光は傲慢の色 隣で眠っていたグレゴールが飛び起きたので、当人も目が覚めた。
本日は浄化のための行軍もなく、七日と十五時間ぶりに夜間に睡眠を取っていたのだ。目覚めたのは夜明け前で、窓から入るごく僅かな光が、寝室を深い青と黒に塗り分けていた。
「グレゴール、どうした」
いまだ弾む呼吸を落ち着かせんと試みているらしい彼に、意識して穏やかな声で話し掛けながら、上体を起こす。グレゴールは体に触れられることを嫌がる場合と喜ぶ場合とがあるが、今回のような場合は経験上、触れた方がより短時間で落ち着くと思われる。当人は腕を伸ばし、彼を抱き寄せた。予想通り、グレゴールは当人の腕を拒むこともなく、大人しく体を預けてきた。
「グレゴール」
「はぁっ……はぁ……ムルソー殿……起こしてしまい、」
謝罪の言葉を口にしようとするグレゴールの唇に指を当て、首を横に振る。
「謝罪は必要ない。ただ、何があったか話してほしい」
「ムルソー殿……」
グレゴールはしばし瞳を惑わせると、ひとつ深い呼吸をして、思いを決めたように話し始めた。
「悪夢を……みたんです」
「悪夢を」
「はい。異端が……自分を追いかけてくる夢です」
異端が、と口にするグレゴールは、不安げに目を伏せ唇を震わせていた。寝室でまで異端の話をすることに、申し訳なさを感じているようにも見えた。
「異端」
「はい。まるで我々が、異端を追って浄化をするときのように……。情けない話ですが、夢の中の自分は異端に反撃することすら思い浮かばず、そのまま追われ、殴られ、」
「……」
「……この身を、虫の腕を、気持ちが悪いと言われて」
そこまで言って、浅く呼吸を繰り返すばかりになってしまったグレゴールを、注意して優しく抱き寄せると、当人も深い息をひとつ吐いた。
「夢の中では、覚醒時のように身体が動かないこともしばしばあるが……」
そのような夢を見るのは、グレゴールが強く
優しく、聡明とは言わないまでも、現実が見えていないわけではないからだ。他の金鎚たちのように、盲いた信仰で握る者を仰ぐことがないからだ。
「……グレゴール。貴殿がそのような夢を見るのは、貴殿がまだ金鎚として未熟で、教育を必要としているからだと当人は考える」
彼は、本当は分かっているのだろう。自身が異端に対して行っている浄化は、本質的には彼の虫の腕を忌み、排斥しようとしてきた者たちの態度とそう変わりがないことを。義体も、虫の腕も、ある場では疎まれ、ある場では尊ばれる。それだけであるということを。
「貴殿が異端に対して行っている浄化は、貴殿を排斥した無明の者共の愚行とは根本から異なる。異端の不浄な身体と、貴殿の純粋で美しい身体は、絶対的かつ完璧に異なるものであるが故に」
それが分かっているからこそ、思考のどこかで疑義を感じているのだ。
「そのような迷いを持つなど、まさか貴殿は、握る者の教えを忘れてしまったわけではないだろう」
我々と異端との差異は、握る者がいらっしゃるかどうかである。善悪を定め、それを我々に下賜する者がいるかどうか。
「我々の側には握る者がいらっしゃる。握る者と共にあることは善であり、幸福である」
握る者は確かに天才的で、求心力も申し分ないが、彼女もひとりの人間である。彼女の語る理想だけが、この世の唯一絶対の正解である証拠はない。
「握る者の教えこそ、この世に唯一無二の真実である。我々金鎚は、彼女の意を具現化して征くだけで良い。迷う必要はない」
それでも、唯一無二の相違点があるとすれば、それは、“釘と金鎚”の教えはグレゴールを幸せにできるだろうという点だ。
戦闘能力に特化した彼の身体は美しいが、以前彼が言っていたように、民間人に戻って市井に交じり暮らしていくのは難しいだろう。日常生活を送るには介助の手が必要となるし、異形の者として疎まれることも避けられまい。そんなグレゴールを救ってやれるのは、居場所を与えて世話してやれるのは、“釘と金鎚”以外にないと、そして、手を差し伸べるべきなのは他ならぬ当人だと、強く強く確信している。
「そのような夢を見たことが握る者に知れれば、握る者は貴殿に“教育”を施しになられるだろう。だが、ここは当人とグレゴールの寝室であり、夢とは不随意なものである。教理にも『悪夢を見るな』とは規定されていない……」
当人は立ち上がり、部屋に置いている教典を取りに向かう。背後でグレゴールが何かを言いたげに息を詰めた気配を感じたが、結局何も言われなかったので、特に言及はしないでおく。そして再びベッドに入り、グレゴールを抱き抱えるような姿勢をとってから、教典を開いた。
「今夜は、今一度当人が教理を読んでしんぜよう。その身に、心に、よく刻むように」
「……はい、ムルソー殿」
グレゴールの小さく甘い返事が聞こえたのを確認した上で、当人は教典の音読を始める。グレゴールが追えるように、言い聞かせるようにゆっくりと。
握る者の言葉でさえ晴らすことのできない翳りがあるのであれば、当人が星となってグレゴールを照らそう。手を伸ばせば届くほど直ぐ側で輝く、一番低い星に。
当人もまた優秀である故に、この思考が傲慢であることは理解している。しかし、当人は愚かでもあるが故に、グレゴールのためならば、その傲慢に全身を染めたいと思うのだ。
「五章……十三節……」
ゆっくり、ゆっくりと読み聞かせているうちに、グレゴールからも随伴して読み上げる声が聞こえてきていたのだが、その声もだんだんと眠たげになってきていた。教典を読みながら眠気に負けるなど、普段の周回であれば即刻“教育”が施されるところだが、今回は彼を安心させ、眠りに向かわせるために読んでいたので、むしろ目的が果たされたこととなる。
「そろそろ眠れそうか」
そう問えば、グレゴールはゆっくりと頷いた。彼の頭を撫で、抱き寄せると、そのまま当人も目を閉じた。
夜明けまではまだ時間がある。それが証拠に、部屋はまだ青以外の色彩が欠落したままであった。できることなら、当人もこのままグレゴールと共に、青くなってしまいたい。