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    碧(あお)

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    碧(あお)

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    【「スモバ2」参加作品1】
    組織の命でターゲットの元に乗り込んだライとバーボン。敵に追われ絶体絶命の窮地に陥った二人の運命は?
    ※一瞬だけ微量のモブバボ

    恋心まであと五年「これを飲めと?」
    「ああ。飲んでくれるだろう? 君はそのために来たんだから」
     情報を抜き出すために近づいたターゲットに渡された怪しげな薬。ターゲットを油断させるため、その場で飲まないわけにはいかなかった。
     異変はすぐに訪れた。体が熱くなったりうずいたりすることを覚悟していたバーボンの予想は見事に外れ、襲った異状は視界の暗転だった。意識が遠くなったのかと一瞬思ったがそうではなく、文字どおり視界を奪われていたのだ。
    「目が見えていると逃げられやすくて面倒なんでね。心配はない、数十分で元どおり見えるようになる。私の相手をしてくれる間、見えないだけだ」
     男の下卑た声と同時に体を思い切り押され、ベッドの上に突き倒される。
    「情報が欲しいんだろう? 全部終わったあとで渡してあげるよ。その頃には視力も戻っているはずだ」
     体の上に乗り上げてきた重みに、バーボンは暗闇の中で思わず顔をしかめた。
     さて、どうする。公安の訓練でも目が見えない状況での脱出方法は習わなかった。男は体格の良さに見合った体重の持ち主で、マウントを取られた状態から抜け出すのはかなり苦労しそうだ。ましてこの劣勢を何とか切り抜けたところで、見えない目で逃げられるわけもない。何しろここは男の本丸だ。部屋を出たら彼の屈強な部下が大勢待機している。
     さすがに唇を噛んだ瞬間、微かに覚えのある煙草のにおいがバーボンの鼻をくすぐった。次の刹那、蛙のような呻き声を上げた男が体の上に倒れ込んでくる。
    「ちょ、重……っ」
     バーボンが思わず呟いた直後、ふっと体の上の重みがなくなった。次いで、ベッド脇でどさりと音がする。男が落ちたのだろう。誰がやったのかなんて考えるまでもない。
    「何やってるんだ」
     呆れたようなため息交じりの声。
    「見てのとおり情報収集ですが」
    「ベッドで情報を抜いているという噂は本当だったということか?」
     ライの声はあからさまに不機嫌だ。もちろんそれは事実無根で、組織内のただの噂に過ぎない。体など使わなくても情報を抜き取ることはバーボンには簡単だったからだ。なんなら男も女も未経験だ。余裕そうに見えるだろうが、それは自分の演技力が天才的だからであって、内心ではかなり……、と、そんなことは今はどうでもよかった。目の前のライに意識を戻す。見えないけど。
    「だったら何です」
     誤解されていた方が何かと都合がいいので、肯定にもとれる曖昧な返事を返す。
     小さなため息を漏らしたあと、ライはしばらく黙っていた。どんな表情をしているのかバーボンには見えないため、ただじっとライがいると思われる方向を睨みつけるしかない。
    「……まあいい。とりあえず逃げるぞ。データはもう入手したのか?」
    「あ、おそらくそのデスクのパソコンに入っているはずです」
    「とっとと抜け。一発殴っただけだから、ドアの外の連中もいつまでも寝てはいないはずだ」
    「……はい」
     家具の配置はこの部屋に入った時にすべて記憶している。デスクまで何食わぬ顔で歩くことはできるだろう。ただ、パソコンを操作できるかというと……
     とりあえずゆっくりベッドを下り、家具や調度品にぶつからないよう神経を研ぎ澄ませてデスクに向かう。そろそろか、と手を伸ばすと指先にデスクが触れた。デスクを撫でるような仕草に見せかけて探りながら、キーボードにたどり着く。そのまま手を横に滑らせていくとマウスに当たった。こっそり安堵しながら、ポケットからUSBメモリを取りだす。差し口は……とパソコンの側面を探っていた手を不意につかまれた。
    「おい」
    「……何ですか」
    「見えてないのか?」
    「……はい」
     まあ、ばれないわけはなかった。
    「何があった」
     地を這うような低い声に一瞬だけビクついてしまったことに内心で腹立たしく思いながら、ターゲットに請われて怪しげな薬を摂取したことを説明する。
    「馬鹿か、何でそんなもの飲んだんだ!」
    「び、……媚薬のたぐいだと思ったんですよ……それなら多少は耐性があるから大丈夫かと」
     聞いたことがないほどのあまりの剣幕に思わず口ごもる。組織に潜入する時、想定される薬にはある程度耐性をつける訓練を公安で受けてきたが、今回のような視力を奪う効力がある薬は想定外だった。
    「媚薬に慣れているのか?」
     つかまれた腕に力がこもる。なんか、すごく怒っている。そりゃ、足手まといになって怒るのもわかるけど。
    「ラ、ライ……痛い」
     思わず呻くと瞬時にライの手が離れた。
    「……すまない。つい……」
     何かもごもご言っているが聞き取れなかった。
    「ライ?」
    「いや、そんな話はあとだ。その薬はまだあるのか? 持って帰って成分を調べれば治療に役立つはずだ」
    「数十分で元どおり見えるようになると言ってました」
    「そんなの信用できるか」
     ライが遠ざかる足音がする。どたんという重いものをひっくり返す音のあと、再びライの気配が近づいてきた。
    「奴のポケットに薬の残りが入っていた。念のために持ち帰る。そこをどけ」
     言われたままに横にずれると、ライはバーボンの手からUSBメモリを取った。カチカチとマウスを動かす音。程なくして、ライの「よし」という小さな声が聞こえる。
    「データは抜いた。出るぞ」
     言うが早いか、ぐいと左手を引っ張られる。そしてライの右腕に手を誘導された。
    「ここをつかんでろ。絶対に離すなよ」
    「でもそれじゃ邪魔に、」
    「余計な口を叩いてる暇はない。全力でついてこい」
     バーボンの返事も聞かずにライが歩きだす。ライの右腕にしがみつく形になったバーボンも必然的にくっついて歩く羽目になった。部屋の扉にたどり着いたライが廊下の様子を窺っている気配がする。
    「まだ全員気絶しているようだな。今のうちに突破するぞ」
    「はい」
     暗闇の中では何もできないので従うしかない。想像したより更に筋肉がついていた右腕につかまりながら、扉を出て早足で歩くライに必死でついていく。廊下をいくつか曲がって、記憶の中のエレベーターホールに近づいたと思われた時、微かな叫び声が聞こえた。
    「ちっ、目が覚めたか」
     廊下で倒れていた連中か、ライに殴られたターゲットか。どちらにしろ追ってくるのは時間の問題だ。
    「走れるか?」
     耳元で囁かれ、こくこくと頷く。ライの足手まといにだけはなりたくない。走りながら、ライががっしりとバーボンの肩を抱き込んできた。
    「階段だ。無理なら言え、背負う」
    「いけます」
     しっかりと肩をつかまれたまま階段を走って下りる。どこにでもある一般的な歩幅の階段だ、見えなくても推測で何とかなる。
     数階分を下りてどうやら一階に着いたようだ。
    「さて、車までどうやって行くか……」
     ライが小さく呟いたところで、近くで男たちの声が聞こえた。咄嗟に体を抱き込まれて身をすくめる。
    「ラ、……ライ、」
    「しっ。じっとしてろ」
     ライが大きな体をできるだけ小さく丸めて身を隠しているのがわかる。その腕の中に抱きすくめられて、バーボンは状況を忘れて思わず安堵の息を漏らした。
     何だろう、なんだかとても安心する。頬や手に当たるライの長い髪も、いつもなら鬱陶しいと払いのけるのに今日はなぜか安心材料にしかならない。視覚が無い分、触覚が研ぎ澄まされているのだろうか。
    「行ったな。こっちだ」
     すかさず体を引っ張られて慌ててついていく。視界は真っ暗だが、なぜか何の不安もなかった。
    「今どこです?」
    「裏口に向かっている。玄関の方は固められているだろうからな」
    「裏口……も、誰かいるんじゃ……」
     そういえば思い出した。下調べした時に、確か……
    「ライ、裏口よりも北側の扉の方が逃げやすいはずです」
    「北の扉?」
    「ええ」
     不意に体の右側に空気を感じる。空間が開けた感覚があった。そうだ、この廊下を入っていけば確か、角を一つ曲がった先に屋内駐車場に続く扉があるはずだ。
    「ライ、こっちに」
    「おい待て」
     咄嗟に方向転換してライを引っ張ろうとした時……
     突然体が浮いて、逞しい腕の中に抱き込まれた。そして続いたつんざくような銃声。
     一瞬息をのんだが、痛みはない。少なくとも自分には。
    「ライ?」
     耳元で微かに聞こえるのは、間違いなく呻き声。
    「くっ……」
    「ライ!?」
     自分に覆い被さっているライの体が更にのしかかってくる。慌てて足を踏ん張り、辛うじて転倒を防いだ。
     必死でライの体を手探りする。どこだ、どこを撃たれた?
    「ライ、ライ!」
     名前を必死で呼ぶことしかできないなんて。どうしてこんな時に見えないんだ!
    「大丈夫、だ。急所は、外れている。弾も、貫通した」
     よほど不安そうだったのだろう。こんな状況にそぐわない優しい声で、息を継ぎながらライが答えてくれる。
    「お腹ですか?」
     ライの腹のあたりをまさぐると確かに濡れた感触がある。どのくらい出血しているのだろう。ああもう、早く薬よ切れろ。
    「走れますか」
    「ああ」
     重いライの体を引きずるように、できるだけ急いで北の扉へ向かう。壁にぶつかりそうになったのか、ライが引っ張って進行方向を微調整してくれた。
    「扉だ」
     ライの声で足を速めた。ライも苦しそうな息の中、バーボンに足並みを揃えて走っている。
     もっとも、見えないバーボンと腹を撃たれたライではどんなに急いでも逃げ足の速さはたかがしれていた。扉を開けて広い駐車場に出たところで追っ手に追いつかれてしまった。
    「そんな体で逃げても無駄だ」
     背後数メートルまで近づいてきたターゲットが声をかけてくる。他にも数人の男たちの足音がした。おそらく十人程度はいるだろう。
     息が荒いライの体を支えて立ち尽くす。万事休すとはこのことだろう。文字どおり、逃げ道がまったく見えない。一歩下がると背中が壁にぶつかった。逃げ道が見えないのではなく、……無いのでは?
    「まったく、もう少しだったのに惜しいことをした」
     ターゲットの冷ややかに笑う声を聞きながら、バーボンは後ろの壁にライを寄りかからせて座らせた。そして彼の厚い肩に手を置いて心を落ち着かせる。
     大丈夫だ。今までだって何とかなった。ライとなら、きっと切り抜けられる。
     そして振り向いたバーボンは、見えない目でターゲットを睨みつけて口を開いた。



    「僕たちをどうしようと言うんです」
     こんな時でも凜と透き通った、自信に満ちた声音。相変わらず気高いな、と、ライは状況を忘れて小さく笑ってしまった。その若さゆえの自信が微笑ましいが、まだ経験が足りないせいか彼はどこか危なっかしい。弟と年齢が近いこともあって、優秀なくせに危ういところのある彼からいつも目が離せなかった。
     本来なら外で待機しているはずだった今日も、なぜか胸騒ぎがして現場を覗いてみたら案の定だ。自分が来なかったらどうするつもりだったんだ。
     ……などと感慨にふけっている場合ではない。彼がいくら優秀とはいえ、視界を奪われた状態では大してできることはないだろう。打開策を考えなくては、
    「僕にそちらへ来いと?」
     ……は? 今何と言った?
    「そうだ。そうすればその長髪は見逃してやろう」
    「わかりました」
    「おい待てバーボン、信じるな」
     今にも立ち上がりそうなバーボンの左腕をしっかりつかむ。
    「嘘に決まってる、言うとおりにしても無駄だ」
    「でも他にどうしようもないですし。足手まといの僕がいない方があなたも逃げやすいでしょ?」
    「馬鹿か、独りで逃げるわけが、」
    「おい、何をごちゃごちゃ言ってる。さっさと来い」
     ターゲットの声で、バーボンがライの手の中から自分の腕を引き抜こうとする。ライは思わずバーボンの腕をつかむ自分の手に力を込めた。怪我のせいか指先の感覚が薄いが、絶対に行かせるわけにはいかない。
    「駄目だ、行くな」
     ふ、と微かに鼻で笑ったバーボンが振り向く。見えていないとは思えないほどはっきりとライの瞳を見据え、小さく微笑んだ。そしてライのシャツの裾からそっと手を忍び込ませてくる。肌に直接触れるバーボンの優しい体温は、出血で少し寒気がしていたライの体に温かく染みわたった。気持ちよくて、……なまめかしい。こんな状況だというのにおかしな気分になりそうで、そんな場合ではないと気を引き締めようとした、……次の瞬間。
    「ぐ……っ」
     腹の傷の上を押し込まれて息が止まる。思わず力が緩んだのだろう、バーボンの腕がライの手からするりと抜けていった。
    「おい、待て……っ」
     息も絶え絶えに呼び止めるも、バーボンはしっかりした足取りで正確にターゲットに向かって歩きだしていた。
    「こ、の、くそガキ、……」
     腹の痛みで声が震える。手で押さえようと傷に触れ……違和感に気づいた。
     違う。ライの拘束から抜け出すために痛みを与えてきたわけではない。手探りだったにもかかわらず、バーボンは正確にライの傷の上に湿布を貼りつけていた。
     組織が開発した応急処置用の止血湿布。痛みはあまり緩和できないが、しばらくの間は出血を抑えることができる。まったく、くそガキのフリしやがって。
    「バーボン、待て、」
     とにかく止めなければとバーボンに意識を戻した時。ライの目に映ったのは崩れ落ちる瞬間の彼の姿だった。
    「おい、何を……!」
     倒れ込むバーボンの体をターゲットの部下の男が抱きとめる。
    「本当はこの子と楽しみたかったんだがね。あんな風に馬鹿にされて水に流すほど私は慈悲深くない」
     にやりと笑ったどす黒い表情に吐き気がする。
    「おい、その車のトランクに入れろ」
     ターゲットの命令で、部下の男がバーボンを抱えて背後の車に歩いていった。
    「待て、どうする気だ」
    「このビルの裏の埠頭は事故が起こりやすいことは知っているか? 年に数台は車が海に落ちるんだ」
    「……おい、」
    「可哀想に、この子もそんな不幸な事故の被害者になる」
     車ごと海に落とす気なのか。バーボンを。あの、奇跡のような気高い魂をこんな下劣な奴に奪われてたまるか。
    「見えないまま死ぬことになるが……あの綺麗な青い瞳に最後に映ったのが私で光栄だよ」
     ライが睨みつけてもどこ吹く風のターゲットは、トランクがバタンと閉まる音に口角を上げた。部下の一人に目配せする。
    「さっさと始末しろ」
    「はい」
     命じられた男は静かに運転席に乗り込み、エンジンをかけた。
    「おい、この……」
     慌てて立ち上がろうとしたライの頭に、ターゲットが持っていた拳銃の照準が合わせられる。
    「お前が何者か知らんが、邪魔してくれた恨みは大きい。どうせデータももう抜いているんだろ? 残念ながら持ち帰ることはできない」
     愉悦に浸っている男の背後で、滑らかに車が発進していった。すぐにその姿が見えなくなる。時間がない。
    「さて、お前にはいろいろ聞きたいことがある。どこの組織の者か、目的は何なのか、洗いざらいしゃべってもらうぞ」
     優位を確信しているターゲットはご機嫌でべらべらと演説している。ライは耳触りな声を聞き流しながら、そっと腹に触れた。
     止血湿布のおかげで先ほどよりは痛みも多少マシになり、痺れていた指先の感覚も戻っている。これなら十分トリガーを引けるだろう。
     小さく呼吸を整える。そしてベルトに挟んで背中に隠し持っていたS&W M29を取り出すべく、左手をゆっくり後ろに回した。



     気づいたら辺りは真っ暗だった。ここはどこだろう? ゆっくり起き上がろうとして、すぐに頭が何かにぶつかる。硬い何か。手探りで周りを確認して、とても狭い空間だということがわかった。車のトランクか。しかしエンジン音は聞こえない。走行しているわけではなさそうだ。あの駐車場に放置されているのか?
     それよりライは大丈夫だろうか。何もかも自分より優れている格上の男。しかし腹に穴が開いていたら普段の動きはできないはずだ。何とかしてライを助けなければ。そもそも、ライが撃たれたのだって予期せぬ動きをした自分をかばったためだし……
     考えながらトランク内をくまなく探る。車種によっては脱出用のハンドルが内部に設置されている場合もあるが、どうやらこの車にはなさそうだ。他の脱出方法は、と考えを巡らせ始めた時。
     車体が大きく揺れたかと思うと、突然の大きな地震がバーボンを襲った。激しく揺さぶられて、頭をぶつけないよう腕で必死にかばう。そして大きな水音。
     揺れはすぐに収まったが、違う。これは地震じゃない。息を潜めてじっと外の様子を窺うと、微かに水の音が聞こえた。そしてしっかり地にタイヤがついていないような浮遊感。
     ……そうか、あのビルの裏は埠頭だった。つまり今、この車は海に落とされたということだ。
    「……は、」
     思わず小さく笑ってしまった。絶体絶命だ。いや、笑っている場合ではない。沈むまでは数分あるはずだ。それまでに脱出の方法を……
     息を整えて思考をまとめようとしたその時。バーボンは見えない目を見開いた。
    「……ライ?」
     空耳か。声は聞こえないが……いる、気がする。いや、……気のせいじゃない。
     何も聞こえず何も見えないのに確信した。ライが、いる。
     咄嗟にトランクの入り口から最大限距離を取り、座席側に貼りついた。ただの直感。
     直後、鋭い銃声が鳴り響く。数発撃ち込まれている間、じっと身を潜めてやり過ごす。そしてガチャガチャドンドンという叩くような壊すような音のあと、トランクが開いた気配がした。微風が頬に当たり、潮の匂いがする。
    「……ライ?」
     バーボンには誰なのか見えない。でもわかっている。ライだ。
    「バ、……ーボン、大丈夫、か」
    「はい、生きてます」
    「そうか。それは……よかっ……」
     言葉じりが途切れたまま、ライは黙ってしまった。
    「ライ?」
     どうなっているんだ。慌てて入り口の方へ近寄り、手を伸ばして空中を探る。……と、ぐいとつかまれた。冷たい手。
    「ライ、大丈夫ですか?」
     ライは意識は失っていないようだが、荒い息が聞こえる。ここは海だ、水中で出血が酷くなったのかもしれない。
     ライの手を伝って体に触れると胸の辺りまで水に浸かっていた。まずい、とにかく早く陸に上がらないと。トランク内にも水が入ってきている。
    「ライ、陸はどっちですか」
     返事がない。
    「ライ? ライ!」
     駄目だ、つかまれていた手の力が抜けている。意識が途切れたようだ。
     慌ててトランクから出て水に入る。着衣水泳は訓練してあるので大丈夫だ。力が抜けているライの体を手探りで支え、仰向けに水に浮かせようと試みた。自分より体格のいい体を水中で操るのは一苦労だったが、何とか成功する。天を仰いで浮かぶライの体を背中から抱えるように支えながら、バーボンは小さく息をついた。
     しかし陸はどっちだ。車が海に落ちたというのに誰の声も聞こえないのだから、周りに人はいないのだろう。誰に聞くわけにも助けを呼ぶわけにもいかず、かといって二択を間違えたら二人とも海の藻屑になってしまう。
     晩秋の夕方、水温はかなり低い。一刻も早くライを水中から引き上げなければ。バーボンはライの体に回した腕に力を込めた。
    「ライ……」
     いつもならこういう時、ライが答えをくれた。今は自分で何とかするしかない。バーボンは鼻先をくすぐるライの髪に顔を埋めた。微かに嗅ぎ慣れた煙草の匂いがする。いつの間にか慣らされてしまった、そしてどうしてか一番安心する匂いに勇気をもらって決意した。一か八か、どちらかに進むしかない。
     バーボンは意を決して顔を上げた。そして……
    「……あ、」
     真っ暗だった視界が薄闇に変わっていた。慌てて周りを見回すと、埠頭の端に並ぶいくつものコンテナがうっすらと見える。
    「あっちだ!」
     今にも沖に向かって進もうとしていた体の向きを変え、ライの髪をつかみ、引っ張って埠頭に向かって泳ぐ。髪が長くて助かった。
     意識のないライの体は重かったが、自分でも驚くほどの力で必死にライを引っ張った。ここまでの火事場の馬鹿力を実感したのは初めてだ。
     埠頭のコンクリートに手が触れ、ライを引っ張り上げながらよじ登る。ずり落ちそうになる大きな体躯を必死で引きずり上げ終わった頃には、バーボンの視力はほとんど戻っていた。息を整える間もなく、力なく横たわるライの体を点検する。……と、自分の顔から血の気が引くのがわかった。息をしていない。
    「ライ、……ライ!」
     駄目だ、こんなつまらないことでお前ほどの男が死ぬなんて!
     バーボンは咄嗟にライの顎を持ち上げて気道を確保し、その高い鼻をつまんだ。ライの口を開かせ、躊躇なく自分の口を重ね合わせる。そしてゆっくりと息を吹き込んだ。戻ってこい!
     二度、三度と繰り返す。ふと、ライが微かに動いた。
    「ラ、ライ!」
     頬を軽く叩くと、ライは小さく呻き声を上げる。
    「ぐ……」
    「ライ!」
     苦しそうに呻いたライはいきなり大きく咳きこんだ。体をひねって水を吐き始めたので背中を支えてやる。ライはしばらく嘔吐いていたが、やがて大きく息をついて再び仰向けに横たわった。
    「大丈夫ですか?」
    「バーボン……ああ、何とかな」
     薄目を開けてバーボンを認めたライは疲れたように掠れ声で呟いた。脈や心音を確かめたが大丈夫そうだ。バーボンはほっと安堵の息を吐いた。
     力なく投げ出されているライの左手に触れるとぎゅっと握られる。……まあ、苦しかっただろうし、それで安心するなら握らせてやってもいい。
     右手を握らせたまま、左手でライのシャツをまくり上げる。腹の湿布に血が滲んでいたが、思ったほどの出血量ではなかった。ずいぶんと効き目がある止血湿布のようだ。あとで作成方法を組織のラボから盗んでこなくては。ふと、目を閉じていると思っていたライにじっと見つめられていることに気づいた。
    「バーボン、見えているのか」
    「ええ。さっき、あなたを抱えて泳いでいる時から」
    「……そうか。世話になった」
     ゆっくり上体を起こそうとするライに手を貸す。ライは起き上がると、胡坐をかいて小さく息を吐いた。濡れた長い髪を鬱陶しそうにかき上げる。腹を手で押さえる姿を見て、バーボンは思わず眉をひそめた。
    「痛みますか」
    「穴が開いているからな。痛まないわけはない」
    「車まで歩けます?」
    「肩を貸してくれ」
     大きなふらつく体を支えて立ち上がらせる。肩に腕を回してきたライの腰に手を添えて自分の体にもたれかからせ、ゆっくりと歩きだした。ライの歩調は思いの外しっかりしている。これなら大丈夫だろう。
    「あいつらはどうなったんです」
    「全員寝ている。まあ、五体満足のままではないが……命までは取っていない」
    「この怪我で、さすがですね」
    「君も……」
    「え?」
    「無事で、……よかった」
     ほとんど囁くような声だったが、バーボンの耳はしっかり聞き取っていた。まあ、悪の組織でたまたま同じ任務についたビジネスパートナーとはいえ、目の前で死なれたら後味が悪いのだろう。自分だってライに死んでほしくはなかったし……
     その後は言葉も胸も詰まって会話を続ける気になれず、お互い黙ったまま車を目指す。左側に感じるライの重みが心地よく、その体の血の通った暖かさに、バーボンはなんだかとても泣きたくなっていた。足元に落ちた雫は濡れた髪から落ちた水滴か、自分の涙か。
     全身ずぶ濡れでよかった。頬が濡れていても不自然じゃない。

     なぜこの時ライを失いたくなかったのか。どうして安堵の涙が流れたのか。バーボンが、……降谷がその本当の理由に気づくまでには、このあと五年もの月日を要したのだった。






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    Replies from the creator

    碧(あお)

    DONE【「スモバ2」参加作品2】
    「スモバ2」参加作品1『恋心まであと五年』から遡ること1か月前。熱を出したバーボンと、見守るライ&スコッチ。
    何も知らない君へ(『恋心まであと五年』前日譚)「今戻った。スコッチ、バーボンの様子はどうだ?」
    「また熱が上がったみたい」
     眉をひそめながら告げたが、ライは無表情だった。否、俺にはわかる。感情が動かないように見えて、彼はちゃんとゼロを心配している。
    「で、店はあった?」
    「駄目だ、この天候で全部閉まってやがる」
    「そうか……期待はできなかったけどやっぱりか」
     飲料水は、ゼロに与える程度なら持ち歩いている分で何とでもなる。問題は解熱剤だった。三人とも殺しても死なないと言われるほど頑丈な質で、体調を崩すことなどないだろうと高をくくっていたのが裏目に出た。唇を噛みしめた俺の横で、ゼロの苦しそうな寝息が聞こえる。俺とライは顔を見合わせて途方に暮れた。



     三人で組織の任務に訪れた極寒の地。猛吹雪の中を強行軍で進んだ結果、他の任務直後で三徹目だったゼロが倒れた。たまたま見つけた今にも壊れそうなホテルに駆け込んでとりあえず休ませたものの、夜が更けるにつれてどんどん熱が上がっていく。
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