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    namae_ha_niwa

    @namae_ha_niwa

    ⚠️真面目な投稿とカス性癖投稿が混在しているので、作品一覧は開かない方がいいです‼️

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    namae_ha_niwa

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    執行ムルソー×ツヴァイグレゴール

    フォロワーさんとのお題交換で書いたものです。
    シリアス。

    スキル3の罪悪属性が、その人格にとって最も問題となっている罪(苦しみ)なんじゃないかと思っています。
    また、憂鬱の罪は「何かを辞めたい(けれど自分では辞められない)」という状態を指すんじゃないかと解釈しています。
    そんな話です。

    酔生同舟⚠️このお話の読み方⚠️
    ・執行ムルソー×ツヴァイグレゴール
    ・執行は人外(頭の規定は一旦忘れて)
    ・執行がツグんちに居候している
    ・執行は一度ツグを無理矢理抱こうとしたことがあり、そのためツグは執行に対して警戒心を持っているが、執行が強いので追い出せない
    ・執行はツグのことが螂ス縺�キ
    ・ツヴァイ協会などのことをふんわりとした知識で書いています
    ・ユーリとトーマが故人な他、グレゴールの過去についての捏造がたくさん
    ・一部、原典のオマージュがあります
    ・Lobotomy Corporationの要素がありますが、アブノマの管理手順のネタバレはなく、フレーバー程度
    ・なんとなくモデルにしたアブノマがいます

    「ツンデレのデレ抜き」が性癖なので、全体的にギスギスした雰囲気が長く続きます。




    ==========


     輪切りにした肉を見ても、魂を理解はできないように。
     苦痛ばかりを見つめても、決して疑問は晴れないように。


    ==========


    【前】
     うらうらと長閑な春のような陽気。コーヒーや焼き菓子の良い香りがし、どこからともなく舞い落ちる花びらが、目の前の光景に対する高揚感をなおも高めていた。
     まるで白昼夢を見ていたかのように、直前の自分の行動を忘却してしまったグレゴールは、立ち昇る湯気に誘われるように、手近なコーヒーのカップに手を伸ばした。顔の高さまで持ち上げて、鼻から深く息を吸い込む。豊かな香りが全身に広がるようだった。
     きっとこれは高級品だな。これ、俺が飲んでいいのか? ツヴァイ四課フィクサーといえども、決して余裕があるわけではない懐事情を思いながら、グレゴールはカップに口を付けるのを躊躇った。
     そもそもこれは、一体何のために用意された飲食物なのだろう? 茶会でも開かれているのだろうか? ただ暖かく心地よいだけの空気に抗って、グレゴールは猜疑心を引っ張り出す。改めて周囲を見てみると、彩りも鮮やかな飲食物の並んだテーブルの周りには、自分以外の人間が何人か存在していた。
     その中で、身なりの良いひとりの紳士が、グレゴールの視線に気付いて顔を上げる。
    「お久しぶりです、グレゴールさん」
     その声を聞いて振り返ったのは、裏路地出身らしい風体の若者。
    「あぁ、ツヴァイの!」
     グレゴールをずっと笑顔で見つめている青年もいた。
    「また会えて嬉しいです!」
    「グレゴールさん!」
     そして最後に駆け寄ってきたのは、ピンク色の髪が愛らしい──
     
    「っ!?」
     グレゴールは、コーヒーが溢れるのもお構いなしに、カップとソーサーを叩き付けるように机の上に戻した。
    「……」
     警戒心を隠しもしない険しい表情で後退るグレゴールを、茶会の客人たちは不思議そうな表情で見つめている。
    「どうしたんですか? グレゴールさん」
    「流石、どんな時でも油断しないんですねぇ。でも今は任務中じゃないし、ここに危険はないですよ?」
    「糖分補給は重要って言ってましたよね! ほら、一緒に食べましょう」
    「本当に……本当にどうしたんですか?」
     笑顔、または心配そうな表情で彼を見つめるその顔を、まるで見たくないとでも言うように、グレゴールは前髪を掻き上げ、額を押さえながらよろめいた。そして、唸るような声音で、自分に言い聞かせるような言葉を絞り出す。
    「これは夢なんだろ……それも、とびっきりの悪夢。俺がお前さんたちを受け入れた途端、全部崩れてぐちゃぐちゃになるんだろ……!」
     指の隙間から彼らを盗み見るグレゴール。高熱がもたらす悪夢のように、彼らは今にも顔の中心から歪んで、落ち窪んで、崩れていくのだろうとグレゴールは予想した。しかしそれとは裏腹に、血色の良い活き活きとした顔が四つ、グレゴールに向けられたままでいる。彼らはどこまでも正常で、穏やかだった。
    「グレゴールさん?」
    「何を、何を言って、」
     心配そうに近付いてくる彼らを、グレゴールはなおも拒む。
    「だってお前らは! もう会えないはずの人間じゃないか!!」
     グレゴールの悲鳴のような叫びが響き渡ると、風に吹かれる木々のざわめきすら止み、辺りは水を打ったように静かになった。
     
     そこにいた四人は、かつてグレゴールと関わり、そして死んだ者たちだった。
     グレゴールがまだ駆け出しのフィクサーだった頃、護り切れずに死なせてしまった依頼人の紳士。護衛任務中に出会い、一時共闘していたが、敵の凶刃に斃れた若いフィクサー。グレゴールが先輩として指導していたが、別の部隊で任務に当たっている間に亡くなり、死に目にも会えなかった後輩フィクサー。そして、街で出会った……ままならぬ“都市”での暮らしの中で、ささやかな願いを語り合った、少し分かり合えたかもしれなかった女性。彼女は、最期にグレゴールへ笑いかけてくれたときと変わらぬ愛らしい姿で、しかし打って変わって不安そうな表情で、グレゴールを見つめていた。
     
    「……」
     静かになった空間。改めてグレゴールが周囲に目を遣ると、そこは緑に囲まれた公園のような場所で、頭上は快晴の青空。テーブルの周囲は芝生で開けているが、少し離れると青々とした木々が立ち並んでおり、その先は見通せない。どこかの富豪が親しい人間だけを集めて屋敷の庭でパーティを開けば、こんな光景になるだろう。目の前にいるのが死人ばかりでなければ、とグレゴールは思った。或いは、どこかの翼の技術であれば、こういった立体映像を見せることができるのかもしれない。
     だが、わざわざ俺にそんな高級な技術を使うような人間はいないだろう。仕事で恨みを買っていたとしても、他にいくらでも復讐の方法はあるのだから。それが、グレゴールがこの状況を夢だと判断した根拠だった。
    「……」
     グレゴールが一喝して以来、四人はそのまま静かに佇んでいた。困惑、心配、不安……そして大きすぎるほどの優しさで潤い、一片の疑いすらも混じらぬ無垢な表情で、グレゴールを見つめていた。それをじっと観察して、グレゴールは知り、そして覚悟する。これはどこまでも優しく、都合のいい夢なのだと。
    「やめてくれよ……」
     グレゴールは再び、震える声で呟いた。
    「何があったっていうんですか」
    「私たちは何もしていませんよ」
    「だから、それをやめてくれって!」
     グレゴールが怒れば怒るほど、悲しげな顔になっていく者たち。せめて、仕事着と武器が、盾の矜持が欲しい。素顔で彼らと向き合うのはキツい。グレゴールがそう思って左手を握りしめると、その手の中には堅い何かがあった。彼のツヴァイヘンダーだった。彼は、自分がツヴァイ四課のフィクサーとしての姿に変わってしまっているのに気付いた。もしかすると、初めからそうだったのかもしれないが、彼には分からない。今となっては、分からなくなってしまっていた。
     ツヴァイヘンダーをもう一度、確かめるように握り締めると、グレゴールは夢の客人たちの顔をひとりひとり見た。
    「お前さんたちと俺は、もう何も話さずにいるべきなんだ。もう会うことすらないはずなんだ。だから俺から言うことは何もないし、お前さんたちの言葉を聞く気もない。もちろん、コーヒーも飲まない」
     グレゴールが苦しそうに、されどキッパリそう言うと、ある者は呆然と俯き、ある者は顔を見合わせ、またある者は何かを言おうと口を開いた。

     しかし、彼らの次の言葉がグレゴールに届くことはなかった。
     どんっ、と低い打撃音がひとつ。テーブルの上に何か大きなものが落ちてきて、同時にテーブルクロスがぶわりと広がった。グレゴールの視界が、純白に遮られる。そして一陣の風が吹いて、それがテーブルクロスを攫っていってしまうと、再び開けたグレゴールの視界に四人の客人の姿はなく、飲食物で賑わっていたテーブルまでもが殺風景なボロ机に変わっていた。それはちょうど、グレゴールの家にある、使い古しの食卓にそっくりだった。
     そして何よりも顕著な変化は、そのあまり綺麗ではない机の上に、先程の四人とはまた違う、グレゴールのよく知る者が立っていたことだった。仕立ての良い純白の外套に、腰の周りで煌めく翠色の石版。烏の濡れ羽色の髪の上には、金色に輝く月桂冠が鎮座している。そして彼の背後には、柔らかな金色をした光の羽が広がっていた。
    「ムルソー……」
     天の執行官の補佐・ムルソーは、グレゴールの家の居候である一方で、本来であればグレゴールと関わるはずのない、それどころか人間の営為にすら関わるべきでない、完全なる異邦人である。本人曰く、天の執行官の補佐としての仕事で人間界にやってきていた彼は、街で見かけたグレゴールに強い興味を持ち、グレゴールの家をこの世界に滞在する間の拠点とすることに決めたのだそうだ。グレゴールからしてみれば、ある日突然謎の人外が同居を迫ってきた上、追い返そうとすれば何が起きるか分からない。いい迷惑だった。
     また、ムルソーがグレゴールの身体に強い関心を持っていることも、グレゴールにとっては大きな問題だった。ムルソーは人間に近い見た目をしているが、それはこの世界に来るために作った仮初の肉体だそうで、感覚や機能まで完全に人間を模倣できているわけではない。そのためムルソーは、人体への理解度を深めたいと考えていて、その格好の教材となり得るグレゴールの身体に興味津々なのだ。実際、ムルソーはグレゴールの家にやってきた次の晩に、早速グレゴールの身体を弄くり回し、剰え性的な部分にまで触れようとした。それが主な原因で、グレゴールはムルソーへの警戒心を解けないでいる。
     とはいえ、今は状況が状況だった。目の前の存在が自分の知るムルソーなのか、彼は確かめねばならない。
    「ムルソー、だよな? お前さんは本物か?」
    「本物とは何か、という定義が曖昧ではあるが、」
     ムルソーは机から飛び降り、グレゴールの前に静かに着地した。
    「あなたの精神の中にのみ存在する者ではない、という意味では、そうだ」
     眉すら動かさずに答えるムルソーを改めて眺めるグレゴール。これは間違いなく本物だと得心がいくと、彼の目の前で大きな溜息を吐いた。それでも、ムルソーは嫌な顔ひとつしない。
    「その雰囲気だと本物っぽいな……」
     たとえあまり気の抜けない相手であっても、意味不明な状況の中で確実な味方が現れたことに、グレゴールは少しだけ安堵した。安堵した自分に、気持ち悪さを覚えた。
    「……でも、ここは俺の夢の中だろ? どうやって来たんだ?」
    「眠るグレゴールの身体を通して、外側から意識に侵入した。それ以上の厳密な方法は……」
    「あぁ、いいよ、説明しなくて。俺が聞いても楽しめなさそうな話だろ?」
    「今までの傾向を鑑みるに、そうだな」
     グレゴールはあまり難しい話が好きではなかったし、ムルソーもまた、人ならざる自分たちの理屈をグレゴールに話し聞かせるのを良しとしなかった。グレゴールの精神に悪影響を及ぼす恐れがあったからだ。
     とまれかくまれ、助けられはしたのだから、グレゴールは感謝を伝えるべきだ。しかし、彼の口から聞こえてきたのは別の言葉だった。
    「その……なんだ。俺は、お前さんが外から見ても分かるくらい魘されていたのか?」
     ムルソーのおかげで助かったということは分かっているものの、どうしてもグレゴールは、彼に対して素直に礼を言うことができなかった。
    「いや、帰宅した時点でお前が厄介な種を持ち帰っているのは分かっていたが故に。予め考案しておいた対応策を講じたのみである」
    「厄介な種? ということは、この夢は……」
    「幻想体の影響によるものだ」
     それを聞くと、グレゴールは明らかに狼狽した。
    「じゃあ何か!? 俺は今、幻想体に取り込まれているってことか!?」
    「そうではない」
     ムルソーは淡々と答える。
    「確かにこの夢は幻想体の影響を受けて生成されたものだが、グレゴールが今現在も直接その幻想体の影響下に置かれているというわけではない。あくまでもグレゴールの精神の内側に、この夢はある。幻想体の直接的な支配領域からは離れているが……眠った後、必ずこのような夢を見るように、眠った段階で効力を発揮する仕掛けをふ埋め込まれていたといえば良いだろうか」
    「ふ、ふーん……? 時限爆弾を渡されていたようなもんかね」
    「比喩的な理解として、的外れではないと判断する」
     ムルソーは頷いて見せた。
    「しっかし、そんな幻想体にどこで会ったってんだ……」
    「そこまでは検知できない。ところで、私からも質問をしていいか」
    「……なんだよ」
     ムルソーが俺のことを知ろうとすると、大体碌なことにならない。グレゴールはそう思って身構えた。
    「この夢を見せた幻想体の性質から言って、夢の内容や登場人物が攻撃的な、或いは恐怖を与えるようなものになるとは考えにくい」
    「そうだな」
     グレゴールは、なおものどかな風景を見回した。確かに、普通であれば恐怖や不快感を与えるとは考えにくい景色だった。
    「であれば、何故お前は会話を拒絶した? 先程ここにいた人物たちとの会話を」
     グレゴールは額に手をやった。面倒臭いところを突かれたな、と思った。それでもムルソーが引き下がる様子はなかったので、グレゴールはひとつ深い呼吸をすると、嫌そうに話し始めた。
    「……あの人たちは、かつて俺が死なせた……というか、護り切れなかった人たちなんだよ」
    「顧客、ということか」
    「それだけじゃない。同僚とか、協力相手とか……まぁ、そんなもんかな」
     グレゴールは、ピンク色の髪の女性のことを敢えて口にしなかった。
    「では、かつての自分の失敗を突きつけられるのが嫌だった、ということか」
    「いや、そんなんじゃない」
     グレゴールは少しムッとした表情でムルソーを見上げた。
    「失敗も後悔も、いつだって意識の中にはある。なければ良かったのにな、とか、これ以上増えませんように、とか、もちろん思うこともある」
     失敗や自責を厭う心はあっても、逃げずに甘んじて受け入れているつもり。それがグレゴールの主張だった。
    「でも、でもな。何とかそれに慣れて、押さえ込んで、やっと生きていけるようになったところなんだ。それが、こんなところでもう一度話をしたり、謝って許しの言葉を聞いたりしてしまったら……もう現実には戻れなくなる。現実が、耐えられなくなってしまうだろ。俺はまだ、現実の方で生きていきたいんだ……」
     最後の方の言葉は、細く震えて消え入りそうで、その言葉を絞り出しながら、グレゴールは俯いてしまった。彼は、自分の口から出た言葉が、濡れた土くれのように地面に落ちていくような気がしていた。
    「そういうものか」
    「そういうもんだな。まぁ、天の執行官の補佐だっけ? ……のお前さんは、そんな失敗なんざしないから分からないか」
     自分から質問しておきながら、回答を聞いても普段通りの淡々としたリアクションしかしなかったムルソーに、少し腹を立てたグレゴールは、敢えて当てつけるようにそう返した。すると、ムルソーの瞳が一瞬不安げに見開かれ、視線が逸れた。
    「……どうした?」
    「私にも……ある。失敗をしたことが」
    「へぇ、天の執行官の補佐サマも、失敗とかするんだな」
    「他の個体については知らない。だが、私には確かにある……」
     そんな言い方をするということは、同族たちの巣(そんな場所が本当にあるのかどうかは知らないが、とにかく人間界に来る前に住んでいた場所)ではなく、この世界に降り立ってから、自分と出会ってからの話なのだろうか。グレゴールはそう考えたが、口には出さなかった。わざわざ詮索してまで知りたいことでもなかったのだ。

    「……ま。いずれにせよ、あいつらとあれ以上話をせずに済んだのは助かったよ。次はこの夢から覚めたいんだけど、何か方法はあるか?」
     グレゴールは気を取り直して、まだ視線を泳がせているムルソーに尋ねた。ムルソーはハッと気がついたように顔を上げる。
    「……人間は夢から意図的に覚めようとする際、夢の中でどんな行動を取る」
    「えぇ? そりゃあ……頬をつねる、とか?」
    「痛みを生じさせるのか。やってみよう」
     そして二人は、揃って自身の頬をつねった。
    「痛い」
    「痛いな……。まぁ匂いが分かるんだもんな、痛覚もあるか……って、目覚めてないじゃないか」
    「そのようだ」
    「そのようだ、じゃないんだよ」
     グレゴールに詰め寄られたムルソーは、また明後日の方向に視線を向けた。しかし今回は、動揺した結果そうなったのではなく、確固たる意思をもって誤魔化そうとしているのだが。
    「……外側から刺激して起こした方が良かったか?」
    「夢の中に来るんじゃなくて、ってことか?」
    「その方が有効であった可能性もある」
    「馬鹿野郎! 何やってんだよお前さんは!!」
     グレゴールはムルソーに掴み掛かり、激しく揺さぶろうとする。しかしムルソーの体幹が強かったため、そこまで揺れなかった。
    「いや……今はもう幻想体の影響下にいるわけじゃないらしいし、時間が経てば目が覚めるのかもしれないけどさぁ……お前さん、どうしてわざわざ夢の中に入ってきちゃったの」
    「お前がどんな夢を見ているか知りたかったからだが」
     ぞわり。グレゴールの背筋を不快感が駆け上がった。グレゴールは掴んでいた手を離すと、そのまま一歩飛び退く。
    「どうした」
    「どうしたじゃねぇよ。お前自分が何言ったか分かってんのか」
    「お前のことを理解したいから、お前の夢に入ろうと思った。幸い、幻想体の力で形作られた夢であるので、私が入ろうとしても醒めない程度には頑丈だった。そう伝えようとした」
    「……そうだったな。お前さんは素でそういう感じだったよな」
     グレゴールまた、額に手をやるしかなくなって、そのまま大きな溜め息を吐いた。
     ムルソーは基本的に、嘘をついたり誤魔化したりすることをしない。いや、先程のようにはぐらかそうとすることなら無いではないが、質問されたことに対しては正直に答えてしまう、答え過ぎてしまうきらいがある。それは、“事実認識と異なることを言ってでも、この場における信頼や評価を稼ぎたい”という、多くの人間が持つであろう感覚が、彼には欠けているからである。当然だ。何故なら彼は、人間ではない。
    「なぁ……なんだってそんなにさ、俺に執着するわけ? ただの、仕事のための下宿先、それで良くないか?」
     グレゴールはたまらず、乱れた前髪を弄びながら言った。
    「お前を知ることが私の満足……にも繋がるような気がするため」
    「“満足”が何かすらよく分かっていないのに、そんなこと言うんじゃねぇよ……」
     それに“気がする”ってなんだよ、いつも断言しかしないのに。グレゴールは独り言のようにボソボソと付け足した。
    「お前は、自分のことを知られるのが嫌なのか?」
    「お前さんに知られるのは嫌」
    「なら、私ではなく……一般的な人間に知られるのはどうだ、それも嫌なのか」
     グレゴールの脳裏に、再び先ほどの四人の姿が過った。
    「グレゴールは、仕事では多数の人間と関わっているようだが、休日の……プライベートの生活に、他の人間が関わってくる様子がほとんど見られない。人間の多くは、他個体との情緒的・物理的な接触を好むと聞いているが」
    「それは……」
     グレゴールはなんとか誤魔化せないかと天を仰いだが、こういう場合のムルソーは躱そうとする方が面倒だと思い直し、渋々ながら口を開いた。
    「それはさ、アレだよ。自分を知られるのが嫌っていうかさ、知るだの知られるだのしている間にさ、なんか……相手のことが気になってきちゃうだろ」
    「気になる、とは」
    「情が移るってやつなのかね……。人は誰だっていつかは死ぬし、そうでなくても怪我したりなんか失ったり、嫌な目に遭うことってあるだろ? そんなときにさ、その人が俺の知り合いだと、なんだか寝覚めが悪いんだよ。全然知らない相手の方が、話聞いたり現場見たりしても気が楽だからさ。なるべくその……何かあったときに気落ちするほど深く関わり合う相手は、作りたくないよなって」
     遠くの木立を見ながら話していたグレゴールが、ふとムルソーを見遣ると、彼は納得したのかしていないのか分からない無表情で、グレゴールをじっと見つめていた。疑うような、或いは批判するような色もなく、瞳は静かに澄んでいた。
     少なくともムルソーは自分の話を真剣に聞いていたようだ、と思ったグレゴールは、正直少し感心したが、すぐにはっと気付いて言葉を付け足す。
    「あ、勘違いするなよ? お前さんは対象外だからな。お前さんに情とかは湧いていない。だから、お前さんがどうなったって俺は気にしない。お前さんのために悲しむとかもない」
    「そうか」
     ムルソーが余計なことを言い出さないよう突っぱねたつもりだったが、ムルソーが思ったよりも平然と受け入れたため、グレゴールは拍子抜けした。俺がお前さんを追い出さないのは、お前さんのことが好きだからじゃないんだぞ。分かってんのかな。そう思ったが、ムルソーが平然としている以上、さらに言葉を積み重ねても意味はないと判断したのだった。

    「まぁいいさ。今は取り敢えず、この夢からどうやって脱出するかを考えよう」
     グレゴールは仕切り直しの合図にひとつ手を叩くと、手がかりを探すようにもう一度周囲を見回した。舞い散る花びらはいつしか消えていたが、青い空、緑の木立は変わらず、辺りは依然として穏やかなままだった。
    「このように終点が曖昧なまま、自律的判断で行動方針を決定するのには、慣れないな……」
    「あぁ、天の執行官とやらに言われた通りに執行するのが仕事だからか? だからといって、ずっと何も考えないでいると馬鹿になるぞ」
    「人間とは必要とされる行動様式が異なるが故に、問題ない。よって、自律的判断を行わないことで私の知的性能が低下することはない」
     グレゴールの軽口に珍しく腹を立てたのか、ムルソーはハッキリと言い返した。いつもの平静さを乱せて胸がすいたのか、グレゴールはほんの少し口角を釣り上げる。
    「はいはい。なら何か名案を出してくれ」
    「……」
     ムルソーはじっと黙ったまま、視線を僅かに上げた。何か考えているようだった。一方のグレゴールは、ムルソーの周りをぐるぐると歩きながら、考えたことをぶつぶつと声に出している。
    「ここは俺の夢ってことだろ……なら、これからも俺の記憶を掘り返して、さっきみたいなことが……それは嫌だな……」
    「……」
    「移動するとなんかいるのかな……」
    「……」
    「他に何か出来ることは……」
    「……そもそもこの夢は、夢の中で行動を起こすことで覚めるものなのだろうか」
     ひとりで考えようとしても手詰まりを起こしてしまったのか、じきにムルソーもグレゴールの独り言に応えるようになっていた。
    「そんなの分かんないけどな、このまま自然に目が覚めるまでじっとしているわけにもいかない。そうだろ?」
    「そういうものか。その場合、何か行動を起こすことになるが、その行動には一体どのような意味が付与されるだろう」
    「難しい言い回しをするなぁ……。つまり、何をやったら何が起きるかが、どっちも全然分からない、ってことだよな」
    「そうだ」
    「どうしようもないな……でもまぁ、ひとつ言えそうなのは、」
     グレゴールは改めて、遠く視界を遮る木立を指差した。
    「あの森を越えるなり、新しい場所に辿り着くなりする度に……俺の記憶から作られた、暖かくてタチの悪い、優しい者たちが姿を現すだろう、ってことなんだ」
     グレゴールは、煙草の煙で肺を燻す時のように深く息を吸い込み、それからゆっくりと吐き出した。ムルソーはグレゴールの指が指す先を見て、ゆっくりと頷いた。
     と、ムルソーの瞳に光が差した。
    「……グレゴール、提案なんだが」
    「ん? 何だ?」
    「この夢がお前の夢で、この先どう進んでもお前にとって不愉快な人や物が現れるとするならば……そして、それでも進むという選択をするならば、私が先行して進むのはどうだろうか」
    「お前さんが?」
     グレゴールはムルソーを見る。ムルソーの案を品定めせんとする琥珀色の瞳が、僅かに細められた。
    「そうだ。それで、何か異変があればあらかじめお前に伝える。排除した方がいいのであれば、私が壊そう。グレゴール自身がいきなり直接対面するよりも、いくらか精神的被害が小さく済むのでは」
     想定し得る状況をいくらか語るムルソー。グレゴールは、現実的だし悪くはないな、と思った。夢の中で“現実的”というのが妙なのはともかく。
    「……そうだな。それならまだ、進む気にもなるか。よし、その案に乗るよ」
    「そうか。ならば今は、私がお前の盾……だな」
     ムルソーの思考を高評価していたグレゴールはしかし、“盾”という一字に反応して顔を顰めた。
    「……今なんつった?」
    「私がお前の盾だと」
     グレゴールは深いため息を吐いた。
    「他人を護る者は盾なのだろう?」
    「そりゃ、俺たちツヴァイはそう言って仕事しているけどさぁ……」
     グレゴールは、それ以上の不平を口にはしなかった。
     いや、正確には“できなかった”のだ。自分たちのキャッチコピーを勝手に使われたこと、その誇りに軽々しく触れられたことへの不快感は確かにあった。それは分かりやすかった。しかし、グレゴールの胸を濁らせたものは、もうひとつ何か別にあり、それが何なのか、その時のグレゴールは言い表すことができなかったのだ。


    【中】
    「前方より一定量の香り成分が流れてくるな。飲料のコーヒーであると考えられる」
     結局、グレゴールはムルソーの案を採用した。ムルソーが先行し、状況を聞いたグレゴールが可否を判断する。そして最後は、ムルソーが進むかどうかを決定する。そのようにしながら、二人は夢の中を進んでいた。
     進むごとに、開けた草原の部分と、木々が生い茂る森の部分とが交互に現れる。まるで、壁に仕切られた部屋がいくつも集まっているようだ、とグレゴールは考えた。壁のような森を抜けると、部屋のような草原には何かが置いてあったり、何もなかったりする。今度の部屋には、コーヒーがあるようだった。
    「上に登る、または座ることができそうな、石製の構造物の上に、十数センチメートル程度の容器があり……そこにコーヒーが入っているものと見られる」
    「缶コーヒーかぁ……」
     グレゴールは考えた。自分にとって意味のある缶コーヒーとは。この夢は、どの記憶を参照して、缶コーヒーなんか再現したのだろう。頭の中の映写機を回してみれば、思い当たる節がひとつあった。
    「……多分アレだな。昔、俺が仕事でヘマしたときに、先輩が奢ってくれたやつ」
     缶の色は青いだろう?とグレゴールが尋ねると、ムルソーは静かに頷いた。
    「確かにあのコーヒーはありがたかったが……近頃は思い出したこともなかったな。そんなものまで出てくるのか」
     グレゴールは不思議そうに言った。本人すら近頃あまり触れていない記憶まで掘り返されるというのは、心の準備ができないという意味では脅威かもしれなかったが、グレゴールはただ素直に驚いたようだった。
     とはいえ、感心してばかりもいられないのである。グレゴールは、今確認するべきことをムルソーに質問した。
    「それで、先輩の方は近くにいるか?」
     ムルソーは振り返って言う。
    「いや、人間はいないようだ」
    「よし。なら、そこは大丈夫だ。そっちに進んでもいいし、別の方向でもいい。お前さんが進路を決めてくれ」
     ただコーヒーがあるだけなら、特段厭う理由もない。グレゴールはそう判断したようだった。
    「……目的地もはっきりしないのに進むというのは、やはり慣れないな」
     前進を決め、茂みに分け入るムルソーの居心地悪そうな声に、グレゴールは何も答えなかった。

    「子どもたちが遊んでいるようだ。十人ほどいる」
    「服装は?」
    「お前が“裏路地”と読んでいる地形に居住している者に類似している」
    「……その子らがこっちに関わってこようとしないなら、いい」
    「承知した。このまま進む」
    「うん」
    「次は……家屋の前に女性が二人いる」
    「……その、女性たちの特徴は?」
    「二人とも、お前の髪と類似した色の髪をしている。会話内容から推測するに、二人は母と娘の関係で、この家の兄に当たる人物の帰宅を待っているらしい」
    「それはダメだ。そんなものは存在しない」
    「そうか。なら右に曲がろう」
    「……」
    「こちらには……また家だ。裏路地ではなく、南部の巣の内部にある家と似た様式だと判断する」
    「もしかしてその家、壁が青っぽい色をしていないか?」
    「青っぽいと言って差し支えない色合いだと判断する」
    「なるほどな……多分それ、かなり前の依頼人の家だ。いい意味で都市の金持ちらしくない、気持ちのいい人だったんだよな。家の前に人はいるか?」
    「……周囲には誰もいない、ように見えるな。建物の影に隠れていたり、中から出てきたりする可能性は否定できないが」
    「ふーん……まぁ、いいよ。進んでも」
    「いや、ここは別の方向に向かおう」
    「ん、了解」
     グレゴールはふと、ムルソーとこんなに長く会話を続けたのは、初めて出会った晩以来だな……と思った。

     しばらく移動した頃。グレゴールは、辺りの様子が少しずつ変化していることに気付いた。
     丸っこい葉をざわざわと揺らしていたはずの木々は、少しずつ針葉樹に変わっていき、その針のような葉も徐々に植物らしからぬ光沢を帯びていく。空の色はだんだんと濃くなり、夕暮れ前のような色合いを見せ始める。薄らと星が、こちらへと少しずつ近付いているようにも見えた。そして、時折聞こえていた鳥の声も変化し、今のグレゴールには、それが自分たちに話しかけているのだということがハッキリと分かっていた。
    「……グレゴール」
     夕暮れに太陽が関係しないのは、彼らの次元における光が太陽とは異なる存在だからだ。翠色の意を伝える時計はこの次元からは見えず、光遍き声も目も届かない。周囲を見回す。草原と草原を隔てる木々は緩やかに岩石へと変わり、また木々に戻り、岩石と植物の境目の変わり目のグラデーション。CO2、O2、NaAlSi2O6。空には星が出て、出る。星は存在するのだ、彼らの次元にも。Stellae。 友人のことを考える心の右斜め上の辺り。今、青い空の青い紫の部分に輝く星と星の間を割り開いて吹き渡りたい、風。木々が揺れる音。石板が擦れる音。執行。鳥が告げる意図の位相が23.4°の回転。ここではない。【代替不可能な概念】の連続。破断、破裂。2±√-3の快感、【翻案不可能な精神的作用】。【エラー】。N/A、またN/A。null。ADNY。縺励▲縺薙≧。{-}{-}{-}{-}{-}{-}。?。彼の方の仰せのままに、縺�繧薙*縺�。縺励g縺�繧�。縺励▲縺薙≧………。
    「グレゴール。あまり思考をしない方がいい」
     聞き覚えのある言語が耳に入り、グレゴールは不思議に思った。
    「世界の組成が……徐々に、我々の世界に近くなっている。あまりハッキリと認識しては、お前の精神に悪影響があるだろう」
     ……その、不思議と聞き馴染みのある言語こそが、本来グレゴールが用いるべき言語だということを思い出し、彼はそれまでの思考の異常さに気付いてゾッとした。

     その後もグレゴールは、思考に流入しようとし続ける異物をできる限り無視しながら、ムルソーの後ろを歩いていた。そして、周囲をなるべく見ないようにする代わりに、ムルソーの背中を見つめていると、彼の様子がどうにも少しおかしいことに気がついた。
    「……ムルソー? 疲れたのか?」
    「問題ない。平気だ」
     グレゴールの方を見もせずそう答えるムルソーは、やはりどこか苦しそうであった。周囲の様子が変わっているのと何か関係があるのだろうか、とグレゴールは考えた。しかし、本人が平気だと言っているため、それ以上気遣う言葉を口にすることはなかった。
     灰緑色の構造物をくぐる。それは岩に開いた横穴のように、或いは洞穴の入り口のように見えたが、あまり思考を向けてしまうと、取り入れるべきでない情報が脳に入り、翠色に乱反射してしまう。グレゴールは視線を外した。
     入って、暗くなり、進む。しばらく進むと、再び明るくなった。通り抜けたのだ、とグレゴールは判断した。
    「おぉ……」
     あまり直視してはいけないのは分かっていた。しかし、穴の先にあったのは、思わず声を漏らしてしまうほどの美しい風景だったのだ。
     夕焼けとも朝焼けとも違う、幻想的な色に染まった空。まるで砂を零したかのように、その空全体でうるさいほど煌めく星々。そんな空模様を水面に映しながら、穏やかに流れていく川。水面を滑る風。川辺には青々とした葉を茂らせる針葉樹林があり、その上を、翠色と琥珀色の彗星が寄り添って、長い尾を引きながらゆっくりと流れていた。
     なんだこれ。俺、こんな場所に来たことなんかないぞ。グレゴールはそう言おうとしたが、声にはならなかった。声になる前に、次なる異常事態が起きたからだ。
     ぽんっ。まるでサイダーの栓を抜くような、そんな軽い音がして、何かが地面に落ちた。グレゴールが見ると、それはムルソーの顔だった。
    「は、」
     ムルソーの顔が、青々とした下草の上に落ちていた。頭部ではない、顔だ。ムルソーの、表情に乏しいが整った美しい顔が、まるで仮面のように剥がれ、足元に落ちている。
    「……!?」
    「見、ルな……見ナイでくレ……」
     落下した顔をよく見ようと、屈み込んだグレゴールの頭上から、歪んだ声が聞こえる。反射的に見上げれば、顔を落としたムルソーの頭部があった。
     あるにはあったが、本来顔があるはずの、その頭部の中心からは、闇としか言いようのないものが広がっていた。その闇の中で、いくつもの大きな瞳が瞬きをしている。そしてムルソーはそんな頭をしたまま、手を伸ばしてグレゴールの目を覆おうとしてきた。
    「うわっ」
     ムルソーの頭部に蠢く瞳について、グレゴールが知っていることは少ない。ただ、これが現れるのは、ムルソーが精神に大きなダメージを負ったときだというのは分かっていた。
    「オイオイ……」
    「見ルな」
    「俺だってあんまり見たくはないけどさ」
     ひらりひらりと腕を躱すグレゴール。ムルソーはなおもグレゴールの視界を遮ろうとしてきたが、緩慢に動く腕を避けるのは、彼にとって容易なことだった。見ればその腕は、身体との接続が肩のあたりで断絶しており、謎の力で空中に浮かんでいた。普段彼が嵌めている黒い手袋もどこに行ったのか、超常的にも宙に浮かぶその腕は、全体がエメラルド色に輝いていた。グレゴールは驚いたが、それと同時に、元より人間ではないムルソーがどうなったところで驚くだけ無駄なような気もしていた。
    「これ……顔くっつけたら元に戻らないかな」
     グレゴールは恐る恐るムルソーの落下した顔に手を伸ばす。指先でつついてみると、柔らかいのか硬いのかなんとも言えない感触が伝わってきた。
     以前、グレゴールがムルソーの大きな瞳を見かけた際には、このように顔が全て剥がれ落ちてしまった訳ではなかった。どちらかというとヒビが入っているように見え、その隙間から闇と瞳が覗いている、という様相だった。その時は少しずつヒビが塞がっていったので、今回も顔を元に戻すことで事態を解決できるのではないかと、グレゴールは考えたのである。
    「見なイで」
    「見ないでっつったって仕方ないだろ、さっさと隠しちまおうぜ」
     グレゴールはムルソーの顔を手に、少し高い位置にある彼の頭部に向かって腕を伸ばす。ムルソーは相変わらずぶつぶつ言っていたが、避けもせず、振り払いもせず、物理的な抵抗はなかった。
     軽く引っ張られるような感触がして、グレゴールの手からムルソーの顔が離れる。そのまま彼の顔は、頭部のあるべき場所へと戻っていった。
     作られた仮面のようだったそれが、ピクリと動く。神経というものがムルソーにもあるのかどうかはよく分からないが、ともあれ無事に彼の意識と顔は繋がったのだろう。グレゴールはほっとしたが、ムルソーはその動くようになった顔を歪めて、不安げな表情を作っていた。
    「ほら。これでもう見られなくなったろ?」
    「ち、違う……」
    「え?」
     いつの間にやら、顔だけでなく腕も元に戻っていたムルソー。的確に動くようになったそれをそっと伸ばし、グレゴールの目を塞ぎながら、彼は苦しそうに言った。
    「見られたくないのは……空の、方だ」
     空では変わらず、美しい彗星が二筋、穏やかに尾を伸ばしていた。


    【後】
     精神に負荷を畳み掛けられてフリーズしてしまったムルソーを引き摺るようにして、グレゴールは何とか洞穴に入る前のところまで戻ってきた。
    「どうやら、どっちに進むかを決めているヤツの記憶を掘り返してくるみたいだな。この夢は」
    「……」
    「綺麗な景色だと思ったけど、あれがお前さんの失敗? トラウマ? ってことだよな」
    「……」
    「……安心しな。何があったのかを詮索するほど、知りたい訳じゃないから」
     すっかり沈黙してしまったムルソーを前に、グレゴールは大きく溜め息を吐いた。普段、グレゴールの質問には答え過ぎるくらい答えるムルソーがこうなるなんて、やりにくいったらありゃしなかった。
    「……まぁ、少し休憩しても良いか」
     夢の中だというのに、どっと疲労感が押し寄せてきたグレゴールは、黙ったままのムルソーを放置してその場に腰を下ろした。柔らかい草の感触が伝わる。草は、クッションや緩衝材のような役割を果たしているようで、地面に座ったとき特有の湿った冷たさもほとんど感じなかった。
    「……全く、変なところまで都合がいいんだな」
     ならば、と思って服のポケットに手を入れると、そこには煙草とライターが入っていた。いつから入っていたのかは分からないが、それはまさに、今グレゴールが求めていたものだった。
     グレゴールは煙草を一本咥えると、左手でライターを上手く使って着火した。
    「………。ふーっ……」
     すっかり慣れた味わいが口腔と肺に滲み入る。別にニコチン切れを感じていたわけではないが、それでも、白くたなびく煙を見ていると、心が落ち着いていくような気がした。
     ふと気付くと、先程まで俯くばかりだったムルソーが、グレゴールの方を見ていた。相変わらず表情は曇ったままだったが、自分の思索に閉じ篭もる状態からは脱し、周りを見る余裕が生まれたようだった。
    「お前さんも一本吸うか?」
     夢の中のたばこであれば構わないと思ったのだった。自分で買った覚えもないので、減ったところで困らないとも思ったのだ。重苦しい雰囲気を放つムルソーに気不味さを感じていたし、それをなんとかして、早くこの夢から出たかったのだ。一方で、彼が煙草に興味を持つことなんてないだろうとも思っていたのだった。
    「……吸ってみたい」
    「え、本当か?」
     嘘は吐いていない、と言いながら近付いてくるムルソー。彼はグレゴールのすぐ傍まで来ると、隣に腰を下ろした。
    「……てっきり、身体に害があるから要らないとか言うのかと」
    「現実の煙草が人体に有害なのは知っている。しかし、これは夢だ。夢に現れるほどお前がそれを好むのなら、どのようなものか知りたいと思った」
     グレゴールは眉を顰めた。ムルソーは、何度言っても学習しないのだ。グレゴール個人に興味を持っていると示すようなことを言えば、彼は嫌がるのだということを。それは、如何にムルソーが嘘を言ったり誤魔化したりすることを苦手としているかの現れでもあったが。
     自分から言い出した手前、グレゴールは今更煙草を出し渋るわけにもいかず、一本取り出すとムルソーに渡した。
    「そっち向きじゃない、こっち……そう、こっちを咥えるんだ」
     ムルソーが煙草を正しい向きに持ったのを確認すると、グレゴールはライターに火を点ける。
    「じゃあ今から火を当てるから、それに合わせて軽く吸ってくれ」
    「口からだな」
    「そりゃあ、口に咥えるからな……」
    「普段呼吸は鼻で行っているため、気になった」
    「お前さんも呼吸をするのかい」
    「この次元でこの組成の身体を稼働させるには、呼吸が必要になる」
    「ふーん……?」
     納得したのかしていないのか、曖昧な相槌を打つグレゴール。淡々と回答したムルソーは、そのままそっと煙草を咥えた。
     ムルソーの、血色の薄い唇が、柔らかく、へこむ。
     グレゴールはライターをじりと鳴らすと、灯った火をそっと煙草の先端に重ねた。それに合わせてムルソーが息を吸い込めば、煙草の先端がハッキリと赤く染まり、縁から白い煙がたなびく。
     一筋の、煙。煙草からそれが立ち昇ったかと思えば、太く縺れた煙がそれを追いかけていく。口の中で一度転がした煙を、ムルソーは正しく吐き出していた。
    「……どうだい。気に入ったか?」
    「現実世界でお前が吐き出す煙と異なり、人体に有毒な成分は検知できない。データが存在していない……のは、この夢のあらゆる構造物と同じだ」
    「……」
     グレゴールは、ムルソーの語る長い前提に辟易とした。
    「一方で、精神に若干の高揚感が生じている。これは恐らく、中毒性の物質に起因する覚醒感や興奮を、グレゴールの記憶を元に再現したものなのだろう」
     違うか? と首を傾げるムルソーに、グレゴールは頼りない肯定を返す。
    「た、多分……? 煙草吸ったら、頭が冴えたり気分がスッキリしたりするもんな」
    「そうか。つまりグレゴールは、この感覚を目当てにタバコを吸っているのだな。グレゴールが好む感覚を知ることができたのは成果だ」
     今度はグレゴールが縺れたものを吐き出す番だった。
    「はぁ……。お前さんさ、なんでそうやって言うかね。そういう“知りたい”とか“知ることができた”とかさ、言われたら俺が怒るの分かってんだろうに」
    「だが、嘘を吐くのは私には難しい」
    「なら何も言わなきゃ良いだろ」
    「しかし、何も言わなければ……」
     ムルソーは口篭った。その先にある言葉を言えば、グレゴールがさらに不愉快になるだろうということが、今はしっかりと判断できていたからだ。

     再び黙ってしまったムルソーに、グレゴールは、しまった、と思った。彼が喋りもしなくなってしまった気不味さをなんとかしたくて、煙草を勧めたのだということを思い出したのだ。実に本末転倒である。
     グレゴールは静かに思考回路を回転させた。不本意、本当に不本意だが、何かムルソーが喜ぶような、そこまででなくとも、せめて気分がマシになるようなことをしてやらなくては、埒が明かない。そう思ったのだった。
     すっかり短くなった煙草の火を消そうとして、地面に押し当てる。そのままぐりぐりと押さえ付けてやれば、火だけでなく吸い殻まですっかり消えてしまった。
    「便利だな……」
     そう呟けば、何が起きたか理解したらしいムルソーもそれを真似る。真似。真似……。人間おれの真似が好きな人外だ。グレゴールのやることを真似たがる。例えば、盾。
    「っ、そうか」
     グレゴールが急に明るい声を出したので、ムルソーは驚いてそちらを向いた。それで、自分が随分と分かりやすく態度に出していたことを恥ずかしく思ったグレゴールは、誤魔化すように軽い咳払いをすると、立ち上がり、ムルソーに手を差し伸べながら言った。
    「そんなにこの夢が怖いなら……今度は俺が、お前さんを護ってやるよ」
     ムルソーは、突然の申し出に驚いたのか、目をぱちくりとさせた。
    「本物の“あなたの盾”がどんなものか、お前さんに見せてやるっつってんの」
     やや強い口調でそう言ってやれば、ムルソーはようやく状況を理解したらしい。薄く開いた口から、熱い感嘆の息が漏れる。自身はそれに気付いていないようだが。
    「それなら、また歩いていけるだろ?」
    「そう……だな。よろしく頼む」
     そしてムルソーは、グレゴールが差し伸べた手を取り、引っ張り上げられるように立ち上がりながら、その手に自身の指を絡めた。
     ……しかし、それはグレゴールにとって、予想外の反応だったようである。
    「うわっ!? どうして手を繋ぐんだよ!!」
     ムルソーが立ち上がった途端、大慌てでその手を振り払い、一歩後ろへと飛び下がった。
    「手を差し伸べたのはお前だろう」
    「こんな風に繋げとは言ってないんだよ!! それか、軽く手を取るくらいなら分かるけど……」
     これは仲良し同士の繋ぎ方だろう。そんな言葉がグレゴールの喉まで出かかっていた。一方のムルソーは、全くもって不可解だとでも言いたげに、当惑した表情のまま、グレゴールの顔と手を交互に見る。
    「依頼人を守るとき、お前はしばしばこのように、依頼人と身体を近付けている」
    「そりゃ相手が依頼人だからで……それに、そういうときは手じゃなくて腕を掴んだり組んだりしているだろ?」
    「……腕か手か、その僅かな違いにそんなに強い意味を見出すのか、グレゴールは」
    「俺がっていうか、普通の人はそうだろうよ。その差は僅かでもないし……」
     グレゴールはまた、頭を抱えたのだった。

     それからグレゴールとムルソーは、交互に進路を決めながら夢の中を進んだ。ムルソーの知覚記憶から作られた風景は、グレゴールの干渉を受けて人間が理解できる程度に分節され、グレゴールの心象が形作った光景は、ムルソーの影響でその輪郭を曖昧にしていった。かろうじて人ではあると分かる、声も相貌も認識しがたい人影ばかりになった世界を、グレゴールとムルソーは彷徨い歩いた。
     しばらく歩いて、歩いて、歩いて。
    「お前が……」
     ムルソーが不意に、独特の湿り気を帯びた様子で話を始めた。
    「お前が、他人を護っているのを見ていた」
    「んぁ?」
     また訳の分からない話が始まった。そう思ったグレゴールが怪訝そうな反応を返したが、ムルソーは何か覚悟でも決めたかのように、グレゴールの方を見ないで話し続ける。
    「我々は翠色の意に従って執行する。しかしお前は、琥珀色の魂で人を護っていた。私はそれに、心惹かれた」
     ムルソーの感覚的な表現は、よく分からない。彼の感覚は、人間のそれとは大きく異なるのだ。怪訝そうな顔をしながらも、グレゴールはその話を黙って聞いている。
    「お前という人間がそうなのか、或いは、護るという行為がそうなのか……どちらが要因なのかは分からなかったが」
     そこまで聞いて、グレゴールは急にあることを思い出した。ムルソーが“盾”という単語を口にしたときに感じた不快感。その正体が、今なら掴めそうだった。
    「グレゴールの傍にいれば。或いは誰かを守るという経験をすれば。その琥珀色を理解することができると思った」
     淡々と言い切る。そして、小さな声で付け足す。
    「……己の欲望を突きつけられるのは、思ったより苦しいのだな。叶うなら、共にどこまでも吹き渡っていきたいと思った。悠久の時を、共に流れたいと思った」
     グレゴールの耳は、その漏れ出るような言葉もしっかりと聞き取った。グレゴールの脳裏に、先ほど見た美しい光景が蘇った。
     それを知ってか知らずか、ムルソーは再び確かな硬さをもって、続ける。
    「私は知りたいのだ。譬え、その琥珀色が激しく揺らめくたび、胸の痛みが強まるとしても」
     それは、力強い言葉だった。まるで、ムルソーが自身に言い聞かせているようだった。
    「胸の痛み……いや、今“強まる”って言ったか?」
     まるで普段からずっと痛いみたいじゃないか。不可解に思ったグレゴールが堪え切れずに言葉を返すと、ムルソーはようやくグレゴールの目を見た。
    「胸が痛いのか?」
    「痛いな。……人間は皆、こうなのかと」
    「いやいや……まぁ歳食ってきたらさ、膝や腰が痛いってことはあるかもしれないけど、胸はなぁ……」
     なんかの病気か? 爆発したりしないよな。グレゴールは厄介そうに独言る。
    「それ……いつから痛いんだ?」
    「お前の元に来て二日目の晩、私がグレゴールに失敗をしてからずっとだ」
     ムルソーは平然と、なんでもないことのように、或いは世界を覆す重大な情報かのように、そう告げた。グレゴールはこのとき多くを理解して、それでも何が言いたいのか分からなくなって、頭をぐしゃぐしゃと掻いた。
    「その日は……」
    「……」
    「その夜っていうのはさ……」
    「………」
     ムルソーは黙ったまま、グレゴールが次の言葉を紡ぎ出すのを待っていたが、グレゴールはう゛ーだとかーとか唸るばかりで、まともな言葉はひとつとして出てこなかった。そしてとうとう諦めたグレゴールは、
    「先に言っておきたいんだが、」
     ……と前置きして、先程思い出した別の話を始めることにした。
    「護るってさ、そんなに良いもんじゃないよ」
    「……何?」
     思わぬ角度から切り出され、ムルソーは眉を寄せた。
    「ツヴァイ協会の仕事。“あなたの盾”になることだよ。そんなに良いもんじゃないって」
     何の話題か得心したのか、ムルソーの眉間の皺が消える。が、グレゴールの発言自体に違和感を覚えたのか、ムルソーは頭を傾けた。
    「あぁいや、勘違いしないでくれ。俺は自分の仕事や能力にそれなりの自信があるし、プライドってもんもある。だから、仕事自体が無意味とか無価値とか言いたい訳じゃない」
     今度こそ話の流れが腑に落ちたのか、ムルソーの頭は正しい角度へと戻った。
     グレゴールは、話を続ける。
    「それでも、お前さんが言ったみたいな……何かを理解したいとか、そんな理由で手を出すほど、前向きな仕事でもない。そういうことが言いたいんだ」
     いつの間にやら二人の足は止まり、彼らは広い草原の真ん中で向かい合っていた。足元には、たくさん付いた小さな蕾たちを膨らませている叢草が、柔らかく茂っていた。
    「俺は、俺たちは仕事で他人を護っている。だから、個人的に護りたいものを護れる自由はあまりない。かと言って、それを仕事にしていない人間が他人を護るのは、おおよそ不可能だ。協会というバックアップでもないと、他人を護るのは難しい」
     この点で、俺の仕事には明らかな価値と理不尽がある。グレゴールがそう言うと、ムルソーは理解したとばかりに頷いた。
    「それにな。俺たちだって、護ることはできても、“護り切る”ことは難しいんだ。だって、殺したり壊したりするのは一瞬でも、生かすのは“一生”だ。そうだろう? 今日は大丈夫だった。じゃあ明日は? 依頼中は良かった、でも依頼後は? “護りたい”という気持ちが終わるのはな、いつも“護れなかった”ときなんだよ」
     グレゴールは捲し立てる。声のトーンは静かだが、流れるように、感情的に。それは、その言葉が彼の偽りなき本心であることを表していた。
    「……俺は、協会の仕事に誇りを持っているし、自分の技術だって依頼料分の価値はあるもんだと思っている。だから決して、自分を可哀想がったり、ツヴァイ協会を腐したりするつもりはない。それでも、報われないな……と思うことはあるんだよ」
     グレゴールは肩をいからせて息を吸い込み、ぎゅっと目を閉じた。そして、抱え上げた荷物を再び落とすように、一気に空気を吐き出すと同時に、“都市”の不条理を嘆くかのように、目を開いて地面を睨みつけた。
     しかし、それも束の間。グレゴールは軽くかぶりを振ると、微笑みを浮かべてムルソーを見た。諦念で満ちた、乾いた笑みだった。
    「だから……アレだ。あんな風に嬉しそうに“盾”だなんて言うな。“護る”だなんて、言うな。それは……俺たちのものだから」
     今やグレゴールは、ムルソーが盾という言葉を口にしたとき、自分の胸を濁らせたものがなんだったのか、ハッキリと捕まえることができていた。この腹立たしくも無垢なる異邦人が、自分たちの呑む清濁の味の差も知らず、ただひたすらに憧れてくるということが、悲しくて悔しくて許せなかったのだった。

     ムルソーはしばらくの間、グレゴールの言葉に圧倒されたかのように、何も言わず立ち尽くしていた。それから、言葉選びに迷っている様子を隠しもせず、つっかえつっかえになりながらも、グレゴールに返事をしようと試みるのだった。
    「護る……ということに対して、グレゴールが、どう思っているか……ある程度、理解した……つもりだ」
    「そうかい」
    「そうまでしても……護るのだな」
     言葉に詰まりすぎて、人形劇の人形のようにぎこちなくなったムルソーの様子に、グレゴールは苦笑する。ムルソーはその調子のまま、続けて何かを言おうとして、ピタリと口を噤んでしまった。
    「……なんだよ」
    「いや……この質問をすれば、グレゴールの気分を害することになると判断した」
     また何か自分のことを知ろうとしたのだろう。グレゴールは容易く理解した。
    「……そこまで言われたらさ。気になるから、訊いていいよ」
    「何」
    「答えてやるから訊けよっつってんの」
     ムルソーよりも腹立たしい“敵”について考えていたからだろうか。やさぐれた態度ではあるものの、グレゴールは質問を許可したのだった。ムルソーは、感情次第で変化するグレゴールの許容ラインを見極めるのは至難の業だと感じたが、せっかく得たチャンスを逃す手はなかった。
    「グレゴールは……昔から、他人を護るのが得意だったのか?」
    「ん? ……どうだったかな」
     グレゴールは思わず視線を空へ向かって上げた。予想外の質問に対し、すぐには答えが思いつかなかったのだ。
    「……引き際を見極めたり、安全な場所を見付けたりするのは、確かに他人より上手かった気はするよ」
     それでツヴァイを選んだんだっけな。グレゴールは自分自身に問いかけるかのように言った。ツヴァイ協会に就職した理由なんて……初心なんて、古い色ガラスの瓶の底のように、曇って見えにくくなってしまっていた。
    「でも、それだけだって。俺ばっか生き延びるのが上手くてもさ、依頼人はそうじゃない。それじゃあ意味がない。そうだろ?」
     グレゴールはぶっきらぼうに言った。そのぶっきらぼうさは、ムルソーだけに向けたものではなかったのだろう。
    「そうなの……だろうな」
     もし、依頼人の護衛中に窮地に追い込まれたら。そして、グレゴールのみが直観的に取るべき行動を理解できて、依頼人は上手く理解できず、結果グレゴールだけが助かってしまったら。ムルソーは想像する。他人を護るのは、それが実力や感覚の面で自分と大きく異なる相手であるほど、困難な仕事になるだろう。
    「難しいのだな。壊すのではなく、護るというのは……」
     ムルソーは、手袋に包まれた自分の拳に視線を落とした。これまで数多の魂を執行してきて、これからも執行していくであろう拳だった。

    「……それで、お前さんの胸の痛みの話だけど」
     グレゴールは話題を元の路線に戻した。ムルソーは拳から視線を上げ、グレゴールを見た。
    「それはきっと、悲しみってやつだよ」
    「悲しみ……」
    「そうだ。悲しいことやつらいことがあると、人間は胸が痛くなるんだ」
     例えば、何かを護り切れなかったときとかな。グレゴールはまた煙草が欲しくなったのか、ポケットをまさぐりながらそう言った。
    「これが……悲しみ……」
     つらく悲しいときは、煙草でも吸わないとやっていられなくなる。隣にいるのがムルソーであれば、自分が煙草を吸いながら歩いていても気にしないだろうかと、グレゴールは思った。ポケットの中には変わらず煙草の箱があり、グレゴールの手の動きに合わせてくるくると回転していた。
     ムルソーは、なんとなく手を当てた自分の胸と、グレゴールとを交互に見て、それから何かのひらめきを得たかのように、短く息を吸った。鼻からではなく、口で。
    「グレゴール」
    「ん、なんだ?」
    「お前は私に、情など湧かないと言ったな」
    「え、何の話……確かに言ったな。言ったけど、なんだ……?」
     一瞬なんのことか分からなかったグレゴールだが、この夢を見始めてからの記憶は案外早く手繰り寄せることができた。グレゴールが、心の中に他人を入れたくない理由。それを語っているときに口にした言葉だった。
    「それなら、私がどうなっても痛くないはずだ。悲しくないと、言っていたはずだ」
    「そうだな……?」
     ムルソーのエメラルド色の瞳が、グレゴールをじっと見つめる。背後に煌めく光の翼が、一層強く輝いた。淡い金色だったそれは、普段よりもずっと眩しく鮮やかになり、グレゴールの瞳のような、琥珀の色をしていると言えるくらいになっていた。
    「ならどうか、お前の心を私に向けてくれ。私をそこに入れてくれ。嫌悪でも、憤怒でも、悪意でもいい。私はどんなに痛くてもいいから、お前の心から私に何かをくれ」
    「え、」
    「頼むから、認識をしてくれ。会話してくれ。拒絶しないで、無視をしないでくれ……!」
     それは、切々とした告白だった。なりふり構わぬ懇願だった。人間の価値観に不慣れで、自身の情緒にすら上手く名前をつけられていない、迷子の異邦人による、不器用な感情の発露。最低限求めていることをそのまま言葉にしたために、人間の常識に照らせば、その要求は明後日の方向を向いていると言えた。
     グレゴールは呆気に取られた。何を言っているんだと思った。呆気に取られて、取られて、取られ切ってから、腹を抱えて笑い始めた。
     可笑しかったのだ。自分の元にやってきて以来、自分を振り回し続けている強い生き物が、泣きそうな顔をして(少なくともグレゴールにはそう見えた)お願いをしているのが。そしてその原因が、少なからず彼からグレゴールへの感情にありそうで、その感情すらも袋小路に向かって進んでいることが。グレゴールはそれが可笑しくて悲しくて堪らなくて、泣いてしまうくらい笑ったのだった。
    「グレゴール……」
     一世一代の申し出を笑われたムルソーは、彼の名前をただ呼んだ。そこには怒りも悲しみもなく、いや、あるにはあったが、地平線に消えかかる赤光のように潜められていた。全ての知覚のボリュームを下げて、ムルソーはグレゴールの笑顔を見ていた。
    「あぁ、お前さん、お前さん可笑しいよ……」
    「何故だ。理屈は間違っていないだろう」
    「理屈はな。でも、だって、普通はさ、拒絶されたくないから、好かれたり良く思われたりしようって思うもんだぜ」
     グレゴールがそう言うと、ムルソーは眉を顰めた。
    「それではお前の心に入れないと、お前が自分で言ったんだろう」
     グレゴールは呼吸を落ち着かせながら、色の付いた眼鏡の奥に煌めく雫を指先で拭う。
    「そうさな……だけどよ、ムルソー。お前さんはいつかいなくなっちまうんだろう?」
    「そうだ。私が執行すべき対象がいなくなり、天の執行官より帰還の命令があれば、私はグレゴールの記憶を調整した上で、この次元から撤退する」
    「それだよ」
     ムルソーは、いつかはグレゴールの元から去る。ムルソーがグレゴールの家にやってきた際、ムルソーは彼にそう説明していた。彼が執行すべきとの任を賜った、その対象を全て執行しおおせれば、彼は元いた次元へと帰るのだという。そのときにはグレゴールの頭から、ムルソーにまつわる全ての記憶を消していくのだ、とも。
    「それがどうかしたか」
    「それ、ちゃんとやっていってくれよ。記憶を消すヤツ」
     グレゴールは、ムルソーに向かってびしりと指を立てると、念を押した。
    「お前さんばっかり欲しいもんを手に入れて、俺のところにゃ要らないもんばっかり残ってったらさ、そりゃ不公平ってもんだろ。せめて、後片付けはしていってもらわねぇと」
     それを聞いたムルソーは、ゆっくりと瞬きをし、それから深く頷いた。
    「分かった。記憶は確かに消して行こう」
    「ん。約束な」
     そう言ってグレゴールは、すっとムルソーに手を差し伸べた。
    「……なんだこれは」
    「何って、握手だよ。約束のあーくーしゅ」
    「それは仲良し同士でするのではないのか」
    「それは指を絡めるやつだろぉ。掌を軽く握り合うくらいなら、政敵同士でもやるんだよ」
     政敵というワードに少しだけ胸を疼かせながら、ムルソーはそっと手を伸ばし、グレゴールの手を握った。
     真上から照りつける真っ白な陽の光が、地面に二人の手の影を落としていた。

    「……なんかさ、いやに太陽が眩しくないか?」
     握った手が自然に離れる頃。視界の違和感に気付いたグレゴールは、その場で空を仰いで言った。
    「眩しいな。以前よりも眩しくなっていると判断する」
     ムルソーも続いて、上を見上げた。
     夢の中の天気はずっと晴れだった。しかし、日差しはもっと穏やかだったはずだ。うらうらと長閑な春の日のような、過ごしやすい程度の光だったはずだ。それが何故か、今ではその場にいるだけで眩しいと感じるほどの強さになっている。
    「オイ……これちょっとマズいんじゃないか!?」
     慌てたグレゴールが周囲を確認すると、異常なのは空だけではなかった。二人のいる草原は、遠く見える森に囲まれていたはずなのだが、その森がない。見えない、存在しない。
     白飛びした写真のように、地平線が真っ白に燃えていた。四方がそうならば、もう逃げ場はない。
    「グレゴール!」
    「うるさい! 俺だって今どうしたらいいか考えてるんだよ!」
    「あの太陽が異常なら、いっそあれを執行すれば、」
    「バカ言ってんじゃねぇ、無理だろそれは! 太陽だぞ!」
    「いやしかしここは夢だ!」
     混乱したムルソーが、太陽の方へ拳を向ける。つられてグレゴールも、ツヴァイヘンダーを構えて再び太陽に顔を向けた。
     白く、眩しく、敵うわけもない熱塊が、二人の方へと近付いてくる。或いは巨大化しているのだろうか。
     そのうちに二人は、お互いどころか自分の姿もよく見えなくなり、じきに目を開けていることすらできなくなった。そして世界の全てが、白い光に飲み込まれて──


    ──────
    ────
    ──

    「っはぁ!?」
    「グレゴール」
     グレゴールが白い太陽の夢から目を覚ましたとき、自分はベッドの上にいて、そこにムルソーが寄り添っているのだということに気付いた。彼は多少汗をかきながらも普通に横たわり、頭を少し上げると、床に座ったムルソーが身を乗り出して彼の様子を伺っているのが見えた。
    「グレゴール」
    「……目が、覚めたのか」
    「そうだ」
     目が覚めた。つまり、抜け出せた、脱出できたのである。あのタチの悪い夢から!
     やった、よかった、と口にしようと思ったグレゴールだったが、あまりにも気疲れする夢の後だ。言葉が上手く出て来ず、彼はただ、喜びに震えた呼吸を繰り返した。
    「……………」
    「グレゴール……」
     そんな彼を見下ろしたまま、ムルソーはゆっくりと立ち上がる。
    「あぁムルソー、ずっとそこに座ってたのか? 座るなら椅子持ってきて座りゃ良かったのに」
    「家具の位置を勝手に変更しては、お前が気分を害すると思った。それよりも、グレゴール」
     ベッドの横に膝をついて座っていてくれたのは、彼なりの気遣いだったのだろうと、グレゴールは身を持って理解した。何故なら、自分が横になった状態で見上げるムルソーは、思った以上に大きかったからだ。かなり圧があり、少し怖かった。起き抜けにこれを見たら、驚いて攻撃してしまうとすら思った。
     そしてムルソーは、その高い位置から、逃がさないとばかりに問いかける。
    「グレゴール。夢の中でした約束は……覚えているか?」
     そこでグレゴールは、はたと気付いた。夢の内容を全て具に記憶しておくことなど、なかなかできるものではないということに。別に、できなくても何もおかしくはないのである。いつもいつも、眠りながら見た夢を覚えておけという方が、無理のある話だ。つまり今、夢に見た内容など忘れたと言ってしまえば、あの妙な約束を反故にすることができる。グレゴールはそれに気付いてしまったのだ。
     そしてグレゴールは、雨に濡れた犬のように不安げな色を瞳に宿したムルソーを笑い飛ばすように、言ってやったのである。
    「なーに寝惚けたこと言ってんだ、お前さん。そっちこそ、ちゃんと俺の記憶を仕舞う準備をしておけよ。それより顔色が悪いな、コーヒー淹れてやるから飲みな!」
     その言葉と共に、ベッドからのそのそと起き出してくるグレゴールを、ムルソーは驚いたような表情でただ見ていた。彼がムルソーの横を通り過ぎ、台所に向かって消えていきそうになったところで、ようやく全ての情報が繋がったムルソーは、慌ててグレゴールを追いかけたのだった。
    「私に食物は必要ないぞ」
    「でも飲めるんだろ? 顔色が本当に悪いから、なんか温かいものを飲んだ方がいいって!」
     かくして、不可解な夢の中で結ばれた、奇妙な約束の元に、グレゴールとムルソーの生活は、再スタートを切ったのである。
     片や、いずれ忘れる者。片や、いずれ去り行く者。やがて終わる日々の中で、二人は幾度も触れ合い、重なり、互いに互いを傷付け合っていくのだろう。その道程の行く先がどのようなものになるのか、二人はまだ何も知らなかった。


    ==========


     いつか消える蝋燭を燃やして、パレードの歓声のように叫ぼう。
     理解し得ない夢でもいい、どうか私に愛をください。


    ==========


    【おまけ】
    「コーヒーとは、煙草以上の劇物なのか?」
    「おかしいな……お湯に粉を溶かしただけなのに」
    ※粉を入れ過ぎ
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