湿っぽいやつカイ…お前に会うのが、怖かったんだ──
秋の里に、俺は台風を呼んだ。
里民たちが大切に育ててきた田畑も家も、風と水に流された。
秋の神として深刻な水不足を解消するため……とはいえ、俺は“壊す”という選択をしてしまった。
そして、奪ったんだ。
大切なものを──
ずっと大切にしてきた──その民たちの信頼を。
俺は、信じてくれていたはずの人たちから、見限られた。
自分で選んだ結果だ。
だから責任は受け入れる。後悔もした。
けれど、他に手立てはなかった。
俺には、他のやり方が思いつかなかったんだ。
……悩んでいたとき、カイはずっと俺のそばにいてくれた。
あいつなら、きっと力になってくれただろう。
……でも、俺は相談しなかった。……いや、できなかった。
ここは俺の里だ。
責任は、俺ひとりで負うべきだと思っていた。
……もしカイまで巻き込んでしまったら、
アイツまで里民たちに白い目で見られる
そんな未来は俺がいちばん見たくなかった。
せっかくカイが気に入ってくれた秋の里を、
めちゃくちゃにした俺を見たら──
きっと、カイにも嫌われてしまうかもしれない。
あいつにまで嫌われたら、俺は──
(カイ)
ウラに負けて逃げてきたこの場所は、
俺にとっては、居心地がよくて──気に入っていた。
俺みたいな者も、黙って受け入れてくれる。
そんな、優しい里だった。
……そんな里に、今、凄まじい風が吹いている。
木々は薙ぎ倒され、田畑は洪水に流され、
空は、ただ重く、黒く、沈んでいた。
「……決めたんだな」
そう呟いた声は、自分でも驚くほど静かだった。
クラマが悩んでいたことは、気づいていた。
どうにか助けてやりてぇって、思っていた。
けれど──俺には、何もできなかった。
何も言えなかった。
だから、あいつも頼ってこなかったんだろう。
相談なんか、一度もされてない。
……根の国から逃げて鬼としてもこんな中途半端な俺じゃ、
あいつにとっちゃ、頼れる相手になんて見えなかったよな。
降り続く雨は、冷たいはずなのに、どこか心地よかった。
まるで、ずぶ濡れのままなら悲しみもバレずに済むようで──
カイはただ、淀んだ空を見上げていた。
どこかで──
クラマは、きっと悲しい顔でこの台風を起こしているんだろう。
……その隣に、いてやりたかったな。
(クラマ)
どうか、誰も傷つきませんように。
……たとえ、それが俺のせいだったとしても。
雷鳴が響く中、
クラマはただ一人で祈っていた。
壊してしまった信頼も、
手放してしまった温もりも──
すべて、戻らないと知っていても。
「きっと、里民は分かってくれる」
……そんな都合のいい考えだったんだ。
祈りは風に消える。
どこにも届かず、どこからも返ってこない。
耳を打つのは、容赦ない雨音だけ。
──カイに、会いたい。
会って、慰めてほしいなんて……
肯定してほしいだなんて、思ってはいけないのに。
「俺でもそうするぜ」
「また立て直せばいいだろ! 俺とお前と、里民たちで!」
──あいつなら、そうやって、
軽々しく笑いながら言ってくれただろうな。
……その明るさに、いつだって救われていたのに。
けれど──
その逆の言葉が返ってきたらと思うと、
怖くて、会う勇気が出なかった。
その声が、聞きたいのに、
もし──
「なんであんなことをした」と、責められたら。
「お前のせいで」と、否定されたら。
──その瞬間、自分の心が壊れてしまいそうだった。
怖かった。
あの明るさが、もしも自分を拒む刃になってしまったら。
それが、何よりも恐ろしかった。
数日後水不足は解消された。
だが、里民たちからは「守ってくれない神」と呼ばれ、
彼らとの関係も、次第に途絶えていった。
カイも、もう訪ねては来なかった。
……俺が起こした台風は、
風だけじゃなく、
俺の心まで──ざわつかせた
(カイ)
秋の里に台風が起きた数日後、
水不足は解消された。
──田畑なんぞ、また一からやり直せばいい。
逆に、水がなけりゃ育ちようもねぇんだから。
けど、俺は──
肝心な時に、あいつの支えになれなかった。
誰よりもこの里を大事にしてきたのは、クラマだ。
それを、自分の手で壊す決断を……
たった一人で、させてしまった。
……不甲斐なかった。
なんて会いに行けばいい?
「すげぇ台風だったな!」
「大変だったな!」
──違ぇだろ。
クラマに会ったときに
何を言えばいいのかが分からなかった。
かける言葉が見つからなかった。
だから……会いに行けなかった。
「……俺がなにもできねぇから、
あいつに全部、一人で背負わせちまった。
あいつはいつだって、自分のことより人の心配ばっかして……」
カイは拳をぎゅっと握り、震える息を吐いた。
「神って……なんだよ……。
なんで俺なんかに、神だなんてもんをよこしたんだよ……。
守ってやりてぇ奴すら、守れねぇのに……」
──それからまた、数日後。
カイは、意を決して秋の社へ向かった。
「おーい、クソ天狗。へこんでんのかぁ?」
そう呼びかけながら扉を開けると──
……そこに、クラマの姿はなかった。
「……どっか、行ってんのか?」
しばらく待ってみたが、帰ってこなかった。
数年たった今でも姿を現さなかった。
あいつは、もう……
ここには、いねぇのかもしれない。
俺が怖がって、
何も言えなかった──
ほんの一瞬の臆病さが。
……それが、
もう一生届かねぇ距離を作っちまったんだとしたら。
取り返しのつかねぇことって、
こんなふうに、静かにやってくるんだな。
気づいたときには、
ただぽっかりと空いた穴が、心に残ってる。
──そして、龍星崩落が起きた。
神威は日に日に薄れていく。
このままアズマが滅びちまったら──
クラマには、もう……二度と会えないんだな…。
秋の里には、あいつがいた頃の風は、もう吹かない。
それでも何度も社に足を運んだ。
ある日、棚の奥でふと見つけた箱。
中には──昔ふたりで遊んだゲームがしまわれていた。
あの日、俺がふざけて壊した、あのゲーム機も。
「……なんで、こんなの取ってんだよ……」
懐かしい、と思った。
けれど、その感情がひどく苦しくて──
思い出せば思い出すほど、
「もう、ここにはいない」ってことを、
認めさせられる気がした。
懐かしさなんてクソくらえだ。
そんなもんにすがったら、もう終わりだろうが──!
……そう吐き捨てた瞬間、
社の中が、いっそう静かになった気がした。
どこからも風は吹かない。
ただ、薄く積もった埃が、宙に舞っては、すぐに落ちる。
――重い、沈黙。
誰もいないこの空間に、俺の声だけが滲んで消えていく。
しばらく、何も言えずに立ち尽くして──
それから、ぽつりと名前を落とした。
「……クラマ」
ただひとつの名。
耳に馴染んだ、呼び慣れた名だった。
けれど返ってくるのは、無音だけだった。
笑い声も、毒舌も、皮肉も──何もない。
静けさが、残酷なほど澄んでいて、
その名を呼んだ自分だけが、まるで取り残されたようだった。
どこにも行けず、
どこからも来てくれず、
この場所にあるのは、あいつの不在だけ。
──そんなの、認めたくなかった。
懐かしさに踏み込んだら、戻ってこれねぇ気がした。
あの日から、ここは──“戻る場所”じゃなくなった。
あいつと……クラマと、帰ってくる場所だ。
だから……もう、こんな空っぽの社に用なんてない。
だから、俺はもう迷わねぇ。
「次は俺も、一緒に背負う。だから……どこにいたって、必ず見つけ出す。クラマ──お前を、迎えに行く」
それから50年後──春の里では、ひとりの青年が姿を現していた。
大地の舞手。
彼はまだ知らない。
その小さな舞が、五十年ものあいだ凍りついていた風を、再び動かすことになるとは──