それが彼のためだと、本当に思ったのだ。
分かりましたと、ホークスは言った。どこまでも静かな瞳だった。振り返れば、彼はいつもそうだった。人付き合いというものは大なり小なり、すれ違いや意見の相違の連続であるはずだ。しかし、彼と付き合う中でそういうズレをろくに感じたことがなかったことに気が付いたのは、「もう辞めるべきだ」という終わりの台詞を口にしてからだった。
自分の言葉に対して、ホークスが首を横に振ったことはなかった。そうですね、了解です、それがいい、そうしましょう、さすがです——いつもそう言って、楽しそうに笑うばかりで。
「分かりました」
出会い頭に何の前置きもなく別れを切り出された、こんなときでさえ。
「じゃ、これからは普通に同業者として、よろしくお願いしますね。どーしてもナンバーワンのお力を借りないといけないってことは、今後も少なからずあるでしょうから」
いつものように轟邸の庭に降り立ったばかりだったホークスは、肩から下ろしかけていたショルダーバッグを、もう一度定位置に提げ直す。あの中にはいわゆる『お泊まりセット』が入っていて、しかしその量も、この関係を始めたばかりの一年前に比べると、確実に減っていた。もともと、何をするにもどこに行くにも、荷物の少ない男だ。彼がこの邸に泊まる夜に使用するほとんどの日用品をここに常備し始めてからは、手土産ひとつで現れることも多かった。
だいたいはこちらで新調したものばかりのはずだから、今すぐ持って帰らねばホークスが自宅で困る、などというものはないだろう。それでも何か、今持たせておくべき物があっただろうかと、半ば現実逃避のように記憶をたどる。とりあえず上がって、飯は食っていけ、まだ何も食ってないんだろう——そう口を開きかけたエンデヴァーに、ホークスは笑いかけた。
「まあ、なるべくお手を煩わせないようには頑張りますよ」
その琥珀色の瞳は、ちらとも揺るがない。至極いつも通りの、どこか悪戯っぽさを含んだ笑顔。対する自分の双眸がみっともなく震えていないかどうか、エンデヴァーには自信がなかった。
「じゃあ、おれはこれで」
ばさりと広がった大翼が空気を叩いて、ホークスの爪先が地面から浮き上がる。
「ありがとうございました、エンデヴァーさん」
それは目の前の男の口からもっともよく聞いてきた台詞だった。滞りなく終えたチームアップ後の挨拶とごく同じ、快活なトーンの声に、羽ばたきの音が重なる。彼を引き留める言葉も術も、エンデヴァーは持たなかった。剛翼の起こした風を全身に受けながら、遠のいて行くホークスの姿を見送る。振り返らない鳥の姿は、暮れなずむ空に、瞬く間に溶けて消えた。
そうして、自分たちの関係は終わった。大規模な敵掃討作戦よりもよほど気力や勇気のような何かを振り絞って臨んだはずの別れ話は、ひどく短く、そしてあっけなく終わった。
ある日突然世界が変わる——そんな、童話やおとぎ話のようなことは、現実には起こらない。
たとえば、自らの命よりも大切だとさえ思っていた存在を失ってこの世の終わりのような絶望に打ちひしがれたところで、実際に世界が終わることなどないのだ。そうであるなら、数週に一度という決して多くはない頻度で、一晩あるいは一日いう瞬きひとつの時を共有していただけの相手が隣からいなくなったくらいでは、何の変化も、あろうはずもない。
容赦なく、忖度なく、陽は沈むし夜は明ける。時間も人も、何も変わらずただ回り続ける。ひたすらに、ひたすらに。
かつてホークスが語った「ヒーローが暇を持て余す世の中」にはいまだ少し、遠い。敵はいなくはならないし、小競り合いは尽きない。不幸な事故は災害は、どうしたって起きる。ホークスがこの手の届く範囲にいようがいるまいが、何ひとつ変わることのない慌ただしい毎日。大所帯の事務所を回していく立場に付随する責任や、考えるべきことの膨大さは、常にエンデヴァーの意識をこの現実へと引き戻し、自身の環境の些細な変化を忘れさせた。
「エンデヴァー、来月の希望休は?」
事務所に戻ると、事務仕事中のオニマーがそう声をかけてきた。自然とポケットのスマートフォンにのばしかけた手を戻し、顎をさする。
「……いや、特にない。調整要員にしてくれ」
「またか? 有休たまってきてるぞー。率先して消化してくれよ、所長」
「ああ」
「あんまり取らないようなら勝手にねじ込むぞ」
「ああ、それで構わない」
オニマーは何か言いたげに首を少しひねったが、手にしていたバインダーをひらりとひと振りすると、作業に戻った。つくづく、他者の機微に聡い部下に恵まれたものだ。ここ一、二か月のエンデヴァーの明確な変化に、目敏い彼らが気付かないはずもない。しかし、誰ひとり口に出して訊ねてはこなかった。
「あ、ホークス」
内勤社員のぽつりとした呟きが妙に大きく耳につく気がするのは、ひとえに自身の未熟さだ。振り返ると、情報収集用として地上波の全チャンネルを常時映し出している所内モニターの一角で、一昨日から九州地方を襲っている豪雨の続報が流れていた。
氾濫した川が今にも近隣の家を呑み込まんとする、定点カメラの映像。今から数時間前の出来事だという。地形操作や水の制御に強い個性のヒーローたちが川べりを建て直そうと奮闘する上を、ウイングヒーローが四方八方に赤を散らしながら飛んでいく。
あの地方の大雨は、今も降り続いている。
「……台風ン中でも飛べる男は強いね、やっぱ」
いつのまにか同じ映像を見ていたらしいキドウが、そう呟いた。
あれは、いくらなんでも羽を減らしすぎだ。飛行性能が下がって自分が濁流の川に落ちてしまったら、元も子もない。キドウの言う通り、彼は風速二十メートルの台風の中でも平衡を保って飛行できるが、視界もろくに確保できないほどの大雨をしこたま含んで重くなった羽では、本来のパフォーマンスには遠く及ばないはずだ。そのあたりの見極めができないような男ではないが、それでも、ギリギリまで無茶をするクセを改めろと、あれほど言ったというのに。
「……派遣依頼は来ていないのか」
「来てないね。まあ、相手が豪雨じゃ、うちができることも少ない。よそに行ってるんだろ」
『九州地方を襲っている豪雨の影響で発生した〇〇地区での洪水について、対応の指揮をとっているホークス事務所が先ほど取材に応じ、浸水した住居に取り残されていた住人全員を救助したと発表しました。被害地区の住人は全戸、安否確認が完了し、避難所に避難しているということです。また、本日未明に発生した土砂崩れにより道路が寸断され孤立していた〇〇地区についても、先ほどウイングヒーロー・ホークスが現地入りし、被害状況を確認。物資を運び込んだため、当面の水や食糧については確保できているとしています。現在、ホークス事務所をはじめとする災害対策本部では一連の豪雨によるその他の被害状況の精査に当たっているということですが、お困りごとがある方、救助が必要な方、救助が必要な状況にある方を知っている方は、ご覧の番号までご連絡ください。また、ホークス事務所では各種SNSアカウントに寄せられた救助要請にも順次対応しているため、救助を待つ人のために、今は不要不急のリプライやお礼コメント等の書き込みを控えてほしいとの声明を発表しています。』
「抜かりないな、ほんと」
キドウが心底感心したようにひとりごちる。
画面が切り替わって、災害対策本部が置かれている県庁前にカメラが映る。ライブ映像だ。昼間だというのに、映像はまるで陽が沈んだ街を映しているかのように暗い。降りしきる大雨の中、合羽を着たキャスターがマイクを構え、真剣な面持ちで状況を説明している。その背景に、今しがたどこかから戻ってきたらしいホークスが着地するのが映り込んだ。
『あっ、ホークス! ホークスです』
その背に負った紅は、世間が見慣れた本来のそれよりも随分と小さい。全身ずぶ濡れで、巷の若い女性ファンを騒がせる風貌など見る影もないほど、泥に汚れていた。彼の帰還を察知して中から飛び出してきたサイドキックと一言二言交わし、すぐにまたゴーグルを構える。その視線がちらりとカメラのほうを向いた。
「風邪ひきますよ〜」
『ホークス、状況はいかがでしょう』
「大丈夫、優秀なヒーローが総動員で対応してます。雨ももうすぐやみますからね。じゃ、おれ、次の現場があるんで」
『ホークス、まだ救助を待っている方々にひと言!』
「大丈夫! 助けます!」
——かっけえ。
誰かの呟きが、誰もが微動だにせずモニターを見つめて静まり返った所内に、ぽつりと響いた。
ああ、正解だったのだ——そう痛感する。
ウイングヒーロー・ホークス。その高潔な志。まっすぐにのびる背中。圧倒的な頭脳と個性。揺るぎのない支持率。人々へのたゆまぬ献身と、世界への貢献。
あの猛禽の瞳が見据える未来を想うたび、あるいはそれに希望を見出す人々の、目の輝きに触れるたび。
ああ、これは間違いなく、正解だったのだと。
あれはあまりに若く、この国の誰より優秀で、その眼前に無数の選択肢の広がる男だ。そんな男を、あとはただ閉じていくだけの終わりかけの男の人生に——何ひとつ残せはしない人間の、地獄へ繋がった道行きなどに、付き合わせてはならない。
だからこれは、だからこれは、正しい選択だったのだ。
自分は彼のため、確かに正しい選択をしたのだ。
* * *
公休日前夜。「どこか寄るかい?」と振り返る車田へ、口が勝手に「スーパーへ」と告げた。特に食材の買い出しなど必要なかったことを思い出したのは、車が動き出してしばらく経ってからのことだ。
今さら「やっぱり寄らなくていい」と訂正するのも億劫で、少しの揺れもなく行きつけのスーパーの駐車場に停まった車から降りる。自動ドアをくぐってすぐのところで箱いっぱいに積まれた特売の野菜たちを眺めながら「何が食いたい」、と後ろに手をのばしかけて、そこには誰もいないことに気付いた。
出入り口でカゴを取るのは自分の役割ではなく、カゴを取ってきた手からそれを受け取るのがお決まりの役目だった。一度引き返してカゴの山から一つを手にしたところで、そういえば、このカゴが必要になるほど買い込むものもないのだった、と思った。
それでも、どうせ時間は持て余すほどあるのだから何か常備菜でも作ろうと、適当に見繕った旬の野菜をいくつかカゴへと入れていく。おひたしや煮物などは、存外古風な舌をしているあいつも喜ぶ。保存用のタッパーに空きはあっただろうか。流れるようにそこまで考えて——いや、と心中だけで首を振った。あの鳥はもう、何も食べには来ないのだ。
——いーにおい……腹減りましたぁ。もうできます? 皿、並べてもいいですか。酒は? 今日は何にします? このラインナップなら日本酒ですよね、やっぱり。
屋敷中に漂いはじめた出汁の香りにつられてふらふらと居間からやってきては背中にくっつき、我慢の効かない幼児のように手元を覗き込んでくることも、もうない。
途中の催事スペースに贈答用の桃が並んでいた。もうそんな時期か。足を止めて、ほんのりと色づいた果実を眺める。桃は毎年知り合いの農家から大量に届くので、自ら金を出して買ったことはなかった。少し冷やして食べたほうが口当たりが良くおいしいと言っているのに、待ちきれないと勝手に手をのばしてその実の柔さに飛び上がっていた姿は、確か昨年のことだ。そういえば、来年は——つまり今年は、白桃を食べさせてやると約束した。
こんなふうに、約束をしておいて守れないまま終わった記憶たちが、とめどなく転がり出てくる。日を追うごとに、いくつもいくつも。
精肉コーナーまでたどり着いて、今晩の鶏メニューは何にするか、と考え、もう鶏にこだわる必要はないのだったと目を逸らす。あれほど時間をかけて物色していた精肉コーナーを素通りした。
——あれ、今日は肉買わないんですか。
——今夜はもうから揚げ用に仕込んである。
——パリパリじゅわじゅわのやつ?
——そうだ。
——やった! あれ好きです、おれ。
——知っとる。
隣を見下ろしても、楽しみだなぁ、と笑う子どものような横顔を目にすることは、もうない。
休日の朝。目を覚ますのは、たいてい自分が先だった。
付き合い始めのころ、どれだけ夜遅くなろうと疲労が色濃く溜まっていようと、決して泊まって行こうとはしなかった鳥を捕まえて白状させたのは、『誰かと同じ空間で寝るのが苦手』だということ。そんな彼がエンデヴァーの腕を枕に静かな寝息を立てるようにまでには、それなりの時間が必要だった。
——朝起きたら人がいるのって、こんな感じなんですねぇ。
起き抜けにそう小さくはにかんだ生き物に心臓を衝かれた初めての朝を、あの衝動を、昨日のことのように鮮明に思い出す。
無意識に隣の体温を探す腕は、何も掴まない。
居間の座椅子に腰掛けて読書をしていると、鳥は必ず脇から頭を突っ込んで、下から表紙を覗き込んできた。そんな彼のために、会計時に店員につけてもらったブックカバーを外しておくことが増えた。
——あ、ジャケ買いでしょうこれ。あなたこういう装丁の本好きですよね。
——この作者このまえも見ました。新作ですよね、本屋にズラッと並んでましたよ。
好奇心旺盛なあの生き物は、エンデヴァーがすでに読み終えた蔵書を読みたがった。ジャンルを問わず。
——どーれーにーしーよーうーかーな。
そうして本棚から一冊を選んだ“速すぎる男”は、本を読み終えるスピードさえも速かった。夕飯の準備をしながら、彼の読み終えた本の内容についてふたりで考察を交わすのが、共に過ごす休日の、一つのルーティンとなっていた。
開いた単行本の文章を、目で追う。そうしていると庭先から羽ばたきの音が聞こえた気がして、本を閉じた。立ち上がって、縁側に続く障子を開ける。梅雨の湿って重たく生温かい空気が緩慢に動いて、立ち尽くしたままのくるぶしをねぶった。
フレイムヒーローの手のひらをドライヤー代わりに使う、世界で唯一の男だった。自分の子どもたちにさえ、この個性をそんなふうに使ったことは一度たりともなかったのに。
——エンデヴァーさん。
文字通り烏の行水の鳥は、いつもエンデヴァーより先に風呂から上がる。遅れること十数分、エンデヴァーが上がったと見るや脱衣所の扉から生乾きの髪のまま顔を覗かせてくるその双眸に、甘えの色が見えはじめたのはいつの頃からだったか。
いっそ憎たらしいほどに優秀で、どこまでも隙のない、限りなく完璧に近い生き物から向けられる甘ったれた琥珀色は、確かにエンデヴァーを有頂天にさせた。「ドライヤーくらい自分で当てろ」と、口にしたことはない。自分に向けて無防備に差し出された頭の下で、剛翼が心地よさげに震えるさまが、時に無性に胸を掻きむしりたくほどに、愛おしかった。
「エンデヴァーさん」
脱衣所で無造作に頭を拭いていると、確かにそう、鼓膜が震えた。がばりと顔を上げ、戸口を振り返る。その視界の隅を、紅がかすめた。
「ホ、」
慌てて廊下に飛び出す。
続かなかった呼び名の形をした呼吸だけが、誰もいない廊下の床板へと落ちた。
テレビをつけて夜のニュース番組にチャンネルを合わせると、九州豪雨についての続報が流れていた。四日間降り続いた雨がようやくやんだと、レポートする現地キャスターの声は明るい。雨がやんだのなら、現場はすぐに復旧作業へと移るだろう。ライフラインの、あるいは住宅の。各避難所への物資の支援もある。洪水から救い出すだけがヒーローの仕事ではない。当面、現地のヒーローたちに息をつく間はなさそうだ。
昨日、映像で見た姿を思い出す。思わずスマートフォンを取り上げてメッセージアプリをタップし——画面を消した。
そちらの様子は。休息はとれているのか。食事は三食欠かしていないか。何か必要なものはあるか。羽が減りすぎている。くれぐれも無茶はするな。周囲を頼ることを覚えろ。——
恋人という関係性のままだったなら、どの言葉でも、エンデヴァーは彼へとかける権利があった。多忙の合間を縫って、速すぎる男からはきっとすぐに返事があっただろう。そうでなくとも、互いの事務所経由で状況を訊ねることだってできた。必要なら、公式に現地入りの要請だってあったかもしれない。
だが、彼との間にそんな繋がりは、もはやないのだ。今はただの、『遠い土地の同業者』。それも、豪雨被害にはろくな役に立たない個性の。
つまり、彼の人生に、エンデヴァーはもうどこまでも、関係がなかった。
* * *
「許さない」
ホークス事務所のサイドキック・ツクヨミこと常闇踏陰は、この国の頂点を極めたヒーローを目の前に、一片の恐れもなくそう糾弾した。
「たとえあの人が許しても、俺はあなたを許さない」
* * *
豪雨による土砂崩れ現場での二次災害にヒーローが巻き込まれたという第一報が流れたとき、ショートは事務所の食堂で昼食をとっていた。ニュース速報のテキストが画面端の二行で伝えたのはその事実のみで、詳細は何も分からない。
そういう現場には地形操作や土砂に強いヒーローが出ているのが鉄則のはずだ。それをもってしても、避難も救助も間に合わなかったということか。にわかに周囲がざわつき始める。ショートは箸を置き、ポケットからスマートフォンを取り出した。
母校を卒業してもいまだ活発に動いている、同期のグループチャットルームは、数日前からぴったりとやりとりが止み、今に至るまで静まり返ったままだ。ツクヨミら九州組の負担を考えて、みな自重しているのだ。
HNをはじめとしてあらゆるメディアをあさったが、一時間前に発生したという被害の詳細は、まだどこにも出ていなかった。どういう規模の二次災害で、巻き込まれたヒーローとは誰で、その安否はどうなのか。いやな想像だけが先行して、ショートは悩んだ末、ツクヨミとの個人チャット欄を起動した。
——〈大丈夫か?〉
既読表示はつかない。当たり前だった。同じような連絡を大量に受けているかもしれない。きっと、いや確実に、向こうはてんやわんやだ。いちいち遠方の、しかも絶対的な安全圏にいる人間からの冷やかしに対応している暇は、彼らにはない。それは分かっている。
でももし——もし今この瞬間に土の中に埋まっているのが、彼や、あるいはホークスだったら?
彼らでないのならば他の誰がそこで犠牲になっていても構わない、ということではない。そういうことではないが、どうしたって、自分たちはヒーローである以前に、ひとりの人間だ。最前線にいるであろう友人たちの無事を祈ることは、何も悪ではないはずだ。
縋るような気持ちで画面を見つめるが、やはり既読はつかなかった。
——ホークスが、
——今朝の土砂崩れに巻き込まれたの、ホークスだって、
——ツクヨミが
福岡行きのフライト時間は、随分と長く感じられた。窓から見える景色は一向に変わらないように思えて、この飛行機は本当にきちんと目的地に向かって進んでいるのか——そんな栓のない苛立ちとともに、エンデヴァーは両手のひらで顔を覆う。
大雨による現地空港での安全確保が難しいとして数日間欠航していたこの路線は、欠航便からの振替でようやくの福岡入りを目指す乗客たちで、いつになく混み合っている。航空便の空きを待つより新幹線のほうが確実かと、目的地を空港から駅へと切り替えかけたエンデヴァーが、最短で発つ便の航空券を確保できたのは、事務所の優秀なサイドキックの働きのおかげだ。
夕方、所長室に駆け込んできた末の息子からもたらされた情報は、にわかには信じがたかった。なぜホークスが、二次災害が起こり得るような土砂崩れの現場に? なぜ速すぎるはずのあの男がそんなものに巻き込まれる。しかし、ホークス事務所のサイドキックでありホークスの右腕であるツクヨミから、ショートが直接聞いた情報だ。虚偽や誤りであるはずがない。問答の時間さえ惜しいと、その足で事務所を飛び出してきた。
それでも、どうか誤報であってくれと願っている自分がいる。
自分の事務所を、部下を、管轄を、職務を放り出して、半ば無理やりもぎ取ったような飛行機に飛び乗って。そうまでして自分が身一つで現地入りして、いったい何をしようというのか。何ができるというのか。そんな自嘲めいた思考が浮かんでは消えるが、今はそれよりも、彼の安否だけが気がかりだった。何ひとつ冷静な判断ができていない自覚はある。あまりにも情けない姿だ。今の自分を見れば、きっとホークスは呆れるだろう。しっかりしてくださいよ、ナンバーワン——そう不遜に笑う声が表情が、はっきりと脳に浮かぶ。そうであってくれ、そう言ってくれと、信じてもいない神に祈った。手足が冷たく冷え切って、引いたままの血の気が戻ってこない。全身の震えが止まらなくて、一瞬でも気を抜くと、この狭い機内で叫び出してしまいそうだった。
悪い想像なら、いくらでもできた。これらが全部、ただの想像ならばそれでいい。とっくに彼は救助されていて、いや実は巻き込まれたなんていうのはただの大仰な表現で、今は安全な場所で相変わらず現場の指揮を採っていて、早とちりの末に突然現れた間抜けな中年に、「はあ、何やってんですか。もしかしてナンバーワンって暇なんですか?」と笑う。「ここまで来たなら、ついでに復旧作業のひとつでも手伝ってってくださいよ」と“あの”エンデヴァーを顎で使って周りが恐縮する中で、「今晩はナンバーワンの計らいで、みんなあったかいものが食べられそうですねぇ〜」とにんまりして。
そうであるならば、良い。いくらでも笑われてやるし、何だって差し入れてやるし、どこまでも使われてやる。
だがもしも、そうでなかったら? 今こうしている間にも、世界は既にあの男を、永遠に失っていたとしたら——
分からないと、ショートは言った。
——巻き込まれたのはホークスだって、ひと言メッセが来ただけだ。それ以上は連絡がつかない。つかまらない。向こうだってバタついてる。今どうなってんのか、全然分からねぇ。救助できたのか、どうなのか、……
ホークスがどうなろうと、その詳細がいち早くエンデヴァーに届くことは決してない。恋人でも、家族でもないただの遠方の同業者が、彼の身に起きたことを知るのなんて、何日も何日も経って、事がすべて終わってからだ。
それを歯痒く思う権利など、エンデヴァーにはなかった。
こういうこともあり得ると分かっていて、その上で手放したはずだ。それでも、自分以外の誰かを——こういうときに彼のとなりで、彼の身を一番に案じる誰か別の存在を得てほしくて、手放した。
何かと不遇な育ちをしてきた彼に、ただ人並みの幸せを手にしてほしかった。自分のような男と一緒では未来永劫手に入れられるはずもないそれを、この先も自分よりよほど長く生きていく彼に、与えたくて。
ホークスはきっと離れていかない。エンデヴァーからその手を振り解かないかぎり。生まれたてに初めて見たものを親と信じてどこまでもついていく雛のように、彼はエンデヴァーを慕っていた。いっそかなしくなるほどの一途さで。このままだとこいつは死ぬまで俺についてくると思った。そう確信して、急に怖くなった。
だから手放した。だから自分から断ち切ったのだ。
お互いに、有事の際は常に最前線で、いつ失うともしれない命。そんなことは分かりきっていた。覚悟していなかったわけではない。あいつの知らないところで俺は死ぬ。それで良かった。それが良かった。
その逆もあり得ると、覚悟していなかったわけではないはずだ。
ホークスは。そう訊ねたエンデヴァーを、病室の扉の前に立ちはだかったツクヨミは、凍てつく瞳で睨み上げた。その全身は頭の先から足の爪先に至るまで、やはり泥とほこりにまみれていて、何日も満足に息をつくことができていない彼らの現状を、ありありと伝えていた。
「あなたには関係ないことのはずだ。なぜナンバーワンが、自らこんなところに? そちらに応援の要請をした覚えはない」
「ツクヨミ!」
そう焦ったように止めに入るのは、彼らの事務所の古株のサイドキックだ。
ツクヨミの言葉にカッと全身が燃えるような怒りを覚えたのは、その通りだったからだ。自分とホークスの関係性を、そして自分が放棄してきた責任を過たずひと言で言い当てられ、視界が赤くなる。怒りで——あるいは羞恥で。だがそれよりも、目の前の小柄な男と、その分身の影のほうが、よほど苛烈な怒りに燃えていた。
「あなたが自分で望んだことだ」
努めて抑えた口調が、彼の隠しきれない激情を孕んで震える。ゆらゆらと、彼の背後で扉の中身を庇うように広がった黒い影が、獣のような双眸でこちらを睨んでいた。「あなたが捨てた、全部」
『ホークスノコト、泣カセタ!』
「ひとりで死ねと、あなたが彼に言ったんだ」
違う。そんなことを、望んでいたのではない。
こういうこともあり得ると分かっていて、その上で手放したはずだ。それでも、自分以外の誰かを——こういうときに彼のとなりで、彼の身を一番に案じる誰か別の存在を得てほしくて、手放した。
彼にただ、人並みの幸せを手にしてほしかった。
——ほんとうに?
「あれぇ? めずらしい人がいる」
そうおかしそうに肩を揺らす、数か月ぶりに直接鼓膜を震わせた声は、至極いつも通りの軽い響きだった。
「いつ以来ですか、あなたが九州に来るなんて。こちらでお仕事でも?」
あてがわれたベッドの上に上体を起こしてそう頭を傾けるホークスの額にはぐるぐるに包帯が巻かれていて、そうでない頬や顎も、大小さまざまな傷だらけだった。病衣の下の身体も、同じようなものだろう。左半身のほうが損傷がひどいのか、左腕は指先まで完全に白に覆われていて、肌の状態を確認することはできない。ただ、手も足も、右も左も、確かにそこにあった。どうか、機能も失っていなければいい、と願う。背の剛翼はほとんど残っていない。周囲の人間の救助に羽を飛ばしすぎたせいで自分が地に落ちて、浅くとはいえ土砂に巻き込まれたというのだから、それも当然だった。
その右腕に繋がった点滴を一瞥すると、目ざといホークスは罰が悪そうに苦笑する。
「やーすみません、ちょっとお見苦しい恰好で。よくここが分かりましたね。まだ結構あちこち混乱してるでしょう、これでもだいぶ落ち着いてきたんですけど」
あなたはいつこちらに? 飛行機とか新幹線は復活したんでしたっけ。ちゃんと帰れますかね。混んでるでしょう、どこも。この時間なら、今晩は泊まりですか? ホテルとれました? 今は避難者のために借り上げとかもしてて、どこもなかなか空きがないと思いますけど。
立て板に水を流すような言葉たちは相変わらずだった。その流暢な声を聞きながら、ベッド脇まで歩み寄って手をのばす。
「触らんで」
硬く小さい、しかし確かな拒絶だった。先ほどまでこちらを見ていたはずの視線は、リノリウムの床へと落ちている。一度とめた手のひらをもう一度頬へとのばすと、ホークスはそれを避けるように、す、と上体を引いた。
「……触らんで」
重ねての、端的な拒絶。
「——嫌いになったか」
目を細めてそう尋ねる。エンデヴァーがまっすぐに見つめる先で、ホークスはがばりと顔を上げた。信じられないものでも見るかのように、今の今まで穏やかだった双眸が見開かれている。
「……なん、で、」
震える唇が、震える声を紡いだ。
「なんで、そんな、……っ」
ひび割れた琥珀の瞳が、ぎっと音を立ててエンデヴァーを睨みつける。
「ずるい……!」
瞬間、その琥珀をぶわりと透明な膜が覆って、ホークスは弾かれたように顔を逸らした。かと思うと、目にも留まらぬ速さでベッドを飛び出した身体が、背後の窓に手をかける。からりと勢いよく開け放たれたそこから裸足の脚がサッシを蹴ろうと踏ん張ったが、繋がったままだった点滴の針と管が引っかかって咄嗟に飛び降りそこねた背中を、小さな翼ごと両腕で抱きすくめた。
全開の窓から、ぬるく湿気た夜の空気が流れてくる。
「ホークス」
「触らんでっ!」
「待ってくれ」
「知らん、知らん、知らん! 知らんもうっ、あな、あなたなんかっ!」
腕の中で、傷と包帯だらけの身体ががむしゃらに四肢と翼を振り回す。発熱しているのだろう、包帯越しにもそう分かるほど熱い身体だった。ろくな大きさもない羽が、それでも最大限の硬度となってエンデヴァーの頬や腕を襲った。小さくとも人肌を刺すには充分に鋭利なそれらがざくざくと肌を裂いて、幾度にも皮膚が切れる感触がある。
「あなた、なんか…っ!」
ホークスが初めて明確にエンデヴァーへと示す、全力の拒絶だった。
——嫌いになったか
「——き、」
きらいだと、言ってしまえれば良かった。
あなたなんか、あなたなんか、あなたなんか。
大嫌いだと。
もう二度とその顔さえ見たくないと、そう、大声でぶつけてしまえるなら、良かった。
ひどい、ひどいと、ホークスは子どものように拙い語彙で、エンデヴァーを詰る。
「ホークス」
「あなたが!」
——もう辞めるべきだ。
あの日、出会い頭にそう、この男は言ったのだ。
ホークスの意見も聞くことなく、ろくな理由も明かすことなく、話し合いもすり合わせも何ひとつするつもりもなく、ただそう言った。
何もかもを決めつけた視線で、口調で。
「あなた、……がっ!」
「ホークス」
「あなたが言った!」
「ホークス、すまない」
雨と泥とほこりと血と消毒のにおいがする首筋に、鼻先を埋める。記憶にある感触よりも随分と骨ばって、薄くなった身体だ。しかし今自らの持てる全力でもってエンデヴァーから逃げ出そうと喘ぐそれを、抱きすくめる腕に力を込めた。
「悪かった」
知らん、聞かん、はなして。ホークスはエンデヴァーの腕を引っ掻きながら、ぶんぶんと首を振って叫ぶ。容赦のないその動きが身体に障りそうに思えて、片手で頭を抱き込み、がっちりと固定した。
「泣かせるつもりはなかった。本当だ、それは嘘じゃない。おまえが泣くとは本当に思わなかったんだ。すまない、悪かった。泣かないでくれ」
腕の中で顔を伏せた身体は、相変わらずガチガチに全身の筋肉を固まらせ、強い強い拒絶を示したまま。その頑なさに、今までいったいどれほど無防備に委ねられていたのかを思い知る。
「おまえのためだと思ったんだ。俺なんぞと付き合い続けるより、ふつうで人並みの幸せを手に入れてほしかった」
「そ、」
「だが違う、違った。そんなのはただの言い訳だ」
建前という名の言い訳。聞こえのよい言葉で自分を納得させるためだけの、建前で固めた逃げ道だった。
「いつかおまえが、俺から離れていくのが怖かっただけだ」
ホークスはきっと離れていかない。エンデヴァーからその手を振り解かないかぎり。そう確信して、急に怖くなった。
——ではいつか、こいつが俺を必要としなくなる日が来たら?
世界を知って、世界を愛して、世界に愛されるこの男の目が外へと向いて、もっと大切なものができて、何より愛するものが他にできて。
俺の存在を、疎ましく思う日が来てしまったとしたら。
「おまえに振られたくなかった」
自分の中で、ホークスの存在が当たり前になるにつれ、そうしてふたりで重ねる思い出が増えていくにつれて。
「それは耐えられんと思った。……それだけは」
だから先に手放した。若人の、未来を案じるふりをして。
聞き分けの良いホークスならば、黙って頷くと分かっていた。それなのに、やはり何も言わず、何も聞かずに頷いて飛び去ったホークスを、恨みさえした。
もしかしてもう既に、俺から離れたくなっていたのではないかと。俺が決死の心地でした申し出は、こいつにとって渡りに船だったのではないかと。
「……信じられん……」
ホークスが茫然とつぶやく。
「しかもその上で俺は、こうして謝ればおまえは許してくれるんじゃないかと思っている」
「……うわ」
心底ドン引きです、という色を隠さない声で、ホークスはエンデヴァーの腕に爪を立てていた両手を、シーツへと落とした。
「サイテー、ですね」
腕の檻から抜け出すことを諦めてベッドに座り込んだホークスは、力無くそう詰る。その震える声も身体も、いまだ硬いままだ。
「……あなたって、ほんとひどい。サイテーすぎる、いくらなんでも」
「ああ」
「あなたのことなんて、おれはもうとっくに、好きでもなんでもないかもしれないのに」
「……好きじゃないのか」
「ふつう、もう好きなわけないでしょ、こんな自己中すぎるひと」
「それならまた好きにさせる」
「なんでそんな上からなんですか。どっから来るんですかその自信」
あなたってほんと、自己肯定感が高いので低いのか分からない。
呆れ返ったような抑揚のない声で、ホークスはひとりごちる。その身体を労るように撫でながら、エンデヴァーは包帯のうなじに自らの額を押し付けた。神に祈りを捧げる信者のように。
「おまえは俺がいなくても生きていけるだろう。そんなこと知っている。だが俺は無理だ。無理だった」
そんな当たり前のことに、俺はいつも、すべてを失ってからでなければ気づけない。
「頼む。チャンスをくれ、ホークス」
おまえに何かあったとき、一番に連絡が来るのは俺がいい。
おまえが万一俺より先に死ぬのなら、最期に見送るのは俺がいい。
おまえが最期に呼ぶ名前は、見る顔は、他の誰でもなく俺のものであってほしい。
「お願いだ」
休みの前の夜は一緒にスーパーに行って、休みの朝にはとなりにいて、同じ本を読んで、夜には髪を乾かしてとねだってほしい。
「俺のそばにいてくれ」
もはや今さら、恥も外聞もない。なんの世間体も体面も、おまえの未来にさえ構えない。
ただどうか、俺のためだけに。
「俺と一緒に生きてくれ」