないことなんて知っているつもりだけど、俺がよく知っている酒の匂いはコイツがよく飲んでいる甘ったるい缶カクテルの匂いだった。
華やかというにはあまりにも人工的な果物の匂いは桃のものが多かった。缶に記されたアルコール度数は笑ってしまうほど低いのに、コイツはそれを得意げな顔をして煽ってる。面白いように赤く染まった頬は色恋の証明みたいなのに、それをコイツは酒の席では晒しているのかと思うとひどく気分が悪かった。
調子に乗ってんな、って思う。目の前のご機嫌なコイツを見て、いつも以上にそう思う。
コイツは基本的に人生の8割くらいは調子に乗っているようなやつだけど、これは俺にだけ向けられた、ある意味『特別』な行動だ。コイツの特別はうれしい、はずなんだけれども、これにはちょっとムカついている。
コイツは好きでもない酒を、俺とふたりきりになる夜に飲む。
別に酒の勢いで恋人らしく愛を囁いてくるだとかそういうことはない。コイツはただ、まだ酒を飲んではいけない俺をガキだとバカにしたいって理由だけで酒を飲むんだ。「うまいのか?」と聞いていたのは最初だけで、最近はもう相手にしないことにしている。それなのにコイツは相変わらず俺に同じことを言ってくる。
「さけってうめーな」
呂律が危うい。酒を飲んでるんだか飲まれているんだか。俺が呆れていることにも気づかずにコイツがにへらと笑う。
「ああ、チビはのめねーんだよな。ガキだから」
たかだか1才差、されど1才差だ。法の前でこの差はあまりにもデカかった。20歳のコイツと19才の俺。中身ならどう考えたって俺のほうが大人なのに。
「お前のほうがガキだろ」
年齢、身長、追いつけなかったのはこれくらいだ。あとはコイツに負けた覚えなんてひとつもない。ってか、そもそも年齢や身長は勝ち負けじゃない。身長はちょっと勝負っぽいけど、別に高ければ勝ちなんて道理はないし。
それなのに、コイツは言うんだ。
「さけのあじがわかんないなんて、チビはガキだな」
どこの誰のセリフだか知らないけど、それ絶対に意味間違ってるぞ。思ったけど口にしない。だってもう3回くらい言ってるのに聞いちゃいないから。
ふらふらと立ち上がったコイツが俺の隣に来てもたれかかってくる。首筋にかかる息が熱くてのぼせそうなのに、強くなったアルコールの匂いが俺の意識を濁らせる。
くしゃ、と俺の髪をコイツの指先が梳いた。こんなこと、セックスの最中だってしないくせに。
「……なんだよ」
妙に乾いた喉を潤すために、何かを誤魔化すように飲んだ液体にはアルコールなんて入っていなかった。それがますますコイツを上機嫌にする。
「ちびはしらねーもんな」
とろんと溶けた蜂蜜色の瞳に俺がぼやけて映る。
「さけのあじ。オレ様はしってる」
気分がいいぜぇ、とコイツが笑う。普段は流してやるその言葉が、今日はなんだかやけにムカついた。毎回同じようなこと言いやがって。
「しつこいんだよ」
押しのけてやるつもりだったけど、その目があまりにも楽しそうだったから気が変わった。別に普段からそうしてやろうと思っていたわけじゃないけど、赤い舌がひどく魅力的に見えたから。
肩に置いた手に力を入れて、コイツが逆らおうとする力まで全部を使って思い切り引き寄せる。なにが起きているのかわかっていないコイツの頬を掴んで、その緩みきった口に噛み付いて舌をねじ込んだ。
「んぅっ!?」
じっくりと表情を見る余裕はなかったけれど、驚ききったその声を聞いただけで俺の気分はだいぶよかった。逃げようとしたって酒を飲んだコイツが俺に勝てるわけがない。そのまま押し倒して、完全にマウントを取った。
「んー! ん! んぐ、」
マヌケな声は無視してさらに深く舌を絡める。ほのかに桃の匂いはするのに混ざる唾液はあまり甘くない。砂糖菓子みたいな匂いのくせに酒って甘くないのか。それとも甘さはもうコイツが飲み干してしまってなにも残っていないんだろうか。
でも、これが酒の味なんだと思う。匂いだけが存在を主張して、味なんて曖昧で、簡単に混ざり合っちゃって、俺以外にコイツをどろどろに溶かすもの。本当はきっと甘ったるいはずなのに、俺がいま知れる酒の味はこれくらいしかないんだ。
力の抜け切った手が必死に抵抗してきたから唇を離す。酸欠で酒を上書きするみたいに真っ赤になったコイツは信じられないものを見る目で俺を見ていた。
「っ……なに、して、」
べたべたになった唇を舌で拭う。やっぱり味なんてしないくせに俺は言う。
「酒の味」
「……は?」
「これで知った。甘いだけだな」
もう調子に乗るなよ。そう告げればコイツは一度大きく息を吸い込んで、数秒止めて、悲鳴みたいな音にして思い切り吐き出した。近所迷惑になりそうな声も、その涙目も、なにもかもに気分がよかったもんだから、俺はもしかして自分が思うよりもガキなのかもしれない。