柔らかな夕暮れの日差しが、色づいた紅葉の隙間から差し込んでいた。
その庭の一角に置かれた長椅子に、クラマは静かに腰を下ろしていた。
手にしているのは古びた典籍。風に揺れる髪と袖が、風景に溶け込むように美しい。
その隣では、カイが肩をゆったりと預け、盃を片手に上機嫌で空を見上げている。
ときおり鼻歌まじりに盃を揺らしては、「秋の風はいいなぁ」と呟いた。
言葉を交わさずとも自然な距離にあるふたりの姿は、長く寄り添ってきた者同士の静けさだった。
「こんにちは。お二人とも、ご機嫌いかがですか」
スバルは姿勢を正して、礼儀正しく挨拶をする。
クラマは軽く頷くだけで、視線を本から外さない。
カイは酒を呷りながら、「おう、元気そうじゃねぇか」と笑顔で返した。
その時、ふと――
一枚の紅葉が、クラマの頭にふわりと落ちた。
「……あ」
スバルは思わず声を漏らし、その髪に手を伸ばす。
その瞬間だった。
クラマは、誰の手かも確かめずに、いつもの癖で、そっと伸ばされた手のひらに頬をすり寄せ、目を閉じたのだ。
スバルの指先と、クラマの頬がふれる。
──どくん。
「お、落ち葉が……ついてて……!」
スバルは顔を真っ赤にしながら、慌てて言葉を紡ぐ。
クラマもすぐに我に返り、目を見開いてバッと身を引いた。
「い、今のは違う……っ! 勘違いするな!!」
言葉は強いが、耳まで真っ赤だ。
カイはその様子を見て、くくっと笑いを漏らす。
「……いつもの癖、出てら」
「癖なんてない」
クラマはぴしゃりと返すが、視線をカイにもスバルにも向けようとしない。
カイは酒を置き、耳元に顔を寄せた。
「……ちゃんと人見て甘えろよ」
クラマは肩をすくめてそっぽを向く。
スバルはまだ胸に手を当てたまま、呆然と立ち尽くしていた。
(なんだったんだ、今の……)
紅葉がひとひら、彼の肩にも落ちる。
その小さなきっかけが、静かに――けれど確かに、スバルの恋を芽吹かせていた。
____________
紅葉がひとひら、風に流れて舞い落ちる。
あの夕暮れの光景は、まるで幻のように、何度も頭の中で繰り返されていた。
──落ち葉を取ろうとして、手を伸ばしただけだった。
ただ、それだけのはずだったのに。
クラマさんは、俺の指先にそっと頬をすり寄せて、目を閉じた。
一瞬――呼吸が止まりそうになった。
それは、あまりにも自然な仕草で。
まるでそこに触れられることが、“いつも通り”であるかのように感じた。
あとになって、カイさんが笑いながら言った。
「……いつもの癖、出てら」と。
その言葉が、胸に鋭く突き刺さった。
“癖”ということは、あれは――誰かと重ねてきた、繰り返しの中にある所作なんだ。
誰かと。
……カイさんと、だ。
俺が偶然、入り込んでしまったその場所は、
きっとカイさんだけに許された距離だったんだ。
あの頬のやわらかさも、
赤く染まる耳も、
誰かを安心させるような、静かな甘えも、
全部――俺のためのものじゃなかった。
……それなのに。
思い出すたびに、手のひらが熱を持つ。
あの一瞬を、どうしても忘れられない。
「……クラマさんって、あんな顔もするんだな」
胸の奥で、誰にも届かない呟きが消える。
知らなければよかった。
でも、知ってしまったからには――もう戻れない。
その人の“いつもの仕草”になれるほど、隣にいたのは。
俺じゃなくて、カイさんだった。
その事実が、どうしようもなく、悔しかった。
_____________
秋の社。
広く静かな室内に、囲炉裏の湯気が静かに立ちのぼっていた。
椅子に座るクラマは、膝に典籍を広げ、長い指で静かにページをめくっている。
その姿にはいつものように神としての威厳があったが、室内を満たす空気はどこか柔らかかった。
「こんにちは、クラマさん」
社の扉がそっと開き、スバルが顔をのぞかせる。
彼の手には、いろはにもらった新作の団子があった。
クラマへの差し入れだ。
「お茶も淹れますね。囲炉裏、使わせてもらっていいですか?」
「ああ。茶葉はあそこにある。湯は沸いている。使うといい」
囲炉裏の近くに座ったスバルは、手際よく炭を整え、鉄瓶を持ち上げた。
少しだけ緊張した手つきながらも、道具を扱う様子にはどこか慣れが感じられた。
お茶を出され、クラマは団子をひと口頬張って、満足げに目を細める。
それを見て、スバルが湯呑を手に小さく笑った。
「クラマさん、そんなに団子食べて……太りますよ」
「……俺は何百年と甘味を摂取し続けているが、一度も太ったことはない」
「……神様って、なんでもありですね」
「そういうことだ。よって、これからも甘味の差し入れは遠慮せずしてくれて構わない」
囲炉裏の湯が湯気を立てる。
スバルは湯呑を手にしながら、静かにクラマの横顔を見ていた。
落ち着いた所作。柔らかく流れる髪。うっすらと紅を帯びた頬。
誰にでも等しく向けられる、あの穏やかな微笑。
(……やっぱり、綺麗な人だ)
その時だった。
ガラッ!!!
勢いよく社の扉が開いた。
「クラマー!見てくれ!やっべぇ見た目のキノコ拾った!!」
バカでかい声と共に、カイが派手に入ってくる。
手には、見るからに毒々しい色のキノコ。
「やめろ!そんな物騒なもん持ってくるな!!」
「……あ、でも……なんか手、ちょっと痒いかも」
「今すぐ捨てて手洗ってこいバカ!!💢」
「わーってるって!」と笑いながら引き返していくカイを、クラマは眉を寄せて睨みつけていた。
……けれどその顔には、呆れたような、それでいてどこか嬉しそうな笑みが滲んでいた。
スバルはその変化に、はっきりと気づいた。
クラマが本当に楽しそうに笑ったのは、今日ここで初めてだった。
怒っているはずなのに、声も目もどこか柔らかくて――
(……ああ、違うんだ)
どれだけ近くにいても、ああいう顔は、きっと自分には向けられない。
スバルは湯呑を少しだけ傾け、唇を濡らす。
熱くもないのに、胸の奥が少しだけ、焦げるように痛んだ。
カイが手洗いに行っている間、スバルはふと口を開いた。
「クラマさんって……カイさんと、付き合ってるんですか?」
クラマの手から、団子の串がするりと滑り落ちた。
机の上に、静かに転がる。
音はなかった。けれど、空気が揺れた気がした。
「な、なにを急に…!」
いつもはどんな問いにも冷静なクラマが、珍しく声を上ずらせる。
不自然なほどの反応――それが、何よりの答えだった。
スバルはふっと微笑む。
「やっぱり。そうじゃないかと思ってたんです」
「最近のクラマさんの表情とか……俺と話すときとは違う顔してた」
「……俺は、別に……」
言いかけて、クラマは言葉を失う。
目を逸らし、視線を泳がせるように俯いた。
「いつからですか? 俺と出会うより、ずっと前からですか?」
少し間を置いて、クラマは息を吐いた。
「いや……ほんの数ヶ月前だ。急に、というわけでもないが……気がついたら、そうなってた…みたいな」
気恥ずかしそうに呟き、目を伏せる。
スバルはその言葉に、ただ黙ってうなずく。
そして湯呑を置いて、ぽつりと呟いた。
「……俺の方が、出会ったのは遅いですけど」
その声はかすかに震えていた。
「カイさんに、横取りされた気分です」
クラマは、返す言葉を持たなかった。
スバルは俯いたまま、小さく息を吐く。
「……こんなことになるなら、神輿からクラマさんを出さなきゃよかったな」
それは独り言のようで、けれど――どこまでも本音だった。
囲炉裏の湯が、ぱち、ぱち、と音を立てる。
その音だけが、二人の間を満たしていた。
「スバル……それは、どういう」
「……あれ、やっぱやべーキノコだったわ」
とぼけたような声と共に、扉が開く。
手洗いを終えたカイが、のんきな顔で戻ってくる。
その瞬間――
スバルはスッと立ち上がり、カイの前に立った。
顔はいつもの笑み。だが、瞳の奥には確かな意志が灯っていた。
すれ違いざま、スバルはカイに囁く。
「もう、静観するのも飽きてきたんで――俺、そろそろ動きますよ」
その一言を残し、スバルは本殿を後にする。
「おい!スバル!……なんだ???」
カイが勢いよく呼びかける声が、秋の社に残った。
けれど、返事はない。
その背中が扉の向こうに消えたあと、カイはわずかに眉をひそめた。
「……変なヤツだな」
そう言いながら本殿へ戻ると、クラマはすでに典籍に視線を戻していた。
「なんかあったのか? あいつ、妙にピリついてたぞ」
「さあな。……虫の居所でも悪かったんじゃないか」
「……まあ、そんな日もあるか」
______________
秋の社・外の将棋場
クラマは将棋盤の隣に腰掛け、膝に典籍を広げていた。
穏やかな夕暮れの陽射しが、紅葉を透かしてページに模様を落とす。
風が吹けば、色づいた葉がさらさらと音を立てる。
そこは誰にも邪魔されない、静かな時間の中。
そんな中――
クラマは典籍を膝に乗せ、長い指でゆっくりと紙をめくっていた。
ページの端には古の文字が記され、ところどころに注釈が書き込まれている。
その背後に、ふと気配が差した。
「……あ、それ。俺も気になってたやつです」
肩に、軽く手が置かれる。
スバルがすっと身を屈めて、クラマの肩越しに本を覗き込んだ。
「……っスバル… 驚くだろ、背後からは…」
一瞬、クラマの肩がわずかに強張ったが、振り払うことはなかった。
スバルの視線はまっすぐ本の内容に向けられており、あくまで興味はそこにあるという素振り。
「……これは“旧アズマ神紀”の写本だ。
もとは根の国の文庫にしか残っていないと思っていたが……」
「じゃあ、それがここにあるってことは……クラマさんがどこかから持ってきたんですか?」
「ああ。数十年前に、ある古道具屋から譲り受けた。……偽物かと思ったが、構文と製本技術を見るに、当時のものに間違いない」
肩越しに話すクラマの声には、どこか誇らしげな響きがあった。
スバルも頷きながら、その距離を縮めるでも広げるでもなく、自然に保っていた。
「なるほど……。文字の癖も、確かに旧書体ですね」
そう言いながら、スバルの指がふとクラマの指に触れた。
だがクラマは無反応で、本をめくる手を止めることはなかった。
(……やっぱり。クラマさんは“本を読む相手”には優しい)
その事実が、少しだけ切なくも、どこか誇らしかった。
スバルはしばらくのあいだ、クラマの背後から肩越しに覗き込むようにして典籍を読んでいた。
けれどその姿勢も長くは保たず、やがて少し身を引いて、静かに声をかけた。
「……ちょっと、失礼します」
クラマがわずかに顔を上げる間に、スバルはその隣に腰を下ろす。
今度は、肩が触れるほど近くに。
ふたりで一冊の典籍を見つめながら、同じ時間を共有する。
風が一陣吹き、ページをふわりとめくった。
「……読みにくくないか?」
「いえ、むしろ読みやすいです」
クラマは小さく頷き、何事もなかったようにページを戻す。
――こうして並んで読むだけで、
自分の心がこんなにも騒がしくなるなんて。
スバルは、胸の奥にうずくような熱を覚えながら、静かにその文字を追っていった。
そのまま、しばらくのあいだ二人は言葉少なに典籍を読み進めていた。
スバルが時折質問を挟み、クラマが要点を補足する。
淡々としたやりとりの中にも、どこか穏やかな空気が流れていた。
やがて、一段落ついたところでスバルが本から目を離して言った。
「教えていただき、ありがとうございました。気にはなってたんですが、正直、独りで読むには難しそうで……クラマさんと一緒に読めてよかったです」
クラマは本を閉じ、スッと眼鏡を指で押し上げる。
「そうか。役に立ててよかった」
スバルは小さく笑い、ふと視線を将棋盤へ移した。
「……休憩に、将棋でも打ちませんか?」
自然な誘い。
けれどその声には、ほんの少しの期待が、確かに滲んでいた
もっと長く、この時間が続けばいい。
この静かな距離のままでも、もう少しだけ隣にいられたら。
秋の里・入り口
根の国から秋の里へ足を踏み入れたカイは、大きく背を伸ばしながら深く息を吐いた。
「ふぁ〜〜っ!やっぱ地上は空が広くて気持ちいいなぁ」
手には3本の酒瓶。根の国で手に入れた、なかなかの逸品だ。
陽気な足取りで里へ戻る途中、通りすがりの若い里民が声をかけてきた。
「カイの旦那!おかえりなさい!」
「おう。お前は仕事の合間か? 無理すんなよ」
「へへっ、ありがとうございます。あの……もしかして、今から秋の社に?」
「ああ。いい酒が手に入ったんでな。クラマにも飲ませてやろうと思ってよ。――ほら、お前にも一本やる」
そう言って、もう一本の酒瓶をポンと手渡す。
「えっ!いいんですか!? ありがとうございます!……あ、そういえば」
「ん?」
「クラマ様なら、さっきから将棋場で舞手様とご一緒ですよ。なんだか、すごく楽しそうにしてました」
「……は?」
カイの足取りがぴたりと止まる。
「スバルと二人で?」
「はい。本を読んだり、将棋を指したり……なんかいい雰囲気でしたよ」
「……そうか」
穏やかに返したつもりだったが、口元がぴくりと引きつるのを自分でも感じた。
「……見てくるわ」
その言葉とともに、歩幅がわずかに速まる。
数歩進んだ先で――脳裏をよぎるのは、あの時のスバルの言葉だった。
『もう、静観するのも飽きてきたんで――俺、そろそろ動きますよ』
軽口じゃなかった。あれは本気だった。
本気で、クラマを――
(……あの野郎)
胸の奥がざわつく。
クラマは“誰のもの”でもない。でも、だからって他の誰かに奪われるなんて想像したこともなかった。
(余裕かましてる場合じゃねぇな……)
手にした酒瓶が揺れて、カラリと乾いた音を立てた。
秋の社・外の将棋場
将棋場では、クラマとスバルが盤を挟んで静かに座っていた。
そこへ、ざっ、と落ち葉を蹴る音とともに足音が近づく。
「よう。楽しそうだな。俺も混ぜてくれや」
豪快な声とともに、カイがクラマの隣にドンと腰を下ろす。
勢いに押されて、クラマの肩がわずかによろけた。
「! おいっ……」
気にも留めず、カイは片肘を将棋盤に乗せるように突いた。
その拍子に、綺麗に並んでいた駒がバラバラと崩れ落ちる。
「……っ、ああもう。せっかく読み合ってたのに……」
「おう。スバル、俺と勝負するか?」
「……それは将棋で? それとも――」
スバルは目を細め、ふっと笑みを深める。
その瞳は、はっきりと挑戦の色を宿していた。
「もっと別の勝負、ですか?」
一瞬で空気が張り詰める。
カイの口元がわずかに引きつった。
「どっちでもいい。俺が勝つ。それだけだ」
盤上には、目に見えない火花が散る。
だがその中心で、クラマは一人、ため息をついて散らばった駒を拾い集めていた。
「帰ってきて早々、お前は本当に騒がしいやつだな……駒、拾え」
スバルはカイを見ながら、手に取った駒を丁寧に並べ直していく。
そして、わざと肩をすくめながら言った。
「……勝ちたいのはわかりますけど、盤を壊すのは反則ですよ」
その瞬間、カイの目が鋭く細まる。
「俺がいない間、随分と楽しそうだったみたいだな、スバル」
「……“鬼の居ぬ間に洗濯”ってやつですよ」
その口元に浮かぶ笑みは、皮肉と挑発が混じった、明確な敵意のサインだった。
クラマは空気の変化に気づき、静かに立ち上がる。
そしてカイの袖をつまみ、将棋場の奥へと誘った。
木陰の中、人目から少し離れた場所で、クラマが問いかける。
「……お前、スバルと喧嘩でもしてるのか?」
「はぁ? してねぇよ」
「さっきのはどう見ても、ただの将棋勝負には見えなかった。“勝つ”って、何に対してだ?」
カイは言葉を詰まらせる。
「若い奴に喰ってかかるな。お前が“大将”気取ってるのは知ってるが、年長者としての余裕くらい見せてやれ」
穏やかな口調。
だがその真っ直ぐな眼差しに、カイは胸の奥を押されるような感覚を覚えた。
「……ああ、わかったよ」
頭をかきながら、ふいっと目を逸らす。
拳には、力が入っていた。
(――おまえが鈍いからだろ。少しくらい、気づけよ)
言えない苛立ちを噛み殺して、ぼそりと呟く。
「……ま、スバルがうぜぇだけだ。ちょっかいかけてきたのは、あっちだしな」
どこか苦しげなその声に、クラマはじっと視線を落とす。
「……頭、冷やしてくるわ」
それだけ言い残して、カイは踵を返す。
向かう先は、ヤチヨの居酒屋。
その足取りには、ほんの少しだけ重さがあった。
「……後で、俺も行く」
そう呟くクラマに、カイは振り返らず、ひらりと片手を挙げて応えた
静けさが残る中――
ふいに後ろから足音が近づいてきた。
スバルが、いつもの無邪気な笑顔で駆け寄ってくる。
「クラマさん、続きをやりましょう! 駒、もう並べておきましたから」
そう言って、自然な仕草でクラマの手を取る。
まるで何事もなかったように――
そう振る舞うための、精一杯の明るさだったのかもしれない。
だが、その瞬間。
「……スバル」
クラマは立ち止まり、ふと視線を落とす。
その目は、どこか遠くを見るように、わずかに陰を帯びていた。
「……すまない。手を……離してくれないか」
スバルが、驚いたように目を瞬かせる。
「……あいつの、カイの……嫌がることは、あまりしたくないんだ」
「悪いな。あいつ、すぐ拗ねるんだ。子供みたいなところがあるからな……」
その声は静かで、優しく――
けれど、確かに“線”を引くものだった。
クラマの手から、スバルの指がそっとほどかれていく。
触れ合っていた温度が、名残惜しく空気に消えていく。
スバルは、ふっと笑った。
それは照れ隠しのようでもあり、どこか諦めの滲んだ笑みでもあった。
「……俺、片付けたら、そろそろ帰ります。
カイさんのところ、行ってあげてください」
クラマはその言葉に、しばし黙したままスバルの手元を見つめる。
そして――
「……そうか。では――頼むな」
一歩、スバルが離れようとした、その時。
「……今日のお前との時間、俺は気に入っている。特に、典籍を一緒に読んだあの時間はな」
その言葉に、スバルの足がぴたりと止まる。
「――静かで、心が穏やかだった。……ありがとう」
スバルは振り返らず、けれど肩越しに、小さく手を上げて見せた。
「……また、あんな風に読めたら嬉しいです」
クラマは、その背に向けて、微かに笑んだ。
「……ああ。またいいのを仕入れておく。いつでもこいよ」
将棋場に一人残ったスバルは、静かに盤の前に座り直した。
駒を打つ。
まるで、心の中を整理するように。
数分ほど、ひとり静かに手を動かしていると――
背後に、気配。
「……おい」
「……カイさん」
顔を上げると、そこにはカイがいた。
真っすぐな視線で、スバルを見据えてくる。
「スバル……お前の、あいつに対する気持ちは分かった。
分かった上で…言わせてもらう」
カイの声は静かで、真摯だった。
「頼む。……諦めてくれ」
少しの沈黙ののち、カイはゆっくりと頭を下げる。
深く、深く、地に届くほどに。
「……あいつ、お前のことは大事に思ってる。
だからこそ、ギクシャクさせたくねぇんだ。……この通りだ。それと…これは俺の勝手な事情だが、やっとなんだ。やっと俺の方を向いたんだ…頼む」
風が吹く。
木々が揺れ、紅葉がさらりと落ちる音だけが、将棋場に静かに響く。
頭を下げたままのカイと、それを見下ろすスバル――
やがてスバルは、ふっと笑った。
皮肉ではない、悔しさと情けなさ、どうしようもない思いが混ざった、静かな苦笑。
「……まいりました」
ぽつりと漏らして、視線を落とす。
「クラマさん、言ってくれたんです。
“あいつが嫌がることは、あまりしたくないんだ。悪いな”って」
そっと握っていた駒を、盤の隅に戻す。
「拒まれたわけじゃないんです。怒られたわけでも、責められたわけでもなくて。
ただ、当たり前のように――カイさんのことを、最優先にしていた」
スバルの目には、静かな諦めが滲んでいた。
「俺の気持ちを否定せずに、けれど……入れてもらえないって、ちゃんと分かる言葉でした」
ゆっくりと息を吐く。
「カイさんのことも、俺なりに見てきましたよ。
里のみんなに慕われて、強くて、器が大きくて……
それでいて、誰よりもクラマさんを大事にしてる」
ふっと、少しだけ笑って肩を落とす。
「そんな人に、敵うわけないですよね。
押せばいける、なんて……本当に、若気の至りでした。
“優しい人”だからこそ、勘違いした。
でも――その優しさに甘えた俺が、間違ってたんだと思います」
そして、駒台にそっと手を添える。
ゆっくりと身を乗り出し、深く、頭を下げた。
「……投了です」
その声は、静かで、穏やかだった。
潔さでも、諦めでもなく――
たったひとつの、正直な敗北の証。
秋の風が、やわらかく通り過ぎるなか。
社の外に、慌ただしい足音と共に、里人の声が響いた。
「クラマ様! カイの旦那と舞手様が……!」
何かが起きたことを察し、クラマは顔をしかめながら将棋場へと急ぐ。
(揉めてるんじゃないだろうな…)
そこに広がっていたのは――
ちゃぶ台代わりの将棋盤を前に、酒瓶を片手にくだを巻く男二人の姿だった。
「……あんな男らしいこと言われたら、引くしかないじゃないですか!」
「引いとけ引いとけ〜! 俺様くらいだぜ? あの天狗と付き合えるのはよぉ!」
「なんだと〜!」
「あんなめんどくせー奴、お前にゃムリムリ〜!」
「いけます〜! 俺でも大丈夫です〜!」
「無理で〜す。あいつな、新作のゲームが出たらよ、クリアするまで風呂も入らねぇし、寝もしねぇし、飯も食わねぇぞ? 毎回俺が抱えて風呂まで連れてってんだぜ!」
「え〜……めんどくさ〜い。くさ〜い」
「だろ〜? ひでぇんだよ。俺が暇でちょっかいかけたら怒るくせに、俺が別のことしてて構わなかったら、めっちゃ怒るんだぜ? 理不尽だろ〜?」
「え〜かわいそうカイさん」
「殴られたり蹴られたりもするしよ〜」
「でも、俺にはそんなことしてこなかったし、優しかったんですよ」
「それはな、格好つけてんだよ! プライドが夏の里の火山より高ぇからな? わかるだろ?」
「わかりますわかります」
「俺も苦労してんだよ〜……まぁ、そこが可愛いところでもあるんだけどよ〜」
「え〜普通惚気ます? 気ぃ使ってくださいよ〜」
「いいだろ〜惚気させろや〜!」
「いやですよ〜! 傷心のやけ酒中なんですからぁ〜!」
「頼むって〜! 俺だって惚気てぇんだよぉ〜聞いてくれよぉ〜」
スバル「ははは、少しだけならいいですけど〜」
「お前はな〜、優しいけどな〜、まだまだだ! あいつはツンが強すぎて、付き合うには根性と体力と包容力がいるんだよぉ!! いいか、あいつは見た目クールだろ? でも本当は――」
「クラマは――!!」
その瞬間、カイの頭が後ろからがっちりとホールドされた。
「……何をしている、お前たちは」
低く、怒気を孕んだ声が落ちる。
「あは〜飲んでました⭐️」
「将棋盤の上で飲むな!!」
「ぐ、ぐるじぃ……ヘッドロックは落ちる…」
「余計なことをもう言わないと誓うなら、離す」
しぶしぶ片手をゆっくり上げるカイ。
クラマは渋々、その腕をほどいた。
「ゴホッ……な? 抱きしめられちまったぜ……こいつ、俺のこと好きだからよ……ゲホッ」
「そんな抱擁こわい……」
そんなふうに言い合いながらも、二人はそのまま並んで眠りこけてしまった。
――夕暮れの空が、濃く染まり始めたころ。
静かに足音が近づく。
「クラマさん……スバルとカイさん、酔いつぶれちゃったんですか?」
現れたのはカグヤだった。
「そうなんだ。困っている。カイはその辺に放っておいても問題ないが、スバルに風邪をひかせるわけにはいかんからな」
「では、私が連れて帰ります」
「……どうやって?」
「え? こうですけど」
そう言うと、すやすやと眠るスバルを――
まるで羽毛のように軽やかに、ひょいとお姫様抱っこ。
「……あ、あぁ」
「では、また」
そう言い残して、茜色の帰り道を静かに歩き出す。
クラマは、その小さな背をしばし無言で見送っていた。
傍らでは、カイが大の字になって豪快に寝息を立てている。
西の空に沈みかけた陽が、ゆっくりとあたりを茜に染めていく。
風が、少しだけ冷たくなっていた――。
……しばらくして、クラマは静かにしゃがみ込んだ。
膝に手をつき、豪快に寝転ぶカイを見下ろす。
「……さて、こいつをどうするか」
幸せそうに寝息を立てるその顔とは裏腹に、身体は分厚く、完全な筋肉の塊。
クラマは一度、ふぅと深く息をつくと――そのまま腕を差し入れて持ち上げようとした。
「…………っ、重っ……!!」
腰に力を入れ、息を止め、全力で持ち上げるが――
「……動かん。無理だこいつ……!」
ぐらりとよろけて、その場にへたり込む。
「……なんなんだこの男は。脳みそは軽いくせに……筋肉だけ無駄に詰め込みやがって……」
ふと、カグヤがスバルを軽々と抱き上げた姿を思い出し、クラマは自分の両腕をじっと見つめた。
「……やっぱり無理だな。置いてくか」
そうぼやいて、立ち上がると、ため息をひとつつきながらヤチヨの店のほうへと歩いていく。
茜に染まった空の下、カイは豪快な寝息を響かせながら、大の字で眠り続けていた。