顎の下を撫でられるのも好きだぞお、なんて 扉をしっかりと閉めて、靴を脱いで、上着も脱いで、手を消毒して。帰宅時の、そんなルーティンをこなしつつ、こはくは自分の行動に既視感を覚えていた。
小さなワンルームのキッチンからは焼けた肉と、香ばしいソースの良い香りが漂ってきている。まだ火を使っている斑が、振り向きはせずにおかえりと声をかけてくれたので、こはくも少し声を張ってただいまと返した。
既視感。そう、これは昼間はじめて訪問した猫カフェの、入店時の動作とよく似ている。存在は知っていたものの、ネットの情報ばかりで実際に行ったことのなかったこはくを、藍良が誘ってくれたのだ。
屋敷に迷い込んできた野良猫としか接したことのなかったこはくにとって、そこは不思議な空間であった。猫たちは皆、人に慣れていて、どこか気品を感じさせる佇まいであり、それでいて食べ物を持っている人間には自然に寄ってくる。人前に出すのだから当然と言えば当然なのだけれど、個体差はあれど警戒心のあまりない猫達を前に、こはくのほうがたじろいでしまった。
「簡単なものでよければ、君のぶんもあるぞお。ご飯食べてきたかあ?」
「や、まだ。ありがたくいただくわ」
「よおし、そうこなくっちゃなあ! 手を洗ってきたら皿を出してくれ」
ゆったりとしたシャツのうえに濃紺のエプロンをつけた斑が肩越しに振り返って、ニッと口の端をつり上げる。斑が個人名義で借りているこのアパートの一室は、ユニット活動をしている時期にはセーフハウスとして利用していた。今は特に示し合わせたりすることもないが、タイミングが合えばこうしてともに食事をしたり、仕事の話をしてみたり、遅くまで映画を見たりする場所としておおいに活躍していた。
向かい合って食事をしているときも、なんとなく今日見た光景が忘れられずに、こはくは頭の中で思い出を反芻していた。大柄で毛の長い猫。左右で瞳の色が違う猫。勝手に膝の中に入り込んでくる猫。手を伸ばして触っていると、もうおしまいとばかりにするりと抜け出して行った。
その空間は、猫の好きな人間にとってはとても幸せなものだったのだろう。もちろん、こはくも嫌な思いをしたわけではない。けれどなんとなく、本当になんとなくだったが、こはくは薄っすらと、自分はここにいるべき人間ではないことを感じ取っていた。猫たちには、そこに確固たるコミュニティがある。不定期にこの場所へ足を踏み入れる人間が、本当の意味でその輪に加わることができるわけではないのだ。猫相手でも無意識にしっかりと観察をしていたこはくは、そのことに気がついてから微妙に居心地が悪くなってしまった。
しかし、猫自体は大変かわいらしかった。あのふわふわとした、あたたかくてやわらかく、気まぐれで愛らしい生き物が家で待っていてくれたらと想像してみる。ここはペット禁止のアパートだから夢のまた夢ではあるのだけれど。ただいま、と玄関先で声をあげると、斑のおかえりという声と、あのたとえようもない魅力的な声が返ってくる。
想像しているとなんだかいてもたってもいられなくなって、こはくは思わず斑に話を振った。
「斑はん、猫飼ってたことある?」
「……逆に聞くが、そんな余裕があったと思うかあ?」
突然の問いに首を傾げる斑に、今日の体験を話すと得心したように頷いてくれた。
「なるほどなあ。ま、こんな仕事をしているし、なかなかに難しいとは思うが……ふうん」
片眉を上げ、いたずらっぽく緑眼が眇められる。
「なんやねん」
「いやあ? こはくさん、猫が好きなのか」
「どうやろ……わし、あんまりかかわったことないからわからへん。けど、やっぱ実際触れ合ってみるとかわええなぁっち思ったわ」
「触れ合ってみると、ね」
いやに含みのある言い方だ。
黙って先を促すと、斑はちょっとだけ唇を尖らせて言う。
「もう少し、目の前のコで我慢しておいたらどうだあ?」
意味を理解する前に、すっと腕が伸びてきた。長い指が、ぴん、と鼻頭をつつく。
「昨夜だってさんざん触れ合って、かわいいかわいいって撫でてくれたもんなあ」
お望みならば鳴いてあげようか、と続ける斑は、少しだけ首を傾けて媚びるように笑った。
とんでもない猫の懐に飛び込んだものである。そしてまた、こはくも懐にその猫を招き入れたのだ。
「……我慢っちか、わしが選んだんやし」
呻くように返すと、三毛猫は懐っこく笑った。