秋はカツオもうまい。 円城寺さんの家で秋刀魚を食わせてもらった。
俺もアイツも自炊はしないから旬のものってあんまり親しみがないけど、円城寺さんは季節に応じたものを食べるし俺たちにも振る舞ってくれる。旬のものは栄養もあっておいしいって言ってたし、食べると寿命が伸びるとも言っていた。
俺たちは秋刀魚をごちそうになって家に帰る。数年前だったらバラバラだった帰り道も、行き先が一緒になった今では並んで歩く道になった。あの家をアイツはただ寝床にしているだけだと言うが、俺はあそこが二人の家だと思っていて、簡単に言えば俺はアイツと同棲しているつもりだった。
あやふやなのは好きじゃないから俺はちゃんと好きって言ったんだ。好きって言ったし、俺と暮らそうって言った。そうしたらアイツがつまらなそうに「好きにしろ」って言ったから、俺は好きにしてるし当たり前みたいにアイツも勝手にしてる。停滞というより、ぬるま湯というより、なんだか毛布にくるまってるみたいな安心感があって──そりゃもう少し進みたいけれど、まだいいかなぁなんて思ってる。
考え事をしていたら帰り道なんてあっという間だ。アイツが鍵を取り出すのをぼんやりと眺めていたら、ふわりとさっき円城寺さんの家にも漂っていた魚の焼ける匂いがする。
「秋刀魚」
俺の声を聞いたコイツがちら、とこちらを見る。喧嘩腰になることが少なくなったコイツはあまり声を出さずに俺の言葉を待つことが増えた。
「うまかったな」
「ん」
ガチャリ、ドアが開く。コイツがいつも通り靴を適当に脱ぐけれど、別に直してやる義理はない。俺も適当に靴を脱いで家に入る。なんの変わり映えのない、俺たちふたりの家だ。
とっとと風呂に入ったほうがいいのに、座ってしまったうえにテレビまでつけてしまった。円城寺さんが持たせてくれた漬物は冷蔵庫じゃなくてテーブルの上にあるし、コイツは冷蔵庫から缶カクテルまで取り出してる。これ、絶対に風呂上がりにしたほうがいいのに。
「魚って言えばよ」
ぷしゅ、と缶のあく音。
「あれうまかったな。カツオの店」
「カツオ……?」
「海野郎が騒いでただろ。秋の魚はサンマだけじゃねぇって」
言われて思い出した。確か秋の魚を食べると言われて、秋刀魚だと思って行ったらメインの料理がカツオだったロケだ。俺たちの他にも古論さんが来て、魚の説明をしてくれたっけ。
「確かにうまかった。飯もうまかったけど、ディレクターに頼まれて円城寺さんと古論さんが酒を飲んでたっけ……うまそうに飲んでたよな」
「そっちのが撮れ高あるからってガキだったオレ様たちはほとんど使われなくて……ああ、いま行ったらオレ様たちも飲めるな」
飲みてぇな、ってコイツが言う。確かにあの店のカツオはうまかったから、刺身なんかをつまみに飲んだら最高だろう。
「……行くか」
「ん?」
「行こう。その店、覚えてるか?」
「んー、なんとなくの場所は覚えてっけど……」
軽くアルコールを入れた頭がうまく働いていないんだろうか。コイツは少し考えるような素振りを見せたが、数秒したら諦めたように缶カクテルを煽った。俺はと言えば記憶を辿ろうにも今日食べた秋刀魚が邪魔をしている。コイツが飲み干したカクテルの缶を潰した瞬間、俺たちが同時に口にする。
「プロデューサーだ」
「下僕なら」
顔を見合わせたコイツがニヤリとした。きっと、俺も同じような顔をしてるんだろう。
よくよく考えてみたら円城寺さんでもよかったのかもしれないが、プロデューサーなら俺たちが仕事で行った場所は全てわかってるはずだ。途方もない、というマイナス点を除けば事務所がやっているSNSに俺たちのやった仕事は残っているはず。
「おい、」
「明日でいいだろ。プロデューサーだってもう休んでる」
夜更けとは言わないが、コイツと一緒に軽く酒を飲んでいるような時間だ。酒か、と思うとコイツとの付き合いも長いよなってしみじみ思う。アイドルを続ける以上、頂点を取るまでコイツとは一緒にいるとは思っていたけれど、コイツが飽きずにアイドルを続けてるのも、俺がコイツのことを好きになっているのも、アイドルになったばかりの俺が知ったら驚きでひっくり返るだろう。
「……あの頃は酒、飲めなかったもんな」
「いま飲めるんだからいいじゃねぇか。ガキの頃は別に飲みたいとも思わなかったしな」
「そうだな……オマエが酒を好きになるのは意外だった。俺も、自分が酒を好きになるとは思わなかったし」
コイツは弱いくせに酒が好きだった。俺はどちらかと言えば飲んでる人間が好きで、さらに言うとコイツが飲んで楽しそうに笑ってるのが好きだ。そういえばコイツはなんでも食うくせに酒の好き嫌いがあって、俺は飲めればなんでもいい。俺のことを味のわからないガキだとコイツは笑うけれど、甘い酒しか飲まないコイツのほうがよっぽどガキだ。
「オレ様はわかってた」
「ん?」
「チビ。コイツは酒が好きになるんだろうなって」
「……そうか」
コイツは俺が酒好きだと思ってる。好きなのはコイツと飲むことであって酒じゃないけれど、酒も嫌いじゃないからわざわざ訂正はしない。
チビのことならわかるってコイツは笑った。なんともまぁ、生意気な顔で。
「チビは辛いもんが好き」
「見りゃわかんだろ。ずっと一緒にいんだから」
「チビはオレ様が好き」
酔ってんだろう。アルコールはコイツの表情筋を柔らかくするみたいで、そういう時の笑顔は実際の年齢よりも若いというか、幼く見える。
「……そりゃオマエ、オレが言ったからだろうが」
言い訳みたいになってしまったが真実だ。コイツ、ロクな返事もしないくせに俺がいったことは忘れない。ズルいってのはちょっと違うかもしれないけど、自覚のある恋愛の駆け引きってことならコイツは間違いなく『ズルい』。
「気づいてた。チビが気がつく前からずっとな」
「俺は気がついた時にちゃんと告白した」
「どーだか」
コイツはもう飲む気がないみたいで、円城寺さんが持たせてくれた漬物もなくなってしまった。俺も酒を飲んでもいいけど、一人で飲むのは何か違う。
思い出話でもしようか。あの時、どんなことを思っていたのか。
そんな気恥ずかしいことを言い出せなかったのは、風呂に入らないとって言い訳が目の前にあったからだ。「風呂、」と一言口にすれば、コイツがゆっくりと立ち上がった。
「オマエ、飲んでんだから長風呂すんなよ」
「チビこそ、寝んなよ」
先に寝るのはオマエだろ、という言葉は飲み込んだ。どうせコイツは俺が風呂に入ってる間に先に寝て、無抵抗のまま抱き枕になるに決まってる。
抱き枕にまでなってるくせにコイツからは好きの一言もない。なんなんだよ。
***
目が覚めたらコイツは俺の横で寝ていて、こんなに近くにいるのに手に入らないものなんだなぁ、ってぼんやり考える。
カツオのこと、プロデューサーに聞くから。
コイツは言ったことはどんなに些細なことでも守るけれど、一応聞いてみる。コイツは「おう」と返事をしたきり身支度に戻ったきりカツオのことは言わなくて、それを俺はなんとも思わない。コイツは俺がドキドキすることとかを『当たり前』にしてしまうことがあって、それが悔しかったはずなのにいつの間にかそれすらも当たり前になっている。思えば出会った時から、俺はコイツのペースに振り回されっぱなしだ。
プロデューサーにはメッセージを送ってもよかったけど、事務所に用事があったから実際に会って聞いてみた。プロデューサーはすぐにピンときた様子を見せた後、オフショットを撮るなら店の人に了解を取るように言って店名を紙にメモして手渡してくれた。こんなにもすらすらと過去の仕事が出てくるのかと感心する反面、少し仕事に夢中になりすぎなのではないかと心配になる。今度気の張らない飲み会にでも連れて行くべきか、と思ってなんだかおかしくなる。大人みたいなこと考えたなぁ、って。
短時間でも空き時間があればソファに転がってるコイツの横に座って、そのすっと整った鼻と口を塞ぐ。これは二十歳くらいの頃に発見した、唯一俺がコイツを起こすことができる方法だ。これ以外だとコイツは円城寺さんの歌でしか起こせないが、これなら誰にでも起こせる上に簡単だ。
案の定、というかいつもの通り半ば悲鳴のような抗議の声をあげながらコイツが飛び起きる。適当にいなしてレッスンに向かう。店の名前を教えるときに予定をあわせればいいだろう。円城寺さんを誘うか迷ったけど、俺からそれを言い出すことはしなかった。
俺が何も言わないから、アイツも円城寺さんのことを何も言わなかった。
それでも俺が円城寺さんにカツオの店の話をしたのは、罪悪感に似た何かがあったんだと思う。そして、きっとそれを円城寺さんは見抜いていた。
酒を飲めるようになったんだから、ふたりでゆっくりと飲んでくるといい。そう言って笑う円城寺さんに、俺はそれ以上話をふくらませることを避ける。年の差、というのもあるんだろう。交友関係の変化もある。それでも、俺たちの『ふたりきり』には円城寺さんの不在が色濃く感じられて、気兼ねなくふたりきりになれる時間は俺たちの家の中だけだ。それがたまに少しだけ嫌だけど、俺たちの『いつも』に円城寺さんがいるのが俺は好きだった。俺は円城寺さんが好きだし、アイツだって言わないだけで円城寺さんのことは好きだ。
それでも、俺が恋愛的な意味でアイツのことが好きな以上、うまく心が動いてくれないのもまた事実で。
かといって謝るのも違う。そんなことをして、レッスンを終えて、帰り道でようやく俺はコイツに問いかける。
「いつ行こうか」
どこに、とか。そういうのを言わなくてもいいってのが、たったそれだけがなんで嬉しいんだろう。
「来週は特に予定ねぇな」
仕事があるだろ。コイツの返事はわかってるはずなのに、俺は言う。
「オマエの仕事の予定、全部知ってるわけじゃないんだが」
「チビが知ってる仕事の予定しかねぇ」
レッスン、俺たちの仕事、コイツのレギュラー。きっと円城寺さんもプロデューサーも知っていることなのに、コイツのことを知っているのは悪くない。いや、悪くないってのはちょっと違ってて、知ってることを当たり前だと思っているから我ながらよくないと思ってる。ようは、俺の知らないコイツの仕事があると、俺は自分勝手に不機嫌になる。
よくないな、って。そう思う。
「楽しみだな」
俺が考え事をしている隙を狙うみたいにコイツが言った。声色も表情も見逃した俺は、悔し紛れに口にする。
「……もういっかい」
「なんでだよ」
そう言って、コイツは柔らかく笑う。年をとったなぁって、そう思う。
***
カレンダーに大きく丸をつけた。浮かれてんのかな、下手くそな魚の絵も描いた。
カツオを食べに行く日は昼過ぎにはレッスンが終わってあとは何もないって日を選んだ。どうしてもコイツとあの時のカツオが食べたかったから週中なのに予約までして個室も取った。コイツは「シュショーな心がけだな」と笑ったけれど、事実そのときの俺はとても甲斐甲斐しかったわけだから、間違いじゃないだろう。
電車に乗って普段は行かない駅に行く。俺は少しワクワクしていて、コイツはムカつくほどにいつも通りだ。いつも通りって言えば、コイツ事務所でカップ麺食ってたな。俺たちはまだ食べる量が若い頃と変わってないけれど、円城寺さんはもう打倒虎牙道盛りを食べない。
店までの道のりに覚えはなかった。きっと店員さんも俺たちのことを覚えてないんだろう。それは当たり前で、寂しいことじゃない。サインとか書いた記憶があるけど、まだ飾ってあるのかな。
「いらっしゃいませ! ……あら?」
店に入ったら女将さんみたいな人が出迎えてくれたんだけど、そのハキハキとした声を聞いたら記憶が少しだけ戻ってきた。俺、この人のこと覚えてる。うちのカツオはお酒だけじゃなくてご飯にもあいますからね、って言って俺たちに飯をくれたことだけを、それだけを思い出した。
「あら、あら、うちの店にきてくれたことありますよね。テレビ見てますよ。サインだって、ほら」
レジの後ろの壁に俺たちのサインがあった。俺たちの中に古論さんのサインも入ってるっていう、きっとそうそうお目にかかれないレアなやつ。そっか、こういうの取っといて、覚えててくれてるんだ。
コイツはもう昔みたいに一々騒いだりしない。案内されるまま個室に通されて、俺はビールを頼む。コイツはまた甘いカクテルを頼んでいて、それはカツオにあうのだろうかという余計なお世話を思うが口にはしない。
「これ前に食ったな」
「ん……? ああ、うまかったな」
コイツが指差したのはカツオの漬けがたっぷりと乗った丼だった。円城寺さんたちが酒を飲んでるときに、俺たちは丼を食って普通に飯も食ったっけ。
「とりあえず刺身と……イカ焼きとコロッケと」
「めんどくせぇな。こっからここまで全部」
わざわざ注文を取りに来てくれた女将さんは「相変わらずたくさん食べますね」と笑って、コイツの雑な注文を紙に書いていく。丼と飯はメニューの最後の方にあるから選ばれなかったし、腹にたまるものを頼まなかった俺たちを見た女将さんは「大きくなったわね……ああ、ごめんなさいね。馴れ馴れしく」って困ったように、誤魔化すようにさっきよりも控えめに笑った。案外覚えているものなのか、それともこの人の中ではある程度記憶が作り上げられているのかは俺にはわからない。
「じゃあ、乾杯」
「ん、」
ビールもカクテルも酒は酒だけど、ホッケをつまみながら甘ったるい匂いがする酒を飲んでいるコイツを見るとそれでいいのか、と思わなくはない。うっすらとわかっていたことだけど、コイツは結構甘党だ。
カツオの店だと思ってたこの店は、カツオが売りの居酒屋だった。カツオはもちろん他の魚介類も、ポテトサラダも、コロッケも全部がおいしくて、俺たちは酒もそこそこにメニューを上から平らげていく。
大人なんて程遠い食べ方だ。それでも俺たちは酒を飲む。
とは言ってもコイツはカクテルを二杯飲んだあたりでウーロン茶を頼んで──正確には俺がもう飲むなと言ってウーロン茶を頼んだんだが、それに文句も言わずにウーロン茶を飲みながら、気に入った様子のコロッケをずっと食べていた。カツオ食えよ。
俺は日本酒を三合くらい飲んでいて、やっぱり酔ってくコイツを見ながら飲む酒が一番だなぁ、だなんて思っていた。少し酔ってるのかもしれない。
どちらともなく、なんとなく、昔の話を少しだけした。飯を食ってんのに飯の話をした。
「前にクレープ食いに行っただろ」
「行ったか? それオレ様じゃなくて別のやつだろ」
「仕事で。最近じゃなくて昔に行った」
覚えてねー、とコイツがぼやく。俺だって忘れてたけど、何を食べたかなんて忘れたけど、なんだか急に思い出した。
「行こう」
クレープがどうしても食べたかったわけじゃない。ただ、昔に行ったあの店にコイツと一緒に行きたかった。キョトンとしたコイツが何かを言う前に、俺は続ける。
「昔行ったとこ、オマエとまた行きたい」
大人になって、酒が飲めるようになって、コイツのことが好きになって。そうして変わって行った関係と俺たち自身で昔に行ったところに行ってみたかった。
「いいぜ」
簡単にコイツは言う。俺は思ったことを少しも言わなかった。でも、悔しいけど、きっとコイツはわかってるんだと思う。
「どこだって行ってやるよ。おい、次この丼」
「殺し文句とオーダーを同時に言うなよ」
不満を言ってもコイツはどこ吹く風だ。俺は店員を呼んで、あの日に食べた丼を注文した。コップにはもう酒は残ってなくて、俺はガキの頃は何を飲んでいたっけ、と考える。
思い出すことはできなかったし、コイツに聞くことも、しなかった。
***
クレープ屋に行きたいと言ったのは、ただアイツと昔行った店に行きたかったから。だからクレープ屋の名前や場所どころか何を食ったのかすら思い出せなかった。
店はまたプロデューサーに聞いた。プロデューサーが考え始めたから、俺はとんでもない迷惑をかけてるんじゃないかって不安になる。よくよく考えてみたら、プロデューサーが全部の仕事を覚えてるとは限らない。やっぱりいい、って言いかけた俺に、プロデューサーが「これですね!」とスマホを見せてくる。そこには俺とアイツと円城寺さんがクレープを食べている写真があった。
「すごいな。写真まで残してるのか」
「これはSNSにあげた写真ですね。検索をかけたらでてきました。時期がわかったので映像を持ってきましょうか」
「いや、店の名前だけわかればいいんだ。わかるか?」
「はい、大丈夫ですよ」
仕事でもないことで頼るのは気が引けたが、ここまで頼んでおいて今更引っ込めるのも違う気がしてお言葉に甘えることにする。プロデューサーはスマホに数度触れた後、俺に店名と店の外観を教えてくれる。屋台みたいでイートインスペースのない、記憶になんてない小さな店だった。
「ありがとう。助かった」
「いいえ。ひさしぶりに食べたくなりましたか?」
私もみなさんの食レポがおいしそうだったから食べに行ったんですよ、とプロデューサーが笑う。俺はといえば昔に行った店にまたアイツと行きたいってだけで、何を食べたのかなんて覚えてないし何が食べたいという気持ちもない。
誤魔化してもよかったけど、きっとこれからも行きたい店は出てくるんだろう。それだったらちゃんと打ち明けて、これからも世話になっていいのか聞く方がいい。
「……昔に行った店に行きたいんだ。だから、また聞いても……聞いたら迷惑か?」
「いいえ。忙しい時はすぐに対応できませんが、それでよければ」
私もタケルさんとの仕事を思い出せるのはうれしいですから。そう笑うプロデューサーに、俺はこれからもこの人を頼っていくんだな、って思う。頼らないようにするっていうよりは、俺がプロデューサーにとって頼れる人間になるほうがいい。
「あ……そういえばクレープを食べた時、猫カフェに行った気がするんだが……」
クレープのこともろくに覚えてないくせに、ふわ、と記憶が蘇ってきた。とはいえ、これがクレープの食レポと同じ日の仕事だったか自信がない。ありがたいことに、たくさんの仕事をもらっているから、もしかしたら別の仕事の話かも。
「猫カフェの映像、きっと残ってますよ。見ますか?」
「いや、大丈夫だ」
猫は正直見たかったけど、昔の映像はすぐに取り出せる場所にはないだろう。これ以上手を煩わせるのは悪い。礼を言って、あとは少しだけ雑談をする。
「アイドルやってると、忘れたことでもどっかしらに残ってていいな」
もしかしたらプロデューサーや俺たちのファンのほうがずっと俺たちがなにをしてきたのかを知ってるかもしれない。そう言ったら、プロデューサーが少し笑う。
「思い出したのですが、あの日のみなさんはチーズハットグも食べたし定食を出す店にも行っていましたよ」
残っているものがすべてじゃない。そういうことだ。
クレープ屋は昼にしかやってないから二人でオフの日をあわせて行くことにした。なんだか、デートみたいで笑えてくる。俺たちは一緒の家に住んでるのに、デートらしいデートなんてしたことがないのに。
服に気合いをいれるのはなんだか気恥ずかしくて、でもおしゃれな街ってイメージのあるところだからあんまり適当でもよくないかなって思って、ああ、そもそも変装をしないといけないし。そうやって、それなりに悩みながら、アイツとクレープを食べに行く日を待っていた。
訪れた通りには店がたくさんあった。こういうの全部覚えてないのに、なんでクレープのことだけは覚えてるんだろう。ガヤガヤしてて、看板がたくさんあって、ほんの少し歩けば新しい店を通り過ぎる。こんなに店がたくさんあるのに、俺たちの目的はクレープしかない。
「猫カフェ行ったの、覚えてるか?」
「忘れた」
喧騒のなかでは声を潜める必要はない。ここにいる人間全員が、自分たちのこと以外に興味はない。
「でもチビがダセェ顔してたのはわかる」
「覚えてないんだろ」
「わかる、って言ったんだ。ぜってぇへらへらしてた」
「オマエも絶対にだらしない顔してた」
猫カフェの話題を出したけど猫カフェに行く予定はなかった。なんとなくの流れで行きたくなったら行けばいいかな、って程度。
「チビは何食うんだ?」
「え?」
「クレープ」
前は何食ったっけな、と独り言のようにコイツは言う。俺はコイツに言葉を投げる。
「行ってから決める。何があんのかも覚えてねぇしな」
「は? 覚えてねぇのかよ」
覚えてない。伝えたのはこれだけだった。クレープっていうとどうしても華やかなイメージばかりが先行して、そういうカラフルな糖衣のチョコレートのようなイメージを取っ払うとようやくバナナとかイチゴが残る、みたいな。
「食いたいもんがあったんじゃねーのか」
不意打ちみたいな、コイツの声。
「……前に言ったろ。オマエと昔に行ったとこに行きたい、って」
「くはは! 本当にそれだけなんだな」
「……そこ、右」
「おう。……くはは、」
なんだか一瞬で上機嫌になってしまったコイツとクレープ屋の列に並ぶ。目の前に女子高生が二人。注文をしているカップルが二人。友達同士と、恋人。コイツにとって俺はなんなんだろう。
友達じゃないのはわかる。仲間だって思われてなかったら嫌だ。友達をすっ飛ばして、恋人になれたら嬉しいんだけど。
一歩、短い列が進む。メニュー表を見ると、くらくらするほど種類があって困ってしまった。
「……めちゃくちゃあるな」
「チビはユージューフダンだから困るだろ」
「……俺はもう決まった。決まってないのはオマエだろ」
コイツのことだから全部食えばいいとか言いかねないし、一応「持ちきれるだけにしろよ」と釘を刺す。「当たり前だろ」ってコイツが返した瞬間、また短い列が進んで俺たちの番が来た。
「えっとぉ……チョコバナナのホイップ増しとイチゴカスタードとテリヤキチキン」
「コイツと同じの。ホイップは足さなくていい」
「あ! それはズルいだろ。やっぱ決めてなかったんじゃねーか」
「うるさい」
会計は一緒だと告げてコイツの分も金を払う。コイツは金を出さないんじゃなくて、会計がめんどくさいだけだ。だから今日も俺の財布に万札をねじこんで、会計の全てを俺に任せてる。
俺がクレープ3つを持つのに手こずってるうちに、コイツは器用に──大道芸かなんかみたいにクレープを食べ始める。チョコか、イチゴか、よくわからなかったけど、かじりついたコイツがうまそうに、きゅっと目を細めて幼く笑った。
なんだか見覚えがあった。クレープのことなんてひとつも思い出せないくせに、あの日、同じように笑ったコイツのことを思い出した。
「ん? んだよ。食わねーのか?」
チビは不器用だからうまく食べれないんだろ、ってコイツが笑う。その笑顔からはもう幼さは失せていて、無邪気な皮肉がそこにある。
「俺だって食う……けど、オマエよくこれ持てたな……」
クレープをなんとか数口食べる間に、ふたつを一気に食べ終わったコイツが俺のクレープをひとつ持ってくれる。ようやく両手にひとつずつになったクレープを食べて、結局ふたりでもう一度並び直しておかわりもした。
チョコバナナだのイチゴだの、一向に思い出せないクレープと違って鮮明に思い出したコイツの笑顔が離れない。そうやって繋がるように思い出したコイツは、猫カフェでも確かに笑っていて、考えた通りにマヌケな面をしてた。
「猫カフェ」
「ん?」
「行こうぜ。ふたりで」
「くはは! 情けねぇ面、拝んでやるよ」
きっとお互いにデレデレの顔をするんだろう。浮気の詫びに、チャンプにはなにかおやつを買って帰ろう。
「あ、……写真、撮ればよかったな」
「写真?」
「せっかくだから残しておけばよかった。そうしたらまた、今度はプロデューサーに聞かなくても来れるだろ」
チャンプへの貢ぎ物を持って思ったよりも遅くなった帰り道を急ぐ。猫を飼ってるのに、猫と一緒に暮らしているのに、猫カフェってのはなんであんなに離れ難いんだろう。彼女がいるのに合コンに行くようなもんだろうか。いや、それは最悪すぎる。
このカツオのおやつで許してもらおう。かさかさとなるエコバックを意識して、これを円城寺さんにもらってからしばらく経つなぁ、って考えて。なんだか、過去への感傷が増えた。年なんだろうか、だなんて言ったら円城寺さんには笑われるんだろうけど。
「……それに、全部が全部、誰かが覚えててくれるわけじゃないから」
俺たちがアイドルとしてした仕事はどっかしらに記録が残ってる。でもプロデューサーとのやりとりで、全部が残っているわけじゃないって知った。
言おうかちょっとだけ迷って、言う。あの日の俺たちはクレープと猫カフェだけじゃなくて、定食屋にも行ったんだと。そういえばコイツは「覚えてねー」と言い、「どうでもいい」って呟いた。ちょっとだけ、腹が立つ。
「どうでもいいって、オマエ、」
「オマエだって忘れてたんだろ」
「……そうだ」
忘れてたし、残ってなかったものはプロデューサーが教えてくれなかったら忘れたことも忘れてた。だけど、だから、今から取り零さないようにって思うのは悪いことじゃないだろ?
「だから、残そうって思うんだ」
「……ふーん」
「……また行こう。店メモっとくから」
その時、俺はなんのクレープを食べたか覚えているんだろうか。やっぱり写真を撮っておけばよかった。
「年とったら、また行こう」
「……カツオの店は、近いうちにまた行ってやってもいい」
「ん。あの店うまかったもんな」
クレープばっかり食べたから胃のなかが甘ったるい感じがする。コンビニで適当な弁当を買って、影を並べて家に帰った。
***
この前、インタビューでマイブームを聞かれた。
俺は最近発売したゲームの話をして、アイツはそんなものないって答えて、結局話が広がったのは円城寺さんが最近ハマってる自家製味噌の話だった。
ゲームにハマってるから嘘は吐いてないけど、俺の一番のマイブームはアイツと一緒に昔行った店を巡ることだ。アイツがどう思っているのかは知らないけれど、文句を言ってこないんだから悪くないんだろう。それか、よっぽど俺が甘やかされているかのどっちかだ。
記憶を辿ったり、昔の映像や台本を探したり、そうやっていろんな店に行った。行って過去を思い出す店もあれば、申し訳ないけどふわっとしか思い出せない店もある。昔とたいして変わらない俺たちだったけど、店に酒があれば酒を飲んだ。
休みが合うたびに出かけるわけじゃないから、ただ家でごろごろしている日だってある。そんなときに「前に食べたあれはおいしかった」だの、「昔に虹色の綿菓子を食った気がする」だの、そういう話がでてくる日もあった。どちらともなく「今度行くか」と言って予定が決まる。嬉しくなる。上機嫌になって、少し飲んだりする。
「鶏肉食いに行かねぇか?」
「鶏? 前に行った店か?」
「いや、チビはいなかった。香川にあった店」
「香川……ああ、あの仕事か」
そういえば俺たちはそれぞれが個人の仕事でいろんなところに行っている。コイツは「あれはうまかった」と言い、「チビにも食わせてやるからコーエーに思え」と偉そうに笑った。
「ビールにあうんだと。デカブラシが飲んでた」
「へぇ。……いいのか? オマエはビール飲まないだろ」
「飯にもあうんだよ」
香川だから、とだけ言ってコイツは全部を俺にぶん投げてきた。仕事で行った店なら調べられるが、仕事前にコイツが観光で行った店なんてわかるはずもない。プロデューサーか翔太さん達に聞かないと、と思ったところで、そういえばコイツが香川に行った時のツアーで俺も福岡に行ったことを思い出す。
福岡はラーメンがうまかった。コイツはラーメンが好きだし、ちょっと遠いけど連れて行ってやるのもいいかもしれない。土産もその辺で売ってるスナック菓子にしちまったし、ふたりで自分たち用の土産を買うのもいいかもしれない。
「福岡も行こう。ラーメンがうまかった」
「ん。あー、でもあっち行くなら泊まりか」
「ってなると、当分先だな」
最近数日間のまとまった休みがかぶることが滅多にない。単純にライブが終わったばかりだからユニット単位で動くことよりもソロの仕事が増えているからだ。
昔、暇とは言わないけれど俺たちの休みが揃ってるときに連れて行ってやればよかったな、だなんて今さら思って、それは違うなって思い直したりする。だって昔はそういう間柄じゃなかったし、万が一連れて行ってやろうなんて気分になっても絶対に円城寺さんも一緒に行っていただろう。
こうやって大人になったから、いや、ちゃんとコイツを好きになったから、ようやく一緒にいる言い訳がいらなくなったんだ。大切なものは一瞬でなくなることがあるって、俺は知ってる。いつまでも一緒にいるつもりだけど、いつだっていいだなんて思わないようにしないと。
「香川は次の連休だな。……そうだ、魚と肉ならどっちが食いたい?」
「次の休みはそこか」
「ああ。プロデューサーと話してて思い出したんだ。逆方向だから、どっちか選んでくれ」
「その日に決め、」
「予約するから、その日に決めるのはなしだ」
「その時にならねーとその時食いたいもんなんてわかんねぇよ」
適当に決めとけ、ってコイツが言うから肉にした。コイツは肉だろ。絶対。
***
夕暮れの下町を並んで歩く。俺もコイツも上機嫌だった。
理由はふたつある。ひとつはここ最近訪れた店は全部おいしかったから今から行く店への期待が高まっていることで、もうひとつは今日行く店は〆のラーメンが評判の焼肉屋だからだ。
アイドルとして有名になるにつれてうまいもんを食える機会は増えたし、円城寺さんのラーメンはずっとうまい。そしてこの遊びは俺の感傷に寄り添うものだけど、やっぱりうまいもんを見つけたら嬉しいわけで。
映像が残ってたから見てきたんだが、俺もコイツも円城寺さんもうまそうに肉を食っていた。しかも今の俺はビールが飲めるんだから、これを楽しみにするなってほうが無理な話だ。
「……このあたりのはずなんだけどな」
ガヤガヤとした飲み屋街で、見つかるはずの店が見つからない。道のりも店の外観も、映像でちゃんと見たのに。
「おかしいな……。すみません、聞きたいことがあるんですが」
道ゆく男性を呼び止めて店の名前を伝える。すると、男は困ったように教えてくれた。
「その店なら先月潰れたよ。いい店だったけど店主が年でね」
焼肉なら角を曲がった店もうまいよ、と言って男は人混みに消えていく。気落ちして焼肉って気分じゃなくなっちまったけど、俺が「教えてもらった店に行くか」と言う前に、コイツが一言だけ「帰るぞ」って言った。
「……腹減ってないのか」
「なんか買って帰る」
「……悪い」
こういうとき、どうしたって子供みたいな落ち込み方をしてしまう。俯いた俺の手をコイツが引く。人がたくさんいて、何人かがこっちを見ている気がするけれど、俺はその手に引かれてゆっくりと歩く。
「……チビのせいじゃねぇよ」
一瞬、何のことだかわからなかった。ありもしない店にコイツを連れて行こうとしたのは俺だけど、店が潰れたのは俺のせいじゃないってことなのか。
「オレ様たちだって変わるんだ。なんだってそうだ」
「……変わってほしくないものもある」
変わるのがいいことか悪いことかはわからない。変わりたいと願う日があって、変わった今を気に入ってる俺もいるのに、変わらないことを願う時だってある。
「変わらないものがあっても、どうにもならないことってあるだろ」
こういうとき、ひとつしか違わないのにコイツのことをひどく遠くに感じる。その距離は寂しさじゃなくて、行き着く先で灯りを持って待っていてくれるような、そういうオレンジ色をした優しさだ。
「……いまできることをしないとな」
俺の手を引いていたコイツの手をしっかりと握り返す。こんなふうに変わった距離で、変わった関係性で、変わらない呼び名を口にする。
「……オマエ」
「なんだよ、チビ」
「なんでもない。帰ろう」
ゆっくり歩いたはずなのにあっという間に駅に着いてしまった。座れはしなかったけど他人と体が触れ合うことのない混み具合の電車に揺られていると、コイツがぽつりと呟いた。
「らーめん屋のとこ寄ってもいいし、なんか買って帰ってもいい」
「……ああ」
「変わんないことも変わったことも、好きなようにすりゃいいだろ」
それきりコイツは黙ってしまう。こういう言葉に救われる反面、コイツが言葉通り好きにしているから俺がヤキモキしていることがあるのも事実で。
電車が駅に着くまでずっともどかしかった。少し歩いてようやくふたりきりになったあたりで俺は言う。
「……オマエのそういうとこ、すごい好きだ」
「は?」
「電車でオマエが言ったこと。オマエが言うことって、多分オマエが思ってる以上に俺に響いてる。……でも、」
コイツはすぐ調子に乗るから、調子に乗る前に続けた。
「……俺のオマエへの気持ちは変わったんだ。俺の気持ちを知ってるのに、それでも好き勝手してるのはムカつく」
「……くはは! いい気味だ」
俺は子供みたいに立ち止まる。コイツは少しだけ歩いてこっちを振り返る。
「……どーする?」
「なにがだよ」
コイツは何も言わない。猫のような視線で、俺の言葉にじゃれつく隙を窺っている。
なにが「どーする?」だよ。好きなままに決まってるだろ。この気持ちがどーにもならないなんてオマエは知らないくせに。
「……円城寺さんのとこ、寄って帰る」
ふてくされて、話題を変える。コイツはニタリと笑ってそれに乗っかってきた。
「昔みたいに超超超スーパーウルトラメガマックスドデカ宇宙盛りチャーシューマシマシ味玉スペシャルでも頼むか? くはは!」
「それ円城寺さんが止めてくれなかったからいくとこまでいっちまったやつだろ。もうあの量は無理だ」
「打倒虎牙道盛りよりあったもんな」
難しげで不機嫌な顔を作ってたけど、なんだかおかしくなってしまって笑ってしまった。「決まりだな」ってコイツが笑って俺たちは男道ラーメンに向かう。
結局流されてしまったけど、ちゃんと言葉にしてほしいけど、コイツのこういう好きを口にしないところは変わらないのかもしれない。だったらそういうのもひっくるめて好きってことで、俺も好き勝手にさせてもらおう。
「……今度焼肉の店、探しとくから」
好き勝手に、コイツを好きでいよう。
「別にいい。チビが行きたいとこならなんでも」
「……オマエな……」
いや、コイツこれで俺のこと好きじゃないことあるか?
「オマエ……人が落とし所を見つけて納得した瞬間にそういうこと言うのやめろよ」
「ハァ? そういうことってどういうことだよ」
「……もういい」
「んだよチビ! 意味わかんねぇ」
結局コイツは自覚してようが自覚してなかろうが俺を振り回すんだ。こういうところは昔から変わらないなって思いながら、最近新メニューが開発された男道ラーメンに歩き出した。