【デイテス】thick clouds of sweet smoke 人の記憶には『プルースト効果』と呼ばれる現象がある。それは対象の匂いを嗅ぐことで懐かしい記憶や当時の感情が蘇るといった現象のことだが、傍から見て記憶障害と思われたデイビットのような記憶媒体でも例外ではなく、『原始的な感覚』として、至極当たり前に存在した。
そんな細やかな“匂い”から取り出されたのは、幼い頃に見た父の記憶だ。遠方の調査から帰ってきた父は火に燻されたような、白っぽい色のにおいがして、駆け寄ってきた少年が抱きつこうとすると、すぐさま鼻の奥を刺激する。
──「ああ、ごめん。すぐに着替えるからね」
涙が出るほどクシャミした少年は当時、それがなんなのかわからなかったが、食卓に出る肉を焼いた香りとはまた違って、不思議と『善いものだ』と感じた。
──そう、父は部族の祭祀に参加し、神なる予言を間近で体験していたのだ。
今ならその匂いがホワイトセージなどのお香の類い、もしくはタバコの匂いであることが『記憶』に存在しているが、何処の部族の祭祀だったか、それを確かめようにも、既に地球上に父の記録は存在しない。
……ならばなぜ、こんな“些細な”記憶を思い出したのか。
ふ、と意識が戻ると、会議室として使っている部屋の扉を開けたまま、デイビットはその場で静止していた。
とはいえ現実から見ればその『出力時間』は些細なもので、伝達した記録を思い出したのは僅か0.2秒ほど。客観視するとほんの一瞬、デイビットの足が止まったにすぎない。
では、足を止めた『元凶』は。
歩を進めると、映写機というにはオーパーツじみた通信機の前に用意されたソファの上に、『匂い』の大元が座っている。
「タバコを変えたのか、テスカトリポカ」
────煙る鏡。
そう呼ばれた、世界的に知られるアステカの神の名前を呼ぶと、金髪の男は悪びれもなくこちらを向いて、少し太めの紙タバコの火をこちらに向ける。
「良い香りだろ。現代ではこういった香りつきのタバコが流行ってるんだ」
ふぅー、と煙を吹かすと、かすかに甘い香りがしたかと思えばすぐに、タバコ特有の燻した臭いが鼻をつく。
「……現代を嗜むのは構わないが、鼻が利くジャガーにはキツイだろうな」
「なんだ、不満か? ……と、そうか。デイビットは“現代っ子”だもんな。これはフィルタまで甘ぇから、そんな気にならんと思ったんだけどよ」
そう言って全能の神がもう一度燻した煙を吸いこむと、デイビットの思考が、ふたたび先の記憶に引き込まれる。────あぁ、あの時の煙はもっと高貴で白かったが、どうやらこの匂いは、その後の“取るに足らない記憶”だったらしい。
恐らく、煙たがった少年に詫びた父は、その後現地のお土産を渡したのだろう。それこそ今漂う、バニラのような甘い匂いがする、甘いお菓子を。
「デイビット?」
思考が煙る。
意識の底に消えていた今一瞬の時をテスカトリポカは目ざとく捉えると、白緑のさわやかな煙をくゆらせたまま、紫の瞳を覗き込む。神は未来を見据えるが、外宇宙に属する彼の意識とその瞳は、どうしてもうまく読み取れない。
「…………そうだな。前のタバコのほうが、オレは好みだ」
漸く、意識が浮上したデイビットがそう答えると、全能神は『理解』したようで、残りのタバコを口に含む。
「こっちのヤツは甘くねぇぞ」
「それでいい。そっちのほうが、『特別な日』に集中できる」
隣に腰掛け、距離が詰まる。
──その『記録』は抜け落ちたものだ。
例えるなら胎児がお腹にいた頃のような、死後の自分の失われた時間の記憶のような、『今を生きる』デイビットにとってそれらは既に不要なものだ。
──ならば、上書きしてしまっても構わないだろう。
甘ったるい煙がすべて吐かれて、吸い殻が灰皿に押し付けられる。それを合図に、デイビットは改めて神の煙を肺に入れると、脳内の僅かな甘い記憶が、一瞬にして柔らかい唇と、甘いタバコの匂いになった。