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    Hands_Racoon

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    Hands_Racoon

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    笹貫准教授ネタ
    ちょっと何がなんだか書いてる人にもわかってない。
    民俗学とかミステリとかそんなのに詳しい方は両目を瞑って読んで。

    case01:稀人信仰「先生ぇ、だめです。また先方から断られちゃいました」
     肩のすぐ上で髪を緩やかに括った若い女が、部屋の窓辺に腰掛け崖下から聞こえる波の音に耳を澄ませていたらしい男に声をかけた。
     海を望む絶壁にポツンと建っている、年季の入った小さな旅館。田舎どころか余所者が入ってくるのはたった一つのトンネル以外に無い集落。
     観光では一生訪れる事がない人の方が多いこの場所に、笹貫行安はいた。
    「あー、なんかあったっぽいね。波が騒がしい」
    「……それ本気で言ってるなら、先生結構寒いですよ。多分、冬の津軽海峡より寒いです」
    「……助手ちゃん、冷たくない?」
     オレに優しくしよーよ、と笑って笹貫が振り返った。左側だけに一筋緑のメッシュが入った髪を緩く結び、サイズが大きいカーディガンを一枚だけ羽織り、へらりと笑った顔で、格好も雰囲気も気が抜けている。
     そんな笹貫を助手と呼ばれた女が腰に手を当てて睨みつけた。
    「先生に優しくすると調子乗るってことくらいは学んだので。それで、どうします? アポ取っていた先方二つの予定がおじゃんになっちゃって、今日一日空いちゃいましたけど」
    「空いてないよ。助手ちゃんはオレとデートだから」
    「は? 張り倒しますよ」
     語尾を強めた助手の言葉に、笹貫がわざとらしく首をすくめる。全く怖がっているようには見えないがそれでも悪いとは思っているのか、ジョーダンだよ、と言い訳をして、質が悪いですよ、と叱られた。
    「実はさっき警察から内線があった」
    「警察?」
     笹貫が部屋の隅に申し訳程度に置かれている古びた家電を顎でしゃくる。同じく家電を見やって、警察という物騒な単語に一切心当たりのない助手が顔を顰めた。それを横目に、自分は全く平気だと言いたげな涼しい顔で笹貫が続ける。
    「なんかオレたちに聞きたいことがあるんだって」
    「先生なにやったんですか。自首したほうが罪は軽くなるらしいですよ」
    「なんでオレが何かやった前提なの」
    「私は心当たりがないので先生でしょう」
    「なんで決めつけてんの。こういうやつの前提って推定無罪だろ?」
    「有罪だけどとりあえず無罪として扱うってやつですよね」
    「有罪かわからないからとりあえず無罪として扱うってやつだよ」
     そうでしたっけ、ととぼけた顔をした助手に今度は笹貫が顔を顰めた。
    「オレ、一応民俗学の准教授だよ? 警察が協力してほしいだけだって」
     助手を窘めるように言った笹貫を、じっと助手が見つめた。それに思わず笹貫がたじろぐ。こういう時、いつも強気な彼女の目は口ほどにものを言う。
    「先生、それ本気で言ってます?」
     ぱちくりと一つ瞬きをして、先程よりもいたく真面目に、ゆっくりと、かつ丁寧に、言い聞かせるように助手が口を開く。
    「物理学や心理学ならともかく、民俗学の、しかも教授でもない、ただの准教授に、なんで警察が協力を求めるんですか」
    「……」
    「ほら、なにしたんですか。自首するなら今ですよ」
     諭すように問われた笹貫が盛大に息を吐く。仁王立ちで腕を組みながら静かに見下ろす助手とは裏腹に、笹貫は苛立ちを抑えるように頭を掻いた。
    「や、本当に今回ばかりはなんも心当たりないんだって。確かに昔は未成年飲酒とか喫煙とかしてたけどさぁ、いい加減に時効だろ。でもそれ以外ほんっとうに心当たりないから。どうしよ。もうやだ。警察に呼び出されるとか心臓に悪いんだけど」
     助けてよ助手ちゃぁん、と笹貫が情けなく声を出す。
     自分に助けを求めて小さく唸る笹貫を、助手が心の底からの軽蔑の眼差しを向け、
    「いつも自分勝手な先生にはいいお灸になるんじゃないですか。汝の罪を悔い改めよ」
     アーメン、と仏教徒のくせに胸の前で十字を切った。
     
     
     
     別に、事件でなかった。
     事件ではない。成人男性が一人、連絡が取れなくなった。ただそれだけ。
     行方不明者届は一応出されてはいるが、親自身も周りから薦められてただけで事件だなんて思ってもいない。元来親とは絶縁とまでもいかなくとも、よく連絡を取り合うような仲ではなかったらしい。それでも稲葉郷自身が出張ってきたのは、気になる、と連絡をくれた警察官の直感を信じたからだ。
     実際に会った人間の感覚を、直感を信じる。どうしても数多ある現場には顔を出せない自分にできる唯一の現場への報い方だと思っているし、それが間違いだったと感じたことは一度もない。
     それでも「成人男性が地元で連絡が取れなくなった」だけで事件として捜査するのは厳しかった。
    「稲葉さん。煙草、やめたほうがいいんじゃないですか」
     体に悪いですよ、と声かけられ、反射的に持っていた携帯灰皿に吸いかけの煙草を押し付けた。そして声のした方へ目を向けると、古びた旅館には似合わない上等なスーツを着た女が一人、喫煙室の戸口に背中を預けるように立っていた。
    「……煙草を吸わない方が体に悪い」
     咎められたわけではないが、こんな僻地に事件でもないのに付き合わせる事になった申し訳なさで、自然と彼女、檜原志登ひばらしとと目を合わせると眉間に力が入ってしまう。
     だがそれを気にかけることもせず「確かに。稲葉さんだとストレスの方が凄そうですもんね」と檜原は笑った。
    「先ほど連絡入れた方が部屋までいらっしゃってます」
    「若い男女の宿泊客の、か」
    「観光するところもない場所に、妙齢の女性と男性のカップル。不倫かと思いましたけど、部屋は別々みたいで。何か臭いますね」
     檜原の言葉に稲葉が頷く。旅館に頼んで借りた、聴取のための部屋へと向かう。
     男の最後の目撃証言があったのはこの地域だった。懇意にしていた警察官に「近々相談にのってほしい」と言い残してからの失踪。一週間も経ってはいないが、それでも会社に無断欠勤をするような人ではないと稲葉に相談してきた警察官からも、勤め先の上司や同僚からも同じことを言われた。
     それでどうしても気になり、半ば無理やりにここへ来るのを上司から許可をもらう代わりに、首輪がわりにと檜原を付けられた。特に親しくもない、将来自分の上司になるだろうキャリア組。やっかいだと思ったのは最初だけで、現に一緒に動いてみれば、からっとした性格に今は後輩だからと偉ぶるような真似はせず、なにより稲葉のスタンスを尊重してくれるのには助かっていた。だからこそ、未だ事件でもないこの事に付き合わせていることが心苦しい。
    「失礼します。お電話しました、檜原です」
     ドアをノックして檜原が声をかける。稲葉も軽くネクタイを締め直し、居住まいを正した。事件でもなんでもない、任意でしかない聴取。相手の機嫌を損ねず、かといって舐められてもいけない。
    「失礼します」
     稲葉もドア越しに一度声をかけ、先方から「どーぞ」と了承を得てからドアを開ける。
    「げ」
    「お」
     十年ぶりに見る顔が、そこにはあった。
     
     
     
     
    「え、うそ、なんだ稲葉くんだったの? そーいや警察いくって言ってたねぇ。なんだ、ビビって損した。どったの、オレに会いたかった?」
    「よしお前が犯人だな」
    「なんのだよ」
     稲葉と笹貫がお互いを睨みだしたので「ちょっと先生」「稲葉さん」とそれぞれに静止の声がかかる。
    「どうしたんですか、お知り合いですか」
     稲葉が軽く鼻を鳴らして、ぞんざいにソファへと腰掛けた。何も言わない稲葉に代わって笹貫が、檜原にも座るよう薦めながら言う。
    「大学の頃の同期。卒業してから会ってなかったから、十年ぶりくらいじゃない?」
     懐かしいね、と笑った笹貫が慣れた手つきでテーブルの茶櫃から急須を取り出して茶っぱを入れる。その隣で助手が四人分の湯呑みを並べた。
    「先生に友達っていたんですね」
    「そ、親友なんだ」
    「友人ではないが」
     同時に答えた稲葉と笹貫が、顔をあげて互いの顔を見つめ、
    「は?」
    「あ?」
     くしゃり、とこれまた同時に顔を歪ませた。
    「は? 十年来でもお互いの顔がすぐわかって会おうって連絡くれんのは親友だろ」
    「あ? 十年間も消息不明で連絡がつかないのは友人どころかただの他人だろうが」
     助手が二人の様子を呆れたように眺めながら、湯呑みにお茶を淹れていく。そのうちの一つを檜原に薦め、檜原も軽く会釈をして一口飲んだ。そうして一息ついてから、「お二人とも仲が良いんですね」と助手の気持ちを代弁する。
    「そうだよ」
    「どこがだ」
     全く同時に二人の男に睨まれて、檜原が首を竦めた。ここまで息が合っていれば、親友かどうかは知らないがただの他人と言うこともないだろうと思ったが、言えばまた傍迷惑な白熱した議論が開催されるだろう。それに付き合うつもりはない。
    「まあ、ご連絡差し下げたのは、ちょっとお伺いしたい事があったからなんですが」
     気を取り直してそう言って、檜原が自分の胸ポケットから出した警察手帳を開いて見せた。顔写真と自分とが一緒であるのを確認させるかのように高く上げる。
    「私、檜原志登と申します。こちらはご存知かと思いますが、稲葉郷です。まず、お名前とお二人のご関係をお伺いしても?」
     ピリッとした空気になった。稲葉が姿勢を正して笹貫に向かい合い、笹貫も少し気まずそうに居住まいを正す。警察手帳を檜原が閉じてしまい直したのと対照的に、今度は笹貫がズボンのポケットから薄いアルミケースを取り出し、その中から一枚名刺を引っ張り出してテーブルの上に置く。
    「申し遅れました。帝都大学で民俗学を教えています、笹貫行平と申します。そして隣が」
    「そのティーチングアシスト、まあ簡単に言えば助手みたいなのやってます」
     被せるように続けた助手に、稲葉が眉を寄せた。檜原も同じことを思ったようで「失礼ですが、お名前は」ともう一度明確に聞き返す。
    「言いたくありませんし、名前で呼ばれたくもありません。助手、とでも呼んでください」
     先生もそう呼んでるので、としれっと言ってのけた。檜原と稲葉が互いに顔を見合わせ、そして笹貫を見る。目が合った笹貫はわざとらしく肩を竦めてみせて「自分の手には負えない」と暗に示した。
    「……では、笹貫さんはこちらにはなんのご用でいらっしゃったんですか」
    「ちょっとこの地域の伝承を調べに、ってこれ稲葉くんもわかるだろ。一から説明しないとダメ?」
    「お前だけ特別扱いできるか」
     言ってのけた稲葉に、笹貫が顔を顰めた。「頭の硬さが変わんないのすごいよ」と毒々しく呟いた後、細く息を吐く。
    「フィールドワークです。こちらの地方に伝わる伝承を調べに、五泊六日で。今日は三日目で、本当ならアポとった人にお話を伺う予定だったんですけど、急に断られちゃって。なんでですかねぇ」
     笹貫が取ってつけたような薄ら笑いを稲葉に向ける。それを鼻で笑った稲葉が「我らが来たからだろな。警察と同時期に来るような余所者は怪しいだろう」となんでもないことのように言った。
    「うっわ、普通そこは悪びれるものじゃない? なんでそんな不遜な態度とれんの」
    「仕事をやっているだけなのになぜ悪びれる必要がある」
    「ほんっとそういうとこ。なんも変わってない」
     また座卓を挟んで男二人が歪み合ったのを、女二人が横目で見る。誰ともなく目を合わせて、視線だけで軽く申し訳なさを滲ませた会釈をした。
    「なんかすみません。先生、唯一のお友達に会ってはしゃいじゃってるみたいで」
    「いえ、こちらこそ。任意なのに態度が不遜なもので。ですが良くも悪くも悪気はないので許してやってください」
     女同士の小さく交わした挨拶を「聞こえてるからな」「聞こえてるぞ」と互いに釘を刺したところで、低く呻いて笹貫が深くソファに沈んだ。
    「もうさ、何があったの。犯人ってことは事件? 人とっ捕まえて無駄な時間とらせたどころかフィールドワーク自体おじゃんになりそうなんだからさ、教えてくれたっていいだろ」
     同じように稲葉が深くソファに座って「……部外者に教えられるか」と苦虫を噛み潰す。その表情で、その言葉が出るまでの沈黙で。彼が警察として守るべきだと考えているのだろう守秘義務と、実際には藁に縋ってでもどうにか進展が欲しい気持ちとが鬩ぎ合っていることが手に取るようにわかってしまって、檜原が溜息を吐いた。
    「成人男性が行方不明なんですよ」
     「檜原」と咎める声が隣からするが、意に介さない。過程も重要かもしれないが、結果の方が大事だと檜原は思う。それに、本当に稲葉に連絡してきた警察官の直感が当たっているのならば、行方不明になったのは相当にまずい。
    「懇意の警察官に『相談したいことがある』と言っていた成人男性が、地元のここでの目撃情報を最後に行方不明なんです。その後に殆ど部外者が訪れないこの地域に現れた、目的がわからない若い男女が旅館にいるということで、お二方には声を掛けさせていただきました」
     不倫関係では、と疑ったことは伏せておく。まさか稲葉さんのお知り合いだとはわからなかったもので、と檜原が言うと、助手と笹貫の目が細められる。軽い空気が霧散し、考え込むように笹貫が腕を組んだ。
    「——それは、事件?」
     意味深な発言をした成人男性の消息が掴めない。警察が動いている。任意での聴取も行なっている。だが。
    「……今のところ、事件ではない」
     事件には、なっていない。
     成人がどこに行こうが自由で、警察官に相談したがっていた内容も、ただの近隣トラブルかもしれないし、なにかしらの犯罪の密告だったのかもしれない。だがそれを明かす前に彼は消えてしまった。
     自己決定権のある成人が姿をくらましたくらいでは、そうそう事件扱いはしていられない。
     苦々しい表情の稲葉をふぅんと気のない声で笹貫が見る。目線を虚空に漂わせて「それはなにも見つかってないってこと?」と重ねて聞く。
    「本人も含め、何も、だ。ここに一度帰ってきたの確かだ。実家にも顔を出している。だがそのあとの消息が不明で、所持品でさえも見つかってない」
     今回の行方不明者届が出されたのも、会社近くの交番に勤務している警察官が平日に見かけなくなったのを不審に思い、わざわざ自身の休日を使って彼の地元まで足を運んだからだ。彼の親に話を聞き、そして説得をして届出をさせた。本来ならばもっと日が経ってから問題になっていただろう。
     会社近くの交番で、警察官に毎朝挨拶をしている好青年。そんな彼に相談したいことがあると言われて、その後に見かけなくなったのを心配した警察官。
     たったそれだけの根拠で、稲葉は此処にいる。
     ぼそぼそと呟くように稲葉が語った事のあらましを、笹貫がこれまた興味なさ気にふぅんと、虚空を見つめたまま呟いた。そうしてゆっくりと目を閉じ、暫くしてから「ま、オレもあと少しは此処にいるから、なにかわかったら連絡するよ」と稲葉に告げる。薄く目を開けた笹貫に稲葉が「頼む」と軽く頭を下げる。その様子をにっと笑って見つめてから、
    「そのために連絡先交換しよっか」
     嬉しそうに笹貫が言った。
     
     
     
     
     *****
     
     
    「まさかあそこまで嫌がる?」
    「これも先生の人徳が成せる技ですね」
     全然嬉しくない、とボヤいた笹貫が畦道の途中で、お目当ての祠があるのを見つけてしゃがんで軽く手を合わせる。簡単な雨よけの屋根がついた古びれた小さな祠の中に、石で作られた像が置かれていた。手前にはスーパーによくある大袋入りの饅頭が二個備えられている。
    「まだお供えする人がいるんですねぇ」
     笹貫に倣って、同じようにしゃがんで手を合わせた助手が、感嘆の声を漏らした。そうだね、と相槌を打った笹貫が、ポケットからスマホを取り出してその様子を撮影した。何枚か撮った後に、画面を操作して今まで撮ったものを見比べる。
    「なにかわかりました?」
    「や、なんにも」
     笹貫が助手にスマホを渡す。助手も画面の中の画像をスライドしながら、此処に訪れてから撮ったものを見比べていくが笹貫と同じく何もわからないらしくすぐに笹貫へと返した。
    「稀人から派生して、山岳信仰になったって感じかなぁ」
    「昨日ちょっと喋ったお婆さんは『おおぐろさま』って呼んましたけど、多分『大黒さま』の事ですよね」
     笹貫が軽く頷く。此処は今でも辺鄙な所にある。高い山々に囲まれ、海に面してはいるが切り立った崖でその恩恵を受けられない。
     此処を訪れる稀人は、偶然かはてさて何かから逃げてきたのかそれはわからないが、この険しい山を越えて来る。だから恵比寿ではなく大黒になったのだろう。
    「でもそれだと、旅館にあったのと合わないんだよな」
    「ああ、旅館にあったのは釣り竿持ってましたもんね」
     独自信仰でしょうか、と助手が不思議そうにした。こんな小さい集落で、その中でもさらに小さい集団が独自に信仰なんてするだろうか、と笹貫は思う。
    「もう一回、旅館の旦那さんにでも話聞くかぁ」
    「えー、私イヤですよ。あの人にこにこしてましたけど、絶対よそ者嫌いですって」
    「昨日のお婆さんもオレたちのこと警戒してたじゃん」
    「いいんですよあれは。態度と中身が一緒だったんで気持ち悪くないです。現に暫く話したら良くしてくれたじゃないですか」
    「ま、知らない人間を警戒するのはよくあることだし……ってそっか。だから『おおぐろさま』になったのか」
     合点がいったように笹貫が独言た。そうして一度真剣な顔をして、顎に手を当て黙りこくる。その様子を一歩引いて助手は見た。こういう時の笹貫に声をかけてはいけないことは、この男の助手になってから一番初めに学んだことだ。他のどんな失敗をしても人を食ったような態度で笑って許してくれるが、自分の考え事を邪魔されるのを何よりも嫌う。
     暫くしてから助手を振り返り「もしかしたら明日帰るかも。旅館に戻って荷物まとめといて。あと旅館の人に、あの像はなんなのか聞いてスマホに送って」と捲し立て走り出す。
    「ちょっと先生?! どこいくんですか?!」
    「昨日のお婆さんのとこ! 助手ちゃんも早く旅館戻って!」
     叫びながら、早く動けと手を振ってさっさとしろと急かされる。
     なんの説明もないまま指示だけ丸投げして去って行く後ろ姿を睨みながら、助手が地団駄を踏んだ。
    「ほんっと! 先生は私のことなんだと思ってるんですか!」
     助手ですからやりますけど! と叫んだ声はどこまでも響いたが、きっと聞いた人はいなかった。
     
     
     
     
     
     *****
     
     
     
     ああそう、おおぐろさまだよ、おおぐろさま。
     おおぐろさまはね、良いおおぐろさまと悪いおおぐろさまがいてね、良いおおぐろさまは村に良いことを運んでくださるけど、悪いおおぐろさまだと悪いことを持ってくるからそれを見極めないといけない。
     道にあったのもみただろう? 口を一文字に結んで顰めっ面しているのが悪いおおぐろさまで、にこにこと笑っているのが良いおおぐろさまだね。
     うちにもあるけど、普通は家の中に祀るのは良いおおぐろさまだよ。悪いおおぐろさまは家の中には祀らないで、道や山の中にある祠の中に祀るんだ。
     良いおおぐろさまは家の中に祀ると、家の福が来るように知恵を授けてくれたり良縁を運んでくれたり、お金が舞い込んでくるようにしてくれるけど、悪いおおぐろさまは病気や事故とか不幸を運んでくるからね。家に入れないで外で祀るんだ。
     ん? なんで祀るのかって? そりゃああんた、悪いおおぐろさまも祀ってあげないと家まで来ちまうからだよ。誰の家にも来ないように、外の祠で満足してもらえるように、お祀りしてあるんだ。
     なのに最近はお供物をあげる人も少なくなっていって、本当にーー
     
     
     
     ええ、えびっさんですね。えびっさんです。そう、『恵比寿』から訛ったんですかね? ちょっとそれも私はわからないんですが、ええ、何分祖父もそう呼んでいたので、自然とそう呼ぶようになっただけで、別に意識はしていなかったもので。
     はいそうですね、えびっさんは福の神ですよ。我が家がこんな辺鄙な土地でもなんとか旅館として成り立っているのは、えびっさんのおかげかもしれないですね。だってほら、先生方もそういう神様とかを調べにいらっしゃたんでしょう? やっぱりえびっさんのおかげですよねぇ。
     おおぐろさま? おおぐろさまは、うちじゃお祀りしてないです。特に理由は聞いたことはないんですが、えびっさんがあるので二つ神様がいるのがダメなんじゃないでしょうか。
     ……はは、申し訳ないんですが、えびっさんに祠はないんですよ。旅館の中にある神棚くらいです。
     あ、そうだお夕飯はお刺身お出ししても大丈夫ですか? 折角海が見えるお部屋なので、此処で採れたものじゃないんですが、気分だけでも海の雰囲気を味わっていただきたくて。アレルギーとか大丈夫ですか?
     
     
     
     *****
     
     
    「で、なんですぐ帰っちゃったんですか」
     あと二日は経費でごはん食べられたのに、と一週間前のことを持ち出して、未だに助手に笹貫は突かれていた。食べ物の恨みは怖い、ということらしい。
    「だぁかぁらぁ、それについては稲葉くんの報告待ちだってば。それにその埋め合わせとしてご飯奢っただろ」
    「ハンバーガーと旅館のご飯を一緒にしたら仏さまだってモンゴリアンチョップしてきますよ」
    「なんで仏なのに武力行使すんの」
     くわぁっと一つ、笹貫があくびを漏らす。教授室の来客用に置いてあるソファに寝転がって、傍のテーブルにはスマホを置いて。助手から旅館の主の話を聞いてからすぐに笹貫は稲葉と連絡をとり、暫く話をしてからその翌日の早朝に逃げるように帰ってきた。「思い過ごしだったら良いんだけど、万が一ってこともあるだろ。帰る前に美味しいの食べよっか」と言われて助手が渋々帰るのを承諾したら、連れて行かれた先がファーストフード店だった。
    「なんの説明もなく、美味しいご飯を取り上げられた誰だって怒ります」
     助手ちゃんだけでしょ、という言葉をあくびと一緒に噛み殺し、ちらりと、テーブルに乗せているスマホを笹貫が見る。連絡先を教える相手を厳選しているスマホは、帰ってきてからは大学関係者からの呼び出しにしか使われていない。
    「ま、そろそろ結果報告があっても良いと思うんだけどねぇ」
     なんだかんだで昔から義理堅い稲葉のことだ。例え自分の予想が空打っても、守秘義務に関わることになろうとも、何かしらの連絡はくれると笹貫は踏んでいる。それがいつになるのかはわからないが。
     調査結果をまとめるはずだった予定が空いて、妙な空き時間を持て余している笹貫の教授室のドアがノックされた。論文指導の予定は入っておらず、残念ながら講義時間外で質問をしてくるような熱心な学生は今のところいない。大抵、こういう時に尋ねてくる助手が今目の前のソファに座ってぶぅ垂れている。
     誰だ、と二人で顔を見合わせ、とりあえず寝転がっていた笹貫は体を起こし、助手はソファから立ち上がってドアを開けに行く。ドアを開けた助手が「え」と小さく声を漏らした。ドアの影に隠れた訪問者が「やる」と言葉少なに手提げ袋を助手に押し付けている手だけが笹貫からは見えたが、聞き覚えのある声に思わず口角があがる。
    「いらっしゃい、稲葉くん」
     にやにやと顔を緩めた笹貫と、正反対に顰めっ面を浮かべた稲葉が相対した。
    「……良い話か悪い話かわからんが、聞くか」
    「もちろん」
     笹貫が稲葉に椅子に座るよう促して、その笹貫の傍らに手提げ袋を大事そうに持った助手が座る。腰を下ろした稲葉が、小さく息を吐いて好奇の色を隠さない笹貫を一瞥する。そしてなんともない風に口を開いた。
    「結果から言うと、お前の予想は当たっていた」
     
     
     
     *****
     
     
     旅館の裏の厳しい崖に隠れるようにして、その入り口はあった。干潮の間しか現れない、集落の者でも知らない洞窟への入り口。その洞窟の中に、岩でくり抜かれて作られた祠と一緒に、中身が濡れないようビニールで何重にも包まれたいくつかの物と、今回稲葉たちが探していたものがあった。
     ずっと水に晒されていたせいか腐乱はかなり進んでいたが、身元を証明する物も一緒に洞窟の中に流れついてたので身元の特定は容易かった。検死結果はまだ出ていないが、旅館の主人が自白したので事件の概要は把握できている。
     干潮時にこの近海に投げ込まれた浮かぶものは海流の関係で、この旅館の主人一族が管理する祠があるこの洞窟に流れ着くらしい。昔はその海からの漂着物から富を得て、今はそれを利用した密輸で富を得た。それをなぜか気づいた者がおり、旅館の主人にやめるよう迫ってきた。こんな辺鄙な場所での旅館経営なぞ、なにか別の収入がなければやっていけない。無理だと断れば、警察に言うという。それで揉めている間に、人目につかないよう旅館の裏で話していたせいで、男は海に落ちた。落ちたが、なんの因果かこれも洞窟へと流れ着いた。男と主人が揉めているところを見たものはいない。そして死体も洞窟の中にある。死体が出なければ、ただ一人の男が行方不明になっただけで終わるれるんじゃないかと、そう、思ってしまった。
    「—— らしい」
     稲葉が苦々しげに話を締め括ると、助手が引き攣った声音で「本当ですか」と聞いてきた。それに無言で稲葉が頷く。
    「うわー! やばい旅館に泊まってたって事じゃないですか! やだ!ほんとやだ! なんで先生そんなに平気そうなんです?! おかしいですよ!!」
     手提げ袋を守るように抱えて呻く助手を横目に、笹貫が「や、だってその葛藤、オレ一週間前にやったもん」と涼しげに答えた。やばいかもしれないからさっさと逃げたんだよ、と助手に言う笹貫を、稲葉が見据えた。
    「それで、だ。何故お前は気づけた?」
     
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