欲しいと私に言ってみせて 日はとうに落ちた。商店も全て閉まり、歩行者の安全のための街灯のみが最低限点いている帰路。ジェイドは硬い疲労を抱えて歩いていた。急ぎたいような、急ぎたくないような、もう急いでも仕方がないような。そんな煮え切らない足取りはグランコクマに降った雪に足跡を残していった。
「──起きていたのですか。」
帰宅後の第一声はそれだった。同居人であるサフィールは、居間のテーブルに小さな灯りを灯して、本を読んでいた。隣のカップには紅茶が注がれているが、もう湯気は立っていなかった。ティッシュボックスも寄せてあり、テーブル下の屑籠にはティッシュが溜まっていた。風邪でも、引いてしまったのだろうか。ならばなぜ、こんな遅くまで起きているのだろう。
まるで意外、といった様子のジェイドの発言に、サフィールは俯き、鼻声で「お帰りなさい」と呟いた。そのまま寝る支度に移るのかと思えば俯いたままソファから動かないので、ジェイドは返事を返せないまま傍らに腰掛けた。手を握ったり、背中をさすったりしたいような気がしたけれど、なぜだかそれができず、ただサフィールを見つめていた。
沈黙は長く続いた。サフィールは時折鼻を啜っていた。見つめている間にジェイドは、サフィールの鼻の頭が赤くなっていること、目も腫れてしまっていること、そして彼は寒さに震えてなどいないことに気づいていた。
「すみませんでした。本日は……いえ、本日も、ですね。」
耐えられなかったのはジェイドの方だった。ジェイドはここ数ヶ月かけて、何度も、サフィールとの約束を反故にしてしまっていた。軍人、しかも大佐というジェイドの立場は、恋人のサフィールとのプライベートな約束よりも仕事を優先させた。二人はいくつもの約束をしたが、達成できたのは数えられるほどだった。でもこれは、ジェイドとサフィールの立場と役割を考えれば織り込み済みのものといっていいことだった。実際サフィールは気にしている様子がなく、「ジェイドが仕事を投げ出すようなことがあったら、逆に心配ですよ」と笑っていた。最近までそうだった気がする。多分。一ヶ月前までは、確かに。
「でも、起きてくれていて、嬉しかった」
「いいんです」
言葉を続けて、体を寄せようとした。そこに壁を挿すように、サフィールが返事を返した。
「ジェイドに話したいことがあって、起きていたから」
「そう……ですか」
きっぱりとした物言いに、ジェイドは体を寄せるのを諦めた。もうすこし伝えたかったことや、温め直したい紅茶のことも、ひとつひとつ諦めて、サフィールに続きを促した。
「わたしたち、結局何も変わっていない気がするんです」
「変わっていない」
「はい。お互い仕事で忙しくて。想いを伝え合ったけれど、実際過ごせる時間は変わっていない。最近はまあ、むしろ減っていると言ってもいいでしょう。」
「それは──」
「謝って欲しいわけではないんです。むしろ、謝らなくて済むような提案をしようと思いまして」
サフィールはそこで息を詰め、こちらを見つめた。さりげなく鼻を啜りながら。
その姿がとても愛おしいのに、ずっと見つめていたいのに、ジェイドはなぜだか目を逸らしたくて仕方がなかった。
「別れましょう。ジェイド。私たち、ただの同居人に戻るのです。」
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カーテンの向こうからでも白い光は容赦なく降り注ぐ。
目を覚ましたジェイドは、一つ咳払いをして起き上がった。喉が乾燥している。昨夜、水を、飲み忘れたせいだ。
サフィールからの提案を、提案じみた宣告を、ジェイドは唯々諾々と受け入れた。交際関係というものは片方が拒否をしたら終了だ。交渉の余地を探るのはハラスメントのように思えたし、交渉からより深刻な揉め事に発展する例を組織内で見聞きしていたジェイドは身を引くより他に仕方がなかった。二人は合意を形成し、お互いの部屋へ戻った。元々別室で寝るのが基本だったけれど、これからはずっと一人で眠るのだと思えば少し冷えるような気がして、ジェイドは毛布を重ねて眠り込んだ。
それからは特に変わったことはない。もともと仕事で忙しい日々だ。食事も別々に摂ることが増え、結果帰り時間の連絡も不要になった。ジェイドの方が帰宅が遅いのが常であるから、連絡が省略されたのは正直、助かる部分すらあった。
問題なく日々は続いた。サフィールとは相変わらず冗談を交えて話し、時には研究や組織のプロジェクトのことで討論をする夜もあった。
「……サフィール、眠るなら、部屋で。」
「……んん。」
変わってしまった、と思うのは、例えばこんなときだ。サフィールはしばしば、居間のテーブルを使って考え事をして、そのままうたた寝を始めてしまうことがある。かつては──恋人同士だった頃は、そんな彼の肩を抱いて、ゆすって、起こしてやることができた。それよりさらに以前は、冗談まじりに背中を蹴り飛ばして叩き起こすことができた。
では今は?
「……サフィール。」
ソファの少し離れた位置から声をかける。いまの関係ではこれが限界だった。もう触れられないけれど、別に、蹴り飛ばしたくもない。そんな場所に来てしまった。時計の針を戻すことはできない。
何度か声をかけてみても、サフィールが部屋に行く様子はなかった。しかたがない、と自分の中で理由をつけて、ジェイドはサフィールの肩に手を伸ばした。
「起きてください。」
「んん……ああ、じぇいど」
あくまでも当たり前のように、自然に、サフィールの肩をゆすって起こしてやる。覚醒したのを確認したらそっと手を離した。たいせつなものから引き離されたように、手のひらが痺れるような感覚がした。
サフィールは半分寝ぼけたような様子で、おとなしく自室へと戻っていった。これが普通で、当たり前かのように。
自身の手のひらを見つめる。ジェイドは頭が重くなったような気がして、自分も眠ろうと居間の照明を落とした。
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「今日はどうして遅くなったのですか?」
「──はい?」
ジェイドに問いかけられたサフィールは、まるで心外だという表情をした。どうしてそんなことを聞くのか、と視線が語っていた。もう、恋人でもないのに。
「すみません、いつもあなたは私と同じか、もっと早く帰っているので。遅いのが、珍しくて。」
「ああ……まあ、たしかに。」
サフィールは一旦は事情を飲み込んだ、という顔をして、「仕事です」とだけ答えた。ジェイドは何のプロジェクトの、どの作業に時間がかかったのかと聞こうとして、自身の過干渉に気づいてやめた。サフィールの現在従事している作業はジェイドも把握しておくべきものだったから、理由づけはいくらでもできそうだったけれど。
最近、サフィールが一人で出かけることが増えた。というよりも、いつも二人で出掛けていたけれど、その時間を一人で使うことにした、というのが正しい理解なのだろう。何もおかしいことはない。それなのに、ジェイドはサフィールを見送る時、毎回、行き先を尋ねてしまうのを耐えられなかった。どこへ、何の用事で。まるで子供に言うように。まあ実際の幼年時代に、そんな声かけをされたことはないのだけれど。
そんな声かけをするのはそう、サフィールのほうだった。ジェイド、どこへ行くの、何しに行くの、僕もいっていい?そうやっていつも、自分の後をついてまわっていたサフィールに、今は自分が行き先を尋ねている。私も一緒に、なんて、とても言えないけれど。
「遅くなる時は連絡が必要ですか?」
サフィールが投げ出すように問いかけてきた。それは暗に、不要であることを確かめていた。ジェイドはそれに異議を唱えることもなく、「ただ話題として聞いてみたのです」と返した。
「話題……」
サフィールはそんなジェイドの返答を、口の中で転がすようにして飲み込んでいった。彼の目はもう腫れていないし、鼻の頭も赤くない。彼が何を思っているのかは、もうジェイドにはわからなかった。