ナタンポ──地獄だ。そう、誰かが言った。
裂界と成ったリベットタウンから、裂界生物がボルダータウンに雪崩れ込んできた。上層は閉じられており、シルバーメインの救援は来ない。そもそも、上に住む民は下層部のことなど気にかけもしないだろう。こうして、血塗れの地獄なっていようとも。
「負傷者を下がらせて!」
ゼーレが得物を振るい上げ、敵を屠りながら叫ぶ。ボルダータウンとリベットタウンを繋ぐ場所、そこが今の最前線だった。それでも尚、他の箇所で悲鳴と戦火が上がっている。地炎が如何に武器を持ち、戦おうとも実力と数で負けていた。
「戦えるやつは前出て!やばいやつ来たら私が戦うから!」
傷だらけになりながらも叫ぶ少女に、男達は負けじと武器を持つ。それしか、生きる道がないことを知っているからだ。
その声を聞きながら、戦えない負傷者や子供達と共にナターシャは少しでも遠くの場所へ逃げる。診療所近くでは、既に多くの怪我人で溢れていた。
「重症者から先に私に回して。止血を優先して、包帯ではなくシーツを使って頂戴」
物資が圧倒的に足りない。誰に回すべきかを優先して考えなくては、すぐに底をつく。消毒液も、包帯も、本当はここにいる負傷者全員に使って然るべきなのに。
(弱音を吐いてはダメ。今は、出来ることを考えるの)
「ナ、ナターシャ……」
「無理をしないで。今すぐに手当てをするから」
「南東の奴……どうなった……」
その言葉に、ナターシャは返答に詰まる。息も絶え絶えの男がいうボルダータウン南東は、裂界生物の侵食が一番ひどい場所だ。地炎の介入があったかも分からない。
ゼーレは最前線にいる。もしかすれば、あそこは見捨てる判断をしたのかもしれない。オレグが、そんなことをするわけがないと思いながらも、それでも。
「つ、妻と息子が……まだ……」
「……大丈夫よ、今地炎が対処してるから……」
嘘を、つくしかなかった。それ以上の言葉をナターシャは紡げない。
「大丈夫だから……」
どうしてだろう、と思う。何故、自分達がこんな苦しい思いをしなくてはならないのか。同じ土地で、ただ地面の隔たりがあるだけで。
それでも武器を取って戦わなくてはならない。嘆いている暇はない。自分も前線に出て、彼らと共に──。
「……?」
辺りがざわついた。治療を施していたナターシャが顔を上げる。その先の光景に目を丸くして、悲鳴に近い声で名前を呼んでいた。
「サンポ!!」
脇に大人の男を2人を抱え、その両手に更に男女2人の服を掴む形で運んでいる。口に子供の服を咥えて、持ち上げていた。背中に、女性が2人乗っている。
ふらふらと歩く彼の足元に、ポタポタと血が滴り落ちていた。
「何見ているの!早く降ろしてあげて!」
あり得ない光景に誰もが動けなかった。ナターシャの叱責でようやく、サンポが助け出した人たちへ手が伸びる。
ナターシャが子供を抱いた時、ようやくサンポと目が合った。右頬から左眼の下まで、一直線に切り傷ができている。そこから滴る血が、今も顎を伝っては地面に落ちていた。それだけじゃない、そもそも全身至る所に怪我をしている。
「そんな怪我をして、なんて無茶をするの……!」
「すいま、げほっ。は……」
ふらりとしゃがみ込み、枯れ切った声の彼に、慌てて水を差し出すと一口だけ飲んでもういいとナターシャに返す。
「南東の、まだ生き残っていた人たちです。その場にいた裂界生物はあらかた処理はしましたが、他の生き残りは……」
「…………」
「リベットタウンとの道はゼーレさんがいるんですよね?なら、僕はオレグさん達のところに行ってきます」
「待って、その怪我では危ないわ」
「ははは。ナターシャ、覚えてます?僕、診療所の前で倒れた時貴女に言われたんですよ。生きてるのが不思議なぐらいの大怪我ねって」
言って、サンポは立ち上がる。血塗れの彼は、うっすらと笑った。
「これぐらいの怪我じゃ死にませんよ、僕は」
○
「別に、見直してくれなんて言いませんけどね、僕は」
「それでも、君の冤罪は晴らすべきだわ。今回の裂界生物の襲撃が、君の手引きだなんて誰が言い出したとしても許し難い」
「だから良いんですって。言わせておけばいい。だって少なくとも、地炎の皆さんは僕を疑ってないんでしょう?なら、せいぜい少しの間隠れ蓑にさせてください。時間が経てばそんな噂、すっかり消えて無くなりますよ」
ベッドの上で寝転がるサンポは全く動じていない様だった。その様子に、心配している自分がおかしいのかと思いさえする。
地獄の一夜は、夜明けと共に過ぎ去った。裂界生物達はリベットタウンに押し込み、彼らもこれ以上は何もないと思ったのか、出てくる気配もない。勝った、とは言い難い勝利だった。
これを機に、もう少し生活圏を狭めて裂界と距離を置くべきだと認識させられた。その為の準備を、動ける者達で行っている。その間、まことしやかに流れたのが、今回の襲撃はサンポが手引きしたいう噂だった。
商売と銘打っては詐欺紛いの行いを繰り返す彼を苦手とする人物は多いがしかし、あの時、診療所前にいた人物は、前線で戦っていた人物は知っている。彼が如何に、この戦火においてよく働いてくれたかを。
「……今は、みんなが手を合わせて生きる時よ。それを、何の理由で」
「そう言ったら僕はその輪から外れるのでは?」
「君は君の自業自得だからいいの。失敗しても、何をしても、苦しむのは君だけだし、何よりその反面で危険を冒して物資を取りに行ったり、子供達とよく遊んでくれているから」
「……なるほど」
何かを納得したようなサンポに、ナターシャは疑問を持つ。
「何かしら」
「いえ、こう、意外というか。聞かれると思ったんですよ。よく逃げなかったなって」
「それは、どうして?」
「さぁ。普段から痛いのは嫌だって言ってるので、僕」
その言葉に、ナターシャは確かにと思う。普段から痛いのは嫌だ、と言っている割には怪我をして帰ってくることも多いが。
「じゃあ聞いてあげるわ」
「いや……別にもう良いんですけど」
「どうして?」
「ナターシャ。……ああもう、分かりましたよ」
余計なこと言ったなぁ、とサンポはぼやく。んん、と咳払いを一つ。いつもの軽薄な笑みを浮かべた。
「このサンポ!下層部のみなさんは生涯の親友ですので、見捨てるなんてとてもとても!そんなことをすれば、良心が痛んで胸が裂けてしまいますので!」
「その心は?」
「大喜利じゃないんですけど。……別に、僕にも人の心ぐらいはあります。人が死ぬかもしれない場面で、見捨てるほど人間落ちぶれちゃいませんよ。それだけです」
そう言って、サンポは包帯まみれの手を見た。
「なまじ戦えると、尚更ね」
前線に立つ誰もが大怪我をしていた。足りない物資はナターシャ自らが掻き集めて、それでも足りない時、いつの間にか診療所を抜け出していたサンポがリベットタウンから回収してきたものを、診療所前に置いて倒れていた。
「自分が2回死に掛けてまで?それは君の計算的に、釣り合うのかしら」
「そこはほら、腕の良い医者がいるので心配は要らないかと思いまして。えへへ」
「……信じてもらえて嬉しいけど、私にも出来ない範疇は存在するの。覚えてもらえると嬉しいわね」
ふ、とナターシャが微笑む。ようやく笑ったと、サンポが呟いた。
「地獄は終わったんですから、あとは笑わないと。いつまでも仏頂面では、子供達が泣きますよ、ナタお姉ちゃん?」
「ふふ……それもそうね」
ナターシャはサンポの手に触れる。ざらついた、質の悪い包帯の感触を確かめながら、消え入りそうな声で言う。
「ちゃんと笑うから」
その言葉を聞いて、サンポは彼女から顔を背けた。ただ、彼女の体温だけが、何かがポタポタと落ちて沁みる感触だけが、ずっと、そこに残っている。