この世で一番怖いのは 目を開くと、そこは知らない部屋だった。ボクはそこで、見覚えのないベッドに寝かされていた。
「……?」
しかし、ボクは少しも驚かなかった。それどころか、恐怖や警戒、疑念といった、本来なら発生するはずの感情が全くわかなかった。
ベッドの中から周囲を見渡す。やはりどこもかしこも記憶にない。窓の外に広がる彼岸花畑も、遠くで流れるメロディも、部屋に漂う甘い匂いも、何もかも。異常事態であるはずなのに、心は警報の一つも鳴らさない。だが、ボクの論理的な思考が叫んだ。この状況はおかしい、ここから逃げ出さなければならない、と。
自分でこの部屋に来た覚えはない。ならば誰かに連れてこられたのだろう。一体誰が? 何のために? 分からない。推理しようにも手がかりがない。まずはこの甘い匂いの発生源を辿り、少しでも情報を得よう。ボクはそう思い至ると、ベッドから下りた。
部屋を出ると、甘い匂いはより強さを増した。コトコトと何かを煮立てる音が聞こえたのでそちらに向かうと、キッチンにて大きな鍋が火にかけられていた。鍋の中を覗き込むと、赤黒い液体がぐつぐつと煮えたぎっていた。どうやら、赤い花を煮詰めてジャムを作っているようだ。
「たべる?」
後ろから、声をかけられた。振り向くと、おなじみの丸っこい桃色がそこにいた。いつもと変わらぬ様子の彼。しかしその笑みに、ボクはどこか薄ら寒さを感じた。しかし、またしてもボクは恐怖も警戒もしなかった。それに対する疑問すら浮かばなかった。
彼はスプーンで鍋の中からジャムを一匙すくうと、ぼくに差し出した。スプーンの上で、赤黒くてらてらと鈍く光っている。
「はい、あーん」
何故だろう。得体の知れないものを食べさせられそうになっているのに、拒もうという気持ちが少しも芽生えない。ボクはローブの口元を指で緩めると、スプーンに口を近づけた。
――ガシャン。
「■■■■ 逕溘″縺ヲ縺ヲ縺サ縺励°縺」縺溘縺ォ」
「……カービィ?」
目を開くと、カービィが傍らに寄り添って、ボクの手を握っていた。そこはカービィの部屋で、ボクはカービィのベッドに寝かされていた。
「マホロア!」
ボクの覚醒に気がつくと、カービィはガバッとボクの胸に飛び込んできた。
「ウワァッ」
突然のことで受けとめる準備ができず、無防備に押し倒された。カービィは構わずぐりぐりと頬を擦り寄せてきた。もちもちとした心地良い感触が、ようやくここが現実であること、先程までの光景はただの夢だったことをボクに理解させた。
「ククッ! もう、ドウシタノ? カービィ」
いつになく甘えたなカービィに可笑しみを覚えて、ボクは喉奥で意地悪く笑った。彼の頭を撫でると、カービィは気持ちよさそうに目を細めた。
ふと、夢の中で見た光景に思いを馳せる。最後の音は、鍋が落ちた音だった。床にぶちまけられた赤いジャムは、まるで彼岸花の亡骸のようだった。目が覚めてみると意味の分からない夢だと思うが、夢の中では物悲しい光景だと感じた。そういえば、夢の中の彼は、最後に何か言っていたような……。何となく気になって、記憶を呼び起こそうとする。しかし不意にカービィがぐいっと顔を近づけてきて、思考を中断された。
「ねえ、ごはん食べよう! ぼく、お腹すいちゃった」
カービィは満面の笑みを浮かべてそう言った。それはあまりにも脳天気で、バカみたいで――ひどく、眩しくて。夢のことなんて、なんだかどうでもよくなってしまった。
なぜなら、キミがボクのとなりで笑ってくれるこの現実の方が、ずっと大切だから。
「クククッ、キミはホントーに食いしんぼダネェ。じゃあ、ドコカに食べに行くカィ?」
「うんっ! ほら、早く行こう!」
ボクはカービィと手を繋いで外に出た。見上げると、秋晴れの清々しい空が天高く広がっていた。
忘れ物しちゃった――そう「うそ」をついて、ベッドに戻る。ちょうど彼が横になっていたところに、しおれた彼岸花が落ちていた。
ぐしゃり。ぼくは花を手に取ると、完膚無きまでに握り潰した。醜い断末魔の叫びが手のひらの中で聞こえるが、構わず潰し続ける。やがて灰のようにばらばらになったそれを、ぼくはゴミ箱に打ち捨てた。
いつだかマホロアは、ぼくに「パラレルワールド」について話してくれた。ぼくたちとは異なる世界に生まれ、異なる運命を辿った「ぼくたち」がいる。そんな話を。その時はピンとこなかったが、今なら分かる。
アレは、かつてぼくだった「何か」だ。
マホロアを救えず、そしてそれを受け入れられず、ついには「他の」マホロアを標的にした――かつては「星のカービィ」と呼ばれていたはずの、哀れな化け物。
マホロアは奴に心を囚われて、この数日、ぼうっとしたまま寝食も取らずに衰弱しかけていたのだ。ぼくは時空を越えるローアの力を借りて、どうにかマホロアを助け出した。マホロアには、アレがぼくと同じ姿に、鍋の中は甘いジャムのように見えていたらしい。だがぼくからしたら、アレは赤黒い肉塊にしか見えなかったし、鍋は不快な腐乱臭しかしなかった。助けられたからよかったものの、もしも手遅れになっていたらと思うと――はらわたが煮えくり返る思いだ。
「……渡すものかよ」
やっと帰ってきてくれたんだ。
どこかで生きていると、いつか会えると、そう信じ続けるほかない、もどかしい日々。ずっとずっと彼の帰りを待ち続けた。きみの生を祈り続けた。もしかしたらもう……と脳裏をよぎる不安を、必死で振り払いながら。
そんなぼくの前に、マホロアはひょっこりと現れた。なんでもない顔をしてるけど、あんな異形に作り変えられたんだ、帰ってくるまできっとすごく大変だったはず。それでもきみは、ぼくのもとに帰ってきてくれた。
きみの作ったもので遊べる。手をつなげる。きみと笑いあえる。ぼくたちの幸せは、多くの障壁を乗り越えて、ようやく掴み取った幸せなんだ。それなのに、横から掠め取られてたまるものか。
魂を啜られても尚、君が呼んでくれた名。どれほど危機に瀕しても、皆が希望を託した名。――星のカービィ。ぼくは、この呼び名が好きだ。大切な場所、大好きなともだちへの想いを突き通すための、勇気と力をくれるから。
その名を失ったモノなんかに、あの子は渡さない。
「――舐めるなよ」
どんな悪夢よりも、絶望よりも、理解の及ばない怪異よりも。
この世で一番怖いのは、このぼくだ。