ジェパサンケモシリーズ腕に乗る暖かみが無い。そのことに気がついたサンポの意識は、やがて微睡みから意識を引き上げる。僅かに開けた瞳は、空虚を抱く己の腕に向いた。
「……ジェパード?」
そこに眠っているはずの子犬が居ない。排泄行為の為に目を覚ますのは、ままある事だ。
そこにいるんだろうと、自身のすぐ後ろに呼びかけてみる。しかし、返答はない。そのことに違和感を覚えつつも、サンポは目を見開く。
(……まさか)
ジェパードは良い子だ。この最近では1匹で行けなかった排泄も行けるようになり、言いつけはちゃんと守っている。手のかからない、賢い子犬。
だからこそ、サンポの中に芽生えた違和感は増長する一方であった。あれほどに賢い子が、甘えてばかりの子が、サンポの呼び掛けに気が付かないなんて有り得るだろうか。
くん、とサンポは鼻先を鳴らす。ジェパードの匂いは微かなものであり──
(しまった……っ)
──地面に着いた小さな足跡は、点々と洞窟の外まで続いていた。
地面を強く蹴り、サンポもまた外へと飛び出す。子犬の痕跡は雪が全てかき消してしまっていた。
「ジェパード!!どこです、返事をしなさいジェパード!!」
サンポの中の違和感が、不安に塗り変わる。
早く見つけなければ手遅れになってしまう気がして、走る足先が雪に滑りそうになった。
「ジェパード!!」
なぜもっと強く言っておかなかった。夜は絶対に外に出てはならないと、誰が来てもダメだと、なぜもっと強く言い聞かせておかなかった!
不安に後悔が混ざる。背筋を伝う冷たい何かは、熱された思考を冷やすには到底足りない。
「──……!」
手がかりがない中、サンポの狐耳に響いたのは恐ろしい咆哮の断片であった。それが何を意味しているのか、身体が理解して足がすくみかける。
だが、アレが叫んだのならばそこに殺すべき獲物がいるということに他ならない。
そこにジェパードがいる確証は無い。だが、サンポはその声が聞こえた方へ、一心不乱に走り出した。
それが、吼える。耳を劈き、ジェパードの四肢は断裂したような錯覚すら起こした。圧倒的な暴力と恐怖の化身は、ゆっくりと動き始める。動いていると、思う。
認識すら、恐怖の中に解けて作用しない。
視界が揺れ、濡れ、正確さはもう存在していない。
「ジェパードッ!!」
その中でも、ルカは正気を保っていた。彼の叫びに近い呼び掛けと共に、横腹を頭突かれる。足が地面から離れ、ジェパードの体はコロコロと雪を転がった。
刹那、鈍い音ともに土と雪が宙を舞う。衝撃によって正気を取り戻したジェパードが見たのは、熊の爪が易々と地面を抉りとっている場面だった。
「走れジェパード!逃げるぞ!!」
ルカの声に、ジェパードは返事よりも早く走り出していた。彼が入れてくれた活のおかげで、なんとか四肢に力が入る。
赤毛の狼の後ろに必死に食らいつきながら、背後から聞こえる恐怖の存在が後ろ足を引っ張ろうとしてくる。木々や茂みを薙ぎ倒す音に、否が応でも耳が反応してしまう。
今、自分がどこを走っているのか分からない。
「あっ!?」
ジェパードの足が、雪に取られた。そのまま前のめりに転んだことで、ルカも足を止めてしまう。
「ジェパード!!」
何とか立ち上がった時、自身の影は大きなものに塗りつぶされていた。それが何故なのか、考えるまでもなく本能が理解する。
そして、ジェパードは振り返る。振り返ってしまう。
「ぅあ……」
「ジェパード!動け!ジェパード!」
目と鼻の先にある、絶対的な恐怖。それが大きく腕を上げて、鋭い爪先をジェパードに向けていた。
殺される。
それだけに、ジェパードの思考が塗り潰される。足はもう動かず使い物にならない。
後ろで、ルカが必死に吠えている声だけが鮮明に聞こえてきた。
(サンポの言うこと、ちゃんと聞いてたら)
こんなことには、ならなかったのだろうか。
振り下ろされる爪。ジェパードの視界は、真っ黒に染まる。
「──────ッ!!!」
それは熊の絶叫であった。痛みに悶え苦しむようなそれに、ジェパードは目を見開く。黒かった視界の中に点と灯る紺色は、確かに希望であった。
「サンポ……?」
振り下ろされるはずだった腕に噛み付くサンポの視線が、一瞬だけジェパードへ向く。熊が大きく腕を振り回し、サンポを無理やりに引き剥がそうと試みた。確かに聞こえる肉の千切れる音は、ジェパードの知らない世界の音だ。
熊が大きく腕を振ったところで、サンポの牙は抜けて落とされてしまう。口周りを血で真っ赤に染めながら、サンポはルカの方を向いて叫んだ。
「ルカ!遠吠えを!!」
その言葉に、ルカは思い出したように目を見開く。彼が顔を夜空に向けて、大きく口を開いた。
その間にも熊は怒り狂った声を上げ、凶爪を振りかぶらんとしていた。腕を大きく上げた一瞬の隙、サンポは前足で出来る限りの雪と地面を削り取る。
そのまま、相手の顔に目掛けてそれらを思いっきりかけてやった。上手いこと目に入ったのか、熊は怯み、両手で顔を抑えている。
それと同時に、ルカの高くも凛々しい遠吠えが夜空に響き渡った。
「ジェパード、ルカと一緒に前を走りなさい!僕は後ろにいますから!」
「う、うん!」
サンポに言われるまま、ジェパードは足を動かしてルカの横につく。サンポの言葉が聞こえていたのだろう、彼は何も言わずにそのまま走り始めた。
熊の怒声と、サンポの威嚇声が森の中に響き渡る。
「ど、どこに逃げたら」
「いいから走るんだ!俺の遠吠えを聞いて、師匠たちが来てくれるまで!」
叱責するようなルカの声に、ジェパードはただ頷いて走るしか出来なかった。
サンポは大丈夫だろうか、不安が過ぎる。それをかき消すような彼の声は、ジェパードにとっての希望であった。サンポが来てくれたらもう大丈夫。あの時、雪に埋まっていた自分を助けてくれたように、今度も助けてくれるに違いない。
「ギャッ」
短い悲鳴と共に、ジェパードの横を何かが転げて行く。それは紺色であった。雪の上をゴロゴロと転がり、止まったかと思えば力無く横たわっている。薄く開いた口から溢れたのは、真っ赤な何かだった。
「サンポ」
「に、にげ……っ」
立ち止まったジェパードが名前を呼ぶ。彼が何か言おうとするも、溢れるそれが口を塞いだ。雪が瞬く間に赤くなっていく。
「こ、このやろ……っ」
襲い来る熊に、ルカが果敢にも立ち向かおうと試みる。しかしその小さな体躯で勝てるはずもない。呆然とするジェパードの耳に飛び込んできたのは、ルカの痛々しい絶叫であった。地面に叩きつけられた彼が、偶然にもジェパードの横に転がり伏せっている。左腕が、毛並みよりも真っ赤に染め上がっていた。
どうすればいい。
茫然自失に陥ったジェパードは、ゆっくりと迫る熊を振り返り見るしか出来なかった。もう抵抗はないと考えたのか、その下卑た目は爛々と。
このまま、殺されるのだろうか。希望が絶望に移り変わり、ジェパードはその場に座り込んだ。
「いたぞ、向こうだ!!」
「かかれ!かかれ!怯むな!」
四方からの声と共に、数匹の狼が茂みから熊へ飛びかかった。その牙や爪を肉に突き立て、致命打を与えんと力の限り攻撃を与え始める。
「ルカ!ジェパード!」
「お、おれぐさ……」
後から走ってきたオレグは、ジェパード、ルカと視線を移す。息絶え絶えに、痛いと泣く彼の姿に目を見開いていた。
「─────ッ!!」
熊の怒声が響く。飛びかかっていた狼が振り払われ、その凶爪に肉を引き裂かれていた。それでも彼らは、怯まず目の前の敵に飛びかかり続ける。
「ジェパード、ルカを連れてここから離れるんだ。引き摺ってもいい、とにかくここから逃げてくれ」
「で、でもサンポが」
少し後ろで倒れているサンポにようやく気がついたのか、オレグは苦々しい表情になる。だが、いいからとジェパードを無理やりに立たせた。彼の手が、ジェパードの背を強く押す。
「サンポは俺が何とかする。行け!早く!」
叩きつけるような言葉に、ジェパードは慌ててルカの元へと走り寄った。彼の左足からは、絶えず血が流れている。立てるなんて馬鹿なことを聞く前に、ジェパードはルカの首根っこに噛み付いた。
「いたい、いたいよぉ……いたいぃ……」
呻き泣く彼の声を聞きながら、ジェパードは懸命にその体を引き摺って逃げようと試みた。少しずつ、しかし怪我をした左足が雪に擦れるだけでも、ルカは悲鳴を上げて痛みにのたうち回る。
遠くで、狼と熊の怒声が響き渡った。
オレグには逃げろと言われた。サンポはそのままに、ジェパードが出来ることは大怪我をしたルカを引き摺る事だけだ。
(僕のせいだ)
ルカの誘いを断って、いや、危ないからと彼を洞窟に匿っていればよかった。
ちゃんとサンポの言いつけを守っていればよかった。
このまま、ルカは死んでしまうのだろうか。サンポも、みんな、あの熊に殺されてしまうのだろうか。
(嫌だ……)
1匹になるのは。雪の中で、置いていかれるのはもう嫌だ。
「じぇ、ぱーど」
痛みに呻くこともやめたルカが、か細く震える声で名前を呼んだ。虚ろな瞳が、しかしそこに強さを伴ってジェパードを見ている。
「も、おれ、こ、いい、から」
「良くないよ、嫌だ置いてかない」
「でも……」
遠ざかったはずなのに、熊の怒声は全く遠ざからない。驚いてジェパードは体を震わせ、その方向を見た。恐らくだが、狼と戦いながらもその巨躯は前進しているのだろう。もしくは、もう少し戦いやすい場所へ、狼が誘導しているのか。
どちらにしても、このままでは再び狼と鉢合わせるかもしれない。
どうしようと狼狽えるジェパードの視界に、黄色が写った。それは、サンポが目印にと木に縛り付けた布だ。
「……ここから、あの目印にそって進んだら、小高い丘に出る……」
「じぇぱー、ど?」
夜はまだ明けない。
あの熊は狼との戦闘に気を取られているはずだ。短気な性格か、ひとつの事に集中すると他の事象に気を割けない。ジェパードを襲おうとして、横割りしてきたサンポに気が付かない。遠吠えを聞きつけ、現れた狼たちの奇襲にも対応出来ていなかった。
ジェパードは、耳を澄ませる。怒声に混じり、木々を薙ぎ倒す音が聞こえてくる。それは、一体どっちに向いているのか。
「ルカ、もう少しだけ我慢して」
──失うことが嫌ならば、動くしかない。
ジェパードはルカの首根っこを噛んで、出来る限り全速力でその場を移動する。耳は常に音が鳴る方へ意識を向けたまま、行く先はジェパードとサンポが暮らす洞窟だ。
まずは、ルカをそこに隠す。雪の上に置くより、洞窟の地面の方が体温が奪われずに済むはずと考えた。
サンポが、冬に隠れる夜にそう教えてくれたのだ。
戦闘音は絶えず移動している。それは狼達の住処の方へ。
「ここに居て、ルカ。体を丸めて。少し土をかけてあげるから」
「でも、おま、えは」
「僕は、行かなきゃ」
洞窟にルカを寝かせ、後ろ足で土をかける。これで少しでも血の匂いを誤魔化せるはずだ。
「いくって」
「サンポを、守るんだ」
それは恐怖に満ちながらも見せた勇気の言葉であった。未だに震える四肢を奮い立たせ、ジェパードは洞窟から飛び出す。
雪の中を、茂みにぶつかっても構わずに走り続けた。段々と、怒声が近くなる。ジェパードの視線は常に、上にある木々の枝へと向いていた。
嫌だと泣いていても、どうにもならない。誰も助からない。
ならば、動くしかないんだ。ジェパードの胸の内で小さくはじけた気持ちは、次第に誇大化し、全身に力を漲らせた。
「あった!」
見えた黄色の布、そこを目印にジェパードは小道へ飛び込む。そのまま走り抜ければ、出た先は教えてもらった通りの小高い丘であった。
そこから、狼と熊が傷つけあっている場所が見える。予想通り、彼らは狼の住処へと向かっていた。
もう少し奥の丘に行かなくてはならない。場所をしっかりと記憶して、ジェパードは再び走り出した。
『いいですか、ジェパード』
サンポの声が蘇る。
『貴方の体は未だ小さい。それでも噛む力は大人に劣りません』
冬眠期間の夜。いつもの話を終えたサンポが、気まぐれに語ってくれたことだ。
『その小ささならば例えば、高いところに上って奇襲をかけることも出来るでしょう』
狼の住処に隣接した丘に登る。熊の怒声、狼達の威嚇。全て、はっきりと聞こえてきた。
『僕が教えた丘を使ってもいいですね。そこから飛び降りて、相手の顔にしがみついて攻撃することも……まぁ、貴方は自覚がないようですけど、動ける部類なので出来るはずです』
『落ちたら痛いよ……』
『そうですね。失敗したら痛いでしょう。でもね、ジェパード。いつか、この知識が役に立つはずです』
記憶の中のサンポの声は、続けて言う。それは、とても優しい声色で。
『貴方が勇気を出せば、貴方はもっと強くなる』
数匹の狼が投げ飛ばされる様を見ながら、ジェパードは姿勢を低くする。まだ、飛び込む時じゃない。
出来る限り近くまで来たら。あともう少し。
上手いこと熊の顔に落ちることが出来たら、全力で爪を立てて落ちないようにする。
それから。
(──今だ!!)
熊が木に手をかけて、それを押し倒そうとした瞬間に、ジェパードは強く地面を蹴った。1度崖際を蹴り、小さな体は落下していく。ものの1秒にも満たない時間の中でも、ジェパードの体感はゆっくりだった。
「ジェパード!?」
誰かが驚き叫んでいる。だが、そのような事は気にしている暇もない。伸ばした前足が、熊の瞼辺りを掴んだ。そこに爪を立てて、しがみつく。頭の辺りに着地出来たのか、腹を軽い衝撃が貫いた。
「────ッ!!」
熊が絶叫し、ジェパードを振り払おうと暴れ出した。腕をがむしゃらに振っているが、その凶爪は届かない。己の顔を傷つけることが嫌なのか、その攻撃は躊躇っているのだろう。それでも風を切る音は、ジェパードの身を竦ませた。
(止まっちゃダメだ止まっちゃダメだ止まっちゃダメだ……!!)
己に言い聞かせ、ジェパードは熊の鼻先を狙って這う。聞こえてくるのは、教えてくれたルカの声だ。
『動物にはな、きょーつーの弱点ってのがあるんだって』
そう、あの時は軽く噛まれても痛かった。それを、噛む力が強いと言われたジェパードの全力であれば──?
誰かを傷つけるのは、本当ならば嫌だ。怪我をするのもさせるのも、嫌だ。
だが、もうそうは言っていられない。手を出されたのはこちらで、向こうは平穏を脅かす敵になる。
少なくとも、サンポとルカを傷つけた。その報いは、受けてもらわなければならない。
ジェパードは大きく口を開ける。鋭く尖った牙を、熊の鼻先に突き立てた。
「──────ッ!!??」
身を震わすほどの絶叫と共に、熊がその巨躯を地面に倒す。そして、何とかしてジェパードを振り払おうと、手が付けられないほどに暴れ出した。
決して、離してはならない──ジェパードは爪を、牙を、力の限り突き立てる!
(絶対に離しちゃダメだずっと噛みつくんだ僕は強い勇気を出せ!)
意識の全てをそこへ、ジェパードは硬く目を瞑っている。熊の叫び声も、他の雑音も、背後へ遠のいていく。
口の中が気持ち悪い。何かが口内に流れ込んで来る。これが熊の血液なのか、体液なのかは分からない。味を感じる暇なんてない。
(サンポを、守るんだ……っ!!)
ただその決意だけを胸に──やがて、突き立てていた牙がずぶりと沈み込む。やがて、ガチリと牙と牙が擦れ合い、ジェパードの体は不意に軽くなった。
いや、反動で離れたのだ。爪が肉から抜けて、重力に沿って落ちていく。開いた視界はぼやけていたが、確かに見えた。熊の鼻先が、欠けている。
「ぎゃうっ」
どうすることも出来ず、小さな体は雪の上に落ちた。小さく跳ねて、コロコロと転がる。その拍子に、口の中から何かが飛び出した。
「逃げたぞ、追え!」
狼の一匹がそう叫び、地面を揺らすような足音が遠ざかっていく。残されたジェパードは、体の痛みに震えて縮こまっていた。
口の中も気持ち悪い、手が痛い、全部が痛い。
「ぅ、うぅう゛〜……っ」
目を背けていた感情が、怒涛のように押し寄せる。それらが全て涙となって、ジェパードの瞳から溢れ出した。
あの熊がどうなったのか分からない。でも、鼻の先は欠けていた。あれは自分がやってしまったことなのだろうか。
「サンポ……サンポ……」
立ち上がることも出来ずに、蹲ってジェパードは泣き続ける。もう、音は無い。まるであの雪に埋もれていた日のように、ただ一匹だけの世界のような。
悲しい想像に、気持ちが埋もれていく。子犬はただ、愛しい人の名前を呼び続ける。サンポは生きているのだろうか、分からない。彼は今どこにいるのかも、本当にオレグが助けてくれたのかさえ。
ただ、出来ることならば。勇気を出したことを褒めて欲しい。これがこれから生きる上で絶対に必要なことであっても、どうか、どうか。
あの優しい声で、褒めてほしい。
ただ、静寂だけがそこにあった。一体どれぐらい意識を飛ばしていたのだろう。オレグに担がれて、適当な場所に放り出されて──目覚めたサンポは、へし折れた木々と無惨な茂みの中を這うように歩いていた。
ジェパードは逃げたのだろうか。ちゃんとルカを連れて、無事に。
あの子を探さなくては。痛みを訴える腹を抱えて、サンポは無意識に歩く。鼻の中まで血で満たされているせいで、匂いなんて分かるはずもない。
(ちゃんと、逃げる先を言っておけばよかったな……)
そう後悔するも遅い。あの状況下で随分焦っていたのだと、サンポは己を自笑した。流石に熊の凶暴さに圧倒されたのか。全くもって情けない話だ。
それにしても、随分と森が静かになった。あの熊は、一体どうなったのだろう。無事に討伐されたのか、それとも逃げてしまったのか。動物の悲鳴が聞こえてこないことから、まさかオレグたちが敗れたわけがないとサンポは考える。
歩くたびに、鈍痛が体を駆け抜ける。爪で切り裂かれたわけではない。あの時、熊の腕に殴られて吹っ飛ばされただけだ。口の中が血の味で満たされているが、内臓が損傷したような感覚はない。いや、ある一定のところで痛覚が遮断されて分からないだけかもしれないが。
とにかく、歩けるのだ。今はそれでいい。
思えば、自分が誰かのために敵に立ち向かうなんて、今まであり得ないことであった。この森に身を寄せたすぐに、あの熊に襲われた時でさえ、偵察や物資調達と周りを言いくるめて後方に回っていたのだ。
誰とも身を寄せず、一定のラインを引いて、いつでも離れられるように。情はいらない、それは負担になってしまうから。思い出も、何もかも、生きる上で蛇足だと。
そんな自分が、子犬一匹のために命を張った。自分よりも子犬を優先した。その事実は、何よりも。
これが、愛でなくてなんだというのか。かつて暮らしていたアレからは貰えなかったものを、今、サンポは初めて自覚した。
自分は、ジェパードを愛している。
「ふ、はは、いった……っ」
思わず漏れた笑いは、鈍痛に変わって悲鳴となった。痛みに呻きながら、充足した心持ちで、小さく歩き続ける。
「…………」
微かに聞こえてきたか細い鳴き声に、サンポはその四足を止めた。辺りを見回しても、木々と雪の積もった地面ばかりが見える。何もいない。しかし、絶えずサンポの耳には鳴き声が届いていた。
その声がする方へ、自然と足が向く。小さかった一歩は徐々に間隔を開け始め──いつしか、駆け足になっていた。
茂みと木々の間を抜けて、たどり着いたのは狼達の住処だ。ただそこに彼らはいない。荒らされた場所と、泥と雪の混じった地面。そこには血液がべっとりと落ちている。
その中にポツリと、ブロンド色の何かが横たわっていた。
「ジェパード」
其れの名前を呼ぶ。ぴくりと動いて、ゆっくりとその頭らしきものがこちらを向いた。
口周りは真っ赤に染まっていて、体の至る所は茶色くなっている。きゅう、とか細く鳴いて、それはフラフラと立ち上がった。
「ジェパード……!」
全身ズタボロの彼は、泣きながら、それでも確かにサンポに向かって歩いてくる。サンポもまた、ジェパードへと歩み寄った。
「ほめてぇ……」
口を開いて泣く彼の口内は、真っ赤だ。だが、怪我をしているわけではない。
「何を、褒めれば?」
「ぼく、がんばったの。がんばって噛んで、ずっと噛んでて……」
──ああ、そうか。
「勇気を出して、戦ったんですね」
おいでと、ジェパードを腕の中に誘う。甘える子犬を抱きしめて、泥だらけの背中を優しく撫でた。
「よく頑張りました」
「うん……」
「ちゃんと、出来たじゃないですか」
「うん」
「偉いですよ、ジェパード」
涙で溢れたジェパードの瞳から、さらに涙が溢れる。わんわんと泣く子犬を抱きしめて、サンポは何度も、何度も、褒めの言葉を送り続けた。
◎
聞くに、あの熊の討伐は失敗したようだった。それを教えてくれたのは、寒い中、森を飛び回り傷ついた動物の治療に当たったナターシャだ。
しかし、ジェパードの決死の行動により、鼻の一部欠損。狼たちの猛攻もあり、大怪我をした状態で森から逃げていったと言う。
その報告を聞いていたサンポもまた、冬篭りの間は起き上がることもままならなかった。目覚めた当初は歩けていたものの、体が怪我の度合いを認識してしまったが最後。自身で食事を摂ることもままならず、ことある事にジェパードから口移しに食べさせてもらう日々が続く。
「ごめんなさい……僕、僕のせいで……ごめんなさい……」
そんな勇気ある行動で熊に致命打を与えた子犬は、何度も謝ってきた。サンポにとって、あの夜にルカとジェパードが勝手に出歩いていたことが果たして悪だったのか。それがきっかけで、多くの動物が傷つくこととなったのか。それを判断することは難しかった。
あの時点で、熊は森に侵入していたのだ。どこを通ってきたのかは分からないにせよ、ジェパード達が熊と出くわしてなければ、被害はもっと甚大だったのではないか。
言いつけを守らなかったのは、もちろん怒るべきことだ。しかし、それを頭ごなしに叱るのは違うだろう。
少なくとも、ルカもジェパードも勇気を出して熊に立ち向かった。
そして今、自分のしてしまったことに責任を感じて苦しんでいる。
(ああ……難しいな……)
なんとも、子育てとは難儀なものか。サンポは寄り添って眠るジェパードの頭を舐めて、ため息を吐いた。
やがて冬は終わり、暖かい風を伴って春が来る。太陽の優しい日差しに雪は溶け始め、新たな命が地面から芽を出す。
その頃には、サンポも1匹で歩けるまでに回復していた。
「ジェパード、もう少し早くても……」
「ダメ!サンポ怪我してるもん、ゆっくり歩く……」
ジェパードはそう、強く鳴いた。ちゃんとサンポを置いていっていないか、確認しながら歩いている。
これではまるで介護のようじゃないか。確かに傷は痛むが、冬篭りの間よりはマシになったのだ。ナターシャの尽力もあり、思っていたほど酷くならずに済んだ。
「狼の住処に、何をしに行くの?」
「今後のことについて……それから、森全体の被害を聞く。襲われたのが冬篭りの間で、情報伝達もままならなかったのでね」
2匹は雪が解け、ぬかるんだ地面を歩く。ジェパードはおぶって欲しいなんて弱音を吐くことなく、サンポの1歩前を堂々と進んでいた。
未だ、熊が襲った形跡は森に色濃く残っている。薙ぎ倒された木々も、踏み潰された茂みもそのままだ。
「……ルカ、大丈夫かな」
「大丈夫。一命は取り留めたと聞いています。貴方が寒さで衰弱しないよう、僕たちの住処まで連れてきたことが功を奏しました。それに、あの場所には治療に適した植物も多く保管してあったから……」
結論から言えば、ルカは左前足を失う事となった。失血もそうだが、傷が深すぎるあまり、治療が困難だと。残してもいいが、不自由な前足を1本抱えては自由に動き回れない。ナターシャはルカに酷な決断を迫ったと、今でも少し後悔しているようだ。
ルカを洞窟で治療しているその間、サンポたちは狼の住処で暫く体を休めていた。みんな傷だらけであったが、泣き虫のジェパードが勇気を出して戦ったことを口々に褒めたたえていたのは記憶に新しい。
死んだ動物はいなかった。不幸中の幸いと言えるだろう。
「おはようございます、オレグ」
狼の住処はあらかた片付いていた。戦闘の痕跡は少し残っているものの、それも少しすれば無くなるだろう。
「おお、おはよう。ジェパードも元気そうだなぁ」
「左目、良い傷跡じゃないですか。男前に更にハクがつきましたね?」
出迎えてくれたオレグは、左目に深い切り傷を負っていた。それを見たジェパードのしっぽが垂れる。自身のせいだと、内心で責めているのだろう。
サンポはそれを察して、彼の背中を優しく撫でた。
「ナターシャは?」
「もう来ているが……眠そうにしていたから、今は寝かせてある。起きるまで待てるか?」
「ええ、もちろん」
負傷者の治療に、その小さい羽根で飛び回った疲れが抜けていないのだろう。起こす気なんてさらさらない。
その間、どう待とうか──サンポが考えていると、ジェパードがルカは?とオレグに問いかけた。
「ルカは、元気……?」
「それはお前さんの目で見た方がいい。……大丈夫だ、あいつは変わらんよ。後ろ向きになんてな」
そう言って、オレグは歩き出す。ルカのいる場所へ案内してくれるのだろう。ジェパードは1度サンポに視線を向けた後、オレグの後を追いかけた。
どうせナターシャが起きるまではやることも無い。サンポもまた、2匹の後を静かについて行く。
少し歩いた先に、子狼が遊ぶための広場がある。この森に住まう狼はみな温厚な性格だが、生きるための戦闘訓練用の道具として、辺りには丸太などが散乱していた。
その遊び場の片隅に、赤毛の子狼と紫毛の動物が向かい合って座っている。ジェパードにとって、赤毛は分かるが紫毛の動物は初めて見るものだった。
「あら、ゼーレ?彼女も来てるんですね、オレグ」
「ああ、雪が溶け始めたぐらいか。いの一番に俺たちのところに来てな。熊との戦いについて根掘り葉掘り聞かれたよ」
オレグとサンポのやり取りを聞きながら、ジェパードはゼーレという名前に思考を流す。どこかで、そうだ。冬篭り前に、ルカが言っていた。
「おい、ルカ!ゼーレ!ジェパードが遊びに来たぞ」
オレグが二匹に呼びかける後ろで、サンポがこっそりとジェパードに耳打ちをする。
「すいませんジェパード。ゼーレ、僕と相性が悪くて……隠れますね」
「う、うん」
「大丈夫、あの子猫はとてもいい子ですよ。少し荒々しいところはありますが、根はとても優しい子です」
荒々しいのに、根が優しいとは一体どういうことなのか。ジェパードがそれを問う前に、サンポは静かにその場から去ってしまった。残されたジェパードは、こちらに歩み寄ってくる二匹を見る。
ルカの左前足は、木で組まれた足の模型が嵌められていた。不慣れな歩き方に、ジェパードの息が詰まる。サンポが倒れ、恐怖に震える自分の代わりに立ち向かった友達の姿は、とても痛々しい。だが、ルカは笑顔であった。
「ジェパード!元気そうだな!」
「こいつが熊を倒したって犬?」
同時に二匹から話しかけられ、ジェパードは困惑に見やるしか出来ない。返答できずにいると、紫毛の動物──ゼーレが、ジェパードの顔をじっと見つめてきた。綺麗だが、鋭い瞳に見つめられたジェパードは一歩後ずさる。
「ねぇボス!話してくれたこと、本当は嘘だったりしないでしょうね?」
「そんなわけないだろう、ゼーレ。俺たちゃ確かにこの目で見た。このジェパードが、小高い丘の上から飛び降りて熊に噛み付いたところをな」
ゼーレはオレグのことをボスと呼ぶようだ。にゃあにゃあと鳴く彼女を横目に、ルカが左足を上手いこと動かしてジェパードの隣に座る。
「あいつがゼーレ。ほら冬篭り前に話しただろ、子猫がいるって」
「う、うん……」
猫。耳はとがっていて、しっぽはしなやかだ。自分やルカとは違うと分かるが、似ている部分もあるとジェパードは思った。
「それより聞いたぜ、ジェパード!お前、熊をやっつけたんだってな?すごいじゃん!」
「あ……えっと……僕、は」
「俺、途中から意識あんまなくてさ。でも、お前が行かないとって走ってくとこは覚えてんだ。あの時のジェパード、めちゃくちゃかっこよかったぜ」
ルカの言葉は本心だろう。それは、ジェパードにも分かる事だ。しかし、賞賛を正面から受け止めるには心に残る罪悪感が足を引っ張った。
「ルカ、僕……」
「ジェパード!私と鬼ごっこしましょう!あんたが鬼!」
足のことについて聞こうとした矢先、それを遮ったのはゼーレであった。彼女は口早に捲し立てると、早くとジェパードを急かす。荒々しいと言うよりも、これじゃあせっかちではないか。
「そういうのはあとだ、ゼーレ。ジェパードにはまず、ルカに聞かなきゃいけんことがある」
「何よ、そうなら早く言ってちょうだい。悪かったわね」
──確かに、根は優しいのかもしれない。オレグの言葉を素直に聞いたゼーレは、ジェパードへの興味を無くしたのか明後日の方向を見ている。
「……ルカ」
改めて、ジェパードはルカに向き直った。
「その、左足は……」
「ああこれのことか?かっこいいだろ。ナタ姉が言うにはさ、ニンゲンが作るギソクってやつらしいんだ。設計はナタ姉とサンポがやって、ビーバーたちに木を削って作ってもらったんだぜ」
「……ごめんなさい。僕がもっと、ちゃんとしていれば」
自慢げに義足について語るルカだったが、ジェパードの謝罪に顔から笑みを消す。
「それは違うぜ、ジェパード」
そして、真っ直ぐにジェパードを見つめて、ルカは謝罪を否定した。許さないという意思は、そこからは感じられない。
「元々は俺がお前を誘ったんだ。だから、お前を巻き込んだ。……謝るの、俺の方なんだよ」
「で、でも!僕が臆病だったから、勇気を出せなかったからルカが代わりに……」
「俺、お前を守らなきゃって思ったら熊に立ち向かうの怖くなかったんだ。すごい痛かったし、死ぬんじゃないかって思ったけど……あそこで二匹殺されるぐらいならって。それは、すごく嫌だった」
そう言って、ルカは義足をジェパードへ向ける。木でできたそれは、もう泥で汚れていた。
「俺、もっと強くなる。こんな足がなんだってんだ、頑張りゃ俺はもっと強くなれる!」
「…………」
「だからさ、ジェパード。俺の足で後悔をしてるってんなら、それは今日までにしてくれ。俺もお前も頑張った。俺はお前を守って、お前は俺を守ってくれた。それでいいじゃんか」
ルカは、強くなると決意した。足を失っても、誰かを守るために強くなると夢を持った。
ならば、自分はどうするべきだろう。あの時、誰も失いたくないという気持ちは、サンポを守りたいと思った心は、今もあるだろうか。
そう考えたジェパードの足に、力が篭もる。それが、答えだった。
「……僕も、強くなりたい。もっと強くなって、いっぱい強くなって、みんなを守るんだ」
「そうか……なら、お前も師匠の弟子になるんだな!」
冬篭りの前、特訓を嫌がったジェパードはもういない。決意を新たに固めた子犬は、背筋を伸ばしてオレグへと向き直る。それはかつて、サンポが教えた礼儀であった。
「オレグさん」
「おう」
「僕を、弟子にしてください」
ジェパードはその言葉と共に、深く頭を下げた。暫くの沈黙の後、オレグは静かに息を吐く。
「俺はな、お前がそう言ってくれることをずっと待っていた。年月が過ぎれば、どんな若いやつも老いていく。子供だと思っていたやつは大人になる。それが、世代交代ってやつだ」
「はい」
「俺はいつか隠居する。老いて、お前たちには勝てんぐらい弱くなるだろう。だが、俺たちの後を継ぐのはお前たちだ。ジェパード、ルカ、ゼーレ」
呼びかけられた二匹もまた、座り背筋を正している。ジェパードは、ただ真っ直ぐにオレグを見ていた。
いつか、自分が大きくなったら。体も成長して、力も強くなって。誰にも負けないだけの、実力を得ることが出来たら──もう、誰も傷つけさせない。
「お前たちが、この森を守る未来となるんだ」
オレグの言葉に、三匹は深く頷く。
かつて、泣き虫で弱虫で臆病だった子犬は、もういない。
ここにいるのは、ひとつの決意を胸に秘めた誇り高き犬であった。
◎
季節は巡る。年月は、全てに等しく過ぎていく。
5度目の冬を終えた森は、再び新たな春を迎えようとしていた。
「サンポ、朝だ。起きてくれ」
「ん〜……」
「オレグさんが呼んでいる。今後のことについて、話し合いたいそうだ」
「貴方が行ってきてください……僕、昨日遅くまでフックお嬢さんを探してたんで寝不足なんですよぉ……」
洞窟内に響く会話が一瞬止まり──次に聞こえてきたのは、狐の小さい悲鳴であった。紺色の毛並みを逆立てて、彼は何をすると叫んでいる。
「僕の可愛い耳を噛みましたね!?」
「噛んでいない。舐めただけだ。ほら、ちゃんと起きられたじゃないか」
対して、ブロンドの毛並みの犬はフンと鼻を鳴らす。狐よりも一回り大きい体躯の犬は、外に出ろと狐に鼻で指し示した。
「まずは朝日を浴びよう、サンポ。それから朝食を摂って、オレグさんの所へ向かえば良い」
「も〜……はいはい、ジェパード様の仰せのままに」
くあ、と大きな欠伸をした狐──サンポは、仕方ないと立ち上がった。洞窟に差し込む日差しは美しく、外が暖かいと想起させる。
「いいじゃないですか、貴方だけでも……最近は見回りも貴方だけで行くことも多いし。僕は隠居ですよ、隠居」
「君、この前にニンゲンの住処で大騒動を起こした挙句に素早く逃げ帰ってきたじゃないか。その逃げ足で隠居だなんて、随分と贅沢なことだな」
軽口を叩き合いながら二匹は外に出る。降り注ぐ太陽の光、それを浴びて溶けた雪は水となり、地面を濡らしている。鳥達が春を告げるように囀っていた。
「はぁ〜……全く、昔はちっちゃくてコロコロしてて、何かあればすーぐにサンポ!サンポ!って甘えてきたのに……。今では随分と逞しくなって、可愛げも減ってしまいました」
ため息を吐くサンポの顔に、ジェパードは頬擦りする。その行動は、まるで甘えているようだった。先ほどの言葉への反抗だろうか。
「たまには毛繕いでもしてあげましょうか?」
「大丈夫だ、自分で出来る」
「あーあ、本当に可愛げが無くなっちゃって……」
ある程度日光浴を終えたところで、帰ろうとジェパードが踵を返す。サンポは小さく頷いて、彼の隣を寄り添うように追いかけた。
二匹分の足跡が、ぬかるんだ地面の上に残っている。それは、ジェパードの方が大きかった。