ポケットの中で はぁと吐いた息が白い。
季節はすっかり冬。夜も八時をまわり、尚更骨身にこたえる寒さだ。
俺は目の前のインターホンを何度か連打した後、空気の冷たさに耐えきれず、またすぐに指先を上着のポケットの中へとしまった。
「はーい」
扉の奥から、バタバタと走ってくる音が聞こえる。この数秒さえ待ち遠しいのだから、我ながら彼の事が好き過ぎるな、と思う。
「うるさいよ。いらっしゃい」
「ばんはー」
扉が開いてすぐ、毎度おなじみの叱りが俺を出迎えた。困ったような嬉しそうな――なんとも表せない、大好きなミカドくんの表情と共に。
彼に招き入れられるのも待たず、我が物顔で玄関のたたきへと上がった。一歩踏み入れると、すぐに優しい香りがふんわりと鼻先をくすぐる。この香りを嗅ぐといつも、ミカドくんちに来たな、という感じがする。
「さむ~」
身を縮こませる俺を眺めながら、ミカドくんが扉の鍵を閉めた。
横着がって、俺はポケットに手を突っ込んだままスニーカーの踵に反対のつま先を掛ける。いちいちしゃがみこんで靴を脱ぐのが面倒だからだ。
「? ……あれ?」
「ん?」
「さっきまで、ずっと外にいたの?」
「? おー。外撮影してから直で来たけど」
「……そっか。ネモ」
「なんよ」
靴を脱いで呼び声に顔を上げると、突然、ポケットにミカドくんの両手がするりと入り込んでくる。
「んえ、なになになに! 急に! ちょおミカドくん!」
いつもの癖でやってしまう、動画映えする派手なリアクション。もしや何かのドッキリか? などと考えての事だ。
「ふふ。や、別に。ただ匂いがひんやりしてるなって思ったから、触りたくなっただけ」
俺の大きな声に、ミカドくんは楽しそうに笑う。……この反応を見るにどうやら、ドッキリではないらしい。何の事はない、恋人同士のいちゃつきだ。
「――……手冷たい。風邪ひかないように気を付けなよ」
彼の熱い両指が、俺の冷たい指先をにぎにぎと揉んで温める。
「っ……」
――上げられた口角。覗く八重歯が、可愛い。
こんな事を自然にしてくるから、このひとに会うとらしくもなくドキドキする。
「……。あっ」
突然大声を漏らして、無理矢理意識を逸らす。ミカドくんがびくりと肩を揺らし、目を瞬かせた。
「も、もしかして今の撮れ高だったんじゃね しまったー誰かカメラ担当連れてくりゃ良かった」
『清純派配信者のみかどが、急に相手の指を握って優しい言葉を囁く』――俺でさえドキドキしたのだから、そんな動画は多分、ミカドくんのファン達なら絶対見たい動画に違いない。
半ば緊張をごまかす為の嘆きだけれど、実際動画に出来れば儲けもの。俺とした事が、ドキドキに引っ張られて危うく撮れ高を見落としかけた。
「俺が片手で撮るでも良いな! ドア開けるとこからもっかいやろうミカドくん。ショートにする」
「えー? する程かな?」
百面相を繰り広げる俺に、ミカドくんは苦笑を漏らしつつも首を傾げる。どうやら今のは、ミカドくん的には素でやった事の様子である。流石だ。
「ミカドくんのガチ恋勢は釣れる! ……あー、それにオタクら、俺らが仲良くしてんのも喜ぶじゃん?」
ミカドくん単体の人気があるのは言わずもがなとして、こうした人気配信者同士の絡みは元々伸びる傾向にある。特に俺達二人の発信は(仲がいいと認知されている事もあり)比較的いつも伸びが良い。だからチャンスがあるなら積極的に活用していきたい、というのも紛れもない事実なのである。
……まあ、距離が近いだとか触ってるのがどうのとか、そういうよく分からないコメントばかりではあるのだけれど。なんにせよ、男友達としての普通の絡みもいちいち大騒ぎしてくれるから、使い切りのネタとしてはコスパが良い。
「これぐらい普通の友達だって出来るだろ。特に俺とネモなんか、年齢的には兄弟みたいだって言われる時もあるぐらいなのに」
「『これぐらい』でも数字になるのがミカドくんレベルの配信者じゃんか! 使えるモノは使ってこうぜ」
「そうだけど……。……いや、こういう距離の近いスキンシップは俺達だけの秘密。だからだめ。な?」
「……ちぇー」
思い直したらしい彼に諭されてしまえば、大人しく引き下がる他無い。
ミカドくんが嫌なら撮る訳にはいかないし、大体、数字に関してはミカドくんの方が正義だ。仕事でもプライベートでも、彼の言う事は素直に聞いておいた方が面白くなるのは経験則である。
俺の指いじりに満足したのか、上着のポケットからミカドくんの手が引き抜かれる。
(…………)
離れるとそれはそれで、なんだか少しだけ物寂しい様な気もする。……なんて感傷に浸ったのも束の間。
「今日は美味しいピザとワイン用意してあるよ」
彼の一言で、俺の思考は一瞬で食欲に支配された。
「まじで? 食う! コーラは?」
「あるある。ほら、行こう」
思い切り顔を綻ばせた俺と似たような顔をして、ミカドくんが俺の背を軽く押した。
「で、食べながら雑談配信でもしようよ」
更にダメ押しの提案に、俺の目は一気に見開かれる。
なんだ、ショートよりよっぽど満足感のある楽しみを考えてくれてるんじゃないか。やっぱり、ミカドくんの言う事には素直に従っておいて損は無いらしい。
「まじで よっしゃあああ ミカドくんとの配信久しぶりじゃね 腕が鳴るわ」
「頼むから、危うい事は言うなよー。子供にも聞かせていい発言だけな」
「船長くんに任せとけ!」
「不安だな~。まあでも、相手にとって不足無しだよ」
この提案が俺の機嫌をとってくれているのか、或いは元から考えていてくれたのかは知らないけれど……どちらにしたって楽しい時間になる事には変わりない。
その上、これは俺だけが楽しいのではなくて。きっとミカドくん自身も、双方のファン達も楽しめるようにと考えられての事なのだと思う。配信者みかどはそういう人間で、そしてそれこそ、無限にある俺が彼を好きな理由のひとつなのだ。
「ははっ。ミカドくん、やっぱ俺の喜ばせ方よく分かってんね~!」
早速リビングへとスキップしながら、勢い良く後ろを振り返る。
背後の彼は俺の挙動に驚きつつ、足を止めた。
「――そうだよ。ネモが大好きだからね、俺は。あなたの事いっぱい考えてるんです」
そんな風に声音に愛しさを滲ませながら。
ミカドくんがまた、嬉しそうに笑った。