ナタンポ頭の中に、焼けた石を入れられたみたいだ。サンポはそのように感じ、炎みたいな息を吐く。重く、熱っぽい脳はまともに思考を回すことすらままならない。ただ、呆然と見つめる先が、どこかの天井なのだろうことは何となく理解した。
しかし、今自分がどこにいるのか分からない。ずっとピンとの合わない視界の中、見える世界は歪んでいた。
(僕は……今、何をしている?)
寝ているのか、起きているのか。生きているのか、死んでいるのか。いや、呼吸しているから生存はしているはずだ。
左手で、自身の左胸に触れた。ほら、心臓は動いている。
(生きて……ここは?僕は今どこにいて……)
これは夢か?それにしては、どこか重りがついているような──いや、泥の中に足が引き込まれるような、そんな生々しい苦しさがある。なら、ここは現実なのだろうか。
そう考えれば、今度は地に足付かぬ浮遊感がそこにあった。沈むのか、それとも浮くのか、ちぐはぐな感覚。その正体を掴む前に、思考が熱で蒸発していく。
だから、サンポは深く考えることを止めた。ぼうっと、ただの天井を見上げるだけの肉塊になる。
(天井を見上げている……。ということは、僕はよこたわっているのか)
ふと、その答えに辿り着く。熱に溶ける中、客観的に自身の状況を見た。
横たわっている。それはどこに?ベッドか、それとも床や地面か。ずっと、熱い感覚が身体全体を包んでいて、伝わってくる温度はよく分からない。
(天井があるなら屋内……)
だから、地面──つまり、外ではないのだろう。そこまで分かって、サンポの意識は明滅を始めた。ショート寸前の思考が、これ以上は考えるなと危険信号を送ってくる。腹の底が気持ち悪さに渦巻いて、サンポは左手で口元を押さえた。
やばい、吐く。途切れかけた思考でも、それが分かった。仰向けでは──今、ここで字部分が仰向けで横たわっていると理解した──まずいと、サンポは咄嗟に右側に傾ける。
「────ッ!!?」
脳の血管が、全て切れたのではないか。
そう錯覚するほどの衝撃に、サンポは目を見開く。吐き気など何処かへ消えていった。今の衝撃が、一体何なのかすら分からない。左半身が痙攣し、のたうち回る。張り詰めた肺が酸欠に喘いでも、呼吸すらままならない。自身に何が起きたのか、理解することさえ不可能だった。
ただ、見開いた目から涙を流して、混乱に満ちた思考が再び形を取り戻すまで──
サンポは、呼吸を繰り返しじっと天井を見つめていた。
(な、にが、起こって……)
理解不能の衝撃に対して、サンポの中に生まれた感情は恐怖だった。
いくら待っていても冷静にならない思考と、いつまでも早く動く心臓が更に恐怖を煽る。
ダメだ、逃げないと。
サンポはその結論に至り、もがくように左手を宙に伸ばす。不安定に揺れるその手を、白魚のような華奢な右手が掴んだ。
「サンポ、落ち着いて。大丈夫よ、ここは安全だから」
鈴の鳴るような声が、聞こえた。それは、荒れた水面を打つ様にサンポの思考に広がっていく。熱に浮かされ、混乱に満ちた脳内を静かに落ち着かせていった。後に残るのは、電子音のような耳鳴りだけだ。
「ごめんなさい、氷枕と氷嚢を取りに行っていたの。不安にさせたわね……」
その声の正体を、サンポは良く知っていた。涙で濡れた視界の中でも見える、深緑色の髪の毛は心中の恐怖を和らげていく。
“彼女”の手が、サンポの頬に触れた。
「な、た……」
ナターシャの名前を呼ぼうと、サンポは口を開くが声が突っ掛かる。おまけに掠れていて、あまりにも聞くに耐えない声だけが漏れた。
「無理に喋りろうとしないで、私はここにいるわ。サンポ」
左手を優しく握りしめたまま、彼女は大丈夫と言葉を繰り返す。
「だって、君は強いから」
その言葉が、何に対してのことかサンポには分からない。ただ、不思議とナターシャの言葉はすんなりと自分の中に入って来る。
「氷枕を取り替えるわ」
そう言って、ナターシャは握っていたサンポの左手を解放した。そのまま、後頭部を持ち上げる。ゴソゴソと音がして、降ろされた時には冷たい感触がじんわりと伝わってきた。
「さっきよりも、熱が上がっているわね」
熱がある──さっきとは、いつのことだろうか。記憶が曖昧で、見当たらない。ただ、彼女がいてそういうのならば、今の自分は病人か何かなのだろう。なら、ここはナターシャの診療所か。そして、今自分はベッドに寝かされているのだろう。
(知っている場所……)
ようやく、ここがどこか理解に至る。耳鳴りが静かに。その姿を消して、残ったのはサンポとナターシャの息遣いだけだった。
「ちゃんと、働いて、返すので……」
ナターシャの世話になっているのなら、ちゃんと返さなければ──自身の心情を思い出して、サンポはうわ言のように呟く、先ほどよりは声が出る様になっていた。視界も段々と輪郭を取り戻して、明瞭に見えるナターシャは困ったように笑っている。
「全く……。どんな時でも、君は君ね。サンポ」
人に借りは作らない。情というのは、時間が経つにつれて価値が不明瞭になっていく。そのうち、値段のつけようがなくなって、返す宛のない負債になるからだ。
どんなやり取りであっても、対かを据え置くのが散歩のやり方。それを、ナターシャも知っているはずなのに、どうして彼女は笑っているのだろう?
「大丈夫。ちゃんと今回も君の仕事を用意しているから」
「良かった」
「本当に、君って子は……」
ため息を吐き、ナターシャはサンポの頭を優しく撫でた。その手で、額に氷嚢を乗せて彼女は優しい微笑みを向ける。
「その話は、後にしましょう。仕事は逃げないから、今はゆっくり身体を休めて」
ナターシャの手が、額からサンポの両目を塞いだ。
「ね、サンポ。フックを泣かすような真似は、しないでね」
なんで、そこでフックの名前が出てくるのだろう?
◉
サンポの意識を叩き起こしたのは、右肩から背中にかけて走る激痛だった。溢れ出る冷や汗と共に、目を開いたサンポは痛みに喘ぎくぐもった悲鳴を漏らす。回る視界で辺りを見回した。太陽光ではなく、人工光が照らす室内は誰もいない。
「……」
未だに、痛みは治まらない。ピクピクと引き攣る左手で、恐る恐る右肩に触れてみた。そこにはざらりとした感触があり、視界の端には白いものが映る。包帯が巻かれているのだと気がついて、自分は大怪我をしているのだと理解した。
それと共に、昨夜の記憶が蘇る。あの時は、痛みと熱でまともな思考をしていなかった。ナターシャには、みっともない姿を見せてしまっている。それがちょっと恥ずかしくて、サンポは隠すようにため息を吐いた。
未だに頭は重く、熱っぽい。起き上がるには体力も気力もなく、サンポはため息を吐いて左手を投げ出した。
「……サンポおじちゃん、起きた?」
左側から、声が聞こえてきた。首だけを動かして、サンポはそちらに視線を向ける。そこには部屋の出入り口があり、そこから金髪のツインテールを下げた少女が部屋を覗いていた。
「フック、お嬢さん……?」
確かめるように、サンポがその名を口にする。すると、フックは元々大きな目を更に大きく見開いた。
「……!おじちゃん、今ナタ姉呼んでくるから!」
「あ、ちょっと待……」
サンポが呼び止める前に、フックはその場からいなくなってしまった。廊下を走り去る、小さな足音はどんどんと遠くなっていく。小さく開きっぱなしの扉を見つめながら、熱っぽい吐息を漏らした。
サンポ自身、なぜこのような大怪我をしているのか記憶にない。
それについてフックが何かを知っていそうだったから、いくつか質問に答えてもらおうとした。だがナターシャがここに来るのなら、彼女に聞けばいいだろう。
(にしても、右半身がほとんど動かせない程とは……)
一体、何をしていたのか。生身の人間相手ではこうはならない──そうなると、裂界に蔓延る怪物にやられたのだろう。しかし、このような失態を晒すとは。
「サンポ、気分はどう?」
やがて、フックに連れられる形でナターシャが病室に顔を出した。その腕には多くの道具を抱えている。
「昨日よりは、随分とマシになりましたよ」
「それは良かった。まだ動かないでね?右肩の怪我、凄い膿んでいるから」
「あっははぁ……」
大怪我だと分かっていたが、そこまでとは。
「ナタ姉、サンポおじちゃん……いつ治るんだ?」
「それはサンポ次第ね」
ナターシャはサンポが横たわるベッドの脇に座った。心配そうに視線を向けるフックに、サンポは微笑みを投げ返す。それから、ナターシャに視線を投げかけた。
「……そうね。フック、ごめんなさい。タオルを持ってくるのを忘れてしまったの。持ってきてもらってもいいかしら?」
「え、うん。分かった!」
いつもなら、文句の一つも漏らすはずのフックは素直にお願いを聞き入れる。小さな足を動かして、彼女は再び部屋を後にした。
「さて……聞きたいことが、山ほどあるって顔してる」
「ええ、聞きたいことが山ほどあります。まず、僕は何故ここにいるのか……大怪我をするに至った経緯をお聞きしたいのですが」
「経緯は私も良く知らないわ。何せ、君を見つけたのはフックよ。リベットタウンに近い出入り口の脇道に、君が倒れているのを見つけた」
それからナターシャを呼びに走り、行き倒れていたサンポは保護された。そこから1週間、意識を浮上させては気絶する。その繰り返しだったらしい。ようやく意識が安定したのが、昨日のことだ。
「裂傷は右肩だけ、でも化膿が酷い。動かすだけでも激痛でしょう」
「それはええ、昨日嫌というほど味わったので……」
今ですら、あの痛みは恐ろしい。流石に、この状態で診療所から抜け出そうなど考えるはずもない。それを知っているからか、ナターシャも「抜け出さないように」なんて釘を刺すことなく話を続けた。
「そこまで酷くなったのも、バイ菌が骨にまで達していたせいね。でも、峠は越えたから……よく頑張ったわ、サンポ」
「ありがとうございます。……とはいえ、頑張った記憶もないのですが」
賞賛にお礼を返しながら、サンポは考える。リベットタウン側の出入り口に倒れていたのなら、やはり裂界で傷を負ったのだろう。
(何をしにリベットタウンに……ナターシャの依頼ではないはず……そうなら覚えているはず。ともなれば、どうでもいい商談か何かか……)
どちらにしても、全く自身の利益の無い現状にサンポは辟易とする。立ち上がるどころか、身動き取れない状態から回復までどれほどかかるだろう。
それに、何よりも。
「一体、どれだけ働けば治療費に届きますかねぇ……」
独り言のようにぼやけば、ナターシャが笑い声を漏らす。
「そんなに、それが心配?」
「心配ですよぉ。今は仕事がないから後で〜……なぁんて、勘弁です。出来れば早めに精算したいんですよ。知ってるでしょ、僕の性分」
「ええ、とても良く知っているわ」
ナターシャの手が、サンポの首筋に触れる。その指先は、熱を測っている様だった。確かめて、頷いてから彼女の手はそのままサンポの瞼を押し開く。
「でも今は、回復に努めなさい。君のこともそうだし、フックが凄い心配しているから」
「……そうします」
「ずっと君の様子を見ては、いつ目が覚めるなんて聞いてくるの。本当に、怖かったんでしょうね」
ナターシャにそう言われて、サンポは僅かに息を吐くだけだ。
フックにとって、サンポの存在は遊んでくれる気のいい大人。いつも娯楽を提供する楽しいおじさん。その位置づけだろう。そんな相手が、ある日死にかけた状態で倒れているを見つけた時──彼女は、どれほど大きな不安に苛まれたのだろう。
そう考えると、サンポの胸中に申し訳なさが芽生える。
「僕にこんな気持ちを植え付けるなんて……流石、ドスフロのフック様ですね」
「なんのことか分からないけど。私ももちろん心配しているわ、サンポ。君がここまでの大怪我をするなんて、早々無いから」
付け足すような、付け加える様なナターシャの言い方にサンポは目を開く。
「え?嫉妬?」
「そんなわけないでしょう」
ピシャリと否定されて、サンポは乾いた笑いを漏らした。それに対し、ナターシャはため息を吐いている。
「……僕がちゃんと目覚めるまで、ずっと看病してくれていたんですか?」
ふと、サンポは疑問を口にした。1週間弱、意識もはっきりしない患者だったサンポをナターシャはどう診ていたのか気になったからだ。
「ええ。予断を許さない状態だったし、君のことだからいつ抜け出してもおかしくない。だから、つきっきりで君を見ていたわ」
「それはどうも」
そして、予想通りの答えが返ってきた。ナターシャも日々忙しいだろうことは、サンポも分かっている。それでも、有限たる時間をサンポの為に割いてくれた。それについては、治療費とは別に何かで返さなくてはなるまい。
「……ありがとう」
とりあえずは、言葉で。しかし、面とも向かって言うのは気恥ずかしい。結果、サンポはナターシャから視線を逸らし、小声で呟いた。
「ふふ」
それはちゃんと彼女に届いていたようで、ナターシャは笑い声を漏らす。それを聞いて、サンポの更に羞恥が膨らんだ。お礼を言うだけで、何故こんな思いをしているんだ。
「その言葉は、受け取っておく。でも、私は医者だから患者を診るのは当たり前。それは覚えておいて」
「分かってますよ」
サンポの為の、ナターシャの線引きの言葉に頷いた。
「それならいいわ」
遠くから、小さな足音が聞こえてくる。数秒後に病室に飛び込む小さな姿と大きな声を予想して、サンポは小さな笑みを溢した。