♯1 refraine
身体が、重い。痛い。
思考が上手くまとまらない。
予想以上に出血が多かった。
それでも、今は前に進まないとダメだ。
あぁ、フシ……。
僕はやっぱり、僕でしかなかった。
無理して大人のフリをしていても。
泣いてばかりで何もできない、僕のままだ。
レンリル郊外の採石場を離れ森の深部へ向かっていた。一歩前に進む度に酷い痛みに襲われ足元もおぼつかない。視界は疲労と出血で白く滲んでいた。
とにかく今は、前に進むことだけを考えろ……。
痛みに意識を向けたら心が折れそうで、ただフシの顔だけを思い浮かべていた。あどけなく笑うフシを思い出せたら良かったのに、今はそれが難しかった。
もうほとんど見えない左目から不意に涙が溢れた。その瞬間、足が前に出なくなった。僕は敢えなく道の真ん中に崩れ落ち、高い空を仰いだ。
——ガシャリ……。
武具の軋む音が静かに佇む木々の間にこだまする。空は突き抜けるように蒼い。戦いの終わりを告げる雲一つない晴天。身中で激しい拍動だけが無機質に繰り返され、ぼんやりと空を眺めることしかできない。
まさか……、まさか自分が一番の害悪だったとは……。
しかし、それを認められない程、僕の心は打ちひしがれ疲れ切っていた。再びフシの歪な顔が、柔らかい頬の感触が生々しく身体に蘇る。思わず目をきつく瞑り頭から振り払おうともがいた。
「フシ……」
無意味に呼びかける。涙はとめどなく溢れ土を濡らす。
無念、無情……。そして、ただただ切なかった。
今の僕にできることは、僕にしかできないことは……。
それでも僕は、自信に価値を見出すことを諦めなかった。まだ、僕にできることはある。すべき事は分かっている。単に認めるのが少し怖いだけだ。
前から考えていたことじゃないか。けれど、それができなかった。僕はフシと同じ場所にいたかった。もっと早くにそうすべきだったのかもしれない。
あの手紙を用意しておいて良かった。懺悔と別れの言葉。それだけしか書かなかったら、書けなかった。しかしせめて、別れだけは告げたかった。僕は弱いから、何も告げずに去ることがどうしてもできなかった。
フシはどう思っただろうか。悲しい顔を、したのだろうか……。きっとあの手紙に込めた僕の想いには気づかない。でも、それでいい。
「黒いお方……、どこに、いますか?」
僕は何もない空に向かって言葉を投げかけた。やがて黒い影が音もなく僕の頭上に現れた。初めて目の当たりにする姿。不思議と驚きはなかった。
「あぁ、あなたが……。私はあなたに会いたいとは思っていませんでしたが……。今は恨み言を言う暇などない。致し方ない事情があります。あなたにしか頼めないことだ」
黒尽くめの男は瞬きもせず僕をじっと見下ろしている。頭の予期せぬ場所に聞いたこともない声が響き渡った。
『思考で話しなさい。お前の連れに気づかれることはない……』
僕の意思を分かっているような口振りだ。いや、彼にしてみれば僕の方から望むことこそ、描いた筋書き通りなのだろう。皮肉なことだが、それなら話しが早い。僕は僕の考えを頭に思い浮かべ伝えた。
『承知した……』
頭から声が消えた瞬間に黒い男は消えていた。陽の光が眩しく眼に刺さる。
これでいい。
あとは、実行に移すだけだ……。
本懐を遂げられる確信を得た。
それ故か、僕の心は目の前に広がる蒼穹の如く澄み渡っていた。
万一の時に備え、レンリル郊外には守護団の待機キャンプを設営していた。やっとの思いでキャンプに戻ると力無く地面に膝を突いた。待機していた皆が一斉に駆け寄って来る。皆口々にワァワァと騒ぎ立てた。
「カハク様! どうされたのですか! 一体何が……。おい誰か! 手当を——」
「大丈夫、心配いりません……。今から言うものを用意して下さい。なるたけ急いで欲しい」
皆が差し伸べる手を軽く制す。僕は手短に指示を出し、備蓄物資の保管場所まで急いだ。物資保管用のテントに入り荷物の中を漁る。不器用に右手を動かすも上手くいかない。後先考えず荷物を派手に撒き散らした。
散乱した物資の中に探し当てたのは、小さな薬瓶。
中味はブスレンゲから抽出した有毒成分を濃縮し効果発現時間を適せんいじったもの。馬も一瞬で殺せる猛毒だ。ガラス針に仕込み、慎重に懐に仕舞い込んだ。
そうだ、このままで人目につくのはまずい……。
適当な布を探し出すと頭から被って目隠しにした。そういえばフシも同じようにマントを羽織っていたな。フシの正体を隠すためだった。……僕が至らないから、フシに不自由をさせてしまった。
キャンプの広場に戻ると掻き集めた火薬を運んでいる皆の姿が見えた。……充分な量だ。
「すみません、鞘から抜いてくれませんか」
僕が薙刀を刺して申し出ると無言で一人が歩み出る。薙刀を鞘から抜き僕に手渡した。微かに震える掌。金属の擦り合う音が聞こえる。
「ありがとう……」
薙刀はだいぶ刃こぼれしていたが研ぎ直す時間はない。こびりつく血塊だけを拭き取った。
イルサリタまでは早馬で十日程だろう。簡単な食料と水筒も荷物に入れた。辿り着くまで死ぬ訳にはいかない。我が一族への伝言を書面にしたためた。僕がいなくなったとしても、フシを守るという大義を決して忘れないように。
最後に、待機している皆に集合をかけた。
僕のただならぬ気配を感じ取っていたのだろうか、皆は集合をかけるや否や素早い足取りできっちりと整列する。そんな皆を見たら、誇らしさと同時に申し訳ない気持ちで一杯になり、胸が押しつぶされそうだった。
「皆、よく聞いて下さい。時間がないので、手短に済ますことを許して欲しい。これまで若輩な私によく尽くしてくれました。これからも我が一族の守りはあなた方に任せます。私は……、私にはやらなければならないことがある。……今を持って我々は解散する!」
僕の声だけが響いて消えた。皆は押し黙っている。顔はよく見えないが、俯いて僕の話に耳を凝らしているのがわかる。何処からかすすり泣く声が聞こえた。
「このままヤノメへ向かって下さい。その後のことは書面に詳細を記しています。それを無事に守護団の本部まで、我が一族の者まで届けて欲しい……。——以上解散だ! 私はイルサリタへ向かう!」
「カハク様……」
小さく僕の名を呼ぶ声が聞こえた。激しく心が揺さぶられたが、僕はそれに応えることはなかった。皆もそれ以上何も言わなかった。
すぐさま用意していた馬に飛び乗った。馬はいななき勢いよく駆け出す。僕は決して振り返ることはなかった。皆の姿を見れば決心が鈍る気がして。
「どうか皆、無事で……。皆の顔は忘れない……」
僕は夢中で馬を走らせた。イルサリタ郊外に入るまで一日中休まず進み続けた。やがて小高い開けた場所に出ると、森の向こうに不自然に立ち上る黒煙が見てとれた。
あれだ……、あそこに製鉄所がある。
「さ、お前も帰るんだ。 今までありがとう」
製鉄所の側まで慎重に馬を進める。そして馬を降りると手綱を外した。僕が遠征に出るずっと前から可愛がっていた友達だった。運が良ければヤノメまで辿り着くかもしれない。馬は僕に頬擦りしてぶるると鳴き、やがて森の中へ消えていった。
その瞬間、地面にシュルと動くものが眼に入った。
地面から這い出る「根」……。
「フシ……?」
思わず地面に平伏し手を伸ばす。根はくるくると僕の掌を絡め取った。僅かな温もり。その温もりを感じた刹那、ギリギリと引き絞られるような心に眩しい光が差し込みゆるりと解放されていく。
「フシ 、来てくれたんですか……?」
悪態づくフシの顔が目の前に浮かぶ。たまらなく愛しい……。溢れた涙が落ちる。根は僕の頬を、左腕を優しく撫でた。
「ありがとう……」
小さなフシはくるくると伸びて柔らかく僕を包む。まるで抱き締めてくれているようで……。
あぁ、あなたは、優しすぎる。
「でも、ごめんなさい、行かなければ——」
そんなフシだから、僕はあなたに手を汚して欲しくない。僕なんかを手にかけるかどうか、そんなことで悩んで欲しくないんだ。
「あなたはいつまでも、あなたのままで……」
立ちあがろうとした僕から、根は躊躇いがちに身を引いた。
「少し、痛みますよ」
根から生えた小枝の葉を一枚頂戴する。プチリと小さな音がして、根っこのフシは不思議そうにユラユラ揺れた。その葉を優しく懐に忍ばせ掌を当てた。
「これで一緒です……。さぁ、行きますよ」
僕が歩みを進めると根っこもおずおずとそれを追いかけた。
さぁ、いよいよだ。
左手は大人しい。どうやら勘づいていないようだ。それでいい……。
火薬を括る紐を確かめる。
フシが生きているという情報は、ベネット教の連中や反フシ派に既に知られていることだろう。恐らく奴らは再度フシを捕獲し、溶鉱炉に沈めようと画策するに違いない。
製鉄所に侵入すると予想通り溶鉱炉の視察をするサイリーラの姿が見えた。
「お前は……⁉︎」
僕の姿を見て奴は狼狽したが、フシを捕獲できるという言葉を聞き素直に指示に従った。余程フシを捕らえたいらしい。無理もない、がそうさせる訳にはいかない。
奴にはできるだけ多くの鉄を集め、火を強めるように言った。強ければ強いほどいい……。溶鉱炉の燃え盛る炎は、薄暗い製鉄所の中を赤々と照らし、釜は煮えたぎる鉄で満たされた。
準備は整った。奴もうまい具合にここにいる……。右手に握っていた針に力を込めた。微かなガラスの割れる音。ジワリと生温い感触が右手に広がる。
その瞬間、強い衝撃に襲われた。
……あ、落ちる——。
しかし、抗う気にはなれない。これでいいんだ。フシと同じ痛み同じ熱さを味わうことが、今の僕にはふさわしい。
——ガクン!
予期せず左手に強い衝撃が走る。見上げると必死に足場を掴んでいる左手が見えた。
「往生際が悪いですね……、この間言ったことを信じた様ですが、残念……。僕に嘘をついたお返しです!」
ヒュッと薙刀のなぐ音。同時に横殴りの衝撃が左手に走った。ほとんど支配されている身体だ。さほど痛みは感じなかった。
自分の左手を残し、僕は宙に舞った。
気配を失った根が行く場を失い無尽蔵に伸びていく。
今からでも逃げ切ろうともがく左手は、膚の下を這いずり回っていた。残念だが毒が効き始めている。もはや逃げることは叶わない。
煌めくものが見える。美しい光のカケラ。
もしかするとフシが見ていたフワフワとした光も、こんな風に綺麗だったのだろうか……。
あぁ、これは僕の涙だ……。
僕は、僕の一番したかったことはなんだ……。
僕の気持ちを証明したかった。
僕は有用だと、誰もが信じられるように。
今まで誰にも出来なかった、フシとの絆を深めるために。
フシと僕の悲しい因果を終わらせるために。
フシを傷つけるものを許さないために。
フシに全てを捧げるために。
フシに全てを返すために。
僕は……、フシのために生きたのだろうか。
僕のために……、生きていたのだろうか。
フシの夢は、何だったんだろうか。
フシのあどけない笑顔が、ふと目の前に浮かんだ。
フシは僕の名を呼びながら無邪気に駆け寄る。
幸せにそうに微笑んでいる。
懐の一枚の葉に心を寄せる。
もう唇を動かす事もままならないが、声にならない声で叫んだ。
「愛してます、フシ……」
次の瞬間、全ては止まっていた。
眼下に溶鉱炉へ消える僕が見える。頭上にはそれを追うように落下する奴の姿が見えた。
そうか、僕は……。
思ったよりも死とはあっけないものだった。
「今だ、黒の方! 僕を連れて行け!」
僕の足元には黒い影が迫っている。僕の魂は、恐らく僕だけのものではない。魂が肉体から解き放たれた時、再び元の持ち主の元へ還っていくのだろうと思う。
しかし僕は、この呪われた宿業を繰り返す訳にはいかないんだ。
不吉な影は僕を絡めとろうと這い上がる。何度も夢に見た生暖かい不気味な感覚がザワザワと音を立て這い上がってくる。
……去ってはいけません……まだ、まだです……彼のココロを……アイを手に入れるまでは……。
影は僕を捕らえようと無数の手を伸ばす。それを必死に振り払い力一杯叫んだ。
「僕はあなたと一緒には行かない! あなたの一部にはならない! フシを解放しろ‼︎——」
黒尽くめの男が額に手をかざす。カハクは跡形もなく消え、不吉な影は虚しく空を掴んだ。