事後「ねぇ、ダフネ」
事を終えたあとは、つい背を向けて寝転がってしまう。もう数回はやったことだが、未だにこのどうにも照れくさく甘酸っぱい後味に慣れることが出来ない。
いつものように素っ気なく向けた背にそっと身を寄せて、ぽつりと放たれた自分の名前。寝ているふりを決め込もうかとも思ったが、つい返事を返してしまう。
「ん」
その日は、どことなく様子が違っていたからだろうか。
きゅっと布団が引っ張られる。釣られるようにして、僅かに顔を引っ張られた方へ向けた。
呼びかけて、返事があって、その次の言葉がなかなか出てこない。
背を向けるのをやめた。仰向けになり、すぐ横に居る不安げな顔をほんの少しだけ見つめる。
今にも泣きそうな顔。あの時の自分も、こんな顔をしていたのだろうか。
――・――
かつて、ベッドの上で嘘を交えながら己の黒い感情を吐露したことがあった。
嘘にどれだけ気づいていたかはわからない。言葉に詰まりながらも、ただひたすら胸の内にある黒いものを吐き出した。およそベッドの上ですることではないと内心では思いつつも、そのすべてを包み込むような優しさに甘えてしまった。情けなくぼろぼろと涙を零しながら、自分でも正体のわからない真っ黒な心の内を曝け出した。
あいつは微笑みながら吐き出される感情と零れ落ちる涙を、全て受け止めてくれた。
受け止めたうえで、あいつなりに理解しようとしてくれた。
わけのわからない黒い感情の正体を、名前を、向き合い方を、教えてくれた。
それが、“初めて”だった。
裏路地で暮らしていた頃に、何度か身を切り売りしたことはある。
いつも“される側”だった。
捩じ込まれる異物感と激痛と圧倒的な嫌悪感と。覚えているのはそれだけ。覚えていたくない。忘れてしまいたいが、消えない古傷となって記憶の奥底に今も残り続ける。
まだ自分自身が空っぽだということに気づく前。只々生きるために必死で、それこそ苦痛と嫌悪に塗れてでも命を繋ぐことしか頭になかった頃のことだ。
空っぽな自分に気づいた時、何故あんなことまでして生き延びようとしていたのかと自分自身に呆れ果てた。
同時に、そうしなければ食いつなぐこともままならなかったからと、当時を自己弁護する己の生き汚さが浅ましく思えた。
だから、突然あいつが「よっしゃ、こっちゃ来い!」と声を上げるやいなや、俺の腕を掴んで寝室へ連れ込んだ挙げ句服を脱ぎだしたときは、飲み過ぎで正気を失いでもしたのかと唖然とした。
呆然と見ている目の前で下着姿になり、ベッドに腰掛ける。こちらへ来いと言わんばかりにぱんぱんとベッドを軽く叩く。
「……ちょっと酔い過ぎじゃないか?」
「確かに酔っちゃぁいるけどこちとら大真面目だぞ。君の口は余程堅いと見えたから、下の口から吐き出させてやろう!」
今思い返しても無茶苦茶な理論だと思う。
「鬱憤溜め込んだって良いこと無いよ。どうしても言いたくないんならさ、こういう形でも多少はストレスの発散になるんじゃないかい?ゲロ吐いてスッ転がってるよりか、よっぽど健康的だぞ」
下着姿のままあっけらかんと言い放つ。
「……その、嫌、じゃ……ないのか?」
「別に。ある意味これもコミュニケーションの一種じゃないかい?」
裏路地での古傷の記憶。苦痛と嫌悪。たじろぐ。揺らぐ。
「どうしてもイヤだってんなら、やめとく?」
多分、限界が近かったのだと思う。
溜め込んだ黒い感情を抑えておくことが。
酒に逃げた。薬に逃げた。エンケファリンにも逃げた。
逃げ切れなかった。所詮はどれも一時的なものに過ぎなかった。
だから……
「さ、流石にシャワーくらい浴びる」
「自分からシャワー浴びてくれるようになったかぁ!待っとくから行っといで」
「一言多いんだよ……」
つい、縋ってしまった。
慣れないながらも吐き出すものは吐き出した。
後始末を終えて、さっさと背を向けて布団をかぶる。
落ち着いた途端、流し足りない涙が再び溢れてきて、止めることも叶わず声を殺して泣いた。
なるたけ察せられないようにしたつもりだったが、隣同士肌が触れ合う距離に居たらそんなものは無駄な努力だったらしい。
そっとこちらに身を寄せて、静かに感情が収まるまで待ってくれた。
――・――
きゅっと引っ張った布団を握りしめ、顔を埋める。泣いているだろうことはすぐわかった。
どうするべきか迷う。待つべきか、こちらから何かしてやるべきか。
散々迷った末、向き合う姿勢をとって恐る恐る頭を撫でた。
わざわざ先に呼びかけてきたくらいだから、きっと何らかのリアクションが欲しかったのだろう。そう思ったから。
あのときあいつがしてくれたように、ただ待った。感情の奔流が一旦収まるまで、何も言わず待った。
「……死にたくない」
涙声でぼそりと呟いたその一言が、生温い吐息と共に胸に染み込んだ。
――・――
「おい起きろよ、なんで起きないんだよ……!」
深紅の黎明ピエロが脱走させた空虚な夢。ゆっくりと移動しながら触れると昏睡状態に陥る泡を撒くが、眠り込んだ職員は揺すってやればすぐ目を覚ます。管理情報には確かにそう記述してあった。
逆に言うと揺すってやらないとずっと目を覚まさないままなのだが、誰それが眠ったという報告は飛び交うし、眠ってしまったら見た目にもすぐわかる。見逃しさえしなければ空虚な夢の帰還を待ってから確実に起こしてやればいい。
こちらから手を出さなければ攻撃的にもならないし、管理は楽なほうのアブノーマリティ……のはず、だった。
『管理人からの通達です。極稀な事象ですが、決して目を覚まさなくなることがあるとの報告が過去にもされている、とのことです』
部門担当セフィラの機械音声がぼんやりと響く。
嘘だろ?そんな、極稀だなんて、よりによって今ここで起きるのかよ!
「寝たフリだよな?ドッキリだよな?な?……何か言ってくれよ……起きてくれよ!」
カティ――――!
――・――
「死なないで、済んだんだよな」
すうすうと寝息を立てる安らかな寝顔も。
今にも泣き出しそうな不安を含んだ顔も。
カティなりに辛さを和らげようとベッドに誘ってきた顔も。
全部、覚えている。決して忘れたわけではなかった。
管理人から職員管理システムの話は聞いている。あの後カティはきっと登録抹消されたのだろう。登録抹消の処置はL社においてほぼ死と同義だ。
だけど、カティは。
ずっと眠ったまま。登録抹消のその瞬間まで。
眠りに落ちる時も、原因は見当がついているから「じきに起こしてくれるはず」と大した不安もなく眠ったのだ、と。
そう思いたい。
いつか起こしてくれる王子様を待っているのだろうか。
だがそれは少なくとも、自分の役目ではない。きっと。
また酒を酌み交わしたいが、もうあの点のカティは居ない。
ゲロ吐いて転がっていたところを強制連行されて全身洗われたことも。
名目上は呑み友達だが、栄養面が不安だからと毎回きっちり食事を作ってくれたことも。
お互い恋愛感情はなくとも体を重ねる関係になったことも。
全て、リセットされる。
「……カティア」
声に出してみる。
カティ“ヤ”、な!そう訂正する声ももう聞くことはない。
毎度名前を呼ぶ度に訂正してきた。本人はカティヤだと言い張るのだが、どうにもうまく発音できず、カティアと言ってしまう。訂正するのもされるのも面倒になってきたから、いつからか愛称のカティで統一するようになっていた。
「ずっと思い出せなくて、ごめんな。カティ」
もう忘れない。
忘れるものか。