Quiz 気がついたら見知らぬ廊下に立っていた。
廊下と言うよりも一本道と言った方が正しいのかも知れない。真っ黒な壁か、あるいは暗闇に切り取られた通路を僕はまっすぐに歩く。不安も、迷いもなかった。歩くたびに材質のわからない床がスニーカーの靴底をすり減らして、ぎゅむ、と鳴る。
あまり長時間歩いた感覚は無かったが、唐突にそれは現れた。うっすらとした青紫の磨りガラスがはめ込まれた重厚な扉が僕の目の前にあった。扉は何かしらのロマンを得たいときに使用される舞台装置のような装飾が絡みついていて、ドアノブには木札がぶら下がっている。僕はニスの光沢の下に閉じ込められた文字を、誰に聞かせるでもなく読み上げた。
「……『正解すれば幸せになれる部屋』……?』
幸せを求めたわけじゃないと思う。それでも僕はノックを忘れ、ためらいもなくその扉を開く。キィ、と年老いた猫の鳴き声のように扉は呻いた。
開いた先も暗闇だった。ただ、真っ暗というには少し違う。一面に黒い画用紙を貼り付けたような空間が広がっていて、出所のわからない光源が存在を浮かび上がらせていた。そこには繊細な丸いテーブルと華奢な椅子が二脚あって、その椅子のひとつにはマユミくんが座っている。
「……マユミくん?」
マユミくんは僕を見ていた。マユミくん、ともう一度名前を呼べば、マユミくんは首を振って僕の名前を呼んだ。
「百々人、入口の札は見たか?」
「あ、……うん。幸せになれる部屋、って」
「問題がなければ座ってくれ」
「え? う、うん……」
問題は無いけど疑問だらけだ。マユミくんが視線を向けた椅子がひとりでに動いて僕を招く。なぜだか、不思議だとは思わなかったし、全然怖くなかった。気になったのは座った椅子が少し固いことくらいで、僕はこれが夢でも現実でも、どっちでもよかった。
「正解ってなんだろう。……ねぇ、マユミくんは何か知ってるの?」
「俺は『眉見鋭心』ではない」
「……え?」
聞き慣れた声だった。僕がこの声を間違うことはない。
それなのに、頭から爪先まで一分の隙も無く『眉見鋭心』である目の前の男はそう言った。彼は一度だけ目を伏せて、次の瞬間にはまっすぐに僕を見る。本物にも、偽物にも見えた。
「問題だ」
カラン、と鳴った音に意識が逸れる。気がついたらテーブルの上には細長いグラスがあった。グラスの中身は夜空と同じ色をしていて数秒おきにきらきらと光る。マユミくんは僕がグラスに気がついたのを見て、喉が渇いたら飲むようにと勧めてきた。
「百々人、俺の正体を当てろ」
「……眉見鋭心、じゃ、ないんだっけ?」
「そうだ」
「……正解すれば、だっけ」
「そうだ」
雲を掴むような問いに怯みかけた僕は目の前の男の二の句を待つ。彼は一度息を吸って、「例題だ」と口を開いた。
「俺は四つ足で歩く」
「……そうなの?」
「例題だ。俺はにゃお、と鳴く。俺は誰だと思う?」
「……猫?」
「正解だ。これは、そういうクイズだ」
ルールはわかった。始めようとしたマユミくんもどきに他に気をつけることがないかと聞けば、いくつかのルールが提示される。
ひとつ、解答時間は無制限である。
ふたつ、解答は何回してもいい。
みっつ、外れてもペナルティはない。
どれも僕に取って都合のいいものばかりだった。
「マユミくん……じゃないのはわかってるんだけど、まだキミの正体がわからないからマユミくんって呼ぶね?」
「……ああ、問題ない」
「マユミくんが自己紹介をするから、僕はキミの正体を当てる。それでいい?」
「そうだ。先ほども言ったが、このクイズが百々人の不利益になることはない」
それがちょっと怖い、とは言えなかった。あまりにも僕に都合がいいんだけど、目の前の存在から敵意や悪意は感じなかったからだ。
「……うん、わかった。始めていいよ」
夜空みたいな飲み物で喉を潤して告げる。ブドウとリンゴの中間みたいな、華やかな味がした。
「ひとつ、俺に形はない」
台本を読み上げるように、淡々とマユミくんは口にする。
「形はない……? なんか、それだけでもう生き物じゃないんじゃ……あ、そっか」
マユミくんは『自分はなんなのか』と聞いてきた。例題は猫だったけど、生き物じゃない可能性もあるのか。
「ねぇ、僕から質問してもいいの?」
「ああ。俺がイエスかノーで答えられる質問にしてくれ」
「わかった。……マユミくん、キミは生き物じゃない」
「イエスだ。俺は生き物ではない」
向かい合って座るマユミくんは驚くほどあっさりと白状した。目の前でこんなにも『眉見鋭心』の形をしているのに、彼は生き物ではないらしい。
「続けるぞ。俺は目には見えない」
俺、というのはマユミくんのことではないのに視覚情報が邪魔をする。僕の沈黙がある程度重なると彼は口を開く。これはそういうゲームなのだろう。
「ひとつ、俺に触れることはできない」
「……実体がない」
「イエスだ」
生き物は星の数ほどいるけど、実体のないものなんてそれ以上にある。僕は幸せを考えるとかを忘れて少しだけムキになっていた。正解したい、って思い始めてた。質問をして、少しでも幅を狭めないと答えに辿り着ける気がしない。
「キミは物理的なものではない」
「そうだ」
「精神的なものとか……概念的なものなのかな?」
「おそらく」
「あやふやだなぁ。イエスかノーか、って言ったのはマユミくんなのに」
「すまない。だが、俺を正確に理解している人間はいない」
また新しいヒントが出た。人間には理解のできない、形のないもの。
「……キミは、神様?」
翡翠の瞳は揺らがない。
「ノーだ。……ただ、」
悲しそうに彼は呟いた。
「俺がいないと生きていけない人間もいる」
「……神様みたいだね。でも、違うんだ」
マユミくんは無言で頷いた。カラ、と氷が溶けて、落ちる。
「……ねぇ、マユミくんはさ……僕はキミがいないと生きていけないと思う?」
「……わからない」
「それは、キミが自分を理解していないから? ……それとも、キミが僕を理解していないから?」
口にして、苦笑する。これが夢だったら何もかも滑稽だ。それでも僕は真剣になっているし他に行く当てもない。目の前の男が、当たり前の顔で告げる。
「どちらとも言える。だが、俺はお前に必要とされたい」
「……マユミくんの顔で言われると、なんかヘンな感じ」
爪先で彼の足を蹴る。実体のないはずの彼が少し身じろいだような気がした。
「……続けるぞ。回答があれば随時言ってくれ。そうでなければヒントを出し続ける」
「はーい。お願い」
一度息を吸い込んで、マユミくんはハッキリと告げる。
「俺には、ひとつとして同じ形のものはない」
「……ん、ちょっと待って。マユミくん、さっきは形がないって言ってたよね?」
「そういうものなんだ。形はないが、ある」
「……どういう……あ、人によって受け取り方が変わるのかな……?」
「イエスだな。……形はなくて、形がある。そして、同じ形などありえないんだ。あるはずもない」
ふ、と短く息を吐いてマユミくんはグラスに満たされた夜空を飲み干した。真似をするようにして手に取ったグラスの中身は夕焼けの色になっていて、湿らせた唇がぽっと熱くなる。こんなにまやかしめいたものに囲まれているのに、どうして僕の目は覚めないんだろう。
「続けるぞ。俺は誰もが持っていると言われている」
持っている。持ち物なのだろうか。しかし、それに実体はない。
「言われている……例外があるの?」
「あるだろうな。だが、正確にはわからない」
「またそれなんだね。キミは、キミ自身でさえ自分がわからない。わかるのは名前だけ」
「……理解できる人間がいない以上、人間に説明するときはこうなってしまうんだ」
「うん、わかった。っていうか、イエスかノーで答えなくていいの?」
「多少ならいいだろう。お喋りの範疇だ」
俺は百々人と話ができてうれしい。踏みつぶした霜柱のような声で、彼はそう言った。
「……例外があるんだよね。じゃあ、僕はキミを持っていると思う?」
聞こえなかったふりをして質問を重ねる。彼は今度こそ、明確にイエスを返した。
「思う」
まっすぐな言葉だった。それなのに、僕は懐疑的になる。人によっては神様にもなりえる形のない有形なもの。それを、こんなに荷物の少ない僕が持っているとは思えなかった。
「自分の事がわからないのに、僕が確実に持っているって言えるんだ」
「持っている。俺はそう信じている……願っているとも言えるな」
マユミくんはいつの間にか夕焼けに満ちていた彼のグラスを指ではじいた。こういう落ち着きのない動作は確かに『眉見鋭心』には相応しくない。この人は、マユミくんじゃない。
「……ヒントをちょうだい。まだわからないよ。これだけでわかるわけないじゃない」
わかる人にはわかるのかな。そう呟けばノーと返ってくる。じゃあ、もっとヒントをちょうだい。僕は微笑む。彼は口を開く。
「人を幸せにすることがある。人を不幸せにすることがある。人を狂わせることがある。……人を、殺すことがある」
「……物騒なんだね」
僕はそんなものを持っているのか。誰もがそんなものを持っているのか。そんなものを手にしていることを、僕は望まれているのか。僕の心の内なんてひとつも理解しないまま、マユミくんは声を吐く。
「俺は美しくもあり、醜悪でもある」
「キミは目に見えないのに?」
「そうだ」
「概念みたいなものなんだっけ? 難しいなぁ」
「答えを知れば呆気ないと思うぞ。……本当に、簡単な答えなんだ」
嘆きに似た声は、祈りのように響いて霧散した。
「……なんだか、キミは悲しそうだね」
「……そうだな。俺は悲しいものだ。虚しいもので、熱狂で、本能で、優しくて、冷たい」
まただ。彼にはいくつもの形がある。そのどれもが真実だと言うのなら、それは全てが嘘であるのと同じではないのだろうか。口にする間もなく、問いが投げかけられる。
「……回答はあるか?」
「ないよ。ないと、ダメ?」
「まだヒントはある。いつまでだって待つ。何度だって答えていい。……間違えたって、いいんだ」
喉の渇きを潤すために手に取ったグラスには、いつのまにか細かい氷がたっぷりと入っていた。光の角度によっていろんな色に光るそれを行儀悪く口に含んで、噛み砕く。
「……続けて」
「ああ。俺は、お前が押し付けられているものだ」
「……何から? 誰から、の方がいいのかな」
イエスかノーで返せない質問をした僕が悪かったのかも知れない。それでも、この存在はたまにルールを破る。お喋りの、範囲で。
「眉見鋭心からだ」
「……え?」
疑問が、霧散する。一瞬で散らかった脳内に、彼は追い打ちをかけてきた。
「気がついていると思っていた。だが、そうではなかった」
「ちょっと待って。え? マユミくんが、僕に?」
「そうだ」
目の前の存在はなんなんだろう。コレは僕の見ている夢で、あと五分もしたら目は覚めるんだろうか。でもなんとなしに、僕はこれが夢だと思えなくなっていた。
呼吸を整えるようにして、なんとか声を出す。
「……忘れてるよ。イエス、ノー、でしょ?」
「……俺は人を饒舌にさせる。無口にもさせる」
マユミくんは黙ってしまった。僕がマユミくんに押し付けられているものってなんなんだろう。
僕が押し付けられそうなものって、なんだろう。
「……答えは『期待』、かな?」
「ハズレだ。だが、そういった形のないものという点はあっている」
「そっか。方向性はあってるんだね」
探した答えが不正解でも、そこまで落胆はしなかった。むしろマユミくんもどきのほうがなんだかしょんぼりとしてしまう。
「……百々人は、期待を押し付けられているのか?」
「やだなぁ。外れてもいいって言うから適当に言っただけだよ」
僕は笑う。マユミくんは笑ったりしない。僕はもう言うことがない。彼はいくらでも言葉を紡ぐ。
「俺は際限なく求められることがある」
「うん」
「俺は永遠や運命を背負うときがある」
「……さっきからちょっと思ってたんだけど、キミって結構ロマンチストだったりする?」
「イエスだ。俺は相当なロマンチストで、」
「でもリアリスト、とかなんでしょ?」
「……そうだ。どうしても真逆の性質を持ってしまう」
「そんなのわかんないよー」
僕はテーブルに突っ伏して根を上げる。肘で倒してしまったコップが落下して、音を立てて粉々になった。床を見てみれば、ガラスの欠片が散り散りになってぼやりと光り出す。足でつつけば、それは無数のビー玉になっていた。ころころ転がって、ぶつかって、また止まる。僕は視線をあげないまま、マユミくんが僕を慰める前に口にした。
「わかんないから帰ろうかな」
ちらりと盗み見る。マユミくんは動揺を抑えるように問い掛けてきた。
「どこに帰るんだ?」
顔を上げて、くるりと周囲を見渡す。僕が入ってきたはずの扉はいつの間にか消えていた。
「……ずっと歩いたら、行き止まりなのかな? 真っ暗すぎてどこまででも行けそう」
「待ってくれ。ヒントを増やす」
本当にこの偽物は似ていない。眉見鋭心に相応しくない、縋るような声だった。
「俺は人の数だけ形がある」
「うん。似たようなこと、言ってたね」
「俺は人を幸せにも、不幸せにもする」
「それは聞いたよ」
有形で無形。幸せと不幸せ。ちぐはぐなのに、僕が持っていると彼が確信しているもの。
「わかんないよ」
溜息を吐くつもりだったのに僕は笑っていた。マユミくんもどきが泣きそうな声で呟いた。
「俺は、お前を幸せにしたい」
「……ふふ、なにそれ。プロポーズみたい」
マユミくんみたいなカッコイイ人が言うものだからそれは様になっていた。それなのに、どうしても目の前の男は必死に見えて醒めてしまう。
「プロポーズはかなり近い。プロポーズに辿り着くケースは非常に多い」
「……それを、僕が持ってるの?」
「そうだ」
すっ、と。何かが途切れた。
なんだか急に呆れてしまう。しらけてしまったと言ってもいい。そういう皮肉めいた思考で隠したものは、不安だったのかも知れない。
「……ねぇ。キミがマユミくんの姿をしているのには、なにか意味があるの?」
「……ある」
わかった気になった。わかんないと思った。ずるずる、このままだらだらと、なぁなぁに出来ないかな、だなんて願う。
「……わかんないよ」
「わかるまで待つ。いくら間違ってもいい」
「聞いたよ……ねぇ、もっとヒントをちょうだい?」
立ち上がってマユミくんの隣まで歩いた。座ったままのマユミくんの頬に触れる。マユミくんは僕の手に自分の手を重ねて、ぽつりぽつりと口にする。
「俺は……俺は恋に似ている」
僕は指先でマユミくんの耳をなぞる。
「もっと」
空いた手で髪を撫でる。
「フランス語ではアムール」
瞳をじっと見つめる。
「わかんないよ。ヒントが足りないの」
おでこをくっつける。
「英語ではラブ」
「あはは! もっと教えて?」
キスをしないのが不健全に思えるほどの距離だった。このマユミくんは偽物だから、マユミくんが絶対にしないような声色で懺悔のように口にした。
「……五十音では最初の二文字だ」
「ふふ、ヒントを出すのが下手だね」
そんなの、たんなる答えだ。これが目の前の存在が知ってほしかった正体だ。笑えるほど簡単で、どうしようもない。それなのに、それはどうしたってマユミくんの形をしていなければならなかっただなんて言う。
ああ、これが本当に僕の夢なら、嫌になるな。
「……僕はキミのことなんてわからないよ」
「百々人、俺は、」
「いくらヒントをもらったって、僕にはキミがわからない」
夢でも、夢じゃなくても、こう答えるしかないじゃないか。
「でも、ありがとう。……こんな僕でもキミを持っているんだって思ってくれて」
「俺はお前を幸せにするためにここにいる!」
ほとんど悲鳴みたいに彼は叫んだ。空間と僕の心臓がぴりぴりってした。泣き出しそうな顔をしたマユミくんの瞳に、泣き出しそうな顔をした僕が映っている。
「問題だ」
台本を読み上げるように彼が口にする。そうでもしないと涙が溢れてしまうから、というように。
「俺はなんだと思う?」
答える気は無かった。だっていつか目は覚めるし、永遠はどこにだってないんだから。