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    アロマきかく

    @armk3

    普段絵とか描かないのに極稀に描くから常にリハビリ状態
    最近のトレンド:プロムンというかろぼとみというかろぼとみ

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    アロマきかく

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    この物語にハッピーエンドは存在しない。

    先に4000字以上削り出しておいてまだ10万字制限ギリギリで戦うならもう別のとこ投げろよ!とは思う。でももう投げちゃったものは仕方ない。

    『木陰』・『月明かり』に続く、蛇足も蛇足。
    森林浴の約束見て勢いで書いて、それの補足であり蛇足。
    そして陰ながらDay49の応援。気が早い?

    この世界にハッピーエンドは存在しない。
    知らないからこそ目指そうと思える。

    #ろぼとみ他支部職員

    夏の日差しに、ふたり『僕の話からしましょうか。たぶん、ダフネさんの話よりはずっと早く終わると思いますし』
     エックスが自らを落ち着かせるように深呼吸をしようとして、さっと悲哀を帯びた顔色になる。どうしたんだ。
     目を伏せ、視線を逸らすエックス。小さく肩を震わせながら胸に右手をあててシャツを握りしめ、じっと数秒。
     少し顔を上げ、話し始める。

    『僕は……皆さんを置いて、無責任に逃げ出してしまった、管理人失格な……ただのXなんです』
    『おい、そこからなのかよ。どうしようもなかったんだ、あんたのせいじゃない。そこらへんも含めて、色々話すからさ』
     すぐ終わりますから、”色々”はそのあとで。
     口を動かさずにエックスが遮る。直後、はっとなって口に左手を添えた。まだ口を動かさずに”声”が出せることに慣れていないんだろう。それでも、せめて口を動かして喋りたい。せめて人としての活動を忘れずにいたい。そんな意思が見て取れる。
     出番が終わったからってとっとと退場するような真似をする俺には……少し心が痛いな。
     ゆっくりでいいからな。こちらもややゆっくりめな速度でエックスに伝えた。エックスは小さく笑って、僅かに頷いた。
    『やっぱり優しいですね、ダフネさんは』
     やっぱりって何だよ。完全に不意打ちじゃねぇか。あぁ、また赤面してるように見えちまう。
     またエックスに笑われた。さっきよりも小さく、だったが。
     あらためて、口が動いていることを確かめるように。ぽつりぽつりとエックスが話し始める。
    『僕はただ辛いからという理由で、安易な逃げ道に縋りました。皆さんを見捨てて、一人だけ逃げました。誰が何と言おうと、これは管理人としての罪です。……首を吊ったときの苦しさはハッキリと覚えています。苦しいというか、凄く、痛いんですね。死ぬつもりなのにもがいちゃって、そのうち首の骨が自重に耐えきれなくなって。ピシッという音が脳に響きました。それが、多分……死ぬ前の最後の記憶です』
     首吊りは俺もやったことがある。点を飛び始めて間もない頃だったか。この境遇から逃げ出したくて、色々死ぬ方法を模索していた時期があった。時間帯を変えたり、手段を変えたり。――結局目を開けたら別の点にいる。何回試したんだったか、どのみち逃げ場は無いのだと諦めた。
     エックスの言う通り、首を括った時は本当にキツかった。いざまた自害する機会がきたとしても二度とやるものか、と思ったもんだ。そんな機会そのものが来てほしくなかったけどな。……そのあたりもたっぷり話すネタがある。エックスのトラウマ抉らないといいんだが。
    『恐らくは首の骨が折れたあと……意識をなくして、そのまま――。その後はずっと暗闇の中。後悔という概念以外何もありませんでした。只々後悔していたということだけが、染み込むように残っていて。――不意に、光を感じたんです』
     暗闇、ねぇ。まさか”あそこ”じゃないだろうな。
     多分違うか。”あそこ”は思考すらも無くなるから。
    『最初は、外に出られたことを半ば信じられないながらも喜んでいました。すぐに罪悪感に変わりました。皆さんを置いて逃げた僕が、のうのうと外に出てしまっていいものか、って。そのうち違和感を覚えて……』
    『……』
     今の状況を鑑みれば、違和感の正体は明らかだが……。なぜ”ここ”へたどり着けたんだ。
    『あんなに求めていた外の空気と日差しだったのに。息を吸っても肺が膨らむ気配を感じないんです。太陽を裸眼で見つめても眩しさを感じないんです。風が吹いて、街路樹やお店ののぼりは風を受けて揺らいでいるのに、……僕の髪も、服も、微動だにしませんでした』

     衝撃だった。この点のエックスと一緒に森林浴をして、日差しと空気を堪能して。それで勝手に、あんた親友との約束も果たしたつもりになっていた。
     惨すぎるだろ、こんな仕打ち……なんで、なんで一番叶えたかった願いが叶わないんだよ……!
     あぁ、そうか。さっきの顔はそれか。落ち着くための深呼吸すらままならないってか。だからこそ、人としてできることは余すところなく成したい。ちゃんと”口を動かして喋る”ことだってそのひとつだったんだ。
    『僕は、せめて何かに報いたかった。逃げ出したままなんて嫌だった。……報いを受けたのは自分だったんです』
    『エックス……』
     声は震えるのに、涙は流せない。エックスもとっくに涙声なのに、涙は一滴も流れない。せめて泣かせてやってくれ。酷ぇよ、こんなん……
     手も握ってやれない。肩を抱いてもやれない。何も出来ない。罪悪感と無力感が同時に苛む。痛い。心が、痛い。

    『報いを受けるなら受けるでなんとか贖罪しようと思って、ひとまず周囲の様子を見てみました。わかったのは、僕の姿が誰にも見えていないことくらいでした。往来で他の人と肩がぶつかったりもしました。ぶつかっても、何だったんだろうって顔をして、こちらを見もせずにそのまま立ち去って行くんです。僕が受ける報いは想像以上に大きいものなんだと、そのとき思いました」
     ただの幽霊とかそういう代物じゃない。肩がぶつかる。きっと正確には”魂が織りなしている肩”が、ぶつかっていたんだ。床だの壁だのをすり抜けたりなんてことができないのも、”障害物は通り抜けられない”という概念が魂に染み付いているからなのだろう。
    『絶望しました。何をするでもなく、宛てもなくひたすら歩きました。どんなに歩いても疲れを感じませんでした。……もういい加減気付いていました。僕は死んだままここにいるんだ、って。もう贖罪がどうこう言っていられる状態ではなかったんです。何もできない、ただそこにいるだけの存在。もしかしたら存在していないのかもしれない。僕は確かにここに居るのに。そんなことを考えながら、こうなったら世界の果てでも見てやろうかと、外郭のほうへ行ってみることにしたんです』
     誰にも干渉を受けないなら、外郭を越えて黒い森や遺跡を探索したり、あるいは更にその先へ行けたりするかもしれない。だが行けたところでどうなる。誰にも伝えられない。成果を持って帰ることもできない。
     何もかも成す意味が無い。点を飛び歩いていた時の俺よりかずっと絶望的じゃないか。

    『外郭のほうへ行こうとしばらく歩いているうち、知らないのに知ってる……既視感デジャヴっていうんでしたっけ、そういう感覚が湧いてきたんです。気になって、無意識が導くままにただ歩きました。やっぱり知っている。でも何故知っているのか思い出せない。ずっとそんな感じで。裏路地を抜けて、ほとんど外郭との境目をずっと歩いて。途中、知らないのに知っている建物が目を引きました。ほとんど廃墟でしたけど。ただの廃墟のはずなのに、つい足を止めて、まじまじと見ていました』
    『それ、……あーー……』
     その建物の正体を知っている。だが親友こいつはその存在を知らないに違いない。割って入ってしまったことを後悔する。言うべきか、言わざるべきか。
    『ダフネさん? もしかして知ってたり……します?』
     訊かれてしまった。いずれ話すだろうことだし、最低限の情報だけでなんとかするか。
    『……んーとな、昔のL社なんだよ、そこ。なんやかやあって今の場所に移転してな。なんで既視感を感じるのかは……あとあと話すから、今はとりあえず流しといてくれや。大分長くなるからさ』
    『じゃぁ、後々のためにとっておくことにしますね』
    ……そこまで楽しい話でもないぞ?むしろ聞くときに覚悟しなきゃならんくらいの話ばかりだ。
     これ以上言ってしまうとなぜ廃墟になっているのかの想像が膨らむだろうから、仔細は避けた。
     無闇に踏み入らないでくれて良かった。独りごちる。踏み入ったら、まず間違いなく目も当てられない惨状の名残を見てしまうだろうから。
    『……で、ぼーっとしばらくその廃墟同然の建物に見入ってしまって、気がついたらすっかり日が暮れていました。月明かりがあるとはいえ、ずっとL社の照明に頼って生活してきましたから、もうほとんど何も見えないも同然で。ひとまず裏路地に近づいて、裏路地から漏れる灯りを頼りに歩いたんです。歩くにつれ、だんだん既視感以上に懐かしさを感じるようになってきました。何故かはやっぱりわからないままでしたけど。もうそこからは、灯りが無くてもなんとなくどう歩けばいいのかがわかるんです。暗さに目が慣れてきたのもあります。……太陽の眩しさを感じないのに暗さに目が慣れるってのもなんだか変な話ですよね』
     ふふ、とエックスが笑う。もう展開はわかっていた。わかっていたが、エックスの口……口?まぁいいや、とにかくエックスから聞きたかった。

    『この場所も、なぜか知っていました。知っているはずなのに驚きました。こんなに自然が広がる場所が残っているなんて。裏路地と外郭のほぼ中間ですよ。信じられないと同時に、物凄く懐かしくなったんです。つい奥へと踏み入っていました。疲れることはないのに、一步踏み入るごとに、心臓が高鳴るような感じになるんです。この気持ちが期待なのか恐怖なのかわかりませんでした。でも気になって、今を逃したら機会はないんじゃないか、そう思って、とにかく進んで。開けた場所が見えたので、ひとまずそちらへ向かいました。そうしたら、……』

    『ダフネさんが、立っていたんです』



    『俺も信じられなかった。なぜとか、あるわけないとか、なんで真っ直ぐこっち来られるんだ、とかさ。もう気分が滅茶苦茶になってた』
    『あ、あれ?おかしいな、は、はは……なんだろう、涙、出ないって、思ってたのに……』
     話している間、今までエックスはずっと涙声のままで、しかし一向に涙が流れる様子はなかったというのに。
     突然堰を切ったように溢れていた。顎からぽたぽたと涙が滴っている。
    『ダフネ、さん……っ、ぼ、僕……僕っ、泣けて、ますか?』
    『……ああ。ぐっちゃぐちゃだぞ、あんたの顔。せめて拭けよ……っ、みっともねぇ』
     つられて泣きそうになる。ただ感情が昂ぶるだけで、外に押し流すための涙はもう流れない。だからあんたが俺の分まで泣いてくれ。

     先にエックスの前でみっともなく泣いたのは俺の方だ。
     ずっと無意味に思いつつも生と死を繰り返してきた。死にたくないがために無様に生き延びようと足掻いてきた。ただ死にたくなかった。本当にそれだけだった。
     積み重なったその経験が、皆を助けている。エックスはそう言ってくれた。
     虚無とも思えた俺の生と死が、人生として意味を持った瞬間。
     初めての感情。胸の奥がツンとなって、そこから一気に湧き上がって、もう止められなかった。

     袖でとめどなく溢れる涙を拭きながら、
    『僕は、きっとダフネさんに報いるためにここに居るんじゃないか。そう……感じたんです』
     じっと俺の目を見たあと、恐らくエックスには見えているであろう俺の手を掴もうとして、手を握る形だけ作った。
     目の位置から逆算して大雑把に自分の身体を思い出しつつも、やはり端の方はもう記憶が怪しくなっていた。
     何も無いはずの空間を握るエックス。”右手”に仄かな温かさを感じた。
     俺に、報いるため。つまりこういうことなのか。



     意思疎通ができたのは本当に助かった。エックスはともかく、俺は本当にどうしようもなかったからな。
     一通り再会の喜びだのなんだのを語り合って、エックスは外郭を探索すると言って出かけて……夜には戻ってきた。
     律儀に毎日、俺の目を見てくれるらしい。意識するようにはしているから、2日くらいなら空けても多分大丈夫だと思うけどさ。――意識しても2日か。結構厳しいな。
     俺の目を見ながら、探索の収穫を語ってくれる。最近は便利屋フィクサーが既に探索しきっていて大した成果が出ない、と苦笑いしながら報告してくれる。どんな内容でも、エックスがそこに居てくれることが嬉しかった。

     俺はといえば、夜ごと帰ってくる”こっち”のエックスに自身の境遇を話すところから始めた。
     裏路地でドブを漁ってた頃は空が灰色も同然に見えていたこと、同時に自分自身が空っぽだと感じてしまったこと、なぜかL社の採用通知が来て抽出チームのオフィサーになったこと。そのあとは改めて抽出チームに関しても説明する必要があった。なにせ中層も開放できてなかったからな。
     下層にある抽出チームが正式に管理下に入った日。大規模収容違反のなか、瀕死の管理職と共に逆行時計を発動させたこと。ああ、逆行時計についても説明が要った。正確な時期は覚えちゃいないが、丸いコンテナが表れたのはエックスが首括ってから大分あとだったと思う。少なくとも”こっちのエックス”はまだ見たことがなかったはずだ。
     ともかく、逆行時計を発動させた結果、何故かオフィサーだった俺が管理職になっていたこと。俺が死ぬと別の時間軸へ飛ぶようになったこと。
     当時は管理人Xが存在せず、管理人は初日からAだったこと。
    ……ひたすら作業して死んで点を飛んでを繰り返しているさなか。とある点へ飛んだ際、管理人Aではなく、Aと同じ声と顔をした”管理人X”と出逢ったこと。そして、そいつが今話し相手になっているエックスであること。

     エックスは興味津々に、時には泣きながら、俺の話を聞いてくれた。エックスとまた同じ時間を過ごせることが嬉しくて、要点を先延ばしにして話が脱線することもあった。
     いざエックスと出逢ったところまで話が進んで、あの時に見せてもらったおかげですっかり特撮鑑賞が趣味になったこと、エックスと同じく光の巨人ならネクサスが一番好きなこと。大分脱線していた。
    ……”次の話題”に移りたくなかった。一つ一つの思い出を噛み締めていても、いずれ確実に至ってしまう話題なのはわかっていた。
     もういい加減話題を引っ張るのも限界になってきた頃、珍しくエックスが1日帰ってこなかった。朝帰りのエックスは『ちょっと範囲を広げてみようと思って』とか言っていた。半分は本当かもしれないが、恐らくもう半分はやはり”次の話題”を忌避していたのだろう。

    ……”次の話題”……無名の胎児を収容した結果、どうにもならなくなってしまったあの日。
     いっそ飛ばしてしまおうかと思っていた。エックスが俺の目を見て、俺の視点から話して欲しい、そう言ってきた。
    『あのときの皆さんに、報いることは出来ないかも知れませんけど……せめて謝りたい。心の中でだけでも謝りたいんです。無責任に逃げ出してしまった、早々に諦めてしまった、管理する努力を怠った……僕の罪を、贖いたいんです』
     言葉そのものははっきりと伝わってきているが、だんだん口の動きが減り、下唇を噛んで震えている。溜まったものを堪えているのは明らかだった。
    『あんま気負うなって言ったろ……』
    『もう、吊ろうとしても吊れませんから、大丈夫ですよ。ロープ触れませんし』
     冗談めかしてわりとシャレにならないことを言うエックス。そうか、魂のない物には触れないのか。そのくせ壁や床は固定観念のおかげですり抜けられないと。まぁ床すり抜けて埋まっちまっても困るからそこはしょうがないか。
    『でもあんた、自分のベルト引っこ抜いて吊るしてたろ。俺ちゃんと覚えてるんだからな?』
    『自分でも忘れてたのに、よく覚えてますね……』
    『忘れられるわけねぇよ、あんなん』
     実際、あの日を契機に俺の目的が”エックスに外の空気と日差しを浴びせること”になった。忘れたくても忘れられない。忘れちゃいけない。
    『……本当に、約束してくれてたんですね……。ごめん、なさい……ありがとう、ござい、ます』
     泣きながら謝罪と礼を言うエックス。”この点”のエックスと森林浴をしたことを、話して良いものか。
    ……いずれは、話さないといけない。

     涙を流すことにはすっかり慣れたようだが、やっぱり口を動かすのはまだまだ意識しないとできないようだ。
     すぐ側に居るエックスの涙を拭いてやりたかった。
     すぐ側に居るのに何もしてやれない。この感情のやり場すらない。
     泣き腫らしたエックスが、俺の右手と思われる個所を握るように手の形を作る。そのまま自分の泣き腫らして真っ赤なままの頬に持っていく。
    ――どうして。驚きが顔に出たのだろう、エックスが笑いながら俺の目を見る。目を合わせると、より確かな感触を覚える。
     なくなったわけではない。ただ忘れていただけだった。
    『……エックス……』
     言葉に詰まる。この感情をどう表現すれば良いのかわからなかった。嬉しい、それは確かだ。
     エックスの気遣いに、すまない、ありがとう、どう答えるべきなのか。
     感情に関しては、本当に不器用だ。昔からずっと。

    『ダフネさん、ずっと手が動いていなかったんです。見えているからそこにあるはずなのに、ずっと指先すら動かなくて。このままじゃ本当に手があったことを忘れてしまうんじゃないかって、そう思って……』
     実際忘れかけていた。手がそこにあることはかろうじて覚えているが、動かし方はとっくにわからなくなっていた。
     急に合点がいった。エックスは魂のあるものなら触れることが出来る。エックスにとって俺の魂はヒトでもあり樹でもある。ただ見方を変えるだけ。ヒトに見える方の魂に触れりゃ、ヒトの魂として反応が返ってくるに決まってる。
     なまじ身体のほうに引っ張られていたせいで、幹や枝葉にばかり意識が向いていた。
    ――今の身体はずっと欲張って執着して我儘を通し続けてきた、俺への報いなのだろうか。報いを受けている。報われている。
     エックスに報われている。
    『ありがとうな……エックス』



     流石にエックスも1日空けてしまったことには不安を抱いたらしい。
     外郭のほうではなく、裏路地から巣の方へ行ってみようかと言い出してきた。
    『ここからおよそ半日で行って戻って来られる範囲だと、もう外郭のほうは粗方見ちゃったんですよね。でもダフネさんのことも心配だし、今度はある程度人のいる方を歩いてみたいんです』
     やはり気を遣わせてしまっている。
    『すまない』
     短く伝える。ダフネさんはずっとダフネさんでいてほしいから。そうエックスが答えた。
    『だから、これは僕のためでもあるんです』
     今度は左手に触れる。何となく何かが触れているようないないような。
     左手を取って、両手で握った形のまま目を見る。急に感覚が表面化した。
    『これを繰り返せば、いずれは思い出せるんじゃないかなって。これは僕自身の自己満足で、ダフネさんがこれで報われているのかはわかりませんけど』
    『十分すぎるくらい報われてるよ。俺だってヒトとしての俺を忘れたくないんだ。でも今の身体にどうしても意識が引っ張られる。だから……あんたに……支えていてほしい』
    『はい!』
     昔から、再会してから、記憶にあるなかのどれよりも、力強い返事だった。

    『人の居る方となると、あんたにとっちゃ嫌なこと思い出しちまうんじゃないのか?』
     エックスは誰にも見えていない。生きている人間に触れることこそできるが、見えない以上はそれっきりだ。
    『うーん、見えないなら見えないなりに色々できるんじゃないかなーって、はは……』
    『まっさか、スケベなこと考えて……ねぇよな?』
     ものすごい勢いで首を横にぶんぶん振るエックス。ははは、わかったわかった。
    『そこに人がいる以上はどうしても比較しちまうからな、辛くなったら戻ってこいよ。辛いことを辛いって素直に吐き出すのはすげえ大事なんだぞ』
    『わかりました、ありがとうございます。ダフネさん』
    ――あんたの実質的な死因は、それだったんだから。あの惨事を話題に出したときにも念を押しておいたが、もう一度改めて念を押す。



     エックスが裏路地方面に足を伸ばし始めてから数日が経った。やはり毎日夜には戻ってきて、何があったか、どんな人がいたか。仔細に語ってくれた。暇さえあれば俺の目を見ながら。
     動かない……動かし方を覚えていない俺の手に触れることが増えた。”視線”を下に向ければ確かに腕は見えている。見えている腕が動かない。見えている腕がエックスの手に触れるのは感じ取れる。確かに俺の腕はそこにある。エックスが手を離すとだらりとまた腕が垂れる。今の今まで感じていたものがすべて霧散する。
     エックスから貰ったものを一瞬のうちに手放しているような気がして、心が痛い。もうこの腕は永遠に動かないんじゃないか。動かし方を忘れたんじゃなくて最初から知らなかったんじゃないのか。そうとすら思えてくる。
     きっとこのやるせない不安も、忘れたくない恐怖も、顔に全部出てしまっているのだろう。時折エックスが下から覗き込んでくる。本当は目を合わせているのが申し訳ない。目を逸らしたい。目を逸らしていたらそのうち俺そのものが霧散してしまうかもしれない。――怖い。

     目の位置こそずっと意識はしているが、エックスが戻るまではそれ以外特に何もすることはない。
     ただ、暇を持て余すという感覚はなかった。なんとなくぼーっとしていることが増えた。暇が気にならないとでも言うべきか。
    ……まずい傾向だな。やっぱり身体に引っ張られている。
     考えに耽っているつもりだと思ったら、結局何も考えないまま時間だけが過ぎていたということもあった。

     身体の本能的な活動が優先されるようになってきている。
     思考を止めたくない。何か考えろ。
     今夜エックスには何を話そうか。エックスは変な所に潜り込んでいやしないか。まぁあいつも男だからな、多少はそういう……いや、あるのか?今のあの身体で?
     俺はどうだ。どこかに良い雌株生えてねぇかな……とか?ほらこれだ。俺を接ぎ木したらどうなるんだろうな。
     あーー、まずい、まずいぞこれは。
     エックス……早く戻ってきてくれ……


    …………


     揺さぶられている。何が?どこを?全身?……眠いからあとにしてくれよ……たまには眠らせて……
    『ダフネさん!』
     立ったまま眠れるのはありがたい。もう目を閉じる度に怯えなくても……いい……?
     目の閉じ方がわからない。どうやって眠っていた?
    『ダフネさん、ダフネさん!?』
    『……ああ、エックスか、おかえり。何か面白いものあったか?』
     今日はどのあたりまで行ったんだ?何でそんなに泣いてるんだ。トラウマ思い出したのか?

    『おかえりじゃないですよ、声かけてもずっと無反応だったんですよ!』
     そういえば何となくウトウトしていたような気もする。眠気にそのまま乗っかって眠れるのはこんなに幸せなことだったのか。そう感じたような覚えもある。
    『あー、そりゃ悪かった。何時間くらい寝てた?』
     涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしたエックスの言葉が理解できなかった。
    『ふ、二日……』
    『ふつ、か……そっか、ふつか、かぁ……』
    『ダフネさん!!』
     きっ、と眉を顰めてこっちを見るエックス。もしかして少し目の位置ズレたか?エックスの視線に合わせて修正する。
     眠気が覚めてきた。エックスが両手で俺の頭――だと思われるあたり――を両側からがっしり挟み込むように押さえる。
     そのまま跳び上がって額を視線のやや上にぶつけてきた。頭突きか?確かに衝撃を感じた。
    『あっ、痛てぇ……いきなり何するんだよエックス』
    『起きましたか!おき、ましたね?二日……ずっと、反応、なくて、――っ、僕、もう、』
     二日。
    『二日ぁ!?何でそんな、そんなつもり全然……』
     確かにウトウトとはしていた。軽い昼寝のつもりだった……と思う。二日だって?あり得ない……いや、今の状態だとあり得るかもしれないのか。
     少し落ち着いたのか、鼻水を啜りながらぽつぽつとエックスが語りだす。
    『……僕が戻った時、ダフネさん少し上を向いたような姿勢で目を閉じてて、すごく気持ちよさそうだけど、でも昼寝にしては長いなって思って、声をかけたんです。声をかけたのに、全然反応がなくって……。見えはするから、手やほっぺた、何度も触れながら呼んだんですけど、それでも……起きなくって……夜、明けちゃって、朝になったら起きるかなって、様子を見ても、起きる気配全然なくって……』
     エックスがしゃがみ込む。
     そういえば再会してから、座ったりしゃがんだりという姿を一切見なかった。疲れることはないからいいんですよと言って、ずっと立ちっぱなしで話していた。たまに立ちっぱの姿勢に飽きるのか、側にある木に寄りかかってたりもしたが。
     しゃがみ込んだままのエックスは、そのまましばらく黙ってしまった。嗚咽と鼻を啜る音だけが木々や草のざわめく音に混じって、異質な音を立てていた。

    『……エックス』
     しゃがんでずっと俯いているままのエックス。嗚咽は大分収まってきていた。
    『もしかして……』
     こちらを向く気配はない。嫌な予感がした。

    『さては滅茶苦茶本気で頭突きしたな?頭クラクラしてんだろどうせ』
    『僕がどれだけ本気で心配したと思ってるんですかぁ!』
     ようやくこちらを見上げてまた涙声になりつつも叫ぶ。わわっ、とふらついてそのまま尻餅をついた。その様子に思わず笑ってしまう。
    『だって二日ですよ……もうこのまま……起きないんじゃないかって』
    『悪かったって』
     おそらく俺の額であろう場所がじんじんと痛む。俺ですらまだ痛いってことはエックスは相当だろう。よっぽど後先考えず本気でぶつけたんだな。そのおかげで、少なくとも額らしき場所はわかる。
    ……ヒトだったときの眠りたいという欲と、樹としてぼーっと過ごす時間が噛み合ってしまったのかもしれない。なんだかんだ、樹だって夜は眠るからな。この身体にも眠るという概念はある。そうだ、眠気に乗っかってそのまま眠れることが幸せだって、完全にヒトの頃の欲望のまま眠ってたのか。身体は樹だから歯止めが効かなくなってた?
     少しずつ、混ざってきているのだろうか。

    『……ダフネさんが朝になっても起きないから、探索に出かけるのはやめました。ずっと手を握って呼びかけていました。……喉が枯れないっていいですね。見えてはいるんです、指先や爪先まで。だからもう、ほとんど全身をぺちぺち叩きながら呼び続けたんですよ』
     あっ、その、変なところは触ってませんから。慌てて取り繕うように付け足す。
     その変なところ、多分もう機能してないんじゃないか。自虐で心のどこかが苦しくなる。
    『日が高くなっても、夕方になっても、……起きないんです。もうだめなのかと思いました。ふと思ったんです。あまり良くない方法だとは思ったんですけど……』
     良くない方法。エックスにとって。俺にとって。
    『樹のほうを、揺すったんです』
     エックスは俺をダフネとして見ていたい。だからずっとヒトとしての俺の魂に触れていた。それでは目が覚めなかった。
     俺は勿論ヒトとしての俺を忘れたくない。だからエックスにヒトの輪郭や感覚を維持してもらっていた。それが意味を成さなかった。
     樹としての俺の魂を刺激するのは……そちらのほうが効果的だから。
     エックスにとっても、俺にとっても、良くない方法。だが――
    『何度か軽く揺すって声をかけて、そうしたら微かに聞こえたんです。寝起きのような、もっと寝ていたいような、微睡んでいる声でした。こっちに触れないとだめなのかって、悲しくなりました。それでも、起きて欲しいから……ダフネさんと、一緒にいたいから……そうしたら、ダフネさんの目が、開いたんです――っ』
     またしばらく嗚咽が響くだろうな。尻もちをついたままちょこんと座るエックスの頭を撫でてやりたい。
     撫で方がわからない。自分の中で、”忘れてしまっている”というよりも”わからない”という感覚のほうが大きくなってきている。俺は本当に今まで手足を動かせていたのか?
    ――わからない。

     物理的な――魂に物理も何もあるのかという疑問はさておき――ヒトとしての形は、エックスがなんとか維持してくれている。しかし相変わらず腕なんかは動かないままだし、眠っていたくせに目の閉じ方すら忘れる始末だ。
     ヒトとしての俺は、最早抜け殻も同然なのではないか。あるのは意識と記憶だけ。僅かな記憶に縋り付いて、必死にヒトであろうとしていた。エックスにもだいぶ負担をかけている。
     もう、限界かもしれない。認めたくない。役目は終わった。それは重々承知している。
     あるいはヒトとして生き過ぎたのかもしれない。もういいだろう、と。その生き方は疲れただろう、と。誰かにそう言われている気がする。樹としての俺が言っているのだろうか。俺が言うのなら、もう……いいか。
     記憶や意識は残るだろう。それ以外のヒトであった要素……エックスが触れてくれていた感触も、目がどこにあるのかという感覚も、……恐らくはエックスから見えている”ダフネ”であった俺の姿も。全て手放す。
     最後に、せめてもう一度だけ。

    『エックス』
     親友の名を呼ぶ。俺が勝手にそう思いこんでいるだけの親友。
     エックスが顔を上げる。途端、さっと血の気が引いたのがわかる。きっとひどい顔になってるんだろうな。
    『あんたには……俺が何に見える』

     ああ、もう……顔なんてなかったか。
     返事を聞かずともわかってしまった。
     最後にもう一度だけ、手に触れてほしかった。目を見てほしかった。
     エックスの顔が涙でぐちゃぐちゃになる。そう”感じ取れる”。見るという概念はもう俺の中にないから。
     魂が周囲の様子を感じ取っている。感じ取ったままを俺の中に出力する。そこに涙まみれのエックスの顔がある。
     目が映したものを脳に出力するのと何が違う。魂が感じ取ったものを再解釈して出力する。大して変わらない。
     ほら、もう枝の先から”感じる”ことだってできる。少しだけ伸びて天に近づいた枝葉から意識を巡らす。思ったより伸びてたんだな。もういい加減夏だし、そらそうか。

    『これが、俺の受ける報いなんだ、きっと』
     俺の、死と生を繰り返してただひたすらに我儘エゴを通してきた行為への、報い。
     ヒトであった頃にやってきたことを考えればむしろこの程度かとすら思えてくる。

     思い出した。ひょっとすると最も大きいかもしれない罪。ヒトを手放す前に言っておくべきだった。

    『……まだ聞こえるか?もう”聞こえる”って表現も合ってるのか不安になってきてるな』
     エックスの目が泳ぐ。涙をぼろぼろ溢しながら、必死で”ダフネ”を探しているのがわかる。もしかしたら、もう意思疎通もできなくなってるんじゃないか。それはちょっと困るな。
    『ダフネさん……ダフネさん……?見えない、ダフネさんが見えない、嫌だ、置いていかないで、ダフネさん……!』
     この感じは、多分まだいける。伝わるか?伝わってくれ。
    『なぁエックス、落ち着けよエックス。俺はずっとここにいるから。勝手に見えなくなっちまったのはすまない。見えなくても、”俺”はここにいるから。それだけはずっと変わらないから。だからとりあえず落ち着いてくれ……』
     エックスが反応を見せたということは、まだ伝わっている。
     余程ショックが大きかったのか、ずっとエックスには見えていただろう俺の手があったはずの場所をずっと握ろうとして、ただ虚空を握りしめるだけの時間がしばらく続いた。身体の本能が眠気を訴えていたが、せめて伝えるまでは眠りたくなかった。眠ったら、次いつ覚めるか……わからないから。
     もうエックスは、俺が眠っているのかただ黙っているのか区別がつかないだろう。そんな状態でうっかり眠りでもしたらと思うと怖くなった。結局この身体でも眠るのが怖いのか。きっとこれは間違いなく報いだ。



     すん、と鼻を啜る音。
     エックスは地べたに座り込み、”こちら”を見ようとしない。見てしまうと受け入れざるを得ない現実がそこにある。軽く相談くらいはしてから手放すべきだったか。……間違いなく反対される。
    『もう、な。時間の問題だったんだよ』
     ぴくりとエックスが反応する。きっとこちらを見たいのだろう。俯いたまま肩が震えている。
    『ヒトとしての姿も形も感覚も、俺とエックスの記憶に残る”ダフネ”への執着が、無理やり魂を半分引っ剥がして粘土細工みたいに象っている状態だったんだ。でもそれは本来あるべき形じゃなかった。今あるべき形、今の身体に、だんだん引っ張られて……戻っていくんだ。戻ろうとする魂を都度引っ張ってヒトの形に整える、俺たちがやっていたのはそういうことだったんだ』
    『ずっと……それで……よかったじゃないですか』
     こちらを見ずにエックスが呟く。エックスだったらきっと1日費やしてでも俺の維持を続けるだろう。実際、俺が覚めるまで二日も触れ続け、呼びかけ続けていた。結局何がきっかけになったかは自分でもわかっているだろうに。
    『形だけならな。もう俺の意識のほうが限界に近かった。身体の本能にだんだん意識が引っ張られて、混ざって、溶けて……その分無理やり維持していたヒトの形の魂が少しずつ持っていかれる。感情表現こそできていたかもしれないけどな、ほぼそれしかできない抜け殻だったんだよ、もう。あんだけ頑張って俺を維持しようとしてくれたあんたにゃ酷な話だけどさ』
    『僕は、まだ……報いきれてないんです。ダフネさんを見つけた時、この何も感じない、ただ死んでいるだけの身体が……ダフネさんの力になれると気づいて、とても嬉しかった。無責任にあのときの皆さんを見捨てて一人逃げた僕でも、ダフネさんに報いれると知って、またチャンスが訪れたと、ずっと思っていました』
     一時の夢だったが、俺だってまだエックスに触れることができる、それを知って希望が持てた。毎晩エックスが俺の手を握りながら探索の成果を話してくれるのが嬉しかった。エックスに俺が経験してきた様々なことを話すのが楽しかった。
     一時の夢。夢はいずれ覚める。

    『謝らなきゃならんことが残ってる』
     釣られてエックスが顔を上げた。思ったよりは泣いていなかった。もう枯れてしまったのだろうか、それともエックスのなかでも心の整理がついてきたのだろうか。
    『”この点”のエックスのことはどこまで話したか。とりあえず約束のことはまだだったな』

     せっかくなので、情報の整理がてら改めてこの点のことを最初から話した。
     この点のエックスが”親友”にそっくりなこと。『以前会ったことがあるか』という今までにないアプローチを仕掛けてきたこと。彼が様々成し遂げてきたこと。ずっと”親友”の影を重ねていた彼が、彼本人という個性を持って見え始め、俺がそれを好ましく思っていたこと。
     ある時彼が零した、『森林浴がしたい』という一言から、咄嗟に『外に出られたら森林浴をしよう』という約束をしたこと。ようやく外に出られて、ひとまず生活できそうな場所を確保して、ある程度環境も安定してきて……あの日、エックスと森林浴をしたこと。

    ――丁度同じ頃、当の”親友”は自分が空気も日差しも感じられないことに絶望していたというのに。あいつの分まで約束を果たすか、なんてことまで言って。その直後にまさか再会するなんて。
     勿論再会できたこと自体はたまらなく嬉しかった。
     直後、”親友”がこの場所にたどり着くまでの経緯を聞いて、後悔と罪悪感にまみれた。

    『今思えば、その報いも込められているのかもしれない。”あんた”がどんな境遇なのか知らなかったとはいえ、勝手に親友呼ばわりしてさ、勝手に自分だけ、外の空気と日差しを堪能しきって……』
     一方的にエックスを親友と呼んでいたことはすでに話した。ずっと”親友”たるエックスのためだけに生きてきたことも。
     結果的に最悪の形で裏切ることになってしまった。
    『……本当に、すまない』

    『僕は』
     恨み節の一つや二つ来るだろうと覚悟していた。
    『返事すら返せなかった約束を、一人ででも果たしてくれていたことが、嬉しかったです』
    『……やめろよ』
    『普通、考えもしませんよ。死んだ本人が実はすぐそばまで来ていたなんて』
    『……やめてくれ……』
    『あれからどれだけ経っても、ずっとあの約束がダフネさんを突き動かして、あの約束があったからこそ結果的に森林浴が出来』
    『やめろ……俺の罪を、正当化しないでくれ……!』

     本人から慰められることが惨めで、情けなくて、申し訳なくて、いっそ消えてしまいたくなる。
     この感情を刺し貫く苦しみさえも報いの一つ。あるいは感情が残されたことそのものが報いなのか。
     感情がある限り苛まれる。罪を犯した場所で、ずっと。
     逃げるすべはない。強い感情が残り続ける限り、意図的に感情を手放すことなんて出来っこない。
     感情はあるのに、それを洗い流すための涙は出ない。

     エックスが立ち上がり、俺の隣に座りなおす。側にある木の幹に軽く背を預ける。
     目線を合わせるためにずっと立ちっぱなしだったのだろう。いくら疲れないとはいえ、人間としての本能は座ったり寝転んだり、そういった姿勢の変化を求めていたんじゃないのか。俺と違って、エックスの魂はずっと人間として在るのだから。
     多少立ち方を変えつつもずっとエックスは俺の目を見るために、極力俺自身が目の位置を把握しやすくするために、高さを合わせやすくするために。ずっと俺のために。
     ヒトとしての俺を維持したいがために。

     そんなエックスの俺に報いたいという気持ちすら、俺は裏切った。ずっと維持し続けてくれたヒトの残滓を諦めて手放してしまった。恐怖ゆえに。負担を掛けたくないなんて後付の理由だ。
     眠ったら、次に覚めるのがいつになるのかわからない。なまじ残っていたヒトの欲望のせいで。まともに眠りたい、ただそれだけの理由で。半端な身体は、覚める方法すらも把握できていなかった。
     そのせいでエックスに……ヒトとしての俺をずっと見てくれていたエックスに、最早”ダフネ”は樹のほうが本体なのだと、実感させてしまった。

     もう無理だ、悟ってしまった。以前はそれで諦めてもまた別の点で目を覚ますだけだった。いくらでも捨てることが出来た。
     今は何かを捨てようとしたら捨てたあとのことも考えて動かないといけないのか。そうか。そうだったな。この切り捨てる判断の早さもまた積み重ねてきた報いを受けるべき罪か。
     俺は一体何人を見捨ててきた。何人の職員たちを、オフィサーたちを、管理人Xたちを、点の彼方に置き去りにしてきた。見殺しにしてきた。
     何人の俺自身を殺してきた。

    ――なんだ、もう俺を構成している要素は罪しかないのか。俺が通してきたエゴの分だけ罪がある。
     そうだ、L社あそこなら丁度今頃旬なんだろうな。
     俺の罪、数えてみるか?いくつあるんだろうな。何千、何万、そんなもんじゃない。何億くらいはあるかもしれない。
     審判鳥だって呆れて裁くのやめるレベルだぞ。罰鳥に食われてもエグみが強すぎてすぐ吐き出されそうだ。



     エックスが手近なところにあった俺の枝を軽くつまむ。こうして触れられていること自体は感じられる。相変わらず軽く葉に触れられるとくすぐったい。もう完全にヒトを手放してしまったんだな、という喪失感、エックスに触れられるたび増していく罪悪感。
     これらの感情もいずれ混ざって薄まって、感じなくなってしまうのだろうか。それは嫌だ。戒めとして刻んでおきたい。今の感情すら失ったら、もう俺が俺である意義が無くなる。”俺”が消える。それだけは、絶対に嫌だ。意識だけ残ってもそれはもう明確に”俺”と呼べるモノではない気がする。
    『ダフネさん』
     枝を左手で支え、右手でぷにぷにと葉の質感を確かめるように触れるエックス。正直さっきからかなりむず痒い。とはいえ身を震わせることすら叶わないし敢えて言うのもどうかと思い、されるがままにしている。葉をいじりながらエックスが俺を呼ぶ。かなり小さい声。魂が発する音?まぁ声でいいか。きっと本人も声を出しているつもりで動いているだろうし。
    『ん』
     ヒトを手放して以来、木々や草たちが発する以外の音がしたらやたら敏感に気づくようになっている。それでもエックスの声は小さくて、一瞬聞き逃しそうになった。どうしても表現がヒト基準になる。自分からヒトの身体を手放しておいて、表現はなおもヒトの基準にしがみつこうとする。我ながら浅ましい。
     いっそ今の状態は全て”感じる”で済む。感覚を持つ器官は魂しかないからな。正確に言えばエックスだって同じ。ただ形が違うだけ。動けるかどうかなんてのは形に付随する一要素でしかない。エックスは”人間以外の自分”という概念がないから人間であるエックスとしての形しか取れない。それだけの違いでしかない。

    『やっぱりダフネさんは自分で全部背負うきらいがあるんですね』
    『それをあんたに言われたくはないな』
     俺の生きる意味に色がついたあの日から、ずっとエックスのためになるように、エックスに負担をかけないように、様々な作業なり鎮圧なりを極力率先してこなすようになった。きっと職員が死んだらエックスは悲しむだろうから。結果的に俺が率先して作業に入れば最も危険性が低くなる。
     エックスから見たら、あの日からそれこそ人が変わったように業務に取り組んでいるかのように感じたかもしれない。それほどに、あのたった一言が俺の中では大きな意味を持っているんだよ。
    『僕もですか?……まぁ……そうですね。ダフネさんから全部聞いて、一応納得しました。僕は自分でも正体の分からない感情を無理やり抑え込んで、それで業務ができているからと、抑え込んでいるものを後回しにしてしまっていたんですよね』
     あとは職員の死が辛いってことも、な。
     俺に出来る事だって限界がある。全ての死を未然に防ぐことなど出来るわけもなく。

     ――

     Aの記憶についてはどう説明したものかだいぶ迷った。”あいつ”だって、セフィラコア崩壊の際に想起されたAの記憶をハッキリと認識してようやく、自身の中のAの要素に気づいたわけだし。
    「あんたは実はA本人で、今までの記憶は適当な仮の記憶で、いずれはAの記憶を戻す際にXとしての人格はAに統合される」なんて説明されたところで頭ん中がハテナで埋まるだろうよ。

     エックス自身、”この点”のエックスとは違ってAに関する知識はそれこそアンジェラから聞いた分だけ。それも上層どまりの知識だ。何から話したものか。……
     
    『なぁエックス、実は自分自身がAでした、っつったらどう思う?』
     段取りを考えるのが面倒になった。結局結論から最初に言って、都度疑問に答えていくことにした。予め俺自身の境遇から話していたこともあり、突飛な内容でも素直に受け入れてくれて助かった。
     流石に自身がAの器であり、過去の記憶はでっち上げ、いずれXとしての人格はAに飲まれるだろう事実に関しては明らかに衝撃を受けていた。無理もない。俺自身エックスに伝えるべきか迷った。エックスから『僕の知らないだろうことはできるだけ教えてほしいです』とせがまれ、大なり小なり衝撃を受ける事実だろうから覚悟しろよ、と前置きしたうえで全部伝えた。
    『リアルタイムでこの事実を知ったのなら相当ショックだったでしょうけど、もう僕はL社から離れてしまいましたから。まぁ……なるほどな、くらいの感覚ですね。それに』
     一呼吸置いて。

    『あの時点で自殺を選ぶようなXなんてきっとAさんも願い下げでしょうし』
     口を動かさずぼそりと零したエックスの目は、あのとき俺が見上げた目と同じ昏さを湛えていた。

     ――

    『俺が言うのもなんだが、あんたも大概一人で何でもかんでも背負おうとして無理してたんだぜ。それに気づいたのはとっくに手遅れになったあとだったけどさ』
     Aの記憶と、職員の死による負担。気づいてからは俺もできるだけわかる範囲で怪しまれないようフォローを入れるようになったが、俺にとって”初めての管理人X”であるところのエックスは、管理人Aしか知らない俺にとって衝撃だった。
     Aと比べてあまりのコミュ強っぷりに戸惑いもしたが、学だの知識だの教養だの趣味だの本当に色々なことをエックスから教わった。ある意味親友であり師でもあるんだな。師って感じは全然しなかったが。
     だが間違いなくエックスは様々なものを俺にくれた。日々が色づいて見えた。その多彩な色に目が眩んで、奥底の昏さに気づけなかった。
    『よくよく考えりゃ、気付けたかもしれなかったんだ。管理人がAからXになったのなら、Aはどうなったのか。顔も声もAなのにさ、完全にあんたを”管理人X”としてしか見ていなかった。アブノーマリティ記録の内容だってあんたから教わったんだ。ちゃんと記録読んで、内容把握して、……あんたの様子が普段と異なるのにも、ちゃんと気づけていたら』
    『それ以上は無しです』
     気づくチャンスはいくらでもあったのに。
    『自分を責めないでください。また一人で背負おうとしてる。――僕だってまだずっと後悔しています。でも、後悔だけしても駄目なんです。罪だと思うなら償えば良い。僕はダフネさんに再会して、ダフネさんの力になることでそれを償いとしてきました。ダフネさんは人間としての可能性を諦めてしまったけど、でもそれならそれで、僕は”今のダフネさん”の力になりますから』
    『……何だよ。毎朝起こしてくれるってか?』
    『それもアリじゃないですか?二日も寝坊するダフネさんにとっては』
     あぁ、やっぱり――
    『強いな。あんたは』
    『ダフネさんほどじゃないです』
     いいや、エックス、あんたは強い。俺なんかよりずっと。

    『しっかし、償うにしてもだ。こうなっちまった以上はさ、俺はどうやったら罪を償えるんだろうな』
     ヒトであろうとすることからも逃げた、罪にまみれた一本の樹。せいぜい世界に少々の酸素を供給することしかできないぞ。
     あ、一応葉も食えるのか。確か摘みたては苦味があるから乾燥させてからがいいって……俺はどこでこの知識を得たんだ?パウシーだかどこぞの点の似たような料理好きだかが講釈垂れてた内容が、記憶の隅っこにあったのだろうか。自分でも忘れてた記憶が身体に引っ張られて出てきたか。
     自分の食い方を思い出すってのも妙な感じだ。23区ならあるいは普通に”自分を味見したい”なんてのは日常茶飯事なのだろうか。
     ふと思いつく。ちょいと試してみるか。
    『なぁエックス、あんたローリエ食えたっけか?』
    『え、ハーブ類はあまり意識したことなかったなぁ……極端に苦手というものは多分ないと思いますけど、何ですかいきなり』
    『そっち側に十分育ちきった葉があるだろ。一枚もいで囓ってみてくれないか。多分ちょっと苦いだろうから一応注意してくれな』
    『は、え?何言い出すんですか!?痛くないんですか?てかこの樹、ローリエだったんですか?』
     質問が多い。とりあえずやってみろ、とエックスに葉を一枚摘ませる。葉をまじまじと見つめて、先端を少し囓る。
    『痛てっ……だいたいわかった、あんがとなエックス』
    『僕はだいたい何もわかってないんですけど?あとやっぱりちょっと苦いです。風味と香りは好みですけど』
     ふくれっ面をするエックスをすまんすまんと窘めて、軽く説明する。

    『んとな、流れで察してるとは思うが、コイツはローリエの樹なんだよ。月桂樹とも言うな。よく聞くハーブの一種であるところのアレだ。エックスに摘んで食ってもらったのはな、葉っぱ一枚が俺の身体から離れたらどうなるかちょっと気になったんだよ』
    『あ、そういえば葉っぱ摘んでも触れてましたね……。なんかちょっと痛そうでしたけど大丈夫なんですか?』
    『葉をもぐのは髪の毛1本抜くくらいだから大したこたぁないぞ……多分。んー、まぁ誤差だ誤差。そんで葉っぱ囓った時に感じた痛みが多分……えっと……ちょっと指先に歯を立てるくらいか?はは、例える対象が大分わからなくなってきてらぁ』
     一瞬エックスの目が曇る。しまったな。
    『……悪ぃ。事実を認識した今でも、あんたの中ではどうしても俺は”管理職のダフネさん”なんだろ。今の身体がすっかり定着して、もうヒトの五感の細かい部分があやふやなんだよ。本当はあまり”俺”のことも直視したくないんだろ、すまん。頼めるのがあんたしかいないから』
    『いえ、僕は大丈夫ですから、謝らないでください。本当に……大丈夫ですから』
     あー、これは大丈夫じゃないな。もっと正直に言ってくれ。

     エックスは俺に報いるためだと言い張ってずっと居座るだろうが、このままじゃエックスが擦り切れる。エックスにとっての俺はあくまでヒトであった頃の俺。俺自身がヒトを手放したから、もうエックスにとっての俺はエックスの記憶の中にしか居ない。
     いくら魂は同じだからって、当たり前のように樹として生きて、見た目と記憶の中の姿がまるで違ってて、既にヒトの感覚を忘れつつある俺を果たして”同一人物”として見られるのか?厳しいだろうな。エックスが俺に報いようとするたびに、エックスの心が削れる。このままじゃ駄目だ。

     俺はエックスに報いられるだけの資格があるのか?自問するまでもなかった。
     そんなものは無い。
     エックスが俺に報いようとする。そのたびに心を痛める様子を感じ取って、俺自身の心が痛くなる。
     これもまた報いなんだ。この報いを受け入れることでしか俺の罪は償えないのか。
     せめてエックスだけは、エックスの心だけはこれ以上削りたくない。だがどうする、エックスは絶対に俺から離れようとしないだろう。俺がエックスになにか話しかけるたびに、エックスが”俺”を見るたびに、エックスの心が削れていく。
     かといってずっと何もしないで黙っていたらきっと寝たのかどうか確認してくるに違いない。1回やらかしてるからなぁ。
     八方塞がりじゃないか。どうするんだよ……

    『……なぁ、エックス。本当に必要な時以外、俺のことを見るな。向こう向いててくれ。自分でもわかってるんだろ。こっち見るたび、俺に触れるたび、胸のあたりが……とても痛くなるだろ。だからもう……やめよう』
    『やめません』
     若干上を向いて真っ直ぐこちらを見据えて――きっと高さから考えて俺の目があった辺りなのだろう――意思のこもった目で、返してくる。
    『この痛みはきっと無責任に逃げた僕が受けるべき報いです。僕がダフネさんのためになにかするたびに、ダフネさんに報いて、同時に僕が報いを受ける。それを受け入れる覚悟は……できています』
     予想通りの返答が刃のごとく突き刺さる。堂々巡りだ。
     もう……緩やかに互いの心を削り合う道しか残されていないのか。
     どちらかの心が潰れるか、先に俺が薄まって俺と認識できなくなるか。そうしたらエックスもきっとまた絶望する。

    『わかった。多分もう何言っても梃子でも動かねぇよな。すまない』
    『謝るのは無しですよ、ダフネさん。これは僕が決めたことですから』
     もう、破滅しか無いのなら、このまま一緒に進もうか。……エックス。



     傷つけあい、傷を舐め合う日々。ただ談笑しているだけなのに互いの心が少しずつ削れていく。これでいい。これしか道はない。心が痛いと感じるうちは、きっとまだ大丈夫。

     もうエックスはずっと俺の側から離れようとしない。俺が何かしたらすぐ反応できるようにしたいんだろう。一応夜は眠るから、とは伝えてある。起きるのが遅かったら、なおかつあんたの気が向いたら起こしてくれ、とも。気が向いたら、のくだりは無駄だろうが念のための予防線。
     最近エックスがしきりに俺の枝を気にしている。受け入れようとしているのか。それともとっくに受け入れていて、存在を確かめてでもいるのか。
     もうすっかり夏だな。だいぶ枝も伸びた。少し剪定できれば軽くなって涼しいんだが。……エックスは鋏に触れられないからな。ま、仕方がない。
     そうだ。俺の方は一応実験したが、エックスのほうはどうなんだ。
    『なぁエックス、自分の髪の毛、抜けるか?』
    『……え、なんでまた……あ、』
     心なしか、若干エックスの反応が鈍い。うっすらと不安がよぎる。本人は隠しているつもりだろうが、日に日に目の奥の昏さが増している。ひたすらに枝をいじっていたのは無意識的な現実逃避だろうか。黙っていたらどんどん募るぞ、このテの感情は。

    『こないだ葉っぱもいだろ。もいでも葉っぱに触れるのは魂がほんの少しだけ残ってるせいだと思うんだが、あんたの場合どうなるのかってな』
    『そうか、多分普通に抜けると思いますけど……ほら』
     脳天の辺りから適当に摘んで1本抜く。
    『で、抜けましたけど……何かあるんですか?』
    『そいつをな、指とかに結んでしばらくの間保存してみたらどうなるか試してみたくなってな』
     あの時もいだローリエの葉は、結局一枚まるごとエックスが食っちまった。せっかく摘んだのにもったいないじゃないですか。そう言いつつ、できるだけ痛みを感じさせないように少しずつ囓って。とはいえ、どうしても多少痛くはあったが。
     当時から気になっていた。確かに最初のうちは囓られるたび若干痛みがあったが、最後の方になると囓られ慣れたのか、痛みが薄れていた。ひょっとして慣れたのではなく、身体から離れた部位に残った魂がだんだん劣化するのではないか。そう考えてエックスの髪の毛で試してみることにした。――という旨をエックスにも伝える。
    『劣化、かぁ……』
    『なんで自分の指じゃなくて俺の枝に結ぶんだよ』
    『いや、ほら自分の指って結びづらいから、はは』
     この気持ちは何だろう。この髪の毛は大事にとっておきたい、そう感じた。

     特に新しい情報が降ってこない以上基本的に雑談しかすることもないし、取止めもないことを日々ダラダラと語っていた。
     エックスも生前よりは暇が気にならなくなってはいるらしい。それでも流石にずっとぼーっとしておくわけにもいかないだろうと、話しそびれていた過去の点のあれやこれやを、擦り切れた記憶からなんとか引っ張り出したりしている。勿論、今の点の出来事も全て伝えきったわけじゃないから、まだまだ引き出しはある。
    ……ん?
     何だ、この違和感……どうにも収まらない気持ち悪さ。パズルのピースを間違えて嵌めているような。釈然としない感じ。
    『ダフネさん?大丈夫ですか?』
     話の途中で突然黙りこくったせいか、エックスが心配そうな面持ちで尋ねてきた。
     違和感の正体がわかるかもしれない。

    『ん、大丈夫大丈夫、ちっと気になることがあってな。……エックスは、どうやってこの”点”……あー、どうもコレ説明するの面倒なんだよな、俺も結局よくわかってねぇから』
     何度か飛ぶうちに、俺の身に何が起きているのかはおおよそ見当がついた。理屈や仕組みはまるでわからない。それこそ、逆行時計を発動させたら死ぬと時間を飛ぶようになっていた。原因としてわかるのはそれだけ。
     飛び石のごとくバラバラに配置された無数の点。その上を歩く。点とはすなわち時間軸であり、どの点を選んでいるかという認識は無い。たまに飛ぶ際にほんの少しだけ垣間見える様子をそう称しているだけで、この現象を自分でも何と呼ぶべきかよくわからないまま、なあなあにしてここまで来てしまった。
     ぽつぽつと置かれている点の上を、あちらこちらへ酔うように飛び歩く。そうだ、似た状況を描いた本があった。似ているからと、よく考えもせずいくつか単語を引用させてもらったんだった。

     エックスに色々教わらなかったらまともに読む気もしないだろう類の本――いつかのどこかで、Xに教えてもらった本。
    ――「僕イチオシのやつですからこれ!わからない所があったら遠慮なく聞いてください。それで、読み終わったら是非感想聞かせてくださいね!」
     ”似たX”ならあるいはわかってくれるかもしれない。ニュアンスさえ伝わればいい。

    『んっと……つまり、繰り返すたびに似ているけど異なる環境で、何度も管理人Xの就任日から時間軸が始まるんですよね』
    『多分な。点を飛んだと思ったらいきなり数日経ってるって時もあったから確実にとは言えないが、概ねそんな感じだと思う。セフィラ含めてL社そのものが舞台、職員の演者や数はまちまち。イメージとしてはそんな感じ。”管理人X”の性格もわりと違ってたりするんだよな。おそらくは記憶を消した際ランダムに充てがわれる仮の記憶によるものだと思う』
     大体言いたいことは伝わったはず。問題はここからだ。
    『で、だ。またちょっとトラウマほじくるのも申し訳ないんだが……すまない』
    『もう、何回目ですかそれ。謝るのは無し。でしょう』
    『そう……だな。で、……あんたが首括ってからの記憶というか意識というか……そこらへんは割と明確に残ってるんだよな?』
    『明確かどうかはわかりませんけど……。真っ暗ななか、ずっと後悔していたことは覚えてます。どのくらい経ったとかはわかりませんけど、ふと気づいたら周りが光って、気づいたら街中……たぶん、L社管轄の巣のどこかなのかなぁ、見覚えはありませんでしたね』
     L社管轄の巣から旧L社跡地まで歩いてきたのか。そりゃ相当な距離だぞ、後悔と絶望抱えて何日彷徨ってたんだよ……。
     重く伸し掛かるように胸が痛む。……ん?いや気の所為だろう。

    『元々あんたが居た点と今居る点は、本来交わるはずがないんだよ。そこはいいか?』
     そういった意味でも、”点”という表現は言い得て妙だ。決して線にはならず、だからこそ交わらない。
    『多分……。ダフネさんが点を飛ぶと世界はやり直しされていて、同じ世界は二つとないんですよね』
    『そ。俺の経験則では、だけどな。まずひとつ目の疑問。”何故あんたがこの点へ来れたのか”。二つ目の疑問。……』
     何度も語り合ってきた。何度も同じ話題を出した。何故気づかなかった?
    『……”何故俺たちは外に出られたのか”』
    『え、……え?ダフネさん、いやそれってちょっとあの、』
    『わかる。大前提が崩れるって言いたいんだろ。そうなんだよ、その大前提が問題なんだ』
     この点のエックスと森林浴をする約束を交わした。記憶を遡る。研修のとき必ず言うお決まりの台詞まで思い出せる。
     森林浴をする約束を交わした。実際に森林浴をした。外に出る際にE.G.Oをパチったことも覚えている。
    『この点のエックスと俺が森林浴をして、その後あんたがここに来た。そこはいい。だが一番肝心な、どうやって外へ出たのか、何日目まで業務したのか、外に出てから森林浴に至るまで。そこの記憶が一切ない』
     ひとまず外に出て、落ち着ける場所を確保したという記憶は漠然と残っている。だが本当に漠然としすぎていて、ついこの間のことのはずなのに、まるで靄がかかったように記憶の輪郭すらおぼろげだ。俺とあいつは確かに”確保したはずの落ち着ける場所”から出発して、ここで森林浴をしていたはずだというのに。

    『でも、2ヶ月の業務を終えたら外に出られるってのは……?』
     確かにそういう触れ込みだったし、ずっと2ヶ月……およそ60日程度を目標に頑張ってきた。
    『雲行きが怪しくなり始めたのは46日目だ。最初に46日目にたどり着いた際、そのまま突っ返されたって話はしたよな』
    『はい。それで、セフィラの皆さんと向き合うって話でしたよね』
     セフィラコアの抑制。ミッションを全て達成して、次第に明かされるセフィラたちの過去と心の闇に向き合う、それが46日目の先へ進む鍵だった。結果的にこの点のエックスは見事全てのセフィラコアを抑制した。最低限上層セフィラだけでもと思っていたのだが、苦労こそすれ、そのままの勢いで中層のセフィラも下層のセフィラも、コア抑制に成功した。
     下層セフィラの抑制は本当に何度もやり直した。赤い霧も大概だったが、それこそ今までの業務では経験しない数のやり直しを重ねて、それがセフィラ二人分。職員の皆も相当疲弊していた。
     抑制を終えて一度記憶貯蔵庫に戻り、念には念を入れて比較的作業しやすいアブノーマリティを収容した。46日目があるなら、それ以降もあるだろうと踏んでのことだ。
    『46日目……設計チームについては触れてなかったよな。ずっと”46日目から先へ進めなかった”としか言ってなかったし。まぁお決まりだが、やはり記憶貯蔵庫刻印日には新たな部門が開放されるんだよ。それが設計チーム。ここには担当セフィラがいない』
    『セフィラのいない部門って、アンジェラさんが管理したりとか……ですか?』
    『まぁなんとなくそう思うよな。だがアンジェラですら設計チームには関与できない。そう作られてる』
    『じゃぁセフィラが居ないのに部門として成立してるのはどういう』
     半ばエックスの質問を遮る形で、結論を言う。
    『設計チームの統括者は、Aだ』

    『んーー?いやダフネさん前言いましたよね、XがAさん自身だって。記憶を消して仮の記憶を入れて新人の管理人Xとして就任したのが、Aさんなんですよね?ん?合ってます、よね?』
    『そう、合ってる。ここからはちょっと怪しいがなんとか付き合ってくれ。わかる範囲で説明はする』
     そりゃ混乱もするよな。少しゆっくりめに話すか。俺もこの点のエックス経由で聞いただけだし、説明しきれるかは微妙だが。
    『Xの中にはAの記憶がある、ってのはあんた自身よくわかってると思う。あんたを散々悩ませてた謎の記憶の正体だな。主に上層セフィラの話になるが――と言ってもあんたは上層セフィラしか知らないか――セフィラコアが崩壊する際に、そのセフィラの元となった人物がAとどう関わってきたか、そいつらに対してAはどういう態度を取ったか、どういう行動をしたか。それがXの脳内で自動的に想起される。想起に必要な記憶はやや浅いところに、それ以外の記憶は……正確に言えば、消していたわけじゃない。ただひたすら奥深くに隠してあっただけなんだ。だからセフィラとは関係なく、Aにまつわるアブノーマリティを見ただけで記憶の一端が少しだけ浮き上がってきたりする』
     ぽかんと口を開けたままエックスが固まった。動くまで暫く待つか。幸い時間はそれなりにある。
     俺が”薄まり切る”までには流石にもつだろう。とはいえ記憶は摩耗し続けているから大事なところが抜け落ちる前には終わって欲しいところだな。

     幸い上層セフィラに関してはこの点のエックス以外のXたちからもある程度は情報が聞けた。いや、揃いも揃って「なんかAさんの記憶がバーッてなってわーって」みたいな説明ばかりだったから……どうだろう。なんせ親友こいつに似たXとばかり付き合ってきたもんだから、こぞって似通った性格。表現の仕方や語彙の飛び方まで似ている。
     あるいはAに近いXとも多少付き合って様子を見ておくべきだったな。何なら記憶同期でAに飲まれたXの行く末も見届けておけば多少は役に立つ知識が得られたかもしれない。
     このXは簡単に職員を切り捨てるんだなと察した時。記憶同期の引き戻し方が確立していなかった頃。引き戻しても維持しきれずに飲まれてしまった瞬間。ああ駄目だな、と思ったらさっさとその点は捨ててたからなぁ。
     後悔先に立たず。そもそも俺の行動理念の最優先事項が”まず親友こいつに似たXを探す”だったからそんな発想自体出るわけがないんだ。あーもう。俺の執着っぷりよ。溜息の代わりに酸素を盛大に吐き出す。
     なんだ、溜息吐きゃほんの少し世界の役に立つんじゃないのか。俺の溜息が世界を救うってか。笑えねェ。

     森林浴をして、もう俺の役目は終わったなと悟って、さも当然そうあるべきだったかのようにこの身体を受け入れて……
     疑問はまだまだある。ま、ひとつずついくか。

    『えーさんが……えっくすで……せっけいちーむに……えーさん……』
     あ、動き出した。こっからもっとややこしくなるからなぁ。大丈夫だろうか。
    『おーいエックス正気か?ついてこられるか?なんか質問あるか?』
    『Aさんっていっぱいいたんです?』
    『そうだな……、ある意味いっぱいいる。だが人間としてのAはその点におけるXただ一人。設計チームを統括する”Aたち”は……ザックリ言っちまうなら単なるイメージに過ぎないんだ』
    『えーと、人間はXだけ、あとはイメージ。てことはただのイメージが部門まるまる統括するんですか?』
    『まぁイメージとはいえ、だ。設計チームにいる”Aたち”はもちろんだたのイメージじゃぁない』
     一旦間を置く。エックスがごくりと唾を飲む。少しずつ人間らしさを取り戻していってるようにも感じる。仕草に人間味を感じる、とでもいった感じか。
     一応ついて来られているっぽいな。続けるか。

    『設計チームで待っているのは、数え切れない繰り返しの中で心折れたAたちの、あるいはXたちの、残留思念だ』

     心折れたXのひとりであるエックスの顔色がさっと昏さを帯びる。やっちまった。念のためちゃんと前置きくらいはするべきだった。それかXも含まれていることは伏せるべきだったか。
     俺はいつもそうだ。言うべきことは言わない。言わなくていいことは言っちまう。取捨選択の優先順位が滅茶苦茶なんだろうな。
    『……大丈夫か?きついなら言えよ、俺の配慮が足りなかった。悪い』
    『また謝ってる。僕は大丈夫ですから。……だいじょうぶ、ですから』
     大丈夫じゃないだろ。言えよ、言ってくれよ、きついって。これ以上あんたの心が削れたらもうどうなるかわからないんだよ……!
     ……もう手段なんざ選んじゃいられないな。すまん、エックス。
    『俺の身体を盾にするのは狡いってこたぁわかってる。でももう俺はさ、こんな状態だから。あんたが潰れちまったらどうなるかわからないんだよ。あんたの心が削れて、磨り減って、もう首も括れないのに死にたくなるほど壊れちまったらどうなる?』
     自分からヒトを手放しておいて、それでいてこの身体を人質のごとく扱う。狡いどころの話じゃない。卑怯にも程がある。
    『俺は話し相手も失って、親友であり生きる意味であり生きる理由だったあんたを2度も失って、そうしたら俺自身どうなるかわかったもんじゃない。たぶんそのまま絶望して、呆然としたまま”俺”が薄まっていって、そう経たないうちに”俺”が居なくなる。かつてダフネと呼ばれていた存在は世界に希釈される。実質的な死だ。死には2段階あるってのは聞いたことあるだろ。一つは命の死。ごく普通のやつだ。もう一つは存在の死。誰かの記憶に残っているうちは、その記憶の中で生き続ける。あんたの中の俺みたいにな。じゃぁ誰からも忘れ去られたら?自分自身を認識できなくなり、自分のことを覚えているやつが居なくなったら?』
     エックスはこちらを見ない。見ないようにしているのか、無意識的に見たくないのか。
    ……両方かもな。
    『そのときこそ、本当の死だ』
     反射的にエックスが顔を上げる。もう俺はさ。こんな状態だから。
     狡かろうが卑怯だろうが使えるもんは何でも使ってやる。……はは、昔っからか。
    『あんたが俺の記憶を失ったときが、俺の死ぬときってこった。ま、実際魂の心ってのがどんだけもつのかわかんねぇけどな。生前の、もしくは魂のあり方が変わる前の――本人の強さをそのまま受け継いでるのかどうかすらわからん。だから余計不安なんだ。生前のあんたはとても強かった。だが今もそのままの強さでいられるとは限らない。だから、大丈夫なんて見栄張らないで辛いときやきついときは言ってくれ。俺も失言が多いのは認める。何ならそこもちゃんと指摘してくれ。』
    『……』
    『俺のために報いてくれるんならさ……せめて俺の希望くらい聞いてくれよ。あんたの記憶で、俺を殺さないでくれ。頼む』

     我ながら相当酷い言い方だと思った。エックスは俺に報いたい。エックスの記憶次第でエックスの中の”ダフネさん”が死ぬ。俺の命は文字通りエックスにかかっている。理屈としては合っている。言い方一つでこうも印象って変わるもんなんだな。
     それこそ『あんたが俺を忘れたら困るから、自分の気持ちに嘘を吐かず正直でいてくれ』。これだけでいいんだ。『エックスの記憶が俺を殺す』。頼むもクソもねぇや。完全に脅しだ、これは。
     実際問題、俺は親友エックスを脅しでもしないと存続が危うい所まで来ている。エックスが立ち直ってくれないと俺を覚えている存在が居なくなる。そんなことになったら、もう自我の維持ができる自信がない。したら俺はただの月桂樹と成り果てるのか。
     あぁくそ、怖ぇよ。自分がなくなるってこんなに怖ぇのかよ。俺は今まで散々死に慣れたって言っておきながら、その実全く死の恐怖を知らなかった――そうだよな。命の死自体が俺にはなかった。一つ過程をすっ飛ばしてんだ。積み重ねた全ては失われるが、意識も記憶もそのままだ。記憶はある程度摩耗するが、”自我”は持ち越せる。俺が俺であるという自覚。俺が命の死を迎える時は……まぁ死ぬ瞬間こそ苦しいが、意識が途切れたらそれっきりだ。TT2プロトコルで戻ろうが点を飛ぼうが”俺”はずっと存続している。たまに死ぬ瞬間の記憶引きずって混乱したりもしたが。
     あぁ、……死ぬ瞬間の苦しみに恐怖を覚えてポロッと余計なこと零しちまった時があったな。なんだったっけな……上層のコア抑制が全部終わって、俺の境遇を話して、肩の荷が一つ下ろせたことに安堵して……みんなが受け入れてくれて、その初めての感情の扱いがわからなくて、……あれ?何だった?この点だよな?
     慰められたのは覚えている。気にしなくて良いとか色々気遣ってくれたことに対して、そう、その感情がわからなかったんだよな。そこまで覚えているのに。何の作業のときだったかが思い出せない。確かにこの点の記憶のはずなのに。もう記憶が磨り減ってきてるってのか。それとも……
     ”俺”が、磨り減ってきているのか。この点のことは忘れたくない。嫌だ、思い出せなくなるのは嫌だ。
     自我が消えかけている?まだ、まだわからない。落ち着け。そうと決まったわけじゃない。俺が取り乱したらそれこそエックスに余計な負担与えちまう。ただでさえ話す度に互いの心が削れるんだ。余計なことをするな。

     考えるな、と意識すればするほどに気になる。そういうモンなんだよな。クソッ。
     自我が消える。俺が俺であるという自覚が消える。前に逆行時計回して何もない場所に放り出されたときもきっとそんな感じだったんだろうな。
     あのときは完全に不意打ちだったから、思考すら存在しないあの場所で”自分がなくなるのが怖い”なんて思う隙すらなかったからまだよかったのかね。帰ってきたあとに思い返してもあの場所は感情だって存在しないから、あの場所に居たことに対して怖いもクソも無かった。”居た”のかも怪しいな。とにかく全身どこの感覚を手繰っても、”何も無い”。ただその事実が確信的に染み込んでくるのみだった。
     こんなことなら、いっそあの場所に放り出されたまま忘れ去られるほうがずっと楽だったんじゃないか。恐怖がない。傷みも苦しみも辛さもない。安楽死じゃねぇか。あぁ、恐怖はもうあるな。自分がどういう状態になるかを知っちまってるから。それでも、――あぁ、それでも。
     今の泥沼に沈むような少しずつ迫る死への恐怖よりかずっとマシだ。だからさ、エックス……
     思いつめないでくれ。きついこと、つらいこと、苦しいこと、吐き出してくれ。全部ぶつけてくれ。
     本当はエックスがあんなに維持してくれていた俺のヒトとしての魂を、相談もなしに簡単に手放したことだってすごく責めたいんじゃないのか。俺の身体がヒトの形してたら、平手打ちのひとつもしたかったんじゃないのか。
     そういう感情を溜め込んで一人苦しむのは……あんたが受けるべき報いとは違う。少なくとも俺はそう思う。

    『エックス』
     ずっと蹲ったままの親友を繋ぎ留める。俺を繋ぎ留めておいてほしいから。
    『本当は大丈夫じゃないんだろ。その痛みを黙って受け入れてるのも、あんたは自分への報いだからって甘んじて受け入れてるけど、きっとそれは違うと』
    『違いません』
     エックスが短く遮る。あぁくそ、それが一番駄目なんだよ。いい加減強情だな、あんたも。この点のエックス以上じゃないのか。
    『しゃぁない、ひとまずは触れないでおくけどさ。……あんたが潰れちまったら俺は死ぬ。それだけは……』
     結局この言い回しを使うしかないのか。自分で言っておいてすっげぇ自己嫌悪したってのに。
    『僕は潰れません。大丈夫です。落ち着きましたから、続けてください』
     落ち着いたってことは、つまり落ち着けなかった時間があったってことだろ。相変わらず気を張り続けている。仕方がない。もう少しだけ様子を見るか。様子見しても、エックスはきっと限界まで溜め込み続けるだろうけどな。その性分はもう生前に証明済みだ。こいつの、間接的な死因。



    『じゃぁ、話を戻すか。その前に――』
     せめてもの抵抗。俺が出来る範囲で、繋ぎ留めたい。
    『もうちょっとこっち寄ってくれ。いや……俺に寄りかかってくれ。見るからに幹は細いけど、多分……耐えられるから』
    『え、でも……その、』
     気持ちはわかる。元々ローリエ自体がそんながっしりした樹じゃねぇってのに、よりによって俺だからな。あとは、エックス自身今の俺を極力見たくないんだろう。そろそろ受け入れてもらわないとまずいんだよな……多分。
    『あー、うん、体重まるごと預けるのが心配なら、幹に背中少し触れるくらいでいいからさ。えっと……向きを変えずにまっすぐ3歩歩いて幹の方見ると、丁度人一人分くらいのスペースがあると思うから。そこ、座ってくれよ』
     恐る恐る、と言った様子でエックスが3歩歩き、”こちら”を見る。あまり直視はさせたくないんだが、こればっかりは仕方がない。このあたりですかね?と、枝をよけながらそっと腰を下ろす。少しだけ、本当に少しだけ、エックスの背中が幹に触れた。
    『そう、そこ。もうちょっと寄りかかってもいいんだぞ。遠慮すんなって』
     若干、幹にかかる体重が増えた気がする。心配性だな。……気持ちはわかるが。
     よし、ここだ。ここでいい。

     待っていたかのように風がそよぐ。エックスの両肩と頭のあたりを撫でるように枝葉が揺れる。
     あ、とエックスがぴくりと肩を震わせた。今の俺に出来るのは本当にこのくらいしかない。
    『このくらいはさせてくれよ。……いいだろ、エックス』
     俺にほんの少しだけ体重を預けて座る白衣の男が、黙って頷くのを感じた。
    『ずっともどかしかった。あんたからばっかり貰っておいて、俺は何も返せちゃいない』
     昔からそうだった。エックスからたくさんのものを貰っておきながら、俺はいつもどおりの作業をするだけ。多少は率先して作業にあたるよう意識はしたが、それだって大した量じゃない。俺の知識や経験がみんなやエックスを助けていたとはいえ、どうしても死ぬ時は死ぬ。もっと危険な作業をあてがってもらうべきだった。試練や脱走時の鎮圧のときも、もっと声をかけるべきだった。まだまだあの時はコミュニケーションに対して腰が引けていた。
    『そんなことありませんよ。ダフネさんがいたからこそ』
    『あんたから貰ったものが多すぎて、まだ全然足りないんだよ。あのときも――今も』
     もっと下がれ。赤弱点は前に出るな。――強い口調で即座に言えなかった。同僚が緑白昼の銃撃に足を取られ、そのまま丸鋸で切り裂かれる光景がまだ焼き付いている。もっとよく見ておくべきだった。もっと叫んででも伝えるべきだった。結局俺の知識も経験も、主目的は”俺が生き延びる事”だったから。他人を生かすための方法が、当時の俺には全然足りなかった。

     今だって。ずっとエックスは俺を気遣ってくれている。周囲の探索も、多少は興味本位だろうけど、ずっとここから動けない俺への話題提供だろう。”動けない”という認識だって、ヒトとしての発想だ。俺自身はとっくに”この場に根を張って生きるために水分だの養分だのを取り込むことに集中する”のが当たり前だと思っちまってる。動けないんじゃない、元々動かないものなんだ。
     そのことはエックスには伝えない。既に俺の本質が樹の方に持ってかれちまったことはこの身体になった瞬間から薄々わかってはいたが、まだ俺自身もヒトに未練タラタラだった。だから無意識のうちにヒトの形の魂をこねくり回してたのかね。それをエックスが見つけた、と。
     そしてもうエックスの記憶の中の俺は居ないってのに、それでも俺に付き合ってくれる。きっとエックスが俺を見つけなかったら、1週間も経たずに”俺”が完全に薄まりきってただろうな。半日で自分自身の視線の高さを忘れるくらいだ。3日もすればヒトだった頃の感覚なんて全部忘れるだろうさ。
     あとは身体の本能に身を委ねるだけだ。それこそ欲に任せてたっぷり眠りたい、とか思ったら、二日も眠りっぱなしだったんだから。樹だって睡眠と覚醒のサイクルはあるってのに、それを無視してまでひたすら眠った。あの微睡む感覚は滅茶苦茶心地よかった。だからこそ、”混ざって”きている事実を痛感して……これ以上無理にヒトの要素を維持しても無駄だ。そう感じてしまったんだ。今まで必死にヒトを維持しようとしてくれていたエックスのことも考えずに……
     俺はヒトであろうとすることを手放した。身勝手だな。昔からずっと。

    『くすぐったくないか?』
    『ちょっとだけ。でも、これでいいです。このままがいいです』
     このままがいいです、か。気を遣ってくれているのか、それとも文字通り受け取って良いのか。
    『そっか。ありがとうな、エックス。……触れてないとな、怖いんだよ。もう何度目だかわからんが、あんたはいわば俺を繋ぎ止める楔だ。逆に考えりゃ、あんたが居る限り俺は俺でいられる。俺がここに居られる。だから、身勝手を承知でちょっと我儘聞いてもらった』
     単にど忘れかましてるだけかもしれない。それならば単なる取り越し苦労なのだが。俺が恐怖に負けていらん事言ったのは何の作業だったのか、まだ思い出せない。このど忘れが、”薄まってきている”兆候だとしたら。
     死ぬのは嫌だ。俺が消えるのは嫌だ。全部ここから始まっていた。ある意味俺の根源であり、俺をここまで至らしめた欲望。
    ――”死にたくない”――



    『ちっと間が空いちまったな。とりあえずあんたが大丈夫だって前提で行くからな、表現キツいと感じたりしたらちゃんと言えよ。俺は元々そういう自分以外への心に対する気遣いってのが下手糞なんだ。いいな?エックス』
     嘘は吐いていない。が、どうも”人の心の機微そのもの”に鈍感になってきている気がする。これも不安の遠因。もっと突っ込むと、俺の発言の結果、俺自身がどう感じるのかすらも気にしていない節が端々に。これを言ったら俺は自己嫌悪に陥るだろうとか、罪悪感を感じるだろうとか。そういった懸念を抱くことそのものを忘れてきているのではないか。
     心がまだ残っているのはわかる。だいぶ負のほうが占めているが。ただ、風に靡いてエックスの肩を”抱けた”瞬間、間違いなく安堵を覚えた。ただ触れただけではない。俺の中では確かにあのときエックスの肩を抱いたんだ。安堵と共に、無性に、たまらなく、嬉しかった。俺はヒトを手放したはずだろう。何故”抱けた”ことがこんなにも嬉しいんだろうな。まだ未練が残ってるのだろうか。それとも相手がエックスだからだろうか。

    『積み重なってきた管理人の残滓が集ったイメージ、それが設計チームの統括者。そこまではいいな?』
     できるだけエックスを刺激しないよう、言葉を選ばないと。俺に出来るのかね。
    『……えっと、はい。それで、ただのイメージじゃないってのは?』
     なにせこの点のエックスからの伝聞だけが情報源だ。多少曖昧だが、都度質問される度に自分の中でもまとめ直すか。
    『46日目の扉。今まで何度も突っ返されてきたその扉の前には、”アベル”と名乗る初老の男性が居た……と聞いてる。あいつが言うには”ダンディなおじさま”って見た目なんだとさ』
    『アベル、って確か……うーん何かで読んだ気がするなぁ、人類最初の殺人の被害者、みたいな感じの……』
     親友こっちはよく知ってたな。あるいはこれもAの記憶の一部なのか。あいつはあのあとコービンに聞いてようやく理解してたぞ。それでも「へぇ~」程度の感想しか出なかったようだが。やっぱり似すぎているとはいえ、別のXなんだな、あんたたちは。
    『ん。大体そんな感じでいいと思う。まぁ容姿だの名前だのは然程重要じゃない。一応名前については、”管理人たち”の……その、いわゆる心のわだかまりだとか、至らなかった部分だとか、そういった要素を想起させるみたいだが。まぁあんまピンとこないわな』
     ここいらの解釈は俺でもわりと曖昧だ。いつだったか、どこだったか。コントロールチーム会議室のあの図柄が気になり、調べた点があった。セフィロトを逆さにした図柄。なぜ逆さなのかはわからないまま。調べるうちに、聖書の内容に多少触れもした。特撮だけではなく他のジャンルの創作物に手を出した時期もあったから、聖書の中に見知った名前が出てきてなるほどな、と思ったものだ。
     まぁ、あまり多ジャンルに手を出しすぎても追っつかないから、最終的にはほとんど特撮オンリーに戻っちまったけどな。

    『最初の扉は、上層セフィラのコア抑制を全て終えないと開かない。そこに居るのがアベル。兄に恨まれ、それがもとで殺されたヤツの名前だ。上層セフィラたちがAのことをどう思っているかは……話したよな。覚えてるか?』
    『えーっと、マルクトさんが”Aの研究メンバーなのに、Aに気にかけすらしてもらえなかった”。イェソドさんは”強迫観念で幻覚が見えて身体を掻きむしり始めて、Aに感染症を疑われて……違うと主張したけど検査を強行された”。その結果さらに強迫観念が悪化して、えー……ひどいことになってしまった、って感じでしたよね』
     本当よく覚えてるな。今の状態だと覚えるのは脳じゃなくて魂に刻むようなもんだから多少イメージが違うのか?
     とにかく、覚えててくれる分には脳だろうが魂だろうが構わん。この調子なら順調に行きそうだな、ひとまず安心する。
    『ホドさんは、”旧L社がしていた恐ろしいことを頭に密告したことによるAへの罪悪感”、で、ネツァクさんは……カルメンの幼なじみかつ旧L社になる前からカルメンの患者だった人、だったかな。カルメンが……手首を切って、えーと、”もう助からないカルメンを救うためとAに騙されて、カルメンのために……コギト?の、実験台になって眠ることができなくなった”。でしたよね、確か』
     こうもしっかり覚えてくれてると俺も語った甲斐があるってもんだ。しかし、やっぱりあんたも”カルメン”については呼び捨てなんだな。よほど根が深いのか、カルメンの記憶は。
     どこか苦々しい気持ちになる。エックスがエックスのまま死んでくれてよかった。――何だ、今何を考えた。
     エックスのまま。そりゃぁ確かに、当時は記憶同期の対策なんてないから十中八九あのまま行ったらエックスはAに飲まれてただろうが。よりによって”死んでくれてよかった”なんて禁句もいいところだろ。
     もしあの点において、エックスが首なんぞ括らずに27日目まで進んで、記憶同期でAに飲まれたら。俺はどうしただろうか。Aを殺そうとした?肉体はXのものでもある。物理的にAを殺すことは出来ない。力ずくでもXの人格をどうにかできないか、問い詰めるしかできないんだろうな。そしてきっと帰ってくる答えは”無理”だ。飲まれたらもうどうすることもできない。……エックスが飲まれていたら、俺は……。
     俺は、きっと記憶同期を阻止する方法を探し始めるだろうな。過程が多少早まるだけか。――畜生。何故こんなにもドライなんだ。自己嫌悪で痛みを感じる心は残ってる。心は……きっと薄まってない、はず。
     じゃぁなんだってこんな自傷行為みたいな考えが出てくるんだよ。傷みを感じないように気を遣う部分から薄まってんのか?……やめてくれ。確かにヒトであることは手放したが、人でなしになるつもりはないんだぞ。
     あぁそうだ、記憶同期と言えば本人に直接問いただした点もあったな。ダメ元で、どうせ捨てるつもりだったからと色々訊いた。Aの奴は興味なさげに「もう遅い。人格が固着したらXの人格は俺の記憶に統合される」とか何とか言い放った。わかりきっていた答えだが、積もった怒りをぶつけたかった。どうせ捨てるんだ、どうにでもなれとAに掴みかかって、アンジェラに止められて……そこから先どうだったか。きっとアンジェラに”力ずく”で止められた結果、首でも折られたんだろう。まぁそれはそれ。過去の話だ。

    『……ダフネさん?大丈夫ですか?』
     何だ?エックスの方から訊いてくるのか、それを。何か悟られるような発言あったっけか。
    『ん、どうした、俺何か言ったか?』
    『いえ、その、風が吹いているわけでもないのに、枝が、震えてたので……』
    ……マジかよ。まさかさっき自己嫌悪してるときに?そんな馬鹿な。
     マジなら……期待持っちまうぞ。裏切られたときに相当ショック受けそうだけどな。そうなったらそれこそついに自我が吹っ飛んで俺が消えちまうだろうけど。あのままゆるゆると薄まるのを甘んじて受け入れるよりか、多少はマシだろ。
    『あぁ、まぁ大丈夫かどうかってんなら大丈夫だな。ちっと試してみたいことができた。そんな難しいことじゃぁない。頼めるか?』
     はぁ、まぁ。やや拍子抜けしたエックスの返事を確認して、”試したいこと”を伝える。
    『あんたの左手の、ちょっと上の方の枝……、そう、それ。手のひらみたいに枝分かれしてるだろ。その枝分かれしてるあたりをしばらく握っていてくれないか。しなるから少し下ろしてもいいぞ』
    『これを握るとなると、こんな感じですかね?……あれ、え?』
     エックスが枝の間に指を入れて、軽く握る。指が触れた瞬間わかった。確信を持った。エックスが何に疑問を持ったのかも見当がついた。
     ”俺の左手の甲に覆いかぶさるようにエックスの左手が重なり、指の間にエックスの指が挟まる形で握られている”。
    『温かい……どうして……それになんか、枝の形と感触にズレが……あれ?』
     やっぱり。完全に手放したはずのヒトの感覚が有る。残っているのか戻ってきたのかわからんが、こいつはもしかしたらもしかするぞ。しかし、はは。変な感じだな。手を握られているという感触は確実にある。エックスも俺の”手”の体温を感じ取っている。見た目と感触にズレがあるのは、エックスのほうも俺の”手”に触れているってことか。でも枝に触れられている感触もある。何なんだこりゃぁ。俺は一体何者だよ、全く。
    『まだ諦めるには早いかもしれん、ってことさ。続き行くぞ、いいか?』
     不思議そうに握った枝を見つめているであろうエックス。”手のひら側”から右手も添える。
     有る。あぁ、手のひらの感触だ、これは。心の底から嬉しさがこみ上げてくる。いや、落ち着け落ち着け。わかることから一つずつだ。焦っても良いことはない。……多分。
    『あ、えっと、はい。続けましょうか』
     エックスもわけのわからないことを考えるのは後回しだ、と言わんばかりに頷いた。……左手が、温かい。

    『正確にはな、今までは46日目が”終わったあと”に突っ返されたんだ。アベルが旧L社の執務室を再現した部屋に立っていて、「ここから先は過酷だぞ」ってすげえ念を押してくるんだと。……なぜ今までここに触れられなかったか。理由は唯一つ。”突っ返された時点でその点は終わっちまってた”から。突っ返されたその点のXたちからもせいぜい聞けたのは一言二言。最初に突っ返されたXが”セフィラたち”ってフレーズを零さなかったら、しばらくは原因不明だったかもしれない。本当に突っ返されたあとはその程度しか時間が残されてなくってな。せめて最後に46日目まで付き合ったその点のXのツラ見る間も無く、意識がぷつりと途切れる。そんで目を開いたら新しい点だ』
     最初に46日目までたどり着いてくれたX。あんたには感謝してるよ。確かにあんたはセフィラたちに向き合おうとしないビビリだったかもしれないが、情報は残してくれた。それに、後悔していたってことは……ある程度は向き合いたいって気持ちがあったんだろ。諦めの言葉ではなく、後悔の言葉。あんたの言葉がなかったら迷宮入りしてたかもしれないんだぜ。
     きっと届くわけないけど……ありがとうな、X。確かに俺は今まで何人ものXを使い捨ててきたけどさ、たまには礼くらい伝えようとしたっていいだろ?
    この点のエックスあいつにはもちろん執務室の記憶なんてないんだが、なぜか部屋の雰囲気に懐かしさを感じたっつってたな。つまりはAの記憶にある執務室なんだろう。あとアベルはこうも言ってたらしい』

    ――『君も、もう理解しているのではないかね?』――
    ――『ここは、「心」によっていくらでも変化できるってことを。ここは君の意識と、奥深くに眠る無意識までを抽出した「心」を元にした空間だ。この施設の大部分は、「私たち」の心から抽出されたものだ』――
    ――『そうでなければ、こんな地下に巨大な施設と非現実的な部門が作れるものか』――

    『心によって、……いくらでも……。そんなことが、』
    『有り得てるから、あのL社があるんだよ。身も蓋もない話するぞ?福祉チームに嘆願してサウナが開設したのだって、あれもAが”サウナあるといいなー”って願ったから出来たってこった。この場合のAってのは、Aの肉体を持つ存在。つまりあんたの心だって、多かれ少なかれ施設に影響してたかもしれないんだぜ』
    『えぇ……そういうものなんですかぁ……?そりゃぁ僕だってサウナ流行ってるみたいだし行ってみたいなーって思ったことは……ありますけど。でもまさかそれが……』
    『だと思った。あんたサウナできた直後すげえソワソワしてたもんな。まともな風呂の入り方とか、まだ全然教えてくれてなかったくせに俺をサウナに連行しやがって』
    『あはは、それはその……スイマセン。もう気が逸っちゃって、すっごくワクワクして……ダフネさんについてもまぁなんとかなるだろうって、ちょっとおざなりになっちゃってましたね』
    『何とかかんとか、見様見真似とあんたや同僚の助言でかろうじて何事もなく済んだけどな。あん時俺クッソビビってたんだぞ。あのまま蒸されて死んで飛びやしないか戦々恐々としてたんだからな。まぁ、少なくともサウナの実装に関しちゃ、あんただけの意見じゃないだろうな。多分、もっと前から数多くのAやXがサウナを欲してたんだろうさ。その心が積もり積もって、あんたのひと押しで開設に至った。ってことだと俺は思ってる』
    『はぇ~……すっごい……それじゃぁ何でもアリじゃないですか、L社。でも部門の根幹的な部分は変化しないんですよね?』
    『そう。根幹は変化しない。これは推測だが、意思の強さや積み重なった心の重さとかで施設に与える影響が異なってくるんだと思う。部門の構造だのセフィラだの、施設としての根幹はそれこそ創始者たるAの意思だ。んー、どこらへんで話したんだっけか。”彼女を称えるためのロボトミーを”ってな。言ったよな?』
     頷くエックス。良かった、話し忘れてなかった。記憶同期も後半に入り、煙戦争の記憶やらBの記憶やら色々まとめて思い出したらしいが、その中の記憶に混ざっていたAの強い意志。
     旧L社が壊滅した際にAとBは赤い霧の活躍によって生き残りはしたものの、カルメンの意思を継ぐと決めていたAにどんどん心の余裕が無くなっていく。既にカルメンの意思とやらはほとんど形骸化しており、半ばAがカルメンを崇拝しているに近い状態だったらしい。そんなAの中にあった強い意志を、この点のエックスは垣間見た。
     Aにとって”カルメンの意思を継ぐ”ことは最早主目的ではなく、”カルメンの意思を実現させて彼女の思想が正しかったことを証明する”ことが主軸となっていった。……らしい。
    『”彼女を称えるためのロボトミー”ってのはそんな滅茶苦茶になりかけてたAの滅茶苦茶強すぎる意思から生まれた発想だ。だから、ここはどうしても変えようがない。何故かセフィロトを逆さにした施設全体の形状、名称もセフィロトになぞらえた各部門。どういう意味があるのかはわからん。わからんが、これが現L社の基本の形ってこった』

    『あ、……んーっと、なんて言えば良いんだろう。L社は管理人が予め決められた目的を失敗したり、失敗することが確定的になった場合にリセットされて、新たな環境でやり直しが起きるんですよね』
    『ん、そういう認識で大体合ってると思う』
    『数々の管理人の心が蓄積して影響するのなら、失敗した管理人たちの後悔とか……えっと……そういう負の感情、ありますよね。それも心に入るとしたら、その負の感情のやり場は……。何回繰り返してきたのかわかりませんけど、ダフネさんとこの点の管理人がたどり着いたときにはまだ目的を成せてなかった。ってことですよね』
    『だな。そんでその失敗した管理人たちの”負の感情”が蓄積して、設計チームを統括するAのイメージを構成してる。ザックリ言っちまえば、失敗してきた管理人たちのネガティブの塊が、アベルなり後に出てくる他のAの化身みたいな感じだな。心によって変化する空間なんて、さっきあんたが言ったようにそれこそ何でもアリだ。設計チームを”失敗した管理人たちの残骸が堆積する場所”と定義することだって可能だろうさ。そしてその管理人たちの残骸がまとまったイメージを持って、設計チームにたどり着いた今の管理人を試す”壁”として働かせるようにもできるんだろうよ』
    『あ、そっか。Aさんいっぱいいるって言ってましたね』
     多分、気にしてるな。自分の意思でサウナが実装されたかもしれないとなったら、じゃぁ自分が首を括る瞬間の絶望と後悔はどうなるんだ、って。……きっと、多少なりとも影響してるんだろうなぁ。あいつ気にするだろうなぁ。
     あぁ、”次の奴”のこと話したくねェ。でも疑問点の把握のためにも、きちんと現状を整理しておかないと。
     しゃーねぇ。やるかぁ。

    『アベルがいわゆる”上層セフィラたちのAに対する恨みつらみだのわだかまりだの、それが元で病んじまったセフィラの心だの、それらに向き合わなかった管理人”たちのイメージだな。確かに失敗したXも含まれてるが、それは記憶同期でAに飲まれたXだ。かろうじて飲まれなかったXもいたようだが、そういうXたちは大抵Aに近い性格してたから、俺はあんまりそういうXがどうなったか知らねぇんだ。ずっと……あんたの影追っかけてたから。あんたに近い性格のXとばかり生きてきたから』
     我ながら酷ぇ執着っぷりだ。本人前にして話す内容じゃねぇな。恥ずかしいし、捨てた点の奴らに罪悪感感じるようになってきちまったし。エックスが”捨てた点”を気にする前に話進めて気ィ逸らすか。
    『アベルにはもう一つの役割があった。先にそっちから言うべきだったか。46日目のアベルの役割は”ただ漫然と管理業務だけして、何も成し得ないまま諦めてしまった管理人たち”だ。あー、そうだ。エックス、ちょっとつらいなと思ったら握ってる手に力入れろ。特に何がつらいとかは無理して言わなくて良い。ただ握っててくれ。きっと一人で抱え込むよかマシだ。……な、ほんの少しでもいいから伝えてくれ。俺も深くは追求しない。あんたも黙って手握ってくれてれりゃ良い』
     管理だけして何も成し得なかった管理人たち。間違いなくエックスはそこに反応するだろう。そう思って先手を打っておいた。多少マシになる程度だろうけど、こうして触れていることで少しでも辛さを共有して……それでエックスの負担が減るのなら。俺はいくらでも受け止めてやるから。
    『それとなエックス』
     意思表明もしておくか。伝えないよりは伝えておいたほうがきっと確実だろう。
     エックスはやはり気になっているんだろうか。若干猫背気味で、幹に触れているのも背中というよりは腰のほうに近い。
    『俺はあんたが何も成し得なかったとは思ってないからな』
     ぴくりとエックスの肩が動いた。滅茶苦茶気にしてるじゃねぇか。
    『あんたは俺に、本当にたくさんのものをくれた。俺が人間らしく生き始めたのは間違いなくあんたの……あの一言があったからだ。「すごく助かってる」ってな。俺の生きる原動力となったのは間違いなくその一言のおかげだし、それだけじゃない。色々教えてくれたよな。一応俺だって、最低限管理方法程度は読めるように独学だの人に聞いたりだの、してきたんだぜ。でも本当に最低限だ。毎日新しいアブノーマリティが追加される。管理情報が共有される。それが毎度全然読めないんだよ。読めなきゃ死の瀬戸際だってのにな。――管理方法も読めない無学な管理職の末路、一つ教えてやろうか。ちょっとキツいかもな?ギブアップなら手ぇきつく握れよ。勿論直接言ってくれても構わないからな』

    ――2回目の死因……蜘蛛の糸に捕まって子蜘蛛の餌になったのだって、既に管理情報は判明してたんだ。慎重のランクが1の奴は入っちゃいけない、ってな。そいつが読めなかったから、ガサツなどこぞの管理職は子蜘蛛踏んづけて母蜘蛛の怒り買っちまった。
     足に糸が飛んできたと思ったらそのままものすごい力で引っ張られて、逆さ吊りにされた、突然視界が上下逆さまになったら、そりゃもう慌てふためくわな。
     何が起きたのか把握する前に糸で足を固定された。その際僅かに針で刺すような痛みを感じたが、そのときは気のせいかと思っていた。逆さの宙吊りで頭に血がのぼるから朦朧となる。おまけにそのまま何とか脱出しようともがいたせいで頭が余計にクラクラする。
     途中で足に刺さった針か何かが神経毒を流し込んでいて、もがく度に血液に乗っかって神経毒が全身に回ってった。じわじわと「これ以上暴れても無駄だな」って考えそのものが体全体に徐々に広がるようなイメージだ。それでもがこうとする筋肉の動きだとか、何とかして拘束を解けないかと抵抗しようとする意思だとかが全部薄まってくんだ。
     覚えてる限りでは、足しか縛られてないのに「ああもう、なるようになれ」って完全に全身が諦めてた。だらりと宙吊りになったまま、少しずつ上の方に引き上げられていった。収容室の上の方はびっしりと巣が張り巡らされていて、部屋の照明すら遮るほどだ。だんだん視界が暗くなるのは意識が朦朧としていたからなのか、それとも引き上げられて巣に近づいていったからか。
     そのまま気ィ失って、気がついたらご丁寧に頭が上の状態で繭ん中だ。――繭とは言うが、殆ど糸で全身縛られただけ。本来の意味とは違うが、便宜上”繭”で通すぞ。
     視界は遮られていたが、完全に真っ暗というわけでもない。繭がほんの少しだけ光を通すからうっすらと自分がどうなったかは把握できた。あぁ、捕まったんだな、って。把握できたところで身動き一つ取れなかったけどな。そんだけきつく糸が巻かれてたのと、これは神経毒の効果だと思うんだが、全身が弛緩してまるで力が入らなかった。両手は後ろ手に糸で縛られていたんだが、そんなことするまでもなく指先すら動かなくなっていた。
     ずっと繭の中で頭がぼーっとしててな。多少は息苦しかったんだろうが、それすらも気にならないほどには思考力がなくなってた。あれも神経毒のせいだろうな。とかく”獲物”から抵抗する手段を奪うんだ。生きたままな。
     こうやって今話せてるのはそれこそ”はっきりした頭であとから思い返しちまった”からだ。思考力が麻痺してたとはいえ、もう無理だな、っていう諦めみたいなものはぼんやりと感じてた。頭は働かない。体は動かない。完全に収容室の中に捕らえられてる。ま、どうしようもないわな。

     ごくり、と唾を飲む音。エックス自身もあの蜘蛛は記憶貯蔵庫に何度か戻る途中、収容したことがある。そのときは初っ端洞察を指示してしまい、最初に作業した職員が持ってかれちまった。
     死亡アナウンスのタイミングはかなり早い。糸に捕まって引き上げられた瞬間にはもうアナウンスされている。実際エックス自身は死亡アナウンスに反応してTT2プロトコルで戻していたから、職員がどう捕えられたのかまでは見ていても、捕らえられたあとどうなるのか、は見てないに違いない。
     全てを見届けていたら……多分首括るタイミングが早まってたかもな。この点のエックスについてもそうだが、親友こいつのメンタルの削れ方考えると”モニターの方の認知フィルター”はやはり機能していなかったんだろう。
    『管理人的にはこの時点で速攻やり直しするところだろうが、仮にそのまま放っとかれたらどうなってたか、……聞くか?』
     半ば茶化しのつもりだった。流石にエックスはこれ以上突っ込んでこないだろう、と。しかし、
    『聞きます。……聞かせてください。死者が出たら即やり直しをしてきた僕は、管理人、いえ”元”管理人として……本来は管理職の皆さんがどういう危険を冒して作業してきたのか、知っておくべきだった。即戻っていたのは、管理職の皆さんがどういう最期を迎えるのかという事実から目を背けていたんだってことに……気づいたんです』
     その返答は予想外だった。エックスのことだから、腰が引けて『いえ、もうやめときます。なんだかグロそうですし……』とか言い出すかと思っていた。そうか。あんたは全て背負い込む覚悟決めてんだな。もう手の届かないあの点の職員たちに償うため。目を背けてきたと思い込んで本当は全部真正面から見つめてしまっていた辛さ、管理人という立場でありながら職員たちを置いて、辛さに耐えきれず自殺という逃げ道に走った報いを受けるため。……俺に、報いるため。
    『言っとくがわりとキツいぞ。あんま無茶すんなよ。意気込みは買うが、もう手の届かない点の話だ。だから』
    『だからもう罪だと思わなくていい、背負わなくて良いって言うんですか。それは……違うと、思います』
     本当に強情だ。償うと決めたら出来る範囲で償おうとするし、報いを受けるのであれば甘んじて受け入れる。その気質タチのせいで首括ったんだぞ、あんたは。

    『じゃぁ、まぁ……話すか。多少は覚悟しとけよ。言ったからな?』
     エックスが俯き気味に小さく頷く。”左手”にきゅっと力が加わったのを感じた。
     そうだ、それでいい。あんたの辛さを少しでも俺に伝えてくれ。分け与えてくれ。

    『蜘蛛の糸で繭作られて、その中で何をするでもなくぼんやりするしかなかった。当然飲み食いなんざ出来ないから、このまま干からびるだけか、と靄の掛かった頭で何とはなしに思っていた。時間の感覚もクソもない。身体は弛緩してるし、頭はぼんやりしてるし、宙吊り状態だったから半ば浮遊感すら覚えていた。ぼんやりするが、眠くはない。吊り下げられる際に繭全体が多少ぶらぶらと揺れててさ、その揺れる感覚を心地いいとすら感じてたんだ。嘘みたいだろ。あの感覚が、所謂揺り籠ってやつなんだろうな。とんだ揺り籠もあったもんだ。何故神経毒で”獲物”を暴れたり抵抗したりできないようにしたか。勿論捕える際にも捕えたあとも、暴れないほうが都合がいいからってのはあるだろうさ。もう一つ、もっと大きな理由があったんだ』
     エックスの肩が小刻みに震えだした。”左手”に更に力が加わる。――無理してるな。
     いい塩梅の風が吹いてきた。エックスを掻き抱くように枝を揺らす。
     揺らす?揺れる、じゃないのか?”手”に感覚が戻ってからか、その前後辺りからか。どうも思考に違和感が混ざる。これもきっと、変化なんだ。
    ――もしかすると、この変化の原因を俺は知っているかもしれない。思い当たる節がなくはないが、まだ疑念レベルでしかない。推論で動くにしては早計か。
     話を戻そう。
    『”獲物”が暴れたり抵抗したりすると、その分”獲物”が体力を使うだろ。繭に包んだ以上飲み食いはもう不可能だから、極力餌として長持ちさせつつ、良い状態で保存しておきたい。……生きたまま』
    『生きた、まま……』
     生きたまま、というフレーズの時点でもう嫌な予感がビンビンなんだろうな。ずっと震え続けている。

    『んおっ、と』
     エックスが不意に、右手側の近い場所に伸びていた枝を握りしめた。思わず声が出る。手首、か?これは。”右手首”付近にエックスの手のひらが触れる感触。手首を握りしめている感触。
     よくよく考えれば、今の身体のパーツ配置はヒトの身体のそれに当てはめると滅茶苦茶なのに、確かに”左手”と”右手首”の感触がある。
     思わず漏れた声に、エックスが吃驚した様子で振り向く。
    『え、ダフネさん!?大丈夫ですか?……あ、すいません。ついこっちの枝まで握っちゃって……あっ……』
    『体温、感じるんだろ。俺もエックスの手のひらの体温を”右手首”で感じ取ってる。体温ってのはヒトとしての概念だよな。そうだよ、戻りつつあるんだ。ヒトの感覚が。きっとまだ不完全だろうから、あまり突っ込んだりはしないで様子見だけしてる。とりあえず現状はそういうことだ、ってだけだ。結論を出すにゃぁまだ早い』
     ”声”という表現。これもヒトならではの発想だ。それが思いがけず飛び出した。嬉しいっちゃ嬉しいが、原因として考えるには少々好ましくない可能性も浮かんできた。ひとまず振り払う。

    『話が途切れちまったな。……要は、神経毒で”獲物”の動きを封じる理由な。こいつは”獲物”に体力を温存させて長時間生き延びさせる。少しでも長く保存できるように。少しでも多く新鮮な肉を食わせてやれるように。思考するのだって結構体力使うからな。知恵熱ってあるだろ。俺マジであんたに色々教わってる時期、知恵熱出たんだぜ。独学で文字覚えようとしてた頃にもあったな、確か』
    『へぇ、知恵熱って本当にあるんですね。でもダフネさん全然そんな素振り見せなかったというか、ずっと唸ってるだけだったというか……。あれ知恵熱混じりの唸り声だったんですか?もう、言ってくれれば冷却シート用意したのに』
    『生憎、そのデコに貼る冷却シートの存在すら知らなかったんだよ俺は。なんか頭が火照ってぼんやりするのだって、急に難しいこと色々考えてるせいだ、こういうもんなんだって自分の中で勝手に納得して流してたわ。当然知恵熱っつう単語だって知らなかったしな』
    『それじゃさすがにどうしようもないですね。はは……』
     苦笑いが不安を帯びていく。話の続きに嫌な予感でも感じているんだろう。エックスの手が、握る力を強めた。
     その予感は多分だいたい当たってる。エックスをビビらせちまってるのに、手に触れるこの感触が、込められる力が、たまらなく嬉しい。勝手なもんだ。

     何事もなかったかのように続ける。
    『哀れどっかのガサツな慎重ランク1の管理職は繭に捕えられ、身体の動きも深い思考も封じられ、体力を温存させられて子蜘蛛どもの餌と成り果てた。吊るされている繭の位置がだんだん下がっていくのを、浮遊感にまみれたおめでたい脳ミソが感じた時にはもう手遅れ。まぁ、捕まった時点で死亡アナウンスが流れるくらいだ。とっくに手遅れだったんだろうさ。いつの間にか繭の下の方、足の辺りに開いていた穴から、子蜘蛛がわらわらと押し寄せるように繭の中へ乗り込んできた。待ちかねた新鮮な飯の時間だ。まず踝から囓られる。食欲旺盛な子蜘蛛どもはガジガジとかぶりついてくる。後続の子蜘蛛が爪先と脹脛の二手へ分かれる頃には、恐らく骨が見えるくらいまで囓られてたんだろうな。痛覚まで麻痺していたもんだから、針先でちくりと刺す程度の傷みにしか感じなかったんだよ。その程度の傷みがひたすら続くから、すっかり痛覚のほうが痛みに慣れちまう。そのくせ爪先の方はぐっしょり濡れているのがわかる。その時点でもう相当な量の出血だったんだろうな。なにせ足の方は見えないから、何か足のほうがモゾモゾするけどまぁいいか、ってな。出血しているだろう湿った感触を覚えて、ようやく自分が食われていることに気づいたんだ』
    『……っ』
     あぁ、こりゃ怯えているな。手にとるように――実際”手”にとっているのだが――わかる。肩も背中も、握っているエックスの両手も、さっきより明らかに震えが大きくなっている。一応覚悟しとけとは言ったけどさ、ここまでビビらせるつもりはなかったのだが。

     アブノーマリティ”母なるクモ”収容時。初っ端の洞察指示でいきなり死亡アナウンスが流れたとき、エックスは最初何が起きたのかまるでわからない、といった風だった。そりゃそうだよな、洞察したら一発アウトなんて知らないもんな。
     作業しようとした職員が突然収容室の天井付近へ吊り上げられる。既にワイヤーロープのごとく異常に頑丈な蜘蛛の巣が張り巡らされており、収容室の上方は闇が立ち込めて殆ど見えない。ただ必死にもがく職員の人影と、薄く光る複数の赤い目が蠢く様。しばしの後、人影の抵抗する力がだんだん弱くなっていくのが見て取れた。
     そのうち足掻く様子はすっかり失せて、だらりと力の抜けた人影が、更に上の方へ引き上げられる。もう暗闇に飲まれてその様子は外からでは見て取れない。収容室内のカメラもとうに巣で塞がれて、ただ暗闇を映すばかり。それから少しして歪に人の形を成した糸の塊……職員が包まれている繭が天井から吊り下げられる。この一連の流れを見て、半ばパニックめいて取り乱す者もいた。”成れの果て”を知らない職員の中には、膝から崩折れて立っていられない程のショックを受ける者もいた。
     エックスもただ呆然と、この一連の”餌作り”を見ていた。
     突然職員が吊り上げられたときは慌てふためいて「そんな、何が、何で、洞察?それとも他の?」などとうわ言のように呟きながら足掻く職員の影を見ていた。だんだん動きが少なくなる職員の影。「あ、あぁ……あ……」もう恐怖に慄く片鱗が口から漏れ出るだけになって。すっかり抵抗しなくなった職員が引き上げられて見えなくなると、はっと我に返りTT2プロトコルの作動準備手順に入った。
     TT2の作動準備スタンバイが完了し、もう一度見上げたエックスの目には涙が湛えられており、エックスが顔を上げると同時に音もなく天井から降りてくる大まかな人型を模した繭。恐怖に引き攣る顔。「うぁぁ……ぁあああぁぁぁっ!」耳を劈く悲鳴。TT2プロトコルで巻き戻る際の、目と脳が一瞬歪む感覚。
    「僕のせいで、僕の、僕が、僕の指示が……」
     エックスはTT2のプロセスが完了するまで、ほとんど聞き取れないほどの小声で、ひたすら己を責め続けていた。
     俺は”あのアブノーマリティ”に洞察を指示した時点でまずいな、と思い、エックスが心配になってモニタールームに駆け込んだ。ただ慌て、恐怖し、憔悴し、後悔するエックスに、当時の俺は掛ける言葉を持たなかった。何と言えば効果的なのかがわからなかった。”慰める”という単語は習っていたが、何を持って”慰める”ことになるのかは知らなかった。
     きっとこういう時、逐一俺がエックスのフォローをしてやれれば、あの時点で首を括る羽目にはならなかったかもしれない。これらの光景一つ一つが積み重なり、エックスの心に深いヒビを入れていた。
     じき、そのヒビは杭を打ち込むまでもなく自壊を始める。

     エックス自身が聞かせてほしいと頼んできたからには、”最期”まで語る他なかった。

    ――自分の足が喰われている。そう認識はできたものの、実感が湧かなかった。
     痛覚も思考も、神経毒で麻痺してんだ。こういう時に混乱して暴れさせないためでもあったんだろうな。痛覚は麻痺してたが触覚はちゃんと生きてたから、子蜘蛛どもがどこを喰ってるのか、わかっちまうんだよ。
     脹脛も喰われた。次は太腿だ。さすがに喰いでがあったのか、多少時間がかかった。裏路地でドブを漁ってた頃に、太腿の血管は切れちまうと致命的だってことだけは知っていた。……生きるために、こっちから仕掛けにゃならんことだってあったからさ。そういう直接的な生死にかかわることばかり覚えてた。
     半分くらい太腿を囓られたあたりだったか。太腿の肉にありつけなかった子蜘蛛はケツやら手やらに群がってきていた。
     ふと、パツン、て軽い衝撃を感じたんだ。直後、液体が勢いよく噴き出す感覚。あ、やりやがったな。フワフワしてる頭で、端的に、それだけ思った。
     足の肉が片っ端から細かく削がれていく感触は悍ましかったが、生憎当時の俺は悍ましいと感じる頭すらどっか行ってたから、あーすげえ。俺喰われてるのか。そんな暢気なこと考えてたんだぜ。呆れるだろ。前も言ったが、最初の死因だって妖精に喰われたせいだってのに、忘れようもないそんな記憶すら棚に上げて暢気に自分の足が喰われる貴重な体験を半ば楽しんでいたな。
     ちったぁ気味が悪いとも思ったが、思考の麻痺したおめでたい頭は傷みが殆ど伴わないまま足の肉が削がれていく様をどこか俯瞰した場所から感じ取って、肉が無くなるってこんな感じなのかぁ、この子蜘蛛は俺の肉なんかで満足してんのかねぇ。ってな。
     そんでついに太腿の血管が逝った。あーあーやっちまったなぁ。そんなノリだぜ?今までの出血量なんざ目じゃない。数秒で一気に身体が冷えた。
     既にある程度囓られている背筋に寒気が走って、「さみぃな」。……そこまで。

    『これが2回目の死の記憶。意識がハッキリしている今だからこそ思い出すとえげつないんだが、当の捕まってる俺自身は全然そんな恐怖も悍ましさも感じなかった。もしかしたら、神経毒にはネガティブ思考を優先的に抑制する効果でもあるのかねぇ。とまぁ、そんな感じ』

     エックスの様子を見る。震えはさっきよりかだいぶ収まってきたようだ。ひとまずは安心か?
    『その、すごくエグい内容ではあるんですけど、語り口次第で印象ってだいぶ変わるものなんですね……。わざと重くならないように軽い感じにしてくれたんですよね。ありがとうございます。実際に何が起きているのかを知ることも、かんりに……”元”管理人の努めですから』
     わざわざ”元”なんて入れんでもいいのに、律儀なやつだよ、本当。
    『……僕があのとき洞察指示を出してしまったから……いくら神経毒が回ってしまえば気にならなくなるとはいえ、それ以前の、捕まってから繭にされる過程は、間違いなく……恐怖に満ちた時間だったはずなんです。僕がTT2で戻す判断をもう少し早く出していれば、きっとその恐怖を味わうこと無く戻れたかもしれなかったのに。テンパると頭が真っ白になっちゃって、しばらく動けなくなってしまうのは悪い癖、ですね……ハハ』

     実を言うと、そこまで意識してエグい内容を軽く語ろうなどという意図はなかった。もうずっとずっと昔の点の話だから、ある程度余裕のある今となっては半ば笑い話にも近いな、とそんなことを思いつつ話していたら軽い印象になっていたというだけで。
     改めて思い返してみれば、神経毒で意識が”落ちる”瞬間――また死ぬのか。もう嫌だ。どうなるんだ。次は何だ。さっさと殺してくれ。死にたくない――本当に一瞬の間に様々な思いが押し寄せて、直後、霧散した。走馬灯にも近い思考の密度は、思い出す度にきつい。普段一度に処理する何倍、何十倍もの思いが一気に頭の中で弾けるようなもんだ。ポーキュバスみたいに本当に頭が破裂するんじゃないかと思ったこともある。
     死因を覚えないようにしたのは覚え過ぎると気が触れちまう、そう感じたからだが、感情の濁流が堰き止められて決壊しそうなあの感覚が。あれを毎回毎回思い返していたらそれこそ頭が勝手に破裂しちまう。だから”何かあった”と感じた瞬間、意図的に覚えるのを放棄した。
     繭の中でただぼーっと無為な時間を過していたときだって、意識できなかっただけで、無意識的には感じていた。怖い、死にたくない。また喰われるのか。痛いのは嫌だ。
     当時は全然そんな事感じなかった。あとから思い返すと”裏側”がハッキリと知覚できてしまう。神経毒で抑制されていたのは当時の俺の脳ミソだけ。点を飛んだあとの脳ミソはそりゃもう新鮮なモンだから、抑制されていたはずのネガティブな部分が何を感じていたのか、ハッキリ思い出せちまう。毒に侵された身体から毒だけ綺麗さっぱり消えた状態。
     子蜘蛛の口の大きさで、細かく細かく足の肉が抉れ、削がれていく。悍ましいなんてモンじゃねぇ。刻一刻と死に近づく恐怖。足が喰われていく喪失感。太腿の血管が食い破られた瞬間の絶望感。急速に血が抜けて一気に襲いかかってくる、死へ一直線に繋がる寒さ。追いやられるのではなく、向こうから急速にやってくる死。寒ぃな、と同時に、死にたくない、そうも思っていたことだって毒さえなけりゃ丸見えなんだ。
     とにかく、思い返すのはキツいが当時の俺自身がそう苦しまずに死ねたのだけはありがたかった。こうして意識して思い返さない限りは記憶の彼方に放っておける。
     喰われたあと、別の点に飛んでからつい思い返しちまって、また軽くパニック起こしたのは秘密にしておこう。

    『平気か?』
     短く問う。
    『まぁ……何とか』
     短く答える。
    『あん時ゃ、俺もせっかくモニタールームまで駆けつけておきながら、なんて声かけたら良いかすらわからなかった。自分以外の人間の心ってもんの扱いがさ、まるでわからなかったから……結局あんたのつらい気持ちをそのまま放ったらかしにしちまって。それがあんたを追い詰めてたのが……わからなくて……』
     言葉に詰まる。俺がもっとあんたを気にかけていれば。俺が人の心を知っていたら。
    『俺が……あんたの……』
     握られる感触。右手の枝を離したエックスが、俺の”左手”を両手でがっしりと握っている。
    『いいんです。もう、いいんです。ダフネさん』
    『……よくねぇよ……俺がよくねぇんだよ』
     涙が出ない。手はこんなに感覚を訴えているのに、涙を流せる身体でないことが、ひたすらに苦しい。
     声をあげて泣きじゃくりたい。あの時みたいに。顔をぐちゃぐちゃにして、目を真っ赤にして、ただ泣きたい。
    『ダフネさんはきっと、何が起こるかわかってたんですよね。だからあんなにすぐこっちへ来られた。今だから、わかります。心配して来てくれた、言葉なんてなくとも、ただそれだけで僕は嬉しかったんですよ……ダフネさん』
     感情の行き場がない。堰き止められて、ぶち撒けたいのに。その方法が、その場所が、俺にはない。
    『う……ぁぁ……っ、はぁっ、泣きたい……っ、泣きたいよ……ぉ、エックスぅ……』
     恥も外聞も捨てて、ただ泣き叫びたい。涙を流したい。溜まりに溜まった感情をただ押し流したい。感情で感情をひたすら押し流してしまいたい。
    『なみだ、ながして……めいっぱい……なき、たい、……』
    『……』

    『胸が痛いんだ、エックス……っ!』



     エックスが”こちら”に向き直る。膝立ちの姿勢になり、幹を……胸を、抱きかかえる。
     ふと感じる浮遊感。
     枝が、葉が、枯死していく。
     離れた……?
     そう感じる間もなく、重力に引っ張られる。何が?

     涙が一筋頬を伝う。重力に引かれて。

     ふらついた”身体”が前のめりになる。重力に引かれて。



     エックスが受け止めようとしてバランスを崩し、抱きかかえられる形のまま、一緒に横向きに倒れ込んだ。
     向かい合って倒れたまま、お互いに涙を浮かべて笑った。溢れ出る涙を拭こうともせず、ただ感情の溢れるままに任せて、泣いた。
     ひたすらに情けない声を上げて、感情が満足するまで、エックスの胸の中で、泣いた。
     エックスも泣いていた。対象的に声は上げずに、笑顔のまま、静かに。
     背中を擦り、時折ぽんぽんと落ち着かせるように軽く叩くその仕草が、
     あのときと……同じだった。



     俺は今どういう状態なんだろう。
    『ダフネさん』
     耳元で呼びかけられるその声が。あんたが。繋ぎ留めてくれたのか。
     さっきまで出来ていたことなのに、急に不安になる。
    『泣けたじゃないですか』
    『……あぁ。ありがとうな、……エックス』
     わざと口は動かさなかった。そうか。”そういう状態”か、今は。

     涙の跡を軽く袖で拭い、身を起こす。
     今は”この状態”のほうが都合がいい。
     にしても……

    『髪、だいぶ伸びちまったな』
     なまじ肉体を持っていた期間が長かったせいもあるのだろう。枝が日差しを受けて伸びていくように。
     俺の髪は、肩をとっくに通り過ぎて背中まで伸びていた。
     ここまで伸ばしたのはいつぶりだろう。まだ裏路地でドブ漁ってた頃に、髪の毛を買い取るっつう珍しい奴から端金を得るため伸ばしてた時以来だ。どうすっかな、多分俺も鋏触れねぇだろうし……
     ふと思い出す。そういえばここに、……あった。よし、触れる。
     ”いつも”の長さでも邪魔なことは割とある。なのでヘアピンとヘアゴムは常備していた。パーカーのポケットをまさぐると、案の定ちゃんと突っ込んであった。常に持ち歩くモノは己の魂の一部、ってな。
     ヘアゴムを口先に軽く咥え、大雑把にポニーテールを作るような感じで髪全体をまとめる。さらにポニーテールの中間付近をポニーテールの根元まで持っていき、くるりとねじって、まとめてゴムで縛る。
    『はは、これやったの何年ぶりだろうな。俺の場合、年で数えるもんじゃねぇか。ひっさびさに紅茶淹れたときもそうだったが、身体が覚えてるんだろうな。結構スムーズに手が動くもんだ』
     身体、もう無ぇけど。じゃぁ魂が覚えてるのか。
     とはいえ一度確認はするべきだろう。どうしたもんか、と思案していると、周囲の木々が風を受けてざわめいていることに気がつく。……やっぱり、そうなんだな。一抹の寂しさを覚えた。
    『その、ダフネさん』
    『わかってる』

     風の影響を受けないことに俺がショックを受けたと察したのだろう、エックスがせめてもの慰めの言葉を探していたが、敢えて遮った。予想はついていたし、エックスに気をもませるほどのことじゃぁない。ただほんの少し寂しかった。それだけだ。
     かつてはこの点のエックスと一緒に森林浴で外の空気も日差しもたっぷりと堪能した。
     それでもう俺の役割は終わったから。”そういうことになっている”から、と受け入れて、月桂樹の身体で日差しを糧にした。そよぐ風の力を借りてエックスの肩を抱いたりもした。

     立ち上がり、日当たりの良い場所まで歩く。しばらく歩いてなかったから、歩き方を覚えているか不安だった。やはり若干ふらつく。エックスが支えようと立ち上がりかけるが、大丈夫だ、と片手で制す。
     裸眼のまま、太陽を見る。ただ眼前に真っ白な空間が広がるのみ。眩しさの欠片すら感じない。日向でしばらく立ち尽くす。夏の日差しは暑さも何も齎してはくれない。相変わらず風は吹いているが、伸びた髪も、だぶついたパーカーも、一切揺れやしない。
     収まったと思ったのに、気がついたらまた涙が流れていた。今の今泣けるだけ、俺はまだ幸せなんだよな。
     エックスは……せっかく外に出られたと思ったら、切に望んでいた外の空気も日差しも、目の前にただあるだけ。永久にお預けを食らってるようなもんだ。しかもあいつは、それに気づいた時点では涙すら流せなかった。感情をぶちまけることすらできなかった。
     やっぱり、惨い。エックスが何をしたよ。エックスは俺たち職員を守るために、俺に色々教えるために、親睦を深めるために、何度も何度も記憶貯蔵庫に戻って、皆がうまくいくように奔走してくれてたってのに。エックスこいつが何かそれだけの報いを受けるようなことしたってのかよ……!

     暑くもなんともない夏の日差しを受けて、落ちる涙が僅かに光った。
     ほんの数十分前まで、日差しも風も俺には欠かせないものだった。もう、その恩恵も心地良さも受けることはない。
     大切なものを失ってしまったという喪失感は、思いの外大きかったようだ。しばらく溢れてくる涙が落ち着きそうにない。それとも今までずっと溜め込んできた感情が纏めて噴き出しているのだろうか。結構な期間溜め込んでたからなぁ。堰き止められていた量が多すぎたか。
     ひとしきり、泣いた。全て吐き出すつもりで泣いた。



    『さてどうすっかねぇ。一応動けるようにはなったわけだが、ちょっと色々考えをまとめたいことがありすぎる。幸いなのかどうなのか、飲まず食わずでいいのは……まぁ、楽しみを一つ失っちまったが、その代わり物資調達のために焦る必要もない。話しながら適当に考えるか。脱線しすぎて何をどこまで話したんだったか。あぁそうだ、エックス、あんたは何も成せなかったわけじゃない、ってやつだ。あんたは本当に色々なものを残してくれたよ』
    『……そう、でしょうか。結局僕はセフィラコアがどうこうすら知らなかったし、本来の役割であるAさんの記憶だって受け取らないまま、自殺を選んだ駄目な』
    『やめろ。……それ以上は駄目だ、あんたは、自分を卑下しちゃぁ駄目なんだ』
     咄嗟にエックスの肩を掴んで抱き寄せていた。後頭部に右手を添える。ぼさぼさではあるが、俺よりずっと艶やかな黒髪の感触が手に残る。――何してんだ俺は。そこまで人恋しかったってのか。
     慌ててエックスを放す。
    『あ、あ、す……すまん、あーー、っと、ん、なんだ』
     しどろもどろになる俺を見て、ふっ、とエックスが噴き出す。その様子に余計恥ずかしさが募る。本当に、なんであんなこと。どうしてもエックスにその先を言わせたくなくて、言葉で制するだけじゃ多分無駄だと思って、……どうやったら止められるかわからなくなって――。限度ってものがあるだろうに。ひたすらに縮こまる。目が泳ぐ。
    『ふふ。ダフネさんって恥ずかしくなるとすぐ耳まで真っ赤になるんですね。僕が言うのもなんですけど、その……生きてきた環境とか境遇とかのせいで、恥ずかしくなるようなことってたぶん、全然なかったと思うんです。だからきっと、過敏に反応しちゃうんじゃないですかね。自分の感情に。それが慣れないものであれば、余計に』
     こめかみのあたりにかーっと熱を感じる。熱が集まってくる。やっぱりこの感じは耳まで真っ赤なのか。全く何やってんだか。ずっと”動けなかった”からつい反射的に?今まで”動かない”のが当たり前だったのに。それでいいと思っていたのに。
     そうだ。苦痛に歪むエックスをなんとかしてやりたい、どんどん昏くなる目の奥のものを少しでも取り除いてやりたい。……エックスに、触れてやりたい。そう思ったんだ。
     だからエックスを俺に寄り掛からせ、枝を握らせたのはたのはせめてもの足掻きだった。いうなればこれだって我儘だ。エックス自身は樹としての俺をあまり見たがらないだろうし、ましてや触れさせるなんて。
     まるで逆効果になっていたかもしれないのに、ただ俺がエックスに触れていたい、触れられていたいから。

    ……再会の時、エックスはを抱きしめてくれた。ヒトのほうではない。樹のほうを、枝葉が折れないように、そっと。
     それ以降はずっとヒトとしての俺を維持しようとしてくれていたけど……もしかして、知ってか知らずか、エックスは最初から樹のほうが”本体”なんだってわかっていたんじゃないのか。
    ――訊く勇気が無い。どういう返答であっても、エックスから語らせるのは嫌だった。どういう返答であっても、それを聞くのが、怖かった。

    『うお、っと』
     エックスが突然抱きついてきた。なんだなんだ。
    『ちょ、おい、エックス』
     また顔面が熱くなるのを感じる。恐る恐るエックスの背に腕を回す。ぎゅっとエックスが抱きしめてくる腕に力がこもる。背中に回された手がゆるゆるのパーカーをくしゃりと握りしめる。俺はどうすべきなのかわからず、赤面しながらただ固まっていた。
     胸に顔を埋めたエックスが、心の底から絞り出して”声”を出す。
    『ダフネさんが、いる。ダフネさんが、確かに……いるんだ。やっと、やっと、ほんとうのダフネさんに……』
     ほんとうのダフネさん。そのフレーズに、心臓が殴られるような感覚を覚えた。
     エックスは、やはり最初からわかっていた。俺の魂が樹の身体に、とっくに定着していたことに。魂の概念がわからずとも、”そういう状態なのだ”と最初から把握したうえで。俺に報いようと、必死に動いていたんだ。
    『エックス……すまない』
     どう声をかけたら良いものかと考えて、結局謝罪の言葉しか出てこない。
    『ぅ、あ、謝るのは、なし、ですって……』
    『いや、今だけ無視する。悪かった。あんたはずっと知ってたんだろ。もうとっくに俺が、あんたの覚えている”ダフネ”とは何かが違っているってこと。ヒトとしての魂は残っていたけどほとんど抜け殻みたいなもんで、形を留めているだけでもやっとだったってこと。その形をずっと頑張って維持してくれたんだよな。あんたの記憶の中の”ダフネ”に会いたかったから。……俺だって本当はヒトとしての在り方を手放したくはなかったさ。だからギリギリまで抗ったつもりだ。それが裏目に出たんだ。ヒトの形を維持しようとしすぎて、魂に負荷がかかってたんだろうな。だから二日も眠っちまったんだろう。欲に任せたってのももちろんあるが、樹本体の睡眠サイクルすら無視して眠り続けたってのは……魂がだいぶすり減っていて、休息を取らないと魂そのものの維持ができなくなりつつあったってことだ。だからあのまま、ヒトの維持を続けていたら……』
     維持を続けていたら。最早言わずとも明らかだろう。
     背中のパーカーを握る手が両手になった。下に着るタンクトップごと握っている。
     そっとエックスの髪に触れる。そのまま右掌でくしゃくしゃとエックスの頭をやや乱雑に撫でる。左手でパーカーのお返しとばかりにエックスの白衣を少しだけつまんで、握った。

    『ごめんな』
     声帯から出しているわけでもないのに、声は掠れていた。

     互いが互いの存在を確認し合う。二人だけの……二つだけの、魂のみの存在。
     まだ確認してないが、きっと俺も他人からは見えないんだろう。だから、よっぽどのことが起きない限り、俺を認識できるのはエックスだけ。エックスを認識できるのは俺だけだ。
     エックスの頭をくしゃっと撫でる。髪に指を通す。思ったよりもするりと髪の間を指が通る。俺の髪なんざ、手櫛でもしょっちゅう引っかかるってのに。手入れ次第でこうも違うものなのか。身体を失った今更思う。本当に今更だ。魂に刻まれた俺の髪はもうずっと、永久にこのガサガサな髪質のままなんだろう。だいぶ伸びちまったってのになぁ。今のところ切る手段も持ち合わせていないし。勿体無ぇことしたかなぁ。
     ん、何だこれ。
     右手の薬指に何かが巻き付いている。いや違う、これは……
     あのときエックスが1本抜いて、”枝”に結んだ髪の毛か。そうか、ここに来るのか。まだ指に結わえられたままだから、この髪の毛はまだエックスの一部ってことなのか。結構持つもんだな。
     エックスの艶のある黒髪に指を通しつつ手のひらで感じる。枝を握ってもらったときにはとっくに、いやもっと前、ヒトとしての形を維持していた頃、俺の右手を掴んでエックスが自身の頬にあてた、そのときには既に感じていた。
    ――魂って、あったかいんだな。

    『な、あんたが成し得たものが今ここにある』
     エックスの存在を確かめるように。俺が今ここに存在することを確かめるように。
     エックスの体温を感じて、ただ抱きしめた。



     目を真っ赤に泣き腫らしたエックスがようやく顔を上げる。いかにも泣いてましたと言わんばかりのその顔に、思わず噴き出してしまった。ふくれっ面でさらに顔を赤らめる。
    『……んもう』
    『よく考えてもみろよ。あんたの一言が俺に生きる意味をくれたんだ。……あんたの死が、俺に生きる理由をくれたんだ。一方的な約束を何も知らない他の点のXたちに押し付けて、ずっとあんたの身代わりとして使ってきた。俺はあんたに、外の空気と日差しをやりたかったからな。その目的を成すためにずっとずっと繰り返して、この点のエックスと出逢って、自分の意味を見つけた。その結果が今だ。だからあんたが居なけりゃ、今は無いんだよ。わかるか?』
     くしゃくしゃと黒髪を乱しつつエックスの頭を撫でる。少し恥ずかしそうにしながら、小さく頷くエックス。
    『もちろん生きる意味だけじゃない、色々あんたにゃ教わったな。識字力のない裏路地のドブ漁りが辿った末路は……さっき話したな。あんたは俺が最初からやたら仕事だけは出来るって思ってただろうが、あんたが読み書き教えてくれたからこそ助かった日だってあったんだぜ。あと……読むのはまだなんとかなったが、書くのがな』

     管理日数が初期のうちの点であれば、裏路地出身だから学がない旨を予め伝えておけばお節介だったり世話焼きだったりが結構教えてくれる事に気づいてからは、読めない項目を都度聞いたりして、文字と照合して読み方を覚える。覚えるのにも相当苦労したが、なんせ死に直結する情報だ。読めなきゃ死んだも同然。それなり半端にではあるが、読むほうは少しずつ何とかなりつつあった。
    『書く方は独学じゃぁまるで駄目だった。たまに管理方法で書き直した方がいい項目を見つけても、それをどう書きゃいいのかがわかんねぇ。誰かに代筆頼んでも、情報チームに申請する際にまた面倒なことになってさ。これは駄目だって思って、それ以降は記述間違いなんぞ見つけても無視するようになっちまった。あとあと見つけることになるだろう他の奴に役目を押し付ける形になっちまうが、書けないもんは書けない。そのせいでのちに自分の首締めることになったって自業自得。しょうがないことなんだって諦めてた。だからさ……あんたが読み書きの基本からしっかり教えてくれたのは……その、滅茶苦茶ありがたかったんだぜ』
     間違いなくありがたいんだが、やっぱり改めて昔の話で礼を言うのは恥ずかしいな。なんとなく”隙間”を埋めるためにボリボリと首の後ろを掻く。首筋に持っていった手に違和感。そうか、今髪上げてるんだった。首筋を掻く指先にまとわりついてくる髪がなかったから一瞬ビビっちまった。

     さっきまで”一緒に座っていた”場所に、再び腰を下ろす。やっぱり、座ってないとなんだか落ち着かない。これを我慢してエックスはずっと立ちっぱで俺の目を見てくれていたと思うと、きゅっと胸が苦しくなる。本当によくやるよ、あんたは。
    『アベルの話まで戻そうか。何を話すかしっかりまとめておかないと本当脱線するな、俺は』
     上層のコア抑制を終えた後に管理人……と後ろで聞いてたみんなに、俺自身の境遇と今に至る経緯を語った。だいぶ前から話す内容を決めておいて、できるだけ伝わりやすいように言葉を選んで、ニュアンスが違っていないか推敲して。本当に大事なことだから、物凄く考えに考え抜いて内容を決めた。
     アドリブで話すとどうしても感情に任せて語りたくなっちまう。考えをまとめることそのものが下手くそなんだろうな、俺は。コービンみたいに要点を絞って話せりゃぁなぁ。

    『46日目のアベルはさっき話した通り、何も成し得ず漫然と業務だけしてた管理人たちだ。……そんな顔すんなって。で、そん次。47日目のアベルが、上層のセフィラたちと何らかのしがらみを持っていたAだな。上層セフィラたちが持つ基本的な、そして揺るぎない信念が欠けていた管理人たちでもある。欠けていたというか……思い出させてくれた、ってエックス、あー、この点のエックスがな、言ってた』
     危ねぇ危ねぇ。ややっこしいなぁこりゃぁ。
    『基本的、ですか?』
    『そ。基本も基本。何をするにも重要過ぎる基本だらけだ。セフィラひとり……セフィラってアレひとりふたりって数え方でいいのか?』
    『えー……僕からは人の姿に見えてたし、元々は人間だったんでしょう?じゃひとりふたりでいいんじゃないですかね?』
    『あ、そっか……あんたはセフィラたちの本来の姿見たことなかったんだったな……』
     セフィラがどういう存在なのかは既に話してある。詳細な容姿までは俺の語彙もないし、かといって図で表現しようにもそもそも動けなかったし、”ちょいとデカい箱型の機械”とだけ表現して、あとは端折っていた。まぁ、このままでも大丈夫だろう。
    『ひとまず見た目に関しちゃ関係ないし、認知フィルターの話とかしだすとまた脱線しそうだからとりあえず進めるぞ。セフィラひとりにつき一つ、キーとなる信念だとか理念だとか、そういうもんを持ってるんだと。んでセフィラコアを抑制したあとに……そうだな、”管理人”って言っとくか。管理人がセフィラとじっくり話し合う。暴走したセフィラってのは抱え込んだ感情が爆発して暴れてるようなもんで、そいつを落ち着かせりゃぁ”爆発の火種”がわかるってこった。その火種が、言い換えれば信念だの理念だのそういったもんらしい』
    『はー。聞いてるだけだとなんかフンワリしてますね。Aさんに対して何か恨みつらみがあって、その恨みつらみが爆発して暴走して、落ち着いて話してみたら恨みつらみの正体はこういう考えを見失っていたからでしたー、……的な?』
    『あんたまとめるの上手いな……。さっきも話したように、もちろんAの行動が原因でその恨みつらみ他諸々が生まれるわけだ。そのAの記憶が、セフィラコア暴走時に強制的に管理人の記憶に割り込んでくるんだと。47日目のアベルはだいぶひねくれていて、管理人に様々な問いかけをしてくる、らしい。全部伝聞だからあやふやなのはすまん』
     情報源、この点のエックスあいつだけだしなぁ。大体は聞き出したつもりだが、きっと抜けがあるぞ、どっか。

    『マルクトからは”真っ直ぐ立てる意思”、イェソドからは”分別できる理性”、ホドからは”もっといい存在に成れるという希望”、ネツァクからは”生き続ける勇気”。コア抑制後に話し合った際、管理人はこれらの信念なり理念なりを教えてもらって、そいつを管理人自身も取り入れていくんだ。雑に言えば、”自分もその考え方を忘れないように頑張る”ってとこだな』
     ”生き続ける勇気”のくだりで、エックスがぴくりと反応した。一旦話を切り、少し近くに寄って肩に手を回す。
     敢えて何も言わない。何も言わずに、エックスの気持ちが落ち着くまで待つ。肩を抱いた途端、震えだす。鼻を啜る音。声を殺して泣いている息遣い。回した腕に少し力を込める。自らも肩を寄せる。待った。ただひたすら待った。きっともう薄まることはないだろうから。俺が自分の意志で、エックスに触れられるから。

    『……ダフネさん』
    『ん』
    『ありがとう、ございます』
    『あぁ』
     短く答える。エックスのペースを遮らないように。エックス自身が一番わかっているはずなんだ。この後悔自体に何も意味は無いってことに。でもこいつは気にしぃだから。忘れようったって忘れることなんざできないんだ。
     だから感情ばかり溢れて、その感情も意味がないとわかっていて、それで余計に後悔が募る。その負の連鎖を少しでも和らげてやれたら。ずっと思っていた。声をかける以外に何もしてやれないのがもどかしかった。だから今、こうして肩を寄せて、背負ってきた数々の辛さを少しでも受け持ってやりたい。
     何分過ぎようと、何時間過ぎようと、関係ない。小さく鼻を啜る音が静かになるまで待つだけだ。

     エックスの肩を抱いていた俺の右手を、エックスが両手で握る。そのまま俺の手を取り、自らの頬にあてる。
     必死でヒトの形を維持しようとしていたときと、同じ。あれからそう大して日は経ってないはずなのに、やたらと懐かしい。エックスがここにいる。俺は、今度こそエックスの記憶の中のダフネとして、エックスと触れ合っている。ちっと髪は伸びちまったけど。
     エックスの顔を覗き込もうとしたら、横目でちらりとこちらを見てきた。つい目を逸らしてしまう。これはもう完全に昔っから染み付いた癖だ。裏路地時代に染み付いた癖は何をどうしても抜けることはついぞなかった。それこそ魂レベルで刻まれちまってるんだろう。ずっと間近で色々教えてくれたエックスは、俺の目を見るたびに俺が視線を逸らすことに気づいていたはずだ。
     心底嬉しそうな、柔らかい笑顔で言う。
    『いつものダフネさんだ』
     視線を逸らしたあとは様子を見つつそっと戻すのだが、その台詞を聞いて戻す視線が固まった。かあっと頬が熱くなる。
     ふふっ。悪戯っぽくエックスが笑う。
    『ずりぃぞ』
     どうせまた耳まで真っ赤なんだろう。エックスがぱっと俺の右手を放す。咄嗟のことで何が起きたかよくわからず、一瞬固まる。右手はエックスの頬に触れたまま。”以前”のように、もうだらりと力なく垂れたりはしない。
    『だいぶ落ち着きました。待っててくださってありがとうございます。ダフネさん』
     エックスの顔を覗き込もうとした俺の顔を見ながら、礼を言うエックス。予想以上に顔が近い。
    『……ただ待ってただけだ、わざわざ礼なんぞいいだろ』
    『そうやって照れ隠しするの、ダフネさんらしいです。すごく』
     だからそういうのがずりぃんだって。



    『アベルはいわば、その信念や理念を見失っていた管理人の末路……をかき集めてイメージ化したようなヤツだ。……大丈夫か?』
     こくりと頷くエックス。多少無理させちまってるな。”生き続ける勇気”を持てなかったこいつには耳が痛い話なのはわかってる。できるだけ早く済ませたい。
    『何をしても無駄だ、諦めろ。そう言ってくるアベルに対して、上層のセフィラたちから受け取ったさっきのフレーズをぶつけて返答としたんだとさ。アベルが何をどう主張したか、詳しくは聞けなかった。なにせあいつ自身が問答に必死で、アベルを言い負かしたものの詳細までは覚えてないらしい。はは、そんな奴に言い負かされたアベルはどんな気持ちだろうな。』
     一呼吸置いて、エックスの様子を窺う。しゅんとした顔つきで膝を抱えている。もうあの記憶は忘れるどころか、エックスの魂を成す要素の一つになっちまってるんだろう。あの惨事があったからこそ今の俺があるとはいえ、その結果一生……永遠に己を責め続けて精神を苛まれるのは……。しかもこいつは、それを自分への報いだとして受け入れちまってるから。どうにかしてその罪の意識と共存していくしか無い。

     空っぽだった俺でも生きた証が残せたかもしれない。逆行時計を発動させながら、そう思った。
     空っぽの俺に新しい職務が与えられただけだった。
     あの逆行時計のあった世界はどうなったのだろうか。正しく元の平和だった時間に戻ったのか、俺というイレギュラーにより誤作動を起こして大惨事になったのか。もう知る由はない。知ったところでどうにもならない。頭ではわかっているのに、余裕が出来た今になって改めて気になってしまう。
     管理方法をそのままとれば、使用者は死亡するとされている。何処に行くかどうかは書いていない。当たり前だ。使用者はその場から消えちまうんだから、使用者が消えたあとどうなるかなんて知りようがない。その挙動自体は、この点で俺が使った際にあとから聞いた。肉体の消失イコール死亡扱いという単純な構図ならば、使用者がどうなろうと書きようがないな。
     あの時のコービンランク5の管理職とオフィサーである俺が同時にゼンマイを回した結果、逆行時計の説明には書いていない挙動が起きた。本来巻き戻るのは施設の時間。正確には”危機的状況が起きていない時点の状態に施設の環境を戻す”。それまでに貯めたエネルギーなんぞは据え置きだから、完全に時間そのものを巻き戻しているわけじゃない。
     あの時は、俺自身が実際に時を遡った。さらにオフィサーから管理職へと立場が変化した。そのうえで、死ねなくなった。使用者は死ぬとされている逆行時計を使ったら死ねなくなったなんて、とんだ皮肉だ。実際には”肉体は死んでいるが、死ぬ直前と次に目が覚めたときに意識の連続性が維持されたままである”、とするのが正確なんだろう。我ながらまどろっこしい特性だ。

     実際どれだけ遡ったのかはわからないが、どうもこの点のエックスいわく、「地下に潜ってから外の時間では10年くらい経っている」らしい。L社内の時間の流れで換算すると1万年程度だとも。これもT社の技術と莫大なエネルギーのたまものなんだろう。
     俺がオフィサーとして入社したのは果たして”いつ”だったのか。L社が地下に潜ってどれだけの時が経ってから採用通知が届いたのやら。その頃は時間軸という概念がなかったし、仕事の際は紅茶淹れる以外ほとんど目隠しと耳栓(紅茶AIビナーからの指示を伝えるイヤホンも兼ねている)つけっぱなしだったからな。情報が少なすぎる。もう点を飛びすぎて、あの日にあたる時期はとうに飛び越えてしまったのだろう。
     最初の方の点はもうかなり記憶もあやふやだができる限り思い出してみると、やはりまだ地下にできたL社としてはだいぶ初期のうちだったのだろうという要素がいくつか思い出された。点を飛ぶ際に過去には飛ばないと仮定すると、外の時間で10年か。たった10年なのか、10年もなのか。飛び飛びだからというのもあるが、どうにも実感が湧かない。実際俺が体感していたのはL社内の時間だから、1万年近いあいだL社の変遷を見てきたことになる。余計実感が湧かないな。むしろ訳が分からない。
     外の時間にしろL社内の時間にしろ、俺に連続した時間という概念は殆どない。それこそ飛んだ先の点をつまみ食いするような生き方をしてきたわけで、何年生き続けている、という表現のしようがない。生きた時間を真面目に累積して数えりゃ可能なんだろうが、いちいち覚えていられるわけがないからな。
     外とL社内の時間の流れの違いについて、最初に聞いた時は多少唖然としたが最早俺にとって何年経っているかという事実は意味を成さなかった。ただ外に出られさえすればよかった。5年後だろうが10年後だろうが100年後だろうが、当初の俺の目的は”親友に外の空気と日差しをくれてやること”だったから。既に目的が”この点のエックスと森林浴をする”に変わっていても、大まかな流れは変わらない。この点のエックスがやり直す限り、俺はそれに付き合う。なんとかして状況を良くするために全力を尽くす。それだけだ。

     この点のエックスが諦める日が来たら……俺はどうしていただろうな。そう簡単に心って壊れてくれねェんだよな。いつもギリギリ首の皮一枚で理性が押し留めちまう。”親友”が首括ったあと、しばらくはショックが尾を引いて何も手につかなかった。それこそ作業の一つもまともに出来ず、そのまま死んで飛ぶこと幾度か。酒もやった。薬もやった。エンケファリンも相当やった。死ぬほど(ああ、それこそ本当に死んだことだって何度あったろうな)過剰摂取しても、心は壊れちゃくれなかった。先に体のほうが限界を迎えた。
     死んで点を飛んでを繰り返しているとそのうち気が触れてしまうのでは、それに恐怖した時期もあった。心の防衛本能ってのはよくできてるもんで、本当に気が触れそうになると勝手に身体がSOSを出しやがる。それでカウンセリングに連行されるなり、心配性なヤツが相談に乗ってくれるなりして、そこでフェイクを交えつつ口が勝手に色々吐き出しちまう。
     まんまバラしたら精神汚染検査で面倒なことになるから、明らかにヤバい箇所は嘘を交えて。真実を語る中に混ぜる嘘ほど気づきにくいものはない。
     貪欲の王にも多少愚痴ったな。あの王様とは相当長い付き合いだから、多少がどんだけ多少なのか覚えちゃいないくらいには色々喋ったかもしれない。何だかんだ、王様には感謝している。E.G.O黄金狂にも散々世話んなったしな。着るのが面倒臭いのだけは……まぁな。一度着てしまえばもう身体の一部みたいに扱えるんだが。
     ”赤い霧”も黄金狂を使っていたが、主に使うのは貪欲の王が脱走する際に使う、”黄金の道”という名のワープゲート。生成条件は限られているが、離れた通路の入口出口をランダムに繋ぐあの性質を、赤い霧は使いこなしていた。最終的には黄金の道を開いた上でその中に黄金狂を投げ入れ、自律稼働させていることすらあった。ありゃぁ多分、”黄金の魚”由来の使い方なんだろうが、あっちの方は俺にはちとよくわからない。
     正直、黄金の道を出すだけならば俺でもやろうと思えば出来る気がする。ただしランダムな通路に移動できたところで大して意味もないし、赤い霧が黄金狂を使うのを見る前に黄昏に着替えたから、本当に出来るかどうかはわからない。もしかしたら黄金狂使っているときに黄金の道のことを知れていたら……1回くらいは試したかもしれない。わりと出来そうな自信はある。それだけ、俺と黄金狂の親和性は高かったんだろうな。
     充分すぎるくらい自覚している。俺は欲望の塊だ。エゴに塗れてる。その性質は今でも変わらない。多分、そのせいだ。



    『あの、ダフネさん?』
     やべ、つい考えに耽っちまう。なにせこんな状態だ。思い返したいことが多すぎる。L社内での日々とは全く違う時の流れ方と、まるっきり異なる状況。正直、ずっとこうして思い出に耽っていたい。エックスとも、生前の日々もエックスの知らない点のことも、色々語り合いたい。
     だがどうも、そう甘いことばかり言っていられない状況かも知れないという疑念が出てきている。
     現状の疑問点も多すぎるが、話しているうちにある程度まとまるだろ。
    『46日目以降はずっと、通常業務ではなく設計チームにおける”ケテル”のコア抑制という扱いになる。1日毎に異なった妨害をされつつ業務をこなすことで、”管理人”としての能力を見せつける形になる。先の問答と合わせて、意思と実力両方を”ネガティブな自分自身”に見せつけて乗り越えていくような感じ、らしい。……なーんか締まらねェな。あいつからの伝聞しか情報がないからそこは許してくれ』
     この点のエックスから話を聞けるのは業務終了後だから、当のあいつも流石に疲労困憊だった。俺自身もあいつももう失敗はしない、絶対に休暇を迎えてやる、って意気込んではいた。それでも、”次”があるかもしれない。念には念を入れて、情報を少しでも集めておきたかったから、あいつに無理言って覚えてる限りのことを話してもらったんだ。当然苦い顔をされた。「ダフネさんは僕を森林浴へ連れて行ってくれるんでしょう?」ってな。それでも人生何が起きるかわかったもんじゃない。管理人に突然心臓発作が起きる可能性だってゼロじゃないんだぞ。なんとか言いくるめて、聞ける分は大体聞いた。この借りは”外に出たら”ちゃんと返してやるから。

     正直、薄々感じてはいた。このケテル抑制を乗り越えた先に待つ休暇が、まともな休暇じゃないってことを。
    ――きっと今の俺は、”休暇を勝ち得た俺”ではない。まっとうに得られた休暇じゃ説明のつかないことが多すぎる。説明がついたところで、推論ばかりになるだろうが……。あの森林浴も、外に出られたということも、全て偽りだとしたら――

     だとしても、今俺の肩に触れている体温はエックスのものだ。この感覚だけは、嘘じゃない。
     偽りでも、この記憶は……忘れたくない。

     大きく息を吸ってみる。はは、何だこれ。ずっと吸い続けられるぞ。草木の匂いも何も感じない。森林浴のときはあんなに堪能できた自然の匂いが全然しない。感じ取れない。あ、まずい。ちょっと駄目かもしれん。興味本位でやるんじゃなかった。”こうなった”以上はせめてエックスと同じ感覚を味わっておかないと。そう思ってなんとなくやってみた。
     思った以上に胸に刺さるものがあった。やべえ。痛ぇ、これ。
     落ち着くために深呼吸しようにも、意識して息を吸おうとすると吸った分の空気が全部素通りしていく。肺にさっぱり空気が溜まらない。エックスがなかなか落ち着けなかったのはこれのせいもあるな、きっと。思わず溜息を吐くときなど、無意識だとそれらしい呼吸になるってのに、意識した途端感覚を失うような。
     再会したとき、エックスも落ち着くためについ深呼吸しようとして、もう”この状態”じゃ出来ないのを思い出して、辛そうな顔をしていた。全く同じだ。そうか。落ち着くにも深呼吸禁止か。こいつはなかなか厳しいことを要求されてるなぁ。
     あぁ、でも、これだ。胸の痛みだ。はっきりと胸の痛みとして感じられる。この痛みもまた引き換えとして受け入れるべきものなんだろうな。
     突然黙りこくって、表情を見せないようにエックスから顔を背けた俺の挙動から、何かを察したのだろう。エックスが背中を擦る。エックスの手のひらが温かい。何も言わずただ背中を擦るエックスに甘えて、少しだけ泣いた。ほんと、変だよな……泣くときは普通に息吸えてるのにさ……。
     この感覚を、エックスは初っ端の衝撃として受けたんだ。今更俺が事実再確認して勝手に凹んでどうするよ。受ける衝撃が段違いだろ。本当何やってんだか。馬鹿だな、俺。

     エックスのほうを向き、もう大丈夫だ、と微笑みながら軽く頷く。エックスも頷いて、背中を擦っていてくれた手のひらでぽんぽん、と軽く背中を叩く。その優しげな仕草にまた少し胸がきゅっと痛む。
     内容忘れないうちに話続けとかないと。横道にそれないようにそれないように。
    『まず、試練そのものの内容が様変わりした。便利屋フィクサー、知ってるだろ?赤・白・黒・青。それぞれの色を象徴する便利屋が試練として襲ってくるんだ。もちろん本物じゃぁない。ただのイメージだ。そもそも試練そのものがアブノーマリティの出来損ないみたいなもんだってのは話したっけか』
     うーん、と首を傾げてから、首を横に振るエックス。まだだったか。じゃそこからだな。
    『試練、あったろ。情報チーム開いたら突然出るようになったアレ。機械だったりイモムシだったりピエロだったり。そうあの試練。試練ってのはアブノーマリティを抽出する際に、ウッカリ人間の無意識なり過去や未来の可能性なり、そういう”意図しない場所”から何らかのモノを抽出することがあるらしい。その成れの果てが試練なんだとさ。ん、そっか。そこもまだだったか。アブノーマリティは全部人間から抽出されてるって話からか』

    ――オフィサーとして入社した当初の俺の仕事。抽出担当のオフィサーは全員目と耳を塞いで、紅茶好きのセフィラが命令するままに手元のスイッチを操作する。抽出元に合わせてそのスイッチの具合を調整するんだと。抽出する際に何かを見てしまったせいで”境界が崩れる”奴がチョイチョイ出るってんでオフィサーの入れ替わりが激しいらしい。境界が崩れた奴は登録抹消と同時にこれまたアブノーマリティの抽出元になるそうだ。このあたりの事情はこの点のエックスから聞いた話。
     仕事してた当時は何かヤバいことしてるってことはなんとなく感づいていたが、結局それっきり。ヤバいけど仕事できなきゃ退社処分だからな、あんときの俺はまだ裏路地時代に近くてさ、せっかく翼に入社できたはいいがやってることはただ言われた通りに機械のスイッチいじるだけだ。自分自身は空っぽのままで、翼に入ってまで俺は何やってるんだろうって。まぁ虚無な感じでやってたわけよ。
     あ、俺の事情はとっくに話してたな。すまんすまん。
     で、そう。アブノーマリティの大本は全部人間だ。人間から”釣瓶”ってヤツでアブノーマリティの元となるイメージを吸い上げる。その吸い上げ具合の調整をしてた……させられてたのが俺らってわけだな。
     無事にアブノーマリティが抽出できたら、収容具合から判断して本部に収容するか支部に送るか決めて、”出荷”だ。支部も結構な数あるらしいぜ。本部だけでも相当な量のエネルギーを生産してるってのに、支部がめちゃくちゃあって、そこでもまた膨大なエネルギー出してるんだ。そりゃL社も一大エネルギー生産業社として翼のひとつにもなるってもんだぁな。

    『で、そのアブノーマリティ抽出の過程で、”釣瓶”自体が変なところに繋がったり、境界が崩れた奴の意識が妙なところに繋がってたりして、上手いことアブノーマリティが抽出できずに妙なモンが出来上がることがある。それが試練。OK?』
     いきなり話す内容としちゃ少々ショッキングだったか?エックスが固まっちまった。ある程度話したと思ったんだが、この点での話とごっちゃになってたかね。ともかくエックス自身はどうもこのリアクションだとやはり初めて聞く話だったらしい。上層までしか管理したことのないエックスにとっちゃぁ……まぁキツいかもなぁ。どうせアンジェラから聞ける話だって無難なものばかりなんだろう。
    『あれが、全部……人間から生まれたものだったんですか……。人間から生まれたものが、人間を食べて……』
     あ、まずい。地雷踏んだ。踏んだというか……どうしても想起しやすくなっちまってるのかもしれないな。なんたって自殺の元凶だ。最も強く記憶に残るに違いない。それこそ、魂の一端を成す程度には。――エックスの魂には、あのクソ胎児が刻まれてる。それどころか、今のエックスを成している要素にあのクソ胎児があるかもしれないんだ。
     何かある度にクソ胎児を思い出す。自らの手で職員を”犠牲”にしたことを思い出す。胎児のモチーフ――”Aがアンジェラを酷く嫌う幻覚”を思い出す。事あるごとにそうなっちまう。あぁ、クソ。……痛ぇ……。
     エックスの痛みに比べりゃこんなもん……とは思うんだが、痛いもんは痛い。
    『エックス……おい、ちょ、エックス!?』
     右手で胸を押さえ、苦しそうに肩を上下させて荒い呼吸を続けている。
     突然、がしっと左手で俺の右手を握ってきた。えらく力が入っている。何だ、ここまで強く握ってきたことは今までなかったんじゃないか。
    『はっ、はぁ、はぁ……だ、はっ、だい、じょうぶ、です……っ、から』
    『それで大丈夫なんて思える奴が居るかよ馬鹿野郎……』
     右手はがっしりとエックスに掴まれてしまって動かせない。ここまで力込めてるんだ。相当我慢してるんだろう。
     時間には余裕があるかと思っていた。あのクソ胎児がエックスの魂の一端を成しているとしたら、ちと長引かせるのはまずい。まずいどころか、下手したらクソ胎児の記憶で自壊しかねない。――こういうときの呼吸も別段問題ないんだよな。相当胸が苦しいんだろう。そっちに集中してるからだろうか。
     左手をエックスの左手に重ねる。
    『本当にヤバかったら、ちゃんとギブの合図出せよ。いいな?』
     大丈夫、というエックスの言葉を尊重することにした。その代わり念は押しておく。
     小さく1回、そのあと大きく2回、エックスが頷く。言葉すら出せないほどじゃないか。いいか、ヤバかったらちゃんと合図入れてくれよ。頼むぞ。

    『便利屋の話だったな。試練である以上、便利屋達もイメージが具現化しただけの存在だ。それぞれの属性に特化した便利屋が想起されて、試練として襲ってくるんだがそいつらはまだ前座だ。最終的には”爪”が出てきやがる。旧L社を襲撃した調律者に二人随伴してたアレ。あの”爪”だ。いくら記憶の残滓が形をなしたものとはいえ、爪だからな。とんでもない距離を猛スピードで突進したり、ワープして辻斬りみたいなことしてきたりしやがる。おまけに自己回復まで備えてる。こっちはタイミングを見計らって、爪の行動の隙に一斉に襲いかかるくらいしかできない。数の暴力ってやつだ。実に原始的な戦法だが、相手は一人だからまだよかった。そんな原始的な戦法が充分通用したのは幸いだったよ』
     一旦切って、エックスの様子を見る。少し呼吸は落ち着いてきたか。さっきよりか手を握る力も弱くなった気がする。
     大丈夫、かな。

    ――実際は爪ですら前座に過ぎなかった。
     コア抑制の際、セフィラによって様々な妨害が入ったことは話したな。47日目のアベルを言い負かすことができたら、じゃあそれを管理の結果で見せてみろと言わんばかりに、上層セフィラ全部の妨害要素をぶち込んできやがった。
     マルクトの指示内容入れ替え、後々命令取消不可になる妨害。イェソドの視界が見づらくなる妨害。ホドの職員能力が大きく低下する妨害。ネツァクの回復不可能になる妨害。回復不可能になるのは後半の少しの間だけだからまだよかったものの、これらがまとめて襲いかかってくるんだ。こっちだってたまったもんじゃない。
     特にホドの効果、能力低下な。セフィラコア抑制のときは段階を踏んで少しずつ下がっていったんだが、今度の妨害はいきなり-55と一気に下がる。しかも正確にはいくつ下がってるか、イェソドの視界悪化効果でまるで視認できない。-55ってのは特定のランクで成功率が上がったり下がったりするヤツの作業結果から逆算して出した値だ。
     ホクマー抑制の効果もあってこちらの能力評価値は130まで上がるようにはなっているものの、流石に55も低下した状態で便利屋を凌ぐとなるとキツイもんがあった。黄昏の性能に完全に頼りっきりだったな。能力が低下してるせいもあって、いつもはあのデカい剣を軽々振り回せるのに、あんときばかりはE.G.Oに振り回されてた。幸い防具耐性は優秀だったから、試練が出るたびに俺があっちこっち駆けずり回ってた。
     体力も精神力も低下しているんだ。無理して相手させるよか、黄昏単騎のほうがやりやすいことも多いんだよ。そんなわけで、まぁ酷使されたね。防具耐性が優秀ってことは作業着としても優秀ってことだから、戦闘員としても作業員としても引っ張りだこだったんだぜ。まぁしんどかった。妨害のせいで身体は重いわ着慣れたE.G.Oも重いわ、空気まで重苦しい。そんな中戦闘に作業にだ。
     マルクト抑制のときのメモの話覚えてっか?ガバメモの悪夢再びだ。職員の能力評価値にマイナスの赤文字が見えた際、ホドの抑制のこと思い出して”あなたは幸せでなければならない”を使うかどうか散々迷った挙げ句、結局目押しガバを恐れて使わなかったのはまぁ英断だったかもしれないな。あんときゃ本当……いやもう笑えないくらいの有様だったからさ。
     エックスも使ったろ。YESとNOが交互に出るアレな。あんたも大概だったが、まだずっとマシだった。ある程度低速なうちに妥協してYESで止めてたからな。この点のエックスはな、低速でもYESで止まらないんだよ……。しかも最初のうちは2倍速状態で押そうとしてたからな。上層のコア抑制、最大の難敵はホドじゃなくて管理人の目押しガバだったってオチ。前も言ったけどな。あの悪夢再びかとちょっとビビったね。流石に懲りたようで、作業は慎重に、試練は俺の黄昏単騎駆。
     作業の入れ替えをメモるのにまた一苦労してたみたいだが、到達目標が比較的緩いせいもあってまぁまぁ無難に達成できた。流石に爪まで相手しろとはならない。なんなら夕暮の試練を相手することもない。白昼まででいい。クリフォト暴走レベル6達成プラスエネルギーノルマ達成でクリアだ。いくら妨害満載とはいえ、このくらいはこなしてくれないと後々な。まだ”Aたち”は一人しか出てきてないんだから。

     とりあえず一区切り、ってとこか。次はなぁ……また地雷ベタ踏みすることになるからなぁ……エックスの奴大丈夫かね、本当に。
    『エックス?』
     何だ、反応がない。おい、冗談だろ?
    『エックス、おい、エックス?』
     いつの間にか右手を握っている力がまるでなくなっていた。クソ、何で気づかなかった!?
     軽く肩を揺さぶる。俺の肩に寄りかかっていたエックスの身体が、そのままゆっくりと倒れてくる。まさか。
    『エックス!!』



    『ん……うーん……あれ?ダフネさん?おはようござい』
    『馬鹿野郎!!』
    『お、起きてそうそうクソデカボイスで罵倒された……なんなんですか、もう……』
    『ヤバいなら何か合図しろっつったじゃねぇかよ!何勝手に気絶してんだよ!クッソ心配したんだぞこっちは!』
     ひとまず特に致命的なことはなさそう……か。
     俺は足を投げ出して、倒れてきたエックスを仰向けにさせて膝枕のような形をとっていた。俺の硬い太腿で大丈夫なのかちょっと不安だったが、この様子だと問題なかったんだろう。
     それよりもエックスの状態だ。
    『どのくらい眠ってました?』
    『眠ってたじゃねぇ、気絶だ気絶!二日!俺ん時と同じだ馬鹿!』
    『起き抜けなのに立て続けに罵倒された……』
    『だーから気絶だっつぅ……あぁもういい。とりあえず無事だったからいい。まだ眠いか?』
    『や、もうそんな眠くないので』
    『てことはちょっとは眠気があるんだな?今回は気絶だったが、眠気があるなら寝ておいた方がいい。恐らく眠気は魂が摩耗しているサインだからな』
     実体験から言わせてもらう。必死にヒトとしての形を維持しようとしていた頃。樹のほうに定着していた魂を半ば無理やりヒトの形に引っ張り出していたようなもんだった。最初のうちは俺のヒトへの未練から自然にヒトの形がとれていたが、その行為自体が”魂を疲れさせ”たり、”魂を少しずつ削って”たりしていた。本当は樹の方に魂が固着していないといけないものを、無理やり引っ剥がしていたんだ。そりゃ傷がついたりもする。それらが積み重なって、俺のゆっくり眠りたいという欲望に任せて眠った結果、二日目が覚めなかったというわけだ。
     エックスの場合はさらにまずい。俺の時はヒトを諦めて手放すことでとりあえず摩耗は避けられた。だがエックスの気絶の原因は、恐らくあのクソ胎児の記憶だろう。こっちの点にエックスが降り立つ前の話を思い出す。
     真っ暗で、ただひたすら後悔だけがあった、と。
     辛さのあまり自分が指示するべき職員を置いて死へ逃げたことへの後悔。自らの手で職員を犠牲にしてしまったことへの後悔。自分のミスによって泣き出した胎児がカウンターを下げ、脱走させてしまったアブノーマリティが職員を殺して回っていたことへの後悔。そもそも記憶貯蔵庫更新のタイミングで胎児のコンテナを選んでしまったという後悔――大方そんなところだろう。
     結局どう足掻いてもあのクソ胎児に帰結する。確信した。エックスはあのクソ胎児の記憶で魂が疲弊している。最悪、魂が削れつつある。俺が感じている胸の痛みもそうだが、さっきのエックスの様子は尋常ではなかった。痛みどころじゃない。抉れているんじゃないのか。思い出すたびに、少しずつ。その可能性が拭いきれない以上、予定を早回ししないといけないかもしれない。下手したらこのままエックスが……

    ……魂が削れきってしまったら、どうなるんだ?
     形を留めることができなくなる?抜け殻になる?存在が消える?
     駄目だ。そんなの、全部駄目だ。
     かといって急ぎすぎてもまずい。次の話は確実にエックスの地雷踏み抜くとわかっている以上、正直飛ばしたい。だが飛ばしてしまうとわざわざ設計チームの話を整理してきたことが無駄になる。極力言葉を選ぶしかないか。
     失言まみれの俺にできるのだろうか。……できるのだろうか、じゃない。やれ。やるしかねぇ。

    『どうする?もう一眠りするか?正直に言ってくれ』
     眠気が残っているなら、しっかりと休息させておきたい。被害は最小限で留めたい。
    『じゃぁ、お言葉に甘えて、ちょっとだけ……。すいません、ダフネさん』
    『そういうのは無しって言ったろ。おやすみ、エックス』
    『そうでしたね……。おやすみなさい、ダフネさん』
     ちょっとどころじゃないな。最後の方の話し方や声音からして、だいぶ眠気が残ってたに違いない。体験談も交えてガチで説得した甲斐があった。下手したらエックスは心配かけさせまいと無理にでも起きていようとするだろう。それだけは避けたかった。ちゃんと休息できるなら、二日どころか一週間だろうがひと月だろうが待つからな。

     エックスが眠っている間に、疑問点だのなんだのを整理しておくか。
     ひとつ。何故俺たちが外に出られたのか。L社内で最後に残っている記憶は、49日目で苦戦していたこと。まずここ。49日目を突破できたのかがわからない。わからないまま、次の記憶が外に出る際護身用にE.G.Oをパチっておこうという話にまで飛ぶ。何故そうなった?何を持ち出した?……わからない。この辺だ。49日目に、何かがあったんだ。
     ふたつ。何故俺が月桂樹になることを当たり前のように受け入れて実際にそうなったのか。
     ようやく確信に変わった。どう考えてもおかしいだろう。ありえないだろう、そんな状況。俺の役目は、役割は、もう終わったから。俺の役目って何だ?俺の役割って何だ?
     目的はある。森林浴にこの点のエックスを連れて行くことだ。でもそれは目的であって役目でも役割でもない。何故役目が終わったからといって俺が月桂樹になる必要がある?理不尽だろう、そんなこと。何故俺はあのとき何も疑問に思わずそれを運命だと思い込んで受け入れた?何故本当にそうなってしまった?
     みっつ。何故”エックス”がこの点に居るのか。こいつは相当謎だ。話の通りだとすれば、首括ったあと死後の世界みたいな場所で魂だけの状態でずっと後悔し続けていた。まぁここまではいいとしてだ。何故”この点”に突然降り立った?
     いくら彷徨っていたとはいえ、L社管轄の巣周辺から旧L社付近まで導かれるようにほぼ真っ直ぐ歩いてきたことになる。Aの記憶がそうさせたのか、あるいは別の何かがあるとでもいうのか。そもそも――

     よっつ。……この世界は本当に”点”なのか。

     既に推論は立てている。確証は持てないが。この推論が当たっていたならば、きっと他の疑問も全て解ける。
     ただ、この推論を認めてしまうのが……怖い。クソ、腹ァ括れ。いずれはエックスにも明かさないといけないんだ。今までの全てが水の泡になるかもしれない。存在がなかったことになるかもしれない。この世界で起こったことを忘れてしまうかもしれない。正直消えたくないし忘れたくもない。ただ、このまま放置していたらきっとエックスが摩耗しきってしまう。それはもっと嫌だ。
     だから、この疑問に決着を付けないと。



     エックスが”二度寝”に入ってから二日。事態は思った以上にまずいかもしれない。クソ胎児の記憶を思い出したが、それを表に出さず話の腰を折るまいと隠していた可能性だってある。そうなると手が出せない。
     眠気は魂が休みたがっているサインだからちゃんと言え、と念を押したのは功を奏した。そうまで言わないと全部背負い込んで隠し通そうとする。それがこいつの悪い癖なんだ。きっとその悪癖も、こいつの魂の一部なのかもしれない。だとしたらタチ悪ぃぞ。

     雨がぱらついてきた。これで起きるか、と身構えたが、生憎俺たちを濡らすには至らない。全部すり抜けていく。だろうな、とは思ったさ。
     しかしほとんどこの夏の間雨降ってなかったな。月桂樹が乾燥に強くて助かった。なんならこの髪も、ちゃんと樹のときにきれいに剪定していれば多少は短くなってたのかねぇ。剪定する手段が手折るくらいしかないのがな。さすがにエックスに俺の枝を手折るように頼むのはまずかろうと控えてしまった。まぁ、髪なら伸びてもとりあえずまとめる手段はある。
     そういや、エックスが『ネツァクさんにちょっと似てますね。ネツァクさんのほうが癖っ毛がなくて少し長いですけど』とか言ってたな。エックスにはあの飲んだくれボックスがこんな風に見えてんのかよ。もし万一戻れたとして、俺ネツァクのことまともに見られなくなりそうだ。……戻れたら、な。
     本降りになってきた。雨の音は結構好きだ。ちっとも静かじゃないのに静けさを感じさせる。たまに霧雨のように普通に音を立てない雨もあるにはあるが。
     裏路地でドブを漁っていた頃は、雨が降ろうが雪が降ろうが休める日なんぞなかった。多少生活に余裕のあるやつらが住処から出てこなくなる。それだけでもありがたかった。ライバルは一人でも少ない方がいい。雨がコンクリートを叩く音に包まれてドブを漁る。少し水嵩が増したドブには普段見ないものも流れてくる。いつもとはほんの少しだけ違う環境。
     ライバルが減るとはいえ、雨の中変わらずドブ漁りするような奴は勿論俺以外にも居る。得てしてそういう奴ほどタチが悪い。俺も含めて。そこまでしないと生き延びるのもままならないってことだからな。雨は人の気配をかき消す。タチが悪いってのはつまり”そういうこと”だ。上手く行ったら23区に卸して臨時収入が得られたりもする。
    ……俺が卸される側になるかもしれないことは重々承知の上。それも込みで、雨の日は普段と一味違っていた。ただ生きるために生きていた俺の空っぽな人生の、ほんの少しのスパイスだったかもしれない。

     コンクリートではなく、草木を叩く雨粒の音。殆ど聴く機会はなかったが、これもまたいいもんだな。
     もう草木の匂いを嗅ぐことはできないから、風や雨が鳴らす音で自然を感じ取る。
     贅沢を言えば……濡れながら聴きたかった。雨を感じたかった。全身で雨すらも堪能したかった。
     雨粒ではない雫が頬を伝う。駄目だな。どうも感情が刺激されやすくなっている気がする。魂が丸出しなぶん、ダイレクトに感情を刺激されるのかねぇ。それとも俺のメンタルそのものが脆くなっているのか。どちらにしろあまり良くない兆候だ。感情で思考が中断される。センチメンタルになってる余裕はないんだよ、こっちは。

     だからさ、あんたももう泣くなよ。

     エックスはまだ起きない。
     そろそろ”二度寝”に入ってから三日になる。今まで溜め込んでた分を全部精算するような休息が取れているといいんだが。こいつは間違いなく俺よりももっと色々溜め込んでたはずだ。度々眠気に襲われていただろうに、ずっと我慢していたんだろう。
     多少時間に余裕がなくなりつつあるかもしれない、という懸念はあるものの、無理に揺さぶったり頬を叩いたりして起こす気はない。エックスが寝たいだけ寝かせてやる。エックスに潰れてほしくない。最悪、いずれはクソ胎児の記憶による後悔で自壊するとしてもだ。こいつが俺に報いたいってんならそうさせてやりたい。エックスのメンタルに負荷のない範囲で。
     俺だってずっとエックスと一緒に魂が自壊するまでの永い時間を過ごしたかったが、生憎そうもいかない事情ができちまった。疑念・疑惑・疑問がまだまだ残ってる。そしてこれらが解決するならば、最悪の事態は避けられる。そんな予感がしている。
     俺とエックス、どちらかが潰れた瞬間、もう片方も絶望に塗れて自壊してしまうだろう。
     タチが悪いのは、エックスが自らを構成する要素に自らを傷つけるものを含めちまってるってこと。胎児収容による後悔。胸糞悪ぃ話だが、あのクソ胎児による一連の惨事と自殺。それを後悔するということそのものが今のエックスの存在の基盤になっちまってる。後悔しているからエックスは存在できている。言うなればその事実こそが、エックスの後悔に対する一番の報いなのかもしれない。
     そんな歩く自傷行為みたいなことやめてくれ。
     もういいだろ、そんなに自分を責めることないだろ。なぁ、……



       ――エックス



     袖を引っ張られる。随分長いこと意識が飛んでいた……待て待て待て。俺が居眠りしてたのか?考えに耽りすぎて俺が”疲れ”たってのか。
    『エックス?』
    『あぁよかった。おはようございます、ダフネさん』
     心配そうな顔つきで、膝枕状態のままエックスが俺の袖を引っ張っていた。俺が起きたのを見るなり安堵の色に変わる。
    『悪ぃな、逆に心配かけちまった。俺がちゃんと見てないといけないってのに。……で、あんたが目ぇ覚めてからどんくらい経った?』
    『目が覚めてからだと……たぶん長くても10分かそこらじゃないですかね。目が覚めたときにはダフネさんが既にうつらうつらしてて……。もしかしたら深い眠気かもしれないから、少しだけ、本当に少しだけ刺激して、起きそうもないようであれば僕が膝枕する側になろうかな、なんて……はは』
     気を遣わせてしまった。エックスが万全の状態になるようにって決めたのは俺だろうが。何普通に居眠りしてんだよ。油断し過ぎだ、クソ。
     あー、俺が寝ちまったせいでエックスが目ぇ覚ますのにどのくらいかかったかわからなくなったじゃねえか。何やってんだよまったく。

     エックスは自分がどれだけ眠っていたのか訊いてはこなかった。俺が居眠りしたせいで大まかな時間すらもあやふやになってしまったから、というのはもちろんあるだろう。だが、エックス自身の予想よりも長い時間眠っていたとなったら、自身がどれだけ無意識のうちに色々溜め込んでいたか、実感してしまう。そうなったらこいつは間違いなく自分で自分を責めるだろうから。やっぱり僕が溜め込んでいたせいで、とかなんとかでまた負のループが始まっちまう。
     だから、どれだけエックスが眠っていたのかは”わからない”ということにした。少なくとも最初に二日、二度寝してから三日は経っているのだが、後半は伏せたままにしておいた。エックス自身も訊いてこないということは、俺が言いたくない程度には眠っていた、と薄々感づいているかもしれない。それ自体が気を遣わせてしまって多少なりともメンタルを削る一因となるのだが、変にでかいショックを与えるよりはまだマシだと思っておこう。

    『もういいんだな?』
    『はい。お陰様でよく眠れました』
     俺もエックスも、居眠りしてしまった俺に眠気が残っているか、そこに触れない。敢えて触れない。
    ――そういうところだぞ。あんたも、俺も。

    『47日目の話、どこらへんまで聞けてた?覚えてるか?』
    『んー……っと……YESとNOのあたりまではなんとなく。あとはもうどこまで聞けていたのか……』
     いっそ気絶という形ででもちゃんと眠ってくれて良かったと思うべきか。だが気絶するくらいだ、相当直前まで無理して起きていたんだろうな。
    『適当なところからまた話すか?どうせ聞いてたところも胸のほうがキツくてちゃんと把握できてないだろ。だから言ったろうが、きつかったら何か合図なり言うなりしろって』
    『……その……っと……はい……』
     随分歯切れが悪い。どうする、突っ込んで訊いてみるべきだろうか。それでエックスがまた罪悪感で削れたら最悪だ。だが結局訊かないままエックスが何かを隠し続けていたらそれはそれでまずい。
     最初の気絶が二日続いてさらにまだ眠気が残っていたという事実は、流石にエックスもある程度ヤバいと思っているはずだ。ちょっと訊いておいたほうがいいかもしれない。それでまたエックスは悩んですり減るかも知れないが……。
    『エックス』
    『……』
     黙りこくるエックス。これは何か隠しているな。流石にバレバレだぞ。
    『何か言ってくれよ……言えないことなのか。今更そんな隠すようなこと、無いだろ。なぁ』
    『……ごめんなさい、何も……大丈夫です、平気ですから、……っ』
     まずい、まずいまずいまずい。
    『あんた、胸の痛みが収まらないんだろ。いつからかはわからんが、ずっと締め付けられるような痛みとか、刺すような痛みとか……気絶する前は特に酷かったぞ。ずっと痛みはあるのに、我慢できるからって言わなかっただけだろ。馬鹿かよ……あんたは……それで自分自身を追い詰めて一度首括ってんだぞ!』
    『だからって、』
     膝枕の体勢で、エックスの苦々しい顔を見る。エックスのこういう顔を見るのが辛い。生前もそうだった。職員が死ぬたびに、エックスはこういう顔をするんだ。そしてすぐさま巻き戻す。
    『……だからって……この痛みを肩代わりするとでも言うんですか!僕が受けるべき……』
    『違う!』
    『違いません!』
    『まだ勘違いしてんのかこの馬鹿野郎!あんたが受けるような報いなんて無ぇんだよ!」
     強情なエックスが一瞬怯む。流石にちょっと本気で怒鳴りすぎた。怒鳴り合いになったら出自の差も出るってもんだ。あんたの出自……Xとして入社する前の”仮の記憶”がどんなもんだかは想像すらつかないが、間違いなく俺よりは穏便な人生だったんだろうさ。ある程度安定した精神状態じゃなけりゃ、いきなり管理人業なんて務まらんだろうからな。

    『いいかエックス、あくまで例えの話だが……あんたは今毒を抱えた状態で生きてるようなもんだ。その毒の発生源はよりによってあんたの体内。自覚があるのかないのかわからんが、常に自分の内から発生する毒を吸い続けて身体に悪影響を及ぼしながら、それを我慢してさも平気ですって顔しながら生活してるようなもんなんだ。そんでその毒はじき確実にあんたを死に至らしめる。わかるか?今のあんたは、放っといたら死ぬような毒をずっと我慢してるんだ。辛いに決まってるだろ。言えよ、言ってくれよ……』
    『でも』
    『でももクソもあるか!俺はそんなに信用ないか!?あんたの辛さを打ち明けるほどの存在じゃないってか!』
     真正面からぶつけた。俺はあんたのことを親友だと思ってる。本気でそう思ってる。辛いことがあったらせめてあんたには知ってほしいと思ってる。
     本気で泣きたい。胸が痛い。樹としての身体では絶対に叶わないこと。伝えたところでエックスにはどうしようもないこと。でも俺はエックスにこの気持ちを知ってほしいから、あんたに甘えたいから、敢えて伝えた。あんたに言ってもどうにもならないことのはずなのに、あんたは受け止めてくれたじゃないか。どういう理屈だかわからんが、あんたが俺を繋ぎ留めてくれたから、肉体こそ失えどこうしてあんたと触れ合えてるんだ。涙を流せるようになったんだ。
     涙がエックスの白衣に落ちてうっすらと染みを作る。わずか数秒も経たないうちに涙の染みた跡は消えてしまう。魂が元の形に戻ろうとするための反応。だが溢れた涙にこもった気持ちは変わらない。

    『……ほんの少しだけ、ですから』
     たっぷりと逡巡したのち、ゆっくりとエックスが喋り始める。
    『最初に痛いな、と感じたのは……外の空気も日差しも、もう僕にとっては存在しないものになってしまったんだ、って認識したときだったと思います。今際の際に言い残す程度には求めていたものが全部僕の目の前にあるのに、僕には届かないものになってしまったんです。胸が締め付けられるような痛みでした。でも、そのときは大して気にも留めませんでした。辛いことがあると胸がきゅーっとなるの、わかりますよね?生きてるときだってそうだったんです。死んでても辛い時は胸が苦しくなるんだな、って。変化したことに気づくのは簡単ですけど、変化していないことに気づくのは難しいんです』
     変化していないこと、か。自分はもう死者なんだ、と認めたところで、現状は生前のように動けている。行動そのものはほとんど生前と変わらない範囲で出来る。だからこそ、余計に”もう出来なくなってしまったこと”が際立つ。外の空気を吸いたかった。日差しを浴びたかった。――死ぬつもりのエックスが、最後に求めたもの。

     ”外の空気を吸う”ことを意識して大きく息を吸うと、吸った側から”魂が織りなす仮初の身体”をすり抜ける。肺に空気が溜まる感覚を失う。肺に空気が溜まる感覚がないから、そもそも息が吸えているのかすらわからなくなる。
     自分で試してみて実感したが、想像以上に心にキた。呼吸に集中しようとするとそうなるのが厭味ったらしいったらない。さっき怒鳴った後に呼吸を整えたが、そういう時は本当に人の体まんまの挙動をする。深呼吸しようとしたりすると、その瞬間に魂が呼吸の概念を忘れる。嫌がらせかよ、ってほどにピンポイントでな。
     日差しだってそうだ。周囲が太陽光で明るい。そのことは認識できている。いざ裸眼で太陽を直接見てみる。光の眩しさを感じることもなく、ただ視界が一面真っ白になるだけだった。光だけじゃない。夏の日差しからくる熱もどっか行っちまった。
     それでエックスがショックを受けないわけがない。胸も苦しくなるだろう。そこは生前とほとんど変わらなかったから、気づくのが遅れたのか。
     正確にはその胸の痛みは生前とは違う仕組みだ。生前のほうは専門家じゃねぇしよくわからないけど。
     完全に経験則プラス憶測だが、現状……魂だけの状態で感じる胸の痛みは、魂がほんの少しだけ摩耗したという、自分自身からのヘルプだ。
     この痛みが蓄積していくと、魂が疲労していて危ないぞ、と、眠気という形で休息を促してくる。おそらくは眠っている間に意識をシャットアウトして魂の自己修復の期間に充てたりしているんだろう。多分だが。その眠気を無視したり、欲望こじらせて変な噛み合い方したりすると、やたら長時間眠ることになる……らしい。如何せんサンプルが少ないし、そうそう休息を求められるような魂の使い方はしたくない。

    『この小さな痛みがいつごろから出てきたのかは、よく覚えていないんです。変化してないことに気づくのは難しいですから。いつの間にか、”常に少しだけ胸が痛い”という状態が恒常化していたんです』
     エックスが左手を胸に当てる。痛みから少しでも心を守ろうとしているようにも見える。体勢はずっと膝枕のまま。できるだけ楽な姿勢でいて欲しいという、ささやかな希望の現れ。
     エックスの左手に、俺の右手を重ねる。なんとかこれで多少は和らげること、できねぇかな。
     手から伝わる体温は温かい。これを、失わせたくはない。

    『それであんたはずっと、ほんのちょっと我慢してればなんてことないと思って、その痛みをずっと放置してきたのか』
    『このくらい大丈夫だって思うじゃないですか……。だから、つい』
    『……ったくあんたは。それじゃ”前”とまるっきり同じじゃねえかよ……』
     エックスが左手を握る。エックスに重ねた右手に力がこもる。痛みが増したのか?こりゃ迂闊に刺激できないぞ。
    『……すいません。今のところは、大丈夫です』
     表現の仕方が変わった。そっちのほうが助かる。
    『本当に、ちょっとでも、何かあったら知らせろ。普通に言ってくれてもいい。俺の手なり服なり引っ張ったりしてくれてもいい。言葉が出なくても、出ないなりに何かアクションは起こしてくれ。……頼む』
    『はい。もしかしたらそれで話の腰を折っちゃうかもしれませんけど』
    『そういう心配はあんたがするもんじゃねえだろが』
     一旦間を置く。よし、予定早回しだ。
    『47日目についてはとりあえず成功裏に終わった、でおしまいだ。ペース上げるぞ。次ぁ48日目だ』
    『えっ、は、はい』
     一応念を押す。予防線は張っておく。
    『またあんたの胸痛める要素出てくるが、自分のことは気にするな。俺の話だけ聞いとけ。思い詰めるからきっと余計痛くなるんだと思う。だからひたすら気を紛らわせろ。いいな?それでどうしても駄目そうなら』
    『はい。ちゃんと伝えますから。無理はしません。だから……どうぞ』
     クドくなっちまってすまんな、エックス。これもあんたの強情からきてるんだぞ、まったく。

    『扉を開けたらそこは48日目だった、とか変な言い方してたなぁ、あいつ。でもまぁ、実際その通りだったんだろう。なんとか47日目の業務を終えて、アベルは打ち負かしたわけだ。アベルのいた部屋に戻ろうとしたらまた扉があったらしい。開いた先には、また別の”A”がいた。まるで無精髭生やしてやつれた管理人のようなやつなんだと。そいつは自らをアブラムと名乗ったそうだ』
     ふぅ、と一息つく。さて、この次だ。
     エックスの左手に重ねていた右手で、軽くぽんぽんと手の甲を叩く。覚悟しとけよ、そして無理せずちゃんと言えよ、の2つの意味を込めて。

    『アブラムは、セフィラ・職員・そしてカルメンの受ける苦痛は全て自分の業だって自覚を持っていて、もうこれ以上苦痛を与えたくない。だからいっそ諦めるべきだ、これ以上繰り返しによる苦痛を無為に与えるべきじゃない。そう主張する奴らしい。要するに罪悪感を覚えちまったAどもだ。自分で書いた、自分が遂行すべき台本に沿って行動していたくせに、その過程で皆を苦しませるのは嫌だからやっぱり諦めよう、なんて都合のいいこと言いやがる。カルメンの意思を継ぐために作ったL社というデカい監獄に自分を閉じ込めて、そのまま贖罪し続けよう、ってな』
     おそらくは、上層セフィラのコア抑制を見届けた結果、罪悪感が芽生えたかこじらせちまったか。主にそういったAの意識どもなんだろう。Xというノイズが混じってるから本来のAより罪悪感が生まれやすいんだろうな。
    『う、……っぐ』
    『エックス?エックス!休むか?休むなら待つぞ。絶対無理すんな、大丈夫なんて言うなよ!』
     エックスが右手でパーカーの裾を掴んで引っ張る。胸に当てた左手がシャツごと強く握られ、拳が震える。エックスは気絶する直前ですら、今まで痛みによる声はあげてこなかった。そんなエックスが思わず呻く程なのか。それとももう我慢するつもりはないからと、辛さを外にどんどん吐き出そうとしているのか。
     明らかに苦悶の表情が出ている。ずっとあんたはその辛さを見せてこなかったんだな。
     パーカーの裾を引くエックスの手を左手で握る。ちょいと体勢的にきついがそんな事言ってられるか。
     エックスの呼吸は荒々しいがその力は弱い。
    『はぁ、こ、この間よりは、まだ……だいぶ、はっ、マシですから……』
     この間のって気絶する前のやつか。呻き声出る程の痛みを何も言わずに我慢してたのかよ、馬鹿野郎……。
     だが一応エックスが無理に我慢することをやめたらしいことはわかった。
    『休むか?』
    『っ……はい。す、少し……』
    『少しじゃねぇだろ。気兼ねすんな。あんたのペースで進めるから』
     だから。
    『もっと俺に甘えてくれ。エックス』

     エックスが暗闇の中で感じていた後悔は、職員たちを巻き戻しつつ何度も死なせてしまったことへの罪悪感からくるものだ。クソ胎児への犠牲作業なんざ最たるものだろう。
    ――後悔と贖罪。48日目の扉の名前。完全にこいつのトラウマど真ん中だ。だからアブラムの話は避けたかった。避けたら避けたでエックスは避けた理由を察してまた苦しむに違いない。どの道逃げられない結果なら、辛くなるタイミングが分かる状態でフォローしたほうがやりやすい。
     もしかしたらあんたが首括る瞬間の後悔と絶望も、アブラムを成す欠片の一つかもしれない。
     自殺ってのは……結構勇気要るからな。それ相応の”心の力”が、もしかしたら影響与えてるかもしれん。
     血の風呂の記録の後半部分。あれをそのまま信じるなら、カルメンは手首切るときに肉切包丁使ったそうじゃないか。そこまでして死にたいって決意が、カルメンにもあったのか。記録を見る限り衝動的じゃない。確固たる決意の結果だ。死にたい、ではなく……自分は死ななければならない、くらいの決意。エノクの死が契機となって、今にも足を踏み外さんとしていたところへリサの後押しがあって……。
     昔どうにか死んでこの境遇から解放されようと色々試してた時期に、リスカもやったことがある。これがまぁ死なない死なない。思った以上に血が出ない。じんじんとした痛みばかりが募っていく。
     流石に嫌になって包丁を手首にぶっ刺した。そのまま思い切り手前へ引き、肉も血管も引き裂いた。刺した包丁が骨をかすり、肉を引き裂く感触が滅茶苦茶気持ち悪く、そして凄まじく痛かったことは覚えている。自分で引き裂いた腕の傷を押さえてひたすら悶絶した。死にたいはずなのにな。――あぁクソ、痛ぇ。けど血は出てくれた。良かった。……記憶はそこまでしかないから、多分死ねたんだろう。結局点を飛ぶだけだったけどな。
     何があろうとリスカももう絶対やらねぇ。そう決心した。

     やはり溜め込むことがよくなかったらしい。数時間程度安静にしていたらだいぶ良くなったという。エックスが我慢していなければだが。
    『いけるか?』
     頷くエックス。何かあったらちゃんと教えろよ。何度言ったかわからない念押しをして、続ける。
    『アベルと同様、アブラムにもセフィラたちの言葉をぶつけてやった。ティファレトからは”存在意味に対する期待”、ゲブラーからは”守り抜く勇気”、ケセドからは”快く信じ任せられる相手”だ。いいか?エックス。あんたはあんたのできる範囲でちゃんとみんなを守ってきた。その事実を棚に上げるな。あんたはちゃんとみんなを守ったんだ』
    『……』
    『結果だけ見るんじゃない。ちゃんと過程も見ろ。あんたが職員のみんなを守ろうとしてきたから、みんなあんたを信じてついてきたんだ。わかるだろ?』
    『……その、ついてきてくれた皆さんを、僕は』
    『ストップ。それ以上は禁止だ。ウジウジ悩むのと、俺の死亡体験談、どっち選ぶ?どっちも嫌なら少し休んで、続き行くぞ』
     実際のところ、こいつが首括って完全に死亡が確定した時点で、あの点にいた職員たちはもう死ぬことはなくなったわけだ。リセットされて、今までのことはなかったことになるからな。
    ……積み重ねてきたものを一瞬にして失い、存在が抹消されるのは死と何が違うのか。少なくともL社においては存在抹消=死だ。違うところがあるとすれば、職員に存在抹消やリセットの事実は知らされていないことと、事実を知らないがゆえにその恐怖も知らないってことくらいか。
     こいつが首括って世界がリセットされた瞬間、ぷつり、と完全に全てが停止した。本当に一瞬。直後、暗闇に落ちる。目を開ける。目の前に”新しいX”が居る。なんせエックスの首吊りあんなことの直後だ、叫びそうになった。かろうじて抑えたが、既に頭の中は半狂乱もいいところだった。
    ――何で死を選んだ。何で相談してくれなかった。新たな点のXに詰め寄ったってどうしようもない。爆発しそうな感情のやり場を完全に失い、頭ん中がいっぱいで何も考えられなくなった。普段なら絶対にしないような、本当にしょうもないミスをやらかして死んだ。それでもその点の管理人は巻き戻した。こんな糞の役にも立たないやつなんて捨てていけよ。
     なまじ優しさのあるXなだけに、余計自己嫌悪に陥った。……自己嫌悪って概念すら、当時は知らなかった。教わる前に逝かれちまった。ただ自分の中に真っ黒でドロドロしたものがひたすら湧き上がり、溜まっていく。
     あいつはそれでも別のXなんだ。受け入れられなくて、認めたくなくて、俺がもっとなんとかできたんじゃないかという後悔も募って、しばらく相当荒れた。点を飛び始めた初期の頃、開放されたくて自殺を試みたときよりも死んだ回数でいえば多いかもしれないくらいには、色々やらかしてきた。
     俺はともかく、他の職員たちはこんな思いなどせずにそのままリセットされたはず。俺よりはずっとマシだ。
     過程も見ろとは言ったが……。結果的に俺がいるのはあんたが首括ったから、なんだよな……。複雑な気分。複雑すぎてちょっと俺の胸が痛ぇや。いかんいかん。俺が削れてどうする。

    『48日目も中層セフィラの妨害オンパレード……というかその特性上、相乗効果が発揮されるわけじゃなくてな。実質一つずつ妨害を順番にいなしていく形に近かった。もちろんケセドの妨害”特定の属性から受けるダメージ5倍”ってのはまぁ単純に厄介だ。なんせ試練から受けるダメージも、条件が揃えば5倍になっちまう。ALEPH防具装備してない職員はほぼ即死レベルだぜ。48日目と、次の49日目には突破するための方法が二つ用意されてる。48日目で言えば、暴走レベル5まで上げると突如出てくる赤い霧もどきをぶっ飛ばすか、ティファレトのときのようにちまちま作業して暴走レベル10達成するか。ケセド条件もあるから今度はエネルギーも稼がないといけないけどな』
     大まかに各セフィラコア抑制時のことも、セフィラたちの事情などもエックスには伝えてある。それでも覚えてないところや疑問点については遠慮なく聞き直してくれ、とも伝えてある。
    『今どの属性が5倍ダメージか教えてくれるとはいえ、そのまま赤い霧と戦うのは流石に無茶が過ぎませんか?』
    『と思うだろ。赤い霧が出るとな、暫くの間ケセドがサボるんだよ。つまり全部1倍ダメージになる。これがまた面白い……つっちゃぁちと悪いな。興味深いところ、とでもしとくか。以前話した通り、抑制前のゲブラーが盲目的になっているのをケセドは心配してた。なんだかんだ、ケセドも現状のL社に対して諦めてるようなスタンスをとっちゃぁいるが、その実心の奥底じゃ諦めきれていなかったんだ。だからこそ、当時のコア抑制じゃぁ「アンジェラとアンジェラの言いなりになってる管理人への反乱」であると宣言していても、今はどの属性が危険なのか、つい教えちまう。だから慎重な管理さえしていれば、さほど難しくない抑制だったんだ。……ネツァクに似てるよな。結局職員たちが気になっちまうんだよ。ネツァクもケセドも。48日目に話を戻すか。赤い霧が出てくるとケセドの妨害が消える。設計チームでの各セフィラの妨害は、Aたちの残骸が生み出したただの障害のはずなのに、だぜ。ケセドはコア抑制の際、”管理人”を認めてくれた。アンジェラとAに対する恨みはあるが、管理人はそれとはまた別の問題だ、ってな』
    『ケセドさんにとっては、管理人はアンジェラさんの操り人形に見えてたんですね。L社を作ったAさんと、Aさんの命令で動くアンジェラさんと、アンジェラさんの言いなりになっているように見えた管理人を目の敵にしていた。でも管理人は、彼の反乱のなかで業務を成し遂げた。ダメージが増えるのは、ケセドさんの管轄であるクリフォト抑止力低下のせいだったんですよね。アンジェラさんの命令で仕方なく抑止力を下げたけど、管理人はそれに負けなかった。だからアンジェラさんと管理人は別の事情がある。ってことを察してくれた、って感じでしたよね』
    『そんなもんだと思う。だからケセドはAに反逆するんだ。せめて赤い霧……ゲブラーを止めるときだけは対等な条件で、ってな。Aの生み出したイメージとしてのケセドですらAに反逆するのは、もうA自身ケセドの思惑を承知してるってことなんだよ。そこがまた皮肉だよな。赤い霧だってイメージから生まれたまがい物だ、攻撃こそ同じだが、耐久力がだいぶ弱体化してた。守り抜けなかったっていう自己嫌悪の現れなのかねぇ。……この方法が一番安全だから、って結局第1段階と第2段階はほぼほぼ黄昏着た俺が単騎で相手する羽目になるんだけどな。斬っては離脱して回復。ちまちまと繰り返せば回復手段のない向こうは疲弊するしかない。まぁあとはゲブラーのコア抑制と同じ展開。遠距離からちまちま、最後はダッシュしすぎて疲れてるところをフクロだ。元よりも耐久が低いから、赤い霧が出てくるまでの5倍ダメージさえ乗り切れればまぁそこまで難しくもない。相手のタネは割れてるしな』
     実際は5倍ダメージの試練が凶悪すぎて何度かやり直してるんだけどな。あれは本当反則だっつうの。黄昏着ててもクッソ痛かったからな。



    『――ここまではよかった。問題はここからだ。48日目を突破した先で待っていたAは、”アダム”と名乗ったんだと。エックスなら多分わかるんじゃないか?この名前を名乗る傲慢っぷり』
    『人類の始祖、ですよね……。でもどうして?カルメンの意思を成すにしたって、そこまで尊大な存在を名乗る必要あります?』
     ごもっとも。エックスにそのあたりの知識が備わっていて助かる。俺に色々教えようとしてくれたのは、生来の世話焼き気質もあるだろうが、それ相応の知識も相当豊富だったんだろう。
     植え付けられた仮の記憶だけでここまで知識を詰め込む必要もないだろうから、きっとエックス自身が管理人になってからも自分から色々知識つけてったんだろうな。俺に教えるだけじゃなく。それでいて特撮に関してもこの点のエックスと大差ない熱持ってたから、単に知識欲が凄かったのか。本当、惜しいエックスを亡くした……まさに今膝枕してっけどさ。それでも1回は自殺させちまったんだ、俺がもっと気ィ遣えてれば、あ、つっ……痛ぇ。駄目だ、つい考えちまう。
     もう少し。もう少しなんだ。

    『覚えてるか?”彼女を称えるためのロボトミー”ってフレーズ。カルメンの意思を継いだつもりで、その実カルメンの思想が正しいことを世界に証明するためのL社。そんな歪んだモンをAは作っちまった。この時点で既にカルメンの意思からズレがあったのに、だ。あまりにも繰り返しすぎたAはいつの間にか己の思想すらさらに歪めちまった。最早カルメンの思想を完全にはき違え、アブノーマリティこそが人類の本来の形だとか、アブノーマリティによって人類の新たな幕開けがどうとか。無茶苦茶だろ』
    『カルメンは……人々の病を治したかった。ただそれだけだったのに……。アブノーマリティは人から生まれるって、言ってましたよね。わざわざ人から手間かけて抽出して……っ、う、』
    『おい、エックス、やめとけ、それ以上は……』
    『いえ、言わせてください。……っはぁ、そんなものが……人の本来の姿なわけ、ないんです。っぐ……完全に、カルメンの本来の……本来の意思をっ、踏みにじってる。冒涜してる……っ、はぁ、はぁ、はっ、……』
    『あぁ、そうだ。その通りだ。ほら、楽な姿勢とれ。横向くか?きついのどの辺りだ。ああくそ、深呼吸くらいさせてくれよ……』
     エックスは、カルメンの記憶を想起するところまで生きられなかった。Aの台本でカルメンを想起するべき日付より前に自殺したから。この点のエックスも親友こいつも、ほとんど誰に対しても敬称をつけて呼ぶ。Aを呼ぶときですらさん付けだが、そのほぼ唯一の例外がカルメンだ。もうカルメンに関しては記憶を想起とか云々のレベルじゃないんだろう。
     それこそAの思想が歪むほどに。話を聞く限り、ほとんど崇拝しているにも等しかった。エックスがいくらエックスとして独立した人格を持っても、大元はAなんだ。記憶だって完全に消すわけじゃない。想起のために残す必要がある。根底に、どうしても”カルメン”が居る。
     エックスは結局カルメンを思い出せないまま死んだが、俺経由でカルメンの話を聞くことである程度俯瞰した立場から見ることが出来たんだろうな。いわば記憶同期前の上層セフィラを見守るXに近い立場だ。そのせいで妙な思い入れや先入観がないのかもしれない。
     だからか。だからアダムの言い分が許せなかったのか、エックス。
     背中を丸めて目をつぶり、必死に痛みに耐えている。そうなるのがわかってて、それでも一言物申したいほどに許せなかったのか。
     片手で胸を押さえ、片手で俺のパーカーの裾を握るエックス。その手を解いて、俺の手を握らせる。「ゆっくり息をしろ」すら言えない。ひたすら痛みに耐え、自然に収まるのを待つしかない。せいぜい手を握るくらいしかしてやれない。見守ろうにも今度はこっちの胸が痛み始める。
     だが、もうすぐ。もうすぐ解き明かしてやる。この疑問が解決すりゃ、あんたも開放されるはず。……解放されてくれ。

    ――もういいだろ。あんただって無理し過ぎだぜ、……エックス。

     今回の痛みはエックスのトラウマそのものではなく、カルメンの意思をはき違えて愚かな考えに至ったアダムへの憤りだ。
     元々エックスの中にあったものとはいえ、トラウマほどにはエックス自身に影響を与える要素じゃなかったせいだろうか、一時的にかなり痛みを感じたものの、比較的すぐ収まった。いくら元がAの身体でありAの記憶を奥に残してあるとはいえ、Xとして生きてきた以上、実際にX自身が体験した経験や記憶のほうが強いんだろうな。管理業務が始まっちまえば過去を振り返る余裕もなくなるだろうし、本当に必要最低限の記憶しか突っ込んでなかったのか。まぁ人一人分、二十何年かそこら分の記憶まるまる作るのも大変だろうしな。俺には到底縁のない世界だが。
     だからこそ、Xとして過ごした期間が長ければ長いほどに、Xの自我が強くなっていく。エックスは俺に色々教えるため、俺と職員たちが無理なく一緒に仕事できるように、何度も何度も記憶貯蔵庫に戻っていた。そういう意味で言えば、エックスの自我が強くなったのは俺のせいでもある。だのに……あー駄目だ、”俺のせい”は禁句だ禁句。

    『下層セフィラ抑制がどんだけ酷かったか、言ったよな』
    『聞いてるだけで自信なくなってきましたもん。それこそ、ちょっと痛むほどには』
    『そりゃすまん。文句はAの野郎とホクマーと紅茶AIに言ってくれ』
    『ダフネさんががAさんを毛嫌いするのはわかります。ビナーさんのことを紅茶AI呼ばわりするのって何なんです?』
    『なまじ付き合いが長すぎたからさ。やたら紅茶を好むんだよ、箱のくせにな。それこそケセドのコーヒーといい勝負だ。抽出作業にあたっていないオフィサーはまぁ書類仕事だとかE.G.Oの研究だとかもあるんだが、生憎元裏路地のドブ漁りである当時の俺はそんなもん出来やしねぇ。だからもっぱら紅茶を淹れる役割ばかり押し付けられたんだよ。紅茶淹れるのすら仕事だぜ。たまったもんじゃねぇ。でもまぁ仕事ができないオフィサーは即首切りだしな、俺なんか裏路地出身だ、他に取り柄もクソもねぇ。死にたくない、ただそれだけのためにそりゃ必死で覚えたね。茶葉の名前も完全に音だけで覚えた。読めやしねぇからな。どの容器がどの茶葉なのかは色や模様で覚えた。いずれは嫌でもその茶葉の容器に書いてある文字は覚えちまう。最初に読めるようになった文字が紅茶の名前だぜ。どんな人生だよ、ったく。』
     そもそも言ってることが小難しい。小難しいというかひたすら遠回しな例え方したり、そもそも今までで聞いたことがない単語使ってきたり。終いにゃ声聞くだけで軽く頭痛するようになってたな。
    『紅茶AIが旧L社を襲撃した”調律者”本人……の脳みそぶっこ抜いて作られたセフィラだって知ったのは相当あとになってからだ。その事実を知ったときゃ、俺はそんなヤベぇ奴の下で働いてたのか、って薄ら寒さを覚えたね。……エックス、今、楽か?ちょっと席外したいんだが』
    『え?全然平気ですけど……何かあるんですか?なんなら僕も』
    『あんたはきっと来ない方がいい。間違いなく悪影響受ける』
    『……それでも、行きたいです。今このときになってわざわざダフネさんが行こうとする場所なんです。ひとりだけ……ずるいですよ』
    『あー、なーんか断りきれねぇな。場合によっちゃぁ即撤収するからな。主にあんたの体調面で、だ。ほれ、立てるか?行くぞ』

     たぶん全てが解決したら二度と見られなくなるだろうから、一度くらいは見ておきたかった。本当に単なる興味本位。もう歩きかたもすっかり思い出せたな。
    『ちょっと、ダフネさん、歩くの早いですってぇ』
    『ん、あぁ。すまん』
     歩く速度も裏路地時代からの癖だからなぁ。意識して速度を落としてエックスのペースに合わせる。
    『それで、一体どこ行くつもり……』
    『ここだよ』
    『……あ』
     旧L社跡地。”調律者”に襲撃され、壊滅して廃墟と化した場所。単純に考えるのなら、襲撃から10年と少々経っているだろう。
    『来るも来ないも自由だが、もし来るなら異変を感じたらすぐ言え。周囲の異変、自分の体調、ともかくなんでもだ。いいな』
    『は、はい』
     つい言い方も声音もきつくなってしまう。これも癖みたいなもんだ。

     多分”ある”としたら地下だろうな。地階へ進む階段へ足を運ぶ。階段にもすっかり埃が溜まり、この建物が長いこと忘れ去られてきたものであるという証となっている。どれだけ強く踏みしめても、埃は舞わない。ほんの少し胸が痛くなるが、今は逆にこの性質がありがたい。
     この階段、随分深いな。螺旋状になっているが、まったく底が見えない。でもまぁ、今の状態なら手すり飛び越えて一番下まで落ちちまっても問題無いんじゃないか?
    ……多分いけるだろ。『あんたは怖いなら一段ずつにしとけ』とだけ言い残し、とりあえず後先考えずひょいと飛び降りる。
    『ちょ、あっ!ダフネさああぁぁぁぁん!』
     だんだん小さくなるエックスの悲鳴にも似た呼び声を背に、深く暗い階段の底へと。
     底へ……底…………ちょっと待て。底どこだよこれ!!
     なんだこれ。今だいぶまずいことになりかけてるのでは?飛び降りつつ頭の中でおおよその秒数数えているが、10秒はゆうに越えた。30秒も過ぎた。待て待て待て待て!底なし?ンなことアリか!?周囲にはひたすら同じ形の階段が見える。見える……?もうとっくに暗闇なのに。1分過ぎちまったぞ。まだ落ちてる。本気で恐怖を覚える。いくらここが…………だったとしても、だ。いや、もし底があったとして、上るときどうすんだよこれぇ!!
    『これ……戻れないやつ……か?駄目だ、そりゃ駄目だ。戻らないと。ど、ど、どうしたら、これ』
    ……エックス……!!
     突然、眼下にエックスの姿が見えた。
    『どぉわぁ!?』
    『あっ、てて……え?あれ?エックス?おいちょっと大丈夫か?』
    何故かエックスが目の前に……階段の踊り場まで転げ落ちて、形容し難い体勢になっている。
    『エックスー、大丈夫かー。生きて……ねぇな。動けるかー?』
    『ひどいですよぉダフネさん……勝手に飛び降りちゃって、突然降ってきて』
     は?
    『降ってきた……?俺ずっと飛び降り続けて、底がないのかと思って……いやほんと、ずーっと延々と飛び降り続けるんだよ。周囲は暗闇のはずなのに周囲を囲む階段はハッキリ見える。間違いなくまずい場所だぞ、あれは。それで怖くなって、ついエックスを呼んだ……気がする。それで気がついたらコレだ』
    『そ、そう言われると……降ってくるのはおかしいですよね……ここに何があるんでしょうか……』
     確かにここは旧L社跡地だ。しかしこんな穴の存在、頭が放っておく訳がない。何かがおかしい。何かが。
     推論が合っていたとしたら――
    『ここが、終点かもしれない』
    『え?終点ってどういう、あ、ちょっとダフネさん!?』
    『戻るぞエックス。話すだけならまぁここでもいいっちゃいいんだが。どうせなら雰囲気くらいはな』
     立つのに難儀するエックスの手を引いて立たせて、”僅かばかりの”階段を登り、森林浴の場所に戻った。
     本来見たかった”現場”は見られなかったが、思わぬ収穫が得られたかもしれない。



    『さて、下層抑制が酷かったという話だ』
     ひとまずさっきの奇妙な現象は置いておく。
    『は……はい』
     もうすっかり体調も戻ったとのことなので、隣同士で座る形に戻した。それでも何かあったらすぐ言えよ、と口を酸っぱくして念を押す。
    『アダムは繰り返しすぎた結果、カルメンの意思を自分の中で大きく捻じ曲げてしまったA。アダムは人類みなアブノーマリティになればカルメンの理想の世界になる、人の本質こそがアブノーマリティだ、とかいう御大層な妄想を披露したうえで、管理人にもそいつを見せようとしてくる』
     むっとした顔のエックス。多分ほんの少しの痛みと、アダムの言い分の身勝手さに怒っているんだろう。
    『そんなアダムに管理人は下層セフィラから賜った言葉をかけた。紅茶AI……ビナーからの”鎖を断ち切り、恐怖に向き合う眼”。ホクマーからの”過去を受け入れ、未来を創り出す眼”。……気づいたか?』
    『Face the Fear , Build the Future ……』
     敢えてそっちで言うかね。管理画面のローディングでしょっちゅう見るのだろうか。
    『そう、Aが打ち立てた、わが社の社訓だ。アダムは過去を受け入れることを忘れた。当初のカルメンの意思を忘れた。アダムは恐怖を忘れた。あれほどまでに恐ろしい化け物だらけのアブノーマリティに対して恐怖を感じることを忘れた。恐れのなくなった人間は先に進めなくなる。先に進む必要がなくなる、と言ったほうがいいか。新たな場所に踏み出す一歩目は必ず恐怖が伴うものだ。そうなると人間の進化の停滞、ひいてはL社の状況そのものの停滞という鎖が断ち切れなくなる。恐怖を認識しないと、未来は創れないんだ』
     創立時、既にねじ曲がっていたAの思想。それでもこの社訓を残したのは、カルメンの意思を忘れるべからず、というAの意地のようなものなのだろうか。
    『アダムは今までのAたちとは違う。お粗末な自分の妄想の産物を管理人に見せようとしてくる。わが社の社訓でもって、管理人は”アダムを止めようとする”んだ。今までのAたちは心折れた結果、お前も折れろと道連れにしようとしてくる奴らだった。アダムはご自身のご立派な妄想でもって、逆に管理人を打ち負かそうとしてくる』
    『その方法が、もしかして……』
    『ホクマー抑制の時間制御制限・ビナー抑制の調律者襲撃の併せ技だ』
     単体でもクッソきついってのに。
    『一時停止かけるたびに、その、職員さんが……っ』
     それ以上はいい、と言わんばかりに、エックスの肩を抱く。
    『”沈黙の対価”だ、っつってたな。ホクマーは。いつもの癖で、何かしら起きると即座に一時停止して状況確認するだろ?』
    『そうですね、何かあったら怖いですし』
    『その手癖がな、何度も無意識的な一時停止を呼んじまう。俺も何度か”対価”として持ってかれたな。痛みや苦しみは無いから処刑弾と似た感じではあるんだが、決定的に異なるのは管理人が一時停止している間、”周囲の時間も何もかもが止まっていると認識出来てしまうこと”だ。普段俺たち職員はあんたたち管理人が一時停止しようが倍速かけようが、体感的に変化はない。あくまで止まっていたり倍速に見えていたりするのは管理人だけ。どういう理屈かは知らん。多分T社の技術なんだろう。とにかく俺たちはいつ管理人が一時停止しているのか、倍速をかけているのかいないのかがわからない。ところがだ。”沈黙の対価”として選ばれ、死やパニックが確定した職員は”世界が止まっていることがわかっちまう”。それを認識した時点で、ああ、自分は死ぬのか。そうやって事実を突きつけられるんだ』
     押し殺した嗚咽が聞こえる。肩を抱く腕に力を込め、引き寄せる。
    『あんたがやってるわけじゃない。それに苦しくも痛くもない。処刑弾まで食らった体験談だ、信じてくれよ』
     処刑弾、最初食らった時は本当に何が起きたかまったくわからなくて軽くパニクったからな。寝落ちにも似たウトウトした感覚。あれがほんの一瞬よぎる。ん?と思って顔を上げればそこはまた別の点。たまに処刑弾誤爆やらかして1日のはじめに巻き戻されたこともあったな。もう少し慎重に撃ってくれと言いたくなったが、まぁ痛くも苦しくもないししょうがないか、と軽く流して切り替える。――処刑弾手に入れる程度には長く付き合った管理人に処刑弾撃ち込まれた挙げ句置いていかれた時は流石にショックだったけどな。
    『そうして時が止まったことを知覚してしまった職員は、いつ一時停止が解除されるのか戦々恐々とした時間を過ごすことになる。随分重い対価だよな、まったく』
     エックスがパーカーの裾を掴む。肩に回していた右手でゆっくりと背中を擦る。
    『何度も言うが、あんたのやったことじゃぁない。だからそう気に病むな』
     力なく、エックスが頷く。あんたが職員を想う気持ちはよくわかってるつもりだ。だが実際にやらかしてんのはこの点のエックスだ。あんたじゃぁ、ない。
    『調律者も赤い霧と同じく、暴走レベル5のタイミングで出現する。だからといってケセドみたいな慈悲はない。相変わらず一時停止で”沈黙の対価”は強制徴収される。速度を変更することも出来ない。暫くの間――暴走レベル7だったか、そのくらいまではずっと1倍速だ。とはいえ、試練が出ても一時停止したら死者が出る。便利屋の対処もノンストップで行わないといけない。最悪の場合、白昼の試練と調律者が同時に出たりもする。そうなったらかなり無理目だな。……そろそろ行くか』
     少し憂いを孕んだ俺の声に何かを察知したのか、エックスがまだ辛そうな顔を上げる。すまんな。まだちっと辛くなるかもしれん。
     まだ収まりきっていない辛さを含んだ声で、不安げに。
    『行く、って……どこに、ですか』
    『本題だよ』
    『本題って……?んっと、いくつか疑問があるって、それの?』
     頷く。どう転ぶかは全くわからない。ただ、エックス……あんたをこの辛さから開放してやれるかもしれないんだ。
     さぁ、答え合わせを始めようか。



    『俺たちは、49日目を突破できていない』



    『――!それ、って……じゃぁ、どうして』
    『ここからはかなり俺の推測も混ざってることを承知で聞いて欲しい。ただ、大前提として俺たちは49日目を突破していない。これは紛れもない事実だ』
     恐る恐る頷くエックス。俺だって結構怖いんだが、やるしかない。今の状況を少しでも良くするために。
    『突拍子もない話からいくか?おそらくこれが全ての答えだと思うんだが、ちょいと突拍子もなさすぎてな』
    『ふふ。今までいくつ突拍子もない話してきたんですか。今更ですよ』
    ……とは言うがなぁ。ぼりぼりと首の後ろを掻く。

    『俺たちは……とある人物が”見ていた”夢の世界の住人だ。そいつが目覚めたか何かの拍子に、夢とのリンクが途切れた。――目が覚めたら、自分が今まで見ていた夢の世界は消えて無くなる。大抵はそう思うだろ?』
    『うーん、そういえばあまり夢を見た覚えがないけど、そんなイメージがありますね。……ということは……』
    『あぁ。なんせ夢の元が元だからな。俺たちは、多少正確じゃない言い方になるが、”この点のエックス”が見ている夢の登場人物であり、ここだって”あっちのエックス”の夢の世界だ。そうだな……ひとまずあいつのことは”管理人”と呼んでおくか』
     ふぅ、と一息つく。あーもう、なんで深呼吸だけ駄目なんだよ。
    『管理人、つまりAの肉体を持つあいつの夢だ。アベルの話、覚えてるか?この空間――つまりL社は、心によってどうとでもなっちまう空間だ。L社で管理人が夢を見ている以上、”ここ”もある意味L社の一部、ということになる。夢の中ってわりと何でもアリな空間で、どんな妙な展開でも特に疑うこと無く”そういうものだ”と受け入れちまうだろ。何でもアリな空間が、心によってどうとでもなる。今までのことはそれで全部説明がついちまうんだよ』
    『……そう言われればそう、と言えるかもしれませんけど……。ちょっと……長過ぎません?ダフネさんの髪もこんなに伸びるくらいですから、少なくとも……3ヶ月かそこらは……』
    『夢はもう覚めてるんだ。夢とのリンクが途切れた、って言ったよな。今のこの世界は、管理人の夢から生まれて管理人の夢から独立してしまった一つの仮想世界に近い。だが、管理人の手から離れた今も、管理人のメンタルの影響下にある。つまりどういうことかっつうとだな。管理人のメンタルが悪化すると、まるで悪夢のような展開になる。メンタルが持ち直せば状況がマシになる。大雑把に言えばそういうことだ』
     自分でも言っててそんなんアリかよ、とは思う。でもそれしか思いつかねぇんだ。
    『いくつかの疑問点……それも全部?』
    『そうだな。ひとつずつ洗ってくか』
     まとめた分の疑問点を思い返す。

    『ひとつ。何故俺たちが外に出られたのか。簡単だ。”外に出る夢”を見ていただけだった。夢ってツギハギだらけで、一本筋が通ったストーリーの夢なんてそうそうない。外に出るためにE.G.Oをパチった。どこかもわからない、どこか安全な場所に落ち着いた。いつかもわからないが、森林浴をしにここへ来た。本当にただそれだけだったんだ。森林浴の内容は話したっけか?』
     大まかには話したが、区切りの辺りなんかは……どうだったっけか。
    『した、ということは聞きました。具体的には聞いてないはずです。森林浴の際に何かあったんですか?』
    『あー、やっぱそうか。管理人と俺が森林浴をして、俺と管理人は親友だぞ、って言い交わして、……そのあと、俺はもう役目が終わった。俺の役割は終わった。って、どこかからやたら説得力のある……違うな。強制力のある声が響くんだ。どんな声かもわからない。俺自身の声なのか、あるいは管理人の声だったのか。もうそのあたりの記憶はおぼろげだ。その声に任せて、ああ”そういうことになっている”んだったな、”そういう運命”だったんだな。何の疑問もなく俺はそれを受け入れて、1本の月桂樹になった。多分、そこで管理人の目が覚めたんだと思う。俺の役割だの役目だのってのは、要は”管理人と俺が森林浴をする夢”において、俺の出番が終わった。そういう意味だったんじゃないかと思ってる』
     この考え方が一番しっくり来る。終わり方まで完全に夢オチじゃないか。飛び飛びで肝心な部分の存在しない記憶といい、かなり夢らしい夢の展開じゃないのか。
    『なるほど……外に出る夢。管理人の目が覚めたってことは、ここからは正確には夢じゃなくて、”夢の世界”なんですね?』
    『そうなるな。この時点で管理人本人が消失した、ってのも理由の一つだ。管理人のことだから、森林浴の夢が諦めきれずに覚えてる部分何度も思い返したりしてたんじゃねぇかな。だから余計にこの世界の存続する力が強まったのかもしれん』
     あいつも大概諦め悪いからなぁ。

    『ふたつ。何故俺が月桂樹になることを自然に受け入れて実際にそうなったか。ほとんどひとつめの仮説の中に入ってるな。なんでよりによって俺が月桂樹にならにゃならんかったのかは知らん。ただ、夢の区切りとして何か大きな出来事があるほうがキリが良かったんだろうさ。――多分だが、俺が月桂樹である間の管理人は少々メンタルやられてたんじゃないかと思ってる。幸せな森林浴が夢だったことを認識して、大なり小なりショックだったんだろう。あんたの挙動と、俺が消えるかもしれないって不安。せっかくあんたが維持してくれた、ヒトの要素を手放さないとまずいと感じた理由。魂の摩耗だな。それらの理由も、管理人の悪化したメンタルが間接的に影響していたんじゃないかと考えるとある程度納得がいく』
    『ダフネさんが自由に動けるようになったのは……管理人のメンタルが少し良くなった、ってことなんですかね?』
    『だろうなぁ。管理人がどうだったかはともかく、あの時はもう本当に感情のはけ口が欲しくて、涙が流せないことがこんなにつらいことだったのか、とにかく存分に泣きたい、感情をこれ以上溜め込みたくない。とにかくそればかりだった。そうしたらあんたが樹を抱きかかえて、その瞬間浮遊感がふわっと。きっとありゃぁ、樹から魂がすっぽ抜けてヒトの形として再構築される瞬間の感覚だったんだろう。あのときのエックスの反応もそうだが――次の疑問点だ』

    『みっつ。何故”あんた”がこの点にいられるのか。次のと合わせて考えるか。よっつ。この世界は本当に”点”なのか。最初に答えそのものは出しちまったな。ここはあくまで夢、そして夢の続き。だからそもそも点じゃない。点同士じゃ交われないが、点とそれ以外なら交われるって寸法か。それと、あんたにゃちと酷だが――』
     突然声音を変えて酷だと言われたエックスが、どきりとして胸の辺りのシャツを掴む。少し痛むのだろうか。だとしたらすまない。
    『……あんたの出自に、確信が持てない。十中八九、あんたは俺が勝手に親友だと決めつけたあんただとは思ってる。ただ、あんたがここに来た理由がどうもしっくりこない。そもそもあんたは本当にこの夢の世界の住人なのか。まずそこから疑問を持ってるんだ』
    『何と言えば良いのか……。僕は僕だ……としか言えません。少なくとも僕自身は……あのとき、……く、首を』
    『いい。わかってる。やめてくれ。……すまない』
     これだよ。極端なんだ。クソ胎児の管理で心をやられて首を括った。この部分だけでエックスを成す魂の大部分を占めているという違和感がひとつ。”首を括った”以外の要素が少なすぎるんだ。ちゃんと話せば、特撮の話や俺に色々教えてくれた際の思い出など、俺と”親友”しか知り得ないことは数多く出てくる。だからおよそこいつは、”あのとき首を括ったエックス”なのだろう。それがわかるから、なぜ後悔の要素が色濃く出すぎているのかが気になる。それほどまでにあのときの後悔と絶望は大きかったってのか。

     確かに夢は何でもアリではあるが……。
    『可能性として考えられるのは――俺が無意識のうちにあんたを喚んでしまった。だがそうなるとタイミングとして若干おかしい。あんたが降り立ったのはL社管轄の巣。そこから真っ直ぐここまで来たとして、ずっと歩きっぱなしで三日か四日か、ってところだ。俺が覚えているのはせいぜい一日二日。噛み合わない』
    『……』
     まだ少し痛むだろう胸を押さえながら、エックスが押し黙る。自分でも思い返しているのか。いや、思い返されると後悔ばかりだぞ。あまりさせたくはない。
     多分これだろう、という案はある。相当管理人の力に頼ることになるが。
    『もしくは、管理人があんたを喚び寄せたという可能性。時間軸が前後するのは、多少強引だがある程度説明がつく。――森林浴を終えて夢は終わる。だが夢がこの世界のように残ってしまったら?この世界に一人残された俺は、おそらく放っておけば一週間足らずでヒトとしての大部分を忘れる。俺はそれを恐れて、あんたを求めてしまった。そいつは偶然でもなんでもなくて、管理人が、せめてもう一度俺とあんたが再会できるようにと望んでいたんだ』
     ちょっとややこしいな。エックスも真意をはかりかねている。
    『……明晰夢は知ってるよな、さすがに。夢だとわかりながら見てる夢。あれって結構難しいらしくてな。夢だと把握してしまった時点で目が覚める事が多いんだと。他にも夢だとわかっているのに思い通りにならなかったり。……管理人は多分……森林浴の夢が終わる少し前のタイミングで気づいたんだ。確証は持てないながらもこれは夢で、自分は辛さのあまり夢に逃避していたんだ、ってな』
    『逃避……』
     あんたには色々刺さっちまうだろうが、少しだけ……少しだけ、耐えてくれ。
    『何故逃避するほどに管理人が苦しんでいたか。――49日目がどうしても突破できないから。あいつは、誰一人犠牲を出さずに、皆で休暇を迎えて外に出よう。そんな固い決意の元動いてる。だがその心が折れそうな程に、49日目を犠牲なしで突破するってのは難しいなんてもんじゃない。もう再挑戦の数はとっくに三桁だ。そんなだから実際心が折れかけて、とうとう夢に逃避しちまった』
     逃避という単語は、クソ胎児の管理から文字通り死という形で逃避したエックスにも刺さる。必死で下唇を噛み、声が出ないよう耐えているが、明らかに悪化している。

    『目が覚める直前にこの世界が夢だと気づいた管理人は、目覚める前にこう思っちまった。「せめて夢の中でだけでも、ダフネさんと親友さんがもう一度出会えたらいいのに」ってな。何でもアリの夢・心によってどうとでもなるL社。この二つが合致した結果、死んで魂だけの状態だった”本来のあんた”が、”夢の中の俺”と出会えるような舞台ができちまった。つまりあんたは本来現実に居るべきはずだったのが、管理人の願いのせいでこの夢の中に入っちまったんだよ。もう死んじまった存在に現実もクソもあるのかって話だが、ここにいるってことは……魂は現実の”どこか”に存在してた。これは間違いない』
     これしか考えられない。エックスを助けるには、まずエックスの置かれている状況を整理しないと。
    『僕が……ダフネさんと、会えるように……。たとえ夢だとしても、……優しいんですね、今の管理人さん』
    『だが皮肉なことに、俺は管理人の夢の登場人物に過ぎない。俺は管理人の中のイメージで思い描かれた”ダフネ”なんだよ。……自分で言っちまうと結構厳しいな、これ。もう途中から気づいてて、それでも受け入れてる自分がいてさ。そういうことになってるんだ、ってな。それよりもあんたの今の状態だ。こっちの方がずっと大事なこと』
     夢の住人が自分を夢の中の存在だって気づくのは一体なんて呼ぶんだろうな。胡蝶の夢……は違うか。あれは夢か現実かわからない、ってヤツだよな確か。
    『僕の、状態……』
    『あんたは確かに俺……”ダフネ”に色々世話焼いてくれた、”俺”にとって初めてのXだ。だがどうも、あんたの魂を構成する要素が偏りすぎてる。具体的にはあのクソ胎児関連の記憶を想起させることに一際敏感に反応してるんだ。あんたを成しているのはそれだけじゃないってのに』
    『それって、……っ』
    『ほら、そいつだ。ちょっと触れるだけで自己嫌悪に陥って、魂削っちまう。あんたは管理人に喚び寄せられた。その際、歪みができちまった可能性がある。何でもアリな状態で無理やりなことやってるんだ、変な負荷もかかるだろうさ。俺が管理人に色々語った記憶で特に印象の強い部分が誇張されてるんだよ、今のあんたは。管理人があんたを自分の夢ん中に喚び込む際に、俺から聞いたあんたのイメージが色濃く反映されちまった。……積み重ねてきた職員の死とAの記憶に苛まれ、そいつを溜め込んでクソ胎児で限界迎えて首を括る、――そういうイメージが。そりゃぁ自分と同一の存在の末路は印象強く記憶に残るに決まってる。……キツいよな。一旦休むか』
    『ぅ……だ、だい、じょう……っ』
    『……馬鹿野郎』
     なおも強がろうとするエックスを抱き寄せる。
    『悪ぃな、”本物”じゃなくて。……言い出せなかった。すまない』
    『ほんもの、です……ダフネさんは、……っ……』
    『無理しなくていい。無理して認めようとしなくていいんだ、エックス』
    『だって……僕の、記憶通り、だったから。僕の中のダフネさんと、……同じだったから……っ』
     おなじ。
     あいつの考えてる俺と、こいつの記憶の中の俺が同じ。そんなことあり得るのか?
    『だから、僕にとって今ここにいるダフネさんは……本物なんです。何故ここにいるかなんてどうでもいい。違ったところがないなら、同じでいいじゃないですか』
     エックス……違うんだよ。俺の俺自身に対する認識が決定的に違う。俺が自身をあいつの夢の登場人物だ、って自覚しちまった時点から、もう俺は”本物”を名乗る資格なんてない。俺は想像の産物に過ぎない。
     少し迷ったが、黙っておくことにした。余計なことを言って更に傷を抉るような真似は避けたいし、エックスがそれでいいってんなら、俺があえて否定しない限りエックスの中では俺は本物のダフネでいられる。エックスに申し訳ないと同時に、それが少し嬉しかった。ここまで話してもなお俺をダフネとして見てくれるのか。

    『ん?本来はTT2プロトコルでまるごと巻き戻す際にあんたの死もなかったことに……そうか、違う。それじゃぁ設計チームを統括する”Aたち”の説明がつかない。リセットするときに切り離されているんだ、”前”を思い出せないように。そして記憶はケテル――設計部門に積み重なっていく。積み重なった数々の管理人の記憶が46日目以降のAたちを形作る。てことは、あんたは……あんたが本来いた場所は……』
     言いよどむ。あいつよりも察しのいいエックスはもう気づいちまってるかもしれない。本当に言っていいのだろうか、この残酷な推論を。
    『僕がいたのは、きっと……ケテルのどこか。48日目の一部として、後悔にまみれてずっと管理人を待っていたんだと……思います。ずっと。本当にずっと……僕が首を吊った、あの日から。僕の存在は既に”個”ではなくなっていたんだと思います。アブラムの一部か、48日目の空間の一部か、……ずっと真っ暗で後悔しかなかったのは、きっとそのせいです。かつて僕であった管理人はとっくにケテルに取り込まれて、後悔を象徴する48日目の一部として。もしかしたら、ダフネさんと戦った赤い霧のイメージが僕だったりして。……っ……はは……は……』
     気づくよな。そりゃ気づくさ。こいつじゃなくてもいい加減気づく。抱き寄せられたままの姿勢で俺の胸に顔を埋め、両手でパーカーの裾をぎゅっと握りしめる。涙が薄手のパーカーと下に着るタンクトップに染みて微かに湿り気を感じさせ、すぐに霧散する。
     実体のない涙は、染み込んだ涙の感覚を確かに俺の胸に残していく。この僅かに湿った冷たさが、エックスの後悔の傷跡。もしかしたら俺ではない俺と戦ったかもしれない、エックスの魂の在処。
    『なんで、なんで僕が、ダフネさんの邪魔をしないといけないんですか!僕はダフネさんに報いたいのに、なんで……!』
    『あんたはもう後悔しなくてもいいんだ、48日目はもう過ぎたんだよ。いいか、後悔はもう過去の話になったんだ。それに……エックスがあんたを、48日目から切り離したんだ。だからあんたは魂だけの状態とはいえ、こうしてここにいるんだろ』
    『だからって僕が犯した罪が消えるわけじゃないんです!』
    『そうやっていつまでもウジウジしてるから取り込まれるんだ馬鹿野郎!』
     胸のなかでびくっと身を縮こまらせるエックス。
    『もう……もう、いいんだ。あんたが苦しむ時間はもう終わりだ。今は”俺”が苦しむ番だからな』
    『そんな、なんでダフネさんが』
    『俺は”ダフネさん”じゃねぇよ。管理人の夢の一部。でかいくくりで言えば管理人の一部なんだよ、俺も。夢はいつか覚める。覚めなきゃいけないんだ。そろそろ現実見ねぇとな』
     一時の夢ももう終わりだ。いよいよ向き合うときだな、本当の恐怖に。
    『それと、あんたを無事に現実へ戻してやらないとな。あんたは48日目から切り離された。だからもう、ケテルに囚われることはないと思う。ただ、この世界が消える際にあんたがここにいた場合、どうなるかわからん。もしかしたら一緒に消える可能性だって有り得る。だからあんたをまず帰す。帰れてもその後どうなるか保証はない。死後の世界とやらに行くか、またL社の巣あたりに出るのか、それとも……』
     ここは魂だけの存在が、そのままの形でいることを許されている”という設定の”夢だ。もし魂だけの存在がそのまま現実に帰ったら、それこそどうなるかはわからない。L社の中に出るか外に出るかすらわからないんだ。最悪、掻き消える可能性だってある。それでも……
    『帰るか?ここから』
    『……ダフネさんと……一緒に行けませんか?』
    『だから俺は』『管理人の側には、いるんでしょう?ダフネさんが。お願いします。”ダフネさん”』
    『……分の悪い賭けだぞ』
    『わかってます』



    『旧L社?もしかして、あの階段ですか』
    『あぁ。飛び降りる。この奈落は管理人の今の心境だろうな。底なしなほどにどん底だ。だからそんなところで立ち止まってる管理人の頭を蹴り飛ばしてやるのさ』
     逆行時計は使わない。そう決意しているから。真正面からぶつかってどうにかするしかない。

    『夢に逃げるのは、もう終わりだ。管理人』

     エックスと”ふたり”、手をつないで思いっきり跳んだ。
     落ちる。どこまでも落ちる。足を下に向けても自然と頭が下になるって本当なんだな。

    『この身体で、外の空気も日差しも堪能できない理由がわかった』
    『……え?今、ですか?』
    『ようやくな。あんたをこの世界に喚んだ、管理人の魂とあんたがリンクしたんだ。元々同一の存在だから、共鳴することだってあるんだろう。――管理人は今絶望してる。もう一生49日目を突破できないかも、ってな。その絶望があんたにそのまま跳ね返ってきたんだ。管理人は目の前の休暇を求めて必死に頑張っているが、49日目を突破できない。だから管理人とリンクしてるあんたは、求めていたものが目の前にあるのに手が届かない絶望を、この世界に降り立ったしょっぱなから食らう羽目になった。はた迷惑な話だよな。だからあんたと同じ状態になった俺も、空気や日差しが感じられない、って思い込んじまった』
    『そう、だったんですか。そうか、道理で』
    『?……何か言ったか?』
    『いえ、何でも』

     ふたり、手を繋いだまま暗闇を落ちる。
    『こんな状態だが、ひとつ仮説を思いついた』
    『今!?え、また!?』
    『俺が完全に管理人の夢から生まれたのなら、管理人にゃ話していない内容まで覚えているのは明らかにおかしい』
    『僕と過ごした日々、だいぶ具体的でしたものね』
    『それを踏まえて、最高にブッ飛んだ仮説だ。……俺は本物の”ダフネ”の魂がコピーされた存在。だから魂だけでも存在できるし、本物の記憶も持ってる。コピーしたうえで、夢と辻褄が合うよう微調整でもしたんだろ。管理人、どんだけ”俺”と森林浴したかったんだよ……』
    『あぁ、だから”本物”だ、って確信が持てたのかぁ!』
     まぁ、ある意味本物ではあるかもしれないが。
    『管理人の夢アレンジ入った、ただのコピーだぞ。正確な本物じゃ……』
     遮るように、エックスが俺を引き寄せ、抱き締めた。
    『否定しないでください。あなたは、僕にとってのダフネさん。それで……それでいいじゃないですか』
     否定されない限り。
    『じゃぁ、少しだけ……”本物”でいても、いいか』
     あと何秒かもわからない。いずれ覚める一時の夢。
     エックスの体温を忘れないよう、俺も抱き締め返す。

     手が、腕が、身体全体で感じている体温が、
     薄れていく。
    『エックス!』
    『一度死を選んだ僕が言うのもおこがましいですけど……』
     声が遠のいていく。
    『消えたくない……』
     
    ⸺ダフネさんに逢えて、良かった⸺

     せめて無事に戻れていてほしい。存在が消えないでいてほしい。
     ほんの数秒前まで感じていた体温を思い出しながら、何も無い空間を掻き抱いた。
     管理人の想像の産物だろうが、本来の俺の複製だろうが。
     目が覚めたら、なかったことになる。
     右手の薬指に結わえられた髪の毛は、まだ残っている。ぎゅっと握りしめる。

     俺だって、消えたかねぇよ……。


     

     只々、落ちて行く。既に何分落ち続けているかわからない。
     時間も、上下も、わからない。
     落ちる。落ちる。…………

     静かに、目を閉じた。






     仮眠から目覚める。眠った気がしないのに、何十時間と眠ったような気もする。
     このL社内は外よりも時間の流れが遅い。設計部門はさらに時空が歪んでいて、1日という概念がない。
     アダムからの挑戦を突破しない限り、――アダムを止めない限り、49日目が終わることはない。
     もう何度目の挑戦だろう。100を越えたあたりから数え方が適当になってきて、もう正確な回数はわからない。
     むしろそのほうがいい。回数を意識したら絶望が深くなるだけだろうから。
     ダフネさんの気持ちが少しだけわかった気がする。

     まだやれる。改善点はまだ残っている。あとは僕が落ち着いて的確に指示できるか、それにかかっている。
     収容環境は考えうる限り理想的な状況だ。諦めるものか。



     ――



     突如、ビルが生えた。突拍子もないが、そんな表現がぴったりだった。
     唖然としていたらビルの屋上付近から光が迸る。光が撒かれている、とでも言えばいいのだろうか。
     眩しい。この光は――温かくて、柔らかくて、眩しい。
     同時に不安が募る。こんなにも心は温かくて明るいはずなのに。

     その光は三日間輝き続けた。世界中に届く光の種……
     頭のどこかで、知らないけれど知っているフレーズがふと思い浮かぶ。

     三日輝き続けた光が、突如途絶えた。
     不安が加速する。これは違う。何が違うのか具体的に言葉に出来ないけれど、絶対に好ましい状態ではないことだけはわかる。
     それとは別に、もうしないと誓った後悔の念が押し寄せる。あのとき背中を押された絶望も。
     もう、あのときの後悔や絶望とは決別した……と思ったのに。

    ――僕が、行かないと。
     行ったところで出来ることはあるのだろうか。
     わからない。わからないけど、行ってから考えたっていいじゃないか。
     相変わらず日差しを眩しいと感じられないのは少し悲しかったけど、あの光は確かに眩しかった。……あの光からは、希望を感じた。

     四日続いた闇が晴れる。光の柱となったL社のビルがあった場所には、どことなく禍々しい建造物が代わりに聳え立っていた。霧に包まれていてまるで見えないはずなのに、建造物の存在は手にとるようにわかる。視覚以外の何かが、そう感じている。
    ――L社がない。職員は?セフィラは?アンジェラさんは?管理人は……?
     ダフネさんは――?
     外に出られたのだろうか。
     そんなことはあり得ない。僕の中の僕がそう言っている。
     ”Aさん”が言うのなら、そうなんでしょうね。なら余計だ。

     霧のなかに足を踏み入れる。一瞬にして方向感覚が狂う。自分がどちらを向いているのかわからない。
     それでも、向かうべき場所はわかる。ただ感情の赴くままに歩く。

     ダフネさん……無事でいてください。
     魂だけの僕に何が出来るかはわからないけど。僕が何に干渉できるのかすらわからないけど。
     やれるだけやってみよう。

     まだ、絶望するには早すぎる。
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    😭👏❤❤❤❤❤❤❤❤
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    アロマきかく

    DOODLEたまにはサブ職員さんの解像度を上げてみよう。
    49日目、オフィサーまでも一斉にねじれもどきになってその対応に追われる中、元オフィサーであったディーバにはやはり思う所があるのではないか。そんな気がしたので。
    甲冑で愛着禁止になったときも娘第一的な思考だったし。
    なお勝手に離婚させてしまってるけどこれは個人的な想像。娘の親権がなんでディーバに渡ったのかは…なぜだろう。
    49日目、ディーバは思う 嘔吐感にも似た気色の悪い感覚が体の中をのたうち回る。その辛さに耐えながら、“元オフィサー”だった化け物共を叩きのめす。
    「クソっ、一体何がどうなってやがんだよ……ぐ、っ」
     突然社内が揺れ始めて何事かと訝しがっていたら、揺れが収まった途端にこの有様だ。
     俺がかろうじて人の形を保っていられるのは、管理職にのみ与えられるE.G.O防具のお陰だろう。勘がそう告げている。でなければあらゆる部署のオフィサーばかりが突如化け物に変貌するなどあるものか。

     もしボタンを一つ掛け違えていたら、俺だってこんな得体のしれない化け物になっていたかもしれない。そんなことをふと思う。
     人型スライムのようなアブノーマリティ――溶ける愛、とか言ったか――が収容された日。ヤツの力によって“感染”した同僚が次々とスライムと化していく。その感染力は凄まじく、たちまち収容されている福祉部門のオフィサーが半分近く犠牲になった。そんな元同僚であるスライムの群れが目前に迫ったときは、すわ俺もいよいよここまでかと思ったものだ。直後、管理職の鎮圧部隊がわらわらとやって来た。俺は元同僚が潰れてゲル状の身体を撒き散らすのを、ただただ通路の隅っこで震えながら見ていた。支給された拳銃を取り出すことも忘れて。
    3225

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    MOURNINGコービン君から見た緑の話。
    と見せかけて8割位ワシから見た緑の話。未完。
    書き始めたらえらい量になり力尽きて改めて緑視点でさらっと書き直したのが先のアレ。
    コービン君視点、というかワシ視点なのでどうしても逆行時計がなぁ。
    そして33あたりから詰まって放置している。書こうにもまた見直さないといかんし。

    緑の死体の横で回想してるうちに緑の死体と語らうようになって精神汚染判定です。
     管理人の様子がおかしくなってから、もう四日が経つ。



     おかしくなったというよりは……”人格が変わった”。その表現が一番相応しい。むしろそのまま当てはまる。
     Xから、Aへと。

    「記憶貯蔵庫が更新されたらまずい……それまでになんとかしないと……」
     思い詰めた様子でダフネが呟く。続くだろう言葉はおおよそ察しがついていたが、念のため聞いてみる。
    「記憶貯蔵庫の更新をまたぐと、取り返しがつかないんですか?」
    「……多分」
    「多分、とは」
    「似た状況は何回かあった。ただし今回のような人格同居じゃなしに、普段はXが表に出ていてAは眠っている状態に近い……っつってた、管理人は。相変わらず夢は覚えてないし、記憶同期の際に呼び起こされるAの記憶は、Aが勝手に喋ってるのを傍観しているような感じだったらしい」
    24245

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