『日輪葉』「ほら、早く目を閉じて」
目の前に広がっていた鮮やかなライトグリーンが、視界から消える。素直に目を閉じた自分が感じ取られるのは、おひいさんが何かをガサゴソと漁るような音だけだった。
「急に『座って目を閉じてね!』だなんて、オレに一体なにをする気なんすかぁ?」
今日はオレたちEveの単独ライブが行われる。リハーサルも終え、後は控え室でスタートの時間を待つばかりだ。そんな中、またいつもの気まぐれを発動させたおひいさんが、うきうき顔で俺を安っぽいパイプ椅子に座らせた。
おひいさんのわがままはいつもの事で、別に特別ではない。けれど、大概が「~~してね」ということばかりで、今のように自分が何かをするからそのままでいて、と言われたことはあまりない、と思う。
「ふふ、急かさないでよねジュンくん♪ ぼくがとびっきりの良いことをしてあげるんだから」
「えぇ~、ろくなこと思いつかねぇんだけど……」
何をするかはお楽しみ、とでも言うようにいつも以上に言葉尻をわくわく跳ねさせるおひいさんだが、「してあげる」だなんて、何をされるか分かったもんじゃなくて、そわそわと落ち着かない。
「こら、あんまり体を動かさないで」
「わっ! いつの間にんな近くにいたんすか」
突然耳元で囁かれた声に、思わず肩が跳ね上がる。先程までの探し物はもう見つかったのか、もう少し目を閉じたままでね、と少しひんやりした指がオレの頬を撫でた。
「……なんすか今日のおひいさん、上機嫌すぎて、怖え~んすけど……」
「もう! ぼくはいつだって太陽のような笑顔でアイドルをやってるね!」
「ん~そういうことじゃねえんだけど……ところで、もう目は開けていいんすか?」
「うん! もういいね、オープン・ユア・アイズ……!☆」
謎の掛け声に合わせて、目をゆっくり開ける。少し長く目を閉じていたから視界がチカチカすることを危惧したが、目の前はおひいさんの白く美しい手が覆ってくれていた。オレが目を開けたのを確認して、その優しい手が離れていく。視界が広がる。
「あ……、」
「さぁ、ジュンくん! 今からこれらを使ってジュンくんをキラキラにしていくね!」
「……それって、」
ようやく見ることを許されたのは、おひいさんが少し前にコマーシャルで宣伝を務めていた、有名コスメブランドのアイシャドウである。
コマーシャルの中のおひいさんは、その髪色と同じ春のように暖かくもあり、夏のように眩しいが涼しげな翠のアイシャドウをそのアメジストの瞳を覆う瞼にのせ、控えめに口角をあげていた。おひいさんのカラーと魅力を際立たせるかのような黒い背景と、その射抜かれてしまいそうな視線の強さに、控えめに言ってくらくらしてしまったのは記憶に新しい。
目の前に差し出されたアイシャドウは、コマーシャルで見た時よりキラキラして見えた。室内照明のせいだろうか、それともおひいさんという一等輝いている人の瞼にのせられていないからだろうか。
「ようやくぼくの元にもこのアイシャドウが届いたから、今日は二人でこのアイシャドウをのせてライブしようね!」
「は、はぁ……」
もしかしておひいさん自らがオレにメイクをしようとしているのだろうか、当たり前のようにオレの目の前に椅子を構えて座った様子から、もう拒否もできなさそうだ。よく見るとおひいさんの目元は、既にアイシャドウでキラキラ輝いている。……自分はメイクさんにやってもらったのかよ。
「またぼくが良いと言うまで目を閉じていてね」
「はいはい、わかりましたよぉ……」
また同じように目を閉じる。先程までは強く意識していなかったおひいさんの動きが、視覚を奪われたことでやけに敏やく感じられた。
「じゃあ、始めるね」
顔を動かさないようにか、顎をく、と優しく押さえられる。そのまま待っていると、瞼をふわっと何か優しいものが何度も掠めて往復する。その慣れないくすぐったさに瞼をぎゅっと強く閉じてしまいたくなるが、そうすればメイクがブレてしまう。動きそうになる身体を制して、息を詰めた。
「ジュンくん、目を開けて」
想像していたより、短い時間で目を開ける許可が出た。目を開け、こちらを満足気に見つめるおひいさんを見つめる。
「うんうんっ、流石ぼく! 綺麗に彩ることができたね」
「出来上がりました?」
「ちょっと待ってね、最後に下瞼にこっちをのせたいね」
おひいさんはそう言うと、最初に漁っていたメイクポーチらしきものから、先程のおひいさんのアイシャドウとは違う、一色しか入っていない小箱のようなアイシャドウを取り出した。
「ぼくらは二人でEveだからね、ぼくだけじゃなくて、ジュンくんの色ものせなきゃね」
取り出されたアイシャドウは、まるでオレの髪のような青色のアイシャドウだった。
「……青色のアイシャドウなんて、あるんすね」
「なんでもあるね! なりたい色なんでも!」
薄いアイシャドウの蓋を開け、おひいさんはそのまま指でアイシャドウを取った。そして呆然とするオレの下瞼に、涙を拭うかのように青色をのせた。
「ほら、自分でも見てみてね」
おひいさんがニコニコと手鏡を差し出してくれる。それを受け取り、アイシャドウに縁取られた見慣れない自分の顔を覗き込む。
瞼全体に薄く広げられた淡い緑と、目尻にまるで影のようにのせられた優しい茶色。瞼のトップには一際キラキラと輝く白緑がのせられ、最後におひいさん自らの手でのせてくれた下瞼の青色が目元を引き締める。
「……すげえ」
「ふふん♪もっと褒めてくれてもいいね!」
「なんか、オレの色じゃねぇのに、すげえしっくりきます。ありがとうございます」
正直何をされるのかと身構えていたにもかかわらず、予想外にささやかで心温まるサプライズにオレはかなり上機嫌だった。褒めろと尊大なことを言うおひいさんに嫌味も垂れず、素直に礼を言った。しかし、その一言がおひいさんの何かに引っかかったようだ。む、とわざとらしく怒った顔を作りおひいさんが言う。
「緑がジュンくんの色じゃないって?」
「え、だって緑はおひいさんの色でしょ」
そう言うと、分かってないね! とぷりぷりと効果音がつきそうな動きをして、おひいさんは悪い子を窘めるかのように言った。
「緑は、Eveの色でしょ。二人で一つのEveなんだから、もう緑はジュンくんの色だね!」
さっきも言ったでしょ、とおひいさんはくすくす笑う。おひいさんの理論はよく分からないけれど、オレに緑が馴染んだ理由が分かった気がして、なんだか可笑しくなってしまった。
「ははっ、そうっすね。オレたちがEveですもんね」
つられて笑みがこぼれ、笑いが止まらなくなる。あはは、と声を上げて笑っていると、おひいさんがまるでメイクをしていた時のようにオレの顎を押さえ、そっと頬を寄せてきた。あ、キスされる、
「――ダメだね、今したら、Eveに戻れなくなっちゃうね」
「……っ」
唇が触れてしまいそうな距離、おひいさんはそう言って離れていってしまった。……忘れていた、今からライブなのだ。今キスをしてしまったら、おひいさん言う通りもうEveとしてステージにあがることは出来なかっただろう。
「……おひいさん、っ終わったら」
『巴さーん、漣さーん! 出番でーす!』
「……」
思いもよらないタイミングで、扉がコンコンと叩かれスタッフから声がかかった。う、と言葉を詰め思わずすがるようにおひいさんを見つめた。
そんな欲を孕んだ瞳に、おひいさんはアメジストをどろりと溶かしお揃いの瞼を細めて、全て分かっているというように微笑んだ。
「……ジュンくん、今からはぼくたちEveが愛する番だね」
――恋人のぼくたちは、また後で。
「うぃっす、やってやりますよ」
【日輪葉|END】