黎明の齎す真紅 赤く表示される『黎明』の文字を見て、溜息を吐く。
……最初の試練が深紅か。厄介なことになるだろうな。
6日目。情報チームが開放されたばかりの日。今日から試練が出始める、一つの山と言ってもいい日。
――ある意味、『今回のX』を試す日。
試練というものを見るのも初めて、鎮圧のための指示出しもほとんどしたことがない、どころかキュートちゃんはほっとけば勝手にオフィサーを食って収容室に戻っちまう。実質初めての鎮圧指示だ。今日収容したやつはおぼろげだが何となくは思い出せた。なにせ初っ端の作業で脱走させちまったからな。確か、『捨てられた殺人者』だっけな。
すぐに鎮圧に入れたからあまり被害は受けなかったし、今いる職員全員でかかれば大した時間もかからず鎮圧できることはわかった。それは収穫だ。にしても。
REDダメージに耐性のある防護服ではあるのだが、それでも大分痛ぇ。体力と耐性を加味しても俺が最前線に立たないといけないってのに。ここまで打撃が痛かったっけか。俺の攻撃も効いてるのかどうなのか、まるで手応えがなかった。確か奴はRED耐性があった気がするから多少は仕方ないが、それでも……どうしても不安が残る。たかだかTETH程度のアブノーマリティ相手に苦戦するという事実。本当にこんなもんだったか?俺が貧弱なだけか。
繰り返すたび、突きつけられる事実。
「きっつ……」
深紅の黎明の対策なんて知らないに決まってる。さらに脱走アブノーマリティが2体。鎮圧の指示は不慣れ。
最悪の事態も想定しておいたほうがいいかもしれない。
琥珀よりは……マシか。最初は無難に紫か緑が来てほしかったが、贅沢も言っていられない。今の力で今できる全力を尽くさないと。TETHクラス程度にも苦戦する、今の力で。
溜息を吐かずには居られなかった。溜息吐いてると幸せが逃げる?知った事か。むしろ逃げるのはアブノーマリティだ。勘弁してくれ。
誰も事前の対策を知らない以上、俺だけが対策を練っても意味がないことは解っている。それでも考えずには居られない。完全に条件反射だ、あのクソピエロめ。予めキュートちゃんと殺人者の収容室前に職員を待機させろ、なんて言えるわけがない。だがそうでもしないとまず確実に脱走される。殺人者はメインルームから近いのでまだいい。キュートちゃんの収容室はメインルームから遠すぎる。気づいてから向かってもあの距離と今の足の速さじゃぁ到底無理だ。試練がアブノーマリティを脱走させるという事実にどのくらいで気づけるだろうか。
気づくタイミングが早ければ早いほどあのクソピエロを迅速に倒すという選択肢が出てくる。問題は、気づくのが遅かった場合と、クソピエロを後回しにするという選択肢を選んでしまった場合。こうなったらいたちごっこを覚悟しないといけない。それこそ、脱走アブノーマリティ2体に挟まれて死ぬ可能性だって出てくる。それだけは避けたい。
そもそも試練というものを知らないから、予め職員を作業させずに待機させておくという発想すらないだろう。
駄目だ。考えれば考えるほどどん詰まりだ。畜生、なるようになれだ。誰も死なせないことをひとまずの目標にするか。
暴走アラートと同時に端末に試練発生アナウンスが表示される。試練が発生することに管理人が予め気づいて、コービンの言葉から何が起きても良いように身構える事ができた。最初の流れとしてはまずまず。さて、この後だ。
敵性個体侵入を示す赤色灯が灯る。予想はしていたが、やはり殺人者の収容室か。メインルームから近いのは良いが、俺とグレゴリーの二人、それも試練発生からそこそこ時間が経っている。――間に合わないな。切り替えるか。
予想通りあのクソピエロは殺人者のクリフォトカウンターを下げて行きやがった。奴が脱走する。ひとまずメインルームから引き離して――よし、ここなら。
深紅の黎明を叩くようにと、グレゴリーを先に行かせる。慌てて殺人者の鎮圧指示を出し始める管理人。おっとそこでストップだ。
「こっちは任せとけ管理人、他を見ろ!」
放っておくとキュートちゃんも逃されて確実にまずい事態になる。さっき相手した際に現状での感覚は掴めた。今の防具なら大分耐えられるはずだ。せめて俺一人で殺人者を抑えている間に、他の皆でクソピエロを1匹でも減らしてくれ。
キュートちゃんだって皆でかかればいけるはず。なんならオフィサー一人くれてやれ。最悪俺はどうなってもいい。鎮圧指示に不慣れな管理人のことだ、2個所同時に見るなんて今は無理だろう。俺のことは見なくて良い。俺は耐えられるから、その間にクソピエロを……。
コービン、いい、キュートのやつは相手しなくてもいい、あいつはオフィサー食わせときゃしばらくはほっとけるから、今はクソピエロだ。試練を、試練を先に、
「がっ――、……ぁ」
気が逸れた隙を逃さないように脇腹へ一撃ぶち込まれた。呼吸が詰まる。く、そ……
「さすがに……一人だときついな」
思わず零しちまった。管理人、違う、撤退しなくてもいい、俺はまだ耐えられるから他の奴らを見るんだ。俺が離れたら殺人者が何処行くかわかんねぇんだぞ。……クソッ!
大振りな攻撃の隙をついて裏へ回り、メインルームへ走る。痛ってぇ……肋逝ったか。内出血も酷いだろうな。もうちょっと行けると思ってたんだが、ろくに鍛えられてない自分の身体舐めてたわ。情けねぇ。少しでもメインルームで立て直さないと……
「くそ、メインルームまで追ってくるか!」
畜生、再生リアクターが封じられた、コントロールチームへ逃げるか?適当にオフィサーでも潰させ……
駄目だ。管理人はオフィサーですら死なせたら気負う気質だ。さっきの鎮圧でも聞こえてきた。
――「ごめんなさい、オフィサーさん……僕には、貴方達を救うことは出来ません……」
オフィサーなんか気にするんじゃない。オフィサーなんか、ただの餌だ。オフィサーなんか……
ああぁぁ、クソっ、腹括るしかねぇか。
「ここで迎え撃つしかないな……」
わざとらしく大声で宣言して場所をアピールしておく。まぁ殺人者がそこいらをうろつくよりかここで足止めしておいたほうがマシか。やるしかない。キュートの奴はオフィサー食ったな、よし。その方が手っ取り早い。
増援、こっちに寄越すのか。……すまない。それなら耐えられるうちに頼む。
一足早くグレゴリーが駆けつけてくれた。だがグレゴリーの防具は俺のより耐久力で劣る。なら俺がこのまま引き付けて……
殺人者が横薙ぎに鋼鉄の頭を振るう。避けきれずバランスを崩し、片膝をついてしまう。横に薙いだ頭部をそのままの勢いで振り上げ、体を反って体重を全部乗せた鋼鉄の頭を叩きつけてくる。駄目だ、避けられない。咄嗟に両腕でガードしようとして、肋の痛みに気を取られる。受け止めようとした左腕が耐えきれず鈍い音を立て、やや勢いを失った鋼鉄の塊が左腕ごと額の辺りに重々しい衝撃を叩きつけた。
「――っ」
頭が揺れる。目の前が真っ白になる。力が抜ける。衝撃で前のめりになった俺の身体を、殺人者が鋼鉄の頭部を振り上げる動作で吹き飛ばす。吹き飛んだ勢いでメインルームの中央付近まで転がる。まずい、俺が離れたらグレゴリーが狙われる。
立たないと。全身に激痛が走る。まともに呼吸も出来ない。うつ伏せの体勢から右腕に力を込めて膝立ちに。左腕が痺れて感覚がない。視界がゆらりと傾く。思わず左手を床についた瞬間、痺れの原因が身体を貫いた。
「――っ……ぐ、ッう、はぁ、……っぁ、ッ」
血まみれで歪んだ左腕。敗れた防護服の隙間から骨が覗いていた。一気に意識が引き戻される。全身が痛い。立たないと、このままじゃグレゴリーが、この身体で何ができる、それでも……俺が行かないと……
「加勢します!」
メインルームの扉が開く。コービンがすかさず殺人者の前に立ち、攻撃を一手に引き受けるよう構えた。合わせてグレゴリーが横に退き、こちらに駆け寄って手を差し伸べた。グレゴリーも大分ダメージを負っているだろうに。すまない。心の中で礼混じりの謝罪をしてから差し伸べた手を右手で掴み、なんとか立ち上がる。
コービンが攻撃を耐えている横をすり抜け、ふらつく足でメインルームを出た。一歩踏み出す度にその振動で左腕から痛みが響いてくる。全身の痛みをまるごと上書きする激痛。一歩踏み出す度、身動ぎする度、痛みが走る。
ふと顔を上げる。視線の先には、駆け寄る皆の姿。 ――よかった――
管理人の安堵の声が遠くから聞こえる。鎮圧できたか。緊張が一気に解けて、力が抜ける。
まともに立っていられない。壁にもたれかかる。もたれかかった瞬間また左腕が悲鳴を上げる。
「ぐ、ぁぅッ」
思わず漏れた声にカイルノが反応した。「……大丈夫っすか?」「何とかな……」喉がカラカラで、声すらもろくに出ない。それでも絞り出す。
「助かったよ、……ありがとう、皆」
このまま座り込んだらもう立てない気がして、力の入らない足で踏ん張る。そうだ、まだ終わってない。
目の前にあのクソピエロが現れた。殺人者の収容室の前。お前が最後か。
「――ッ、づ、らあぁぁぁぁっ!」
ここで終わらせる。俺の痛みを全て右手の鋭い爪に込めて振り下ろした。しまった、破裂――
なるべく受ける面積を減らすように、破裂するヤツに対して右肩を向けて衝撃に耐えるよう力の入らない足に鞭打つ。焼けるような痛みを右半身で受ける。なんだ、意外と、大したこと……ねぇじゃん。
出血が酷い。視界が暗くなる。なのに痛みのせいで意識は朦朧としつつも落ちることなく何かにぶら下がったような状態だ。……寒い。……眠い。……戻れる、だろうか。皆が拾ってくれた命を、なんとか、メインルーム……に……
「……はぁ、はぁ、あ、……あ、あ、ぅぁぁぁぁッ!」
壁に左肩を打ち付けた。べしゃ、と壁に血の花が咲く。目の前に火花が飛び散り、意識が飛びそうなほどの激痛が苛む。そのまま前のめりに走る。痛ぇ。痛いうちはまだ大丈夫だ。左の指先からぽたりぽたりと一步踏み出す度に血が滴る。動けよ、あとちょっと、足、動けよ、動けよぉぉぉォォッ!
最後は半ば倒れるようにメインルームに飛び込んだ。右半身で受け身を取ったつもりだった。左腕は動かせない、右腕は左腕が動かないように押さえているから、手をつくことなんてできない。床に肩が触れるまでクソピエロの破裂をまともに受けたのを忘れていた。
衝撃で左腕から迸る激痛と、破裂のダメージが残る右半身が床と接触して擦れる激痛。左右から同時に生きている証で攻め立てられ、呻きとも雄叫びともつかない、声にならない叫びが響いた。
暗い視界の中、メインルームの奥からグレゴリーが医療部門のオフィサーを伴って走ってくるのがかろうじて見えた。
「痛ぇ……」 痛いならまだ、まだ……大丈夫。
誰も死なせることなく乗り越えた。上出来だ。皆、よく……頑張ったよ……
もうすっかり感覚がない。果たして痛いのかすらもわからなくなってきた。出血が生温かく防護服を濡らし、なお溢れて血溜まりを作るのだけはなんとなく感じ取れる。この感じ、右半身も酷ぇ事になってそうだなぁ……再生リアクターで、間に合う……かな。
……生き残れた。生き残れたんだ…… かろうじてぶら下がっていた意識が支えを失って落ちる。暗い闇の中、真っ直ぐ、深く、落ちて行く。
――また目を開けても、同じ顔ぶれだといいな――