悪魔の常識 台所に悪魔が立っている。こちらを向いた悪魔は、なぜか白いエプロンを身に着けてにこにこと笑っていた。
「おはようございまあす☆ よく寝ていたなあ。良い夢でも見てたのかあ? 感心感心。寝る子は育つ!」
これはまだ夢の中にいるな。
そう結論づけたこはくが踵を返すと、背の高い男が背後でくすくすと笑った。
「あいにくこれは君が見ている夢じゃない。狡猾で残忍で……ちょっぴりえっちな悪魔に、君は捕まってしまったんだ」
瞬きのうちに目の前にがっしりとした胸板が現れて、思わずたたらを踏む。後ずさろうとしたこはくの腕を掴むと、美丈夫は大仰な動作でその手の甲に唇を寄せた。
「昨夜はおいしいご飯をありがとうなあ。お礼に今朝は美味しい朝食を用意したから、存分に楽しんでくれ……☆」
わざとらしいリップ音がして、手の甲に熱を感じる。
そうだ。昨日は仕事で遅くなって、近道をしようと普段なら通らない路地裏に足を踏み入れたのだった。そこで出逢った、およそ人間には見えない青年とこはくは──どういうわけか、一夜を共にしてしまった。艶めいた顔で、甘い声音で誘う男に抗えずに。
昨夜の記憶はところどころ曖昧だが、自分がしたことは覚えていた。目の前で余裕のある笑みを浮かべる男が、人間の精気を吸い取って生きているのだということも。
「……」
「遠慮することはない。俺も久しぶりにこんなに美味しくて……まあつまり、相性の良い相手に出逢えたんだ。感謝してるんだぞお、本気で」
彼が軽く頭を下げると、その側頭部から生える立派な双角に視線が吸い寄せられた。太くてしっかりとしていて、磨き上げられたようにつやつやと輝いている。
「……これきりじゃ。せやろ?」
「なんだ、冷たいことを言うなあ! 昨夜はあんなに情熱的に求めてくれたくせに」
赤黒い紋様の入った太い腕がしなやかに動いて、彼は自身の下腹部を舌なめずりをしながらさすって見せた。それだけで、脳裏に青年の蕩けた声がこだまする。
「っ、」
「あはは、並みの人間じゃあ、俺みたいなののマーキングに逆らうのは不可能だ。気の毒だが、もうしばらくは付き合ってもらうぞお」
そう言って彼はこはくの顎を指ですくい、囁く。
「ごちそうくん?」
「っ……」
「ふふ、お顔が真っ赤だ。かわいいなあ。そそられてしまう、が……まずは本当にご飯をどうぞ。こんなに良い味をしてるんだから、体調を崩されてはたまらない」
「か、関係ないやろ、そんなん」
「いやいや、元気な人間の精気のほうがおいしいに決まってるだろう! さ、食べた食べた」
くるりと後ろをむいた悪魔の、むき出しの尻が目に飛び込んでくる。こはくが呆然と固まっているのをどうとらえたのか、鼻歌を歌いながら平皿に玉子焼きをのせて運んできた悪魔は人懐っこい笑顔で
「ヒトはお料理のとき、エプロンをつけるんだろう? 知ってるぞお!」
と得意げに胸を張った。