ファンタジーパロペパー→魔族(人間換算19歳)
アオイ→魔法使いの少女(16歳)
魔族と人間が戦争をしている世界。
ペパーは、永年の敵である人間を研究する役目を与えられている一族の末裔である。
父親が多大なる功績を残し、その父亡き後のペパーが、父の研究とその研究施設を継いでいる。
アオイは何処にでもいるような少女だが、生まれつき強い魔力を持って生まれてきた。
この世界では、魔力を持っている人間は希少である。心優しいアオイは、この力でたくさんの人を救いたいと思っていた。
15歳の誕生日を迎えた日、母親と暮らしていた故郷の村を出て、旅の魔法使い(ヒーラー)となった。
今は怪我や病気の人を魔法で助けて生計を立てながら、各地を廻っている。
***
村を出て1年ほどが経った、そんなある日。
たまたまアオイが訪れた村が魔族の襲撃にあってしまう。アオイはその戦火に巻き込まれ、村人を庇った末に、魔族に捕まってしまった。
魔力をもつ人間は珍しく、魔族にとって格好の研究材料である。
アオイは捕虜として、ペパーが管理する研究施設に連れていかれ、そこにある地下牢へと入れられてしまう。
***
気絶させられていたアオイが目を覚ますと、そこはすでに地下牢の中だった。
シンプルな白壁。高いところにひとつだけある小さな丸窓からは青空が見える。部屋には簡素なベッドのみがあり、2つのドアと、外に繋がる鉄格子があった。
首にはチョーカーのような形の首輪が嵌められているが、手足は自由だ。とりあえずドアの先を調べてみると、一つはトイレ、一つはお風呂と洗面台に繋がっていた。
牢というにはかなり快適な部屋だが、これも魔族による人間研究の一環である。普段と近い暮らしをさせる事で、よりリアルな人間の行動・思考パターンを知る為のものであり、これもペパーの父が作ったものであった。
ただし、警備は勿論ぬかりない。
首のチョーカーには魔力を無効化する仕掛けが施されているので、アオイは一切の魔法を使うことが出来なかった。
どうやら部屋自体にも、多重結界が貼ってあるようだ。
魔族が人間の研究材料を捕まえているという噂を、アオイは何度か聞いたことがあった。一度捕虜として捕らえられてしまえば、二度と生きて出ることは敵わない、とも。
アオイは全てを察し、絶望した。
もう、生きてここからは出られないだろう。ここで魔族により研究材料にされた末、無惨な最後を迎えるのだろう。
死期を悟ったアオイの脳裏に浮かぶのは故郷の村。
ママは元気かな。……もう一度、会いたかったな。
アオイは目を閉じて母の面影をなぞる。
幼い頃に、母が歌ってくれた子守唄を口ずさんでいた。自然と涙が頬を伝うが、それを拭うこともしなかった。
地下牢に、アオイの切なげな歌声が響く。
すると、どこからともなく気配と足音がした。
……しまった、魔族だ。アオイはすぐに歌をやめ、びくびくと肩を震わせる。
「なんで、止めちまうんだよ」
見ると鉄格子の向こうに、青年の姿があった。
珍しいブロンドの長髪に碧色の瞳を持つ、美しい青年。
……いや、そんなことより。
アオイは自分の目を疑うかのように瞬きをして、呟いた。
「……人間……?」
***
ペパーはその日、聞いたことのない声を聴いた。
その声には不思議な抑揚がついていて、聞けば聞くほど引き込まれる奇妙な声だった。なんとも言い表し難い感情が沸き上がってくる。
ペパーは誘われるように、声が聞こえる方角を辿る。どうやら、地下牢の一室から聞こえているようだった。
気配を消して死角からこっそり中を覗くと、今日こちらへ送られてきたばかりの人間がその声を発していた。
ペパーは思わずその横顔を凝視してしまった。
魔族には珍しい暗い色の髪と瞳をした少女は、涙を流しながら、不思議な声を発している。
どくどくと心拍数が上がるのは、人間への興味のためであろうか。
ペパーは、この人間と話をしてみたい、と思った。
まずは警戒されないために、魔族のみが持つ高度な変身魔法を用いて、自らを人間の姿へと変えた。
角も牙も爪も翼もない自身の姿はまるで弱そうだが、魔族の姿ではまともに話も出来ないだろう。
***
「なんで人間がこんなところに?あなたは誰?」
目を見開いて驚くアオイ。ペパーは警戒を解こうと笑顔を作り、嘘の説明をした。
「オレは、ペパーって男だ。ここで捕虜として働かされてる」
「ペパー……えっと、私はアオイ」
戸惑いながらも自己紹介をするアオイに、ペパーは早速口を開いた。
「なあ、さっきの変な声、もっかい喋ってくれよ」
「声?……歌のこと?あなた、歌を知らないの?」
「あ、えっと……オレ、生まれた時からずっとここにいるんだ。だから……」
眉を下げてそう言ったペパーに、アオイの胸が締め付けられた。この青年はおそらく自分より数歳年上だが、物心ついた頃から今までずっと魔族にこき使われてきたのだろうか。
きっとここから出たこともなく、人間の文化というものを何も知らないんだ。重労働や力仕事もさんざんさせられているのだろうがっちりとした体格をしている。
けれど、そんな彼でもここからは決して出られないんだ、と改めて思うアオイ。
ペパーはおもむろに鍵のようなものを取り出し、鉄格子の鍵をカチャカチャと外して、部屋の中へ入ってきた。
ベッドに座っていたアオイのすぐ隣に座る。
「鍵、持ってるの?」
「ん。地下牢の掃除と見回りが仕事だからな」
管理者であるペパーが鍵を持っているのは当たり前なのだが、すらすらと嘘をでっちあげる。
「……言っとくけど、この部屋から出たとしても、この施設からは出られねえぞ」
「うん、……そうなんだろうね」
屋敷から出た瞬間、見張りに殺されてしまうのだろう。アオイは、脱出に関してはもはや半ば諦めていた。
しかし、死ぬ前に思わぬ形で同じ人間に出会えて、それが嬉しくもあった。
そんなアオイをペパーがまっすぐに見つめながら請う。
「なあ、さっきの“うた”?もう一回、聞かせてくれよ」
「う、うん、わかった。あまり上手じゃないけど……」
そう言って姿勢を正し、もう一度子守唄を歌うアオイ。ペパーは歌っているアオイの顔を、何も言わず真面目な顔でじっと見つめている。
見つめられながら歌うのは気恥ずかしいが、“歌”というものを初めて聞くという彼の期待に少しでも応えてあげたい、と思いながら、心を込めて歌いきった。
歌い終えると、翡翠色の瞳をきらきらと輝かせたペパーからすぐさま「もう一回!」とアンコールされてしまい、結局そのあと何度も同じ歌を歌うことになったアオイであった。
そのうち喉が痛くなってしまったアオイは、歌はまた今度ね、と困ったように笑いながら言う。
ペパーはもっと聞きたかったのだが、これ以上は声が出なくなってしまうから、と言われてしまえば折れるしかなかった。
その後ふたりは少しだけ、たわいもない話をする。
アオイは故郷の話や旅で廻った村々の話、ペパーは主にここでの生活や魔族の話をした。
アオイはペパーがここで生まれ育っていると思っているので特に違和感はなく、むしろ、ここしか知らないペパーにもっと人間の事を知って欲しいと思い、たくさんの話をした。
ペパーはどんなに小さな話でも、興味津々で頷きながら聴いてくれる。
「ママの焼いてくれたアップルパイが絶品なんだよ、また食べたいな」
「へえ~、アップルパイ……アオイは作んねえの?」
「わ、私は……その、笑わないでね?」
「うん?」
「料理が苦手で……作れないんだ」
「うん」
アオイの言う笑いどころがわからず、きょとんとしているペパー。
「……笑わないの?」
「うん。ていうか、笑わないでって言っただろオマエ」
「う、……いっそ、笑ってほしかった……かも」
なんだか恥ずかしくなって、両手で顔を覆うアオイ。
「ふはは、なんだよそれ。わかんねー」
アオイのその様子がおかしくて、ペパーは思わず笑ってしまった。
「うぅ……あのね、アップルパイの作り方はママにちゃんと教わったんだけど、私じゃ再現できなくて……」
「ふ~ん?……あのさ、オレにその作り方、教えてくんね?」
「えっ」
驚いたアオイに、ペパーが思案する様子で口を開く。
「調理場借りれたら作ってみてえなって。……まあ、材料があるかわかんねーけど」
「ほんと!?」
目を輝かせたアオイにペパーが笑う。
「出来るかはわかんねーよ?でも……出来たらこっそり、持ってくるな」
やった、楽しみ、と声を弾ませるアオイを、ペパーは内心、何とも言えない心境で見つめていた。
ペパーにとってはこれも全て研究の一環である。
しかし何故かそうする必要もないのに、完成したら必ずこの少女にも食べさせてやろうと思った。
……人間の心情を理解することも必要だからな、と言い聞かせるように自分に結論付ける。
***
「ペパー、結構時間が経っちゃったけど大丈夫?怒られたりしない?」
しばらく談笑した後、ふと心配になってしまったアオイ。ペパーはそれを聞いて考える。
……捕虜として働かされているという設定なのに、あんまりずっと居座っていれば流石に怪しまれるだろうか。
「そうだな。そろそろ帰らねえと」
そう言って帰ろうとするペパーに、アオイは「また、会える?」と、懇願するような眼差しを向ける。
……こんな場所で永遠にひとりなんて、気が狂ってしまいそうだったのだ。
「おう。また明日な」
そう言って、手をひらひらさせながら外に出るペパー。
それを聞いたアオイはほっとした様子で、ペパーに「ありがとう」と笑った。
***
ペパーは人間の言う「ありがとう」の意味を知っていた。人間が感謝を表す意、受けとる側は嬉しくなる言葉だ、と記憶している。
そのはずなのに、心臓が痛くなった。悲しいような、悔しいような変な気持ちになって、訳もわからず心臓を抑えた。
わからない。
……やっぱりあの人間は他と違う。興味深い、と思った。
永く人間の研究をしてきたが、なにもかも初めての感覚だった。心臓は未知の興奮からなのか高鳴っているが、不思議と穏やかな心持ちだ。
あの人間だけに表れる、この気持ちを研究しなければいけない。……明日からも。
***
「……ペパー、明日も来てくれるかな」
余韻に浸るように、ベッドから伸ばした足をぶらぶらと揺らす。牢の中で死期も近いはずなのに、とても満たされていた。
初対面の人にこれだけ喋ったのも初めてだったし、ペパーはどんな話も目を輝かせながら聞いてくれた。
きっと、人間の世界に興味があるのだろう。
……彼の綺麗な瞳にいつか、人間の世界が映る日がくればいいな。
そう思いながら、心臓の鼓動が早くなっているのに気が付いて、自分の頬に手を当てる。あつい。
内心少しだけ焦るけれど、……まあ、想うだけならいいかな。と開き直って、また明日な、と言ったペパーの顔を反芻してみるアオイなのであった。
***
目が覚めたアオイの視界に、白い天井が映る。
ここは……?徐々に意識がはっきりしてくる頭で思い返すも、魔族に捕らえられて、牢に入れられて……まるで現実味のない、ひどい記憶がつらつらと思い出される。
ぜんぶ夢だったら、どんなに良かっただろう。
アオイがのそのそとベッドから起き上がって部屋を見渡すと、鉄格子の前に小さなトレイが置かれているのを見つけた。上には小さなパンとスープが乗っている。
途端にお腹がぐるると音をたてた。
そう、アオイは昨日捕らえられてからずっと、何も食べていないのだ。
固いパンをスープに浸しながら噛みちぎって咀嚼し、野菜くずが入っているだけの、ほとんど味のしないスープを飲み下す。アオイは粗末な食事を無心で体の中へ取り込んだ。
……ふわふわのパンが恋しい。
アオイは固いパンを食べながら、最後に立ち寄った街を思い出していた。アオイが魔族に捕らえられた街だ。
とても居心地のよいところで、旅人のアオイに対してとても親切な人ばかりだった。なかでもパン屋のおかみさんには、特に良くしてもらっていた。
きっかけは、無償で手の甲の火傷を治してあげたからだったか。実にきっぷのいい女性で、アオイが買いに来る度にチョココロネやベーグルをサービスをしてくれたっけ。
──そう。だからアオイは、おかみさんが魔族に殺されそうになったところを目撃し、反射的に身を呈して庇ってしまったのだ。
後悔はしていない。……だけど、結局守れなかった。
アオイの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
ペパーも毎日、こんなひもじい食事をとっているのだろうか。
捕虜なんて囚人と扱いもそんなに変わらないのだろう。こんな食事では、とてもお腹いっぱいにはならない。
……いつか、ペパーも美味しいパンを食べられる日がくるといいな。
「アオイ?」
その声に反応して振り向くと、いつの間にかペパーが鉄格子の前に立っていた。
アオイは慌てて目元を擦り、精一杯微笑む。
「ペパー!約束通り、来てくれたんだ」
おう、と片手をあげたペパーは、アオイが持っているスープ皿を一瞥した。
「飯、食ってたのか」
「うん……ペパーも同じもの食べてるのかなって思ったら、悲しくなっちゃった」
「ふーん。……そんで、泣いてたの?」
ペパーは自然とアオイの横に座って、アオイの顔を覗きこむ。口元は微笑んでいるが、その瞳は相変わらず感情が読めない。
アオイはだんだん気恥ずかしくなってきて、思わず目を逸らした。
「……あのね、ペパーにもっとおいしいものを食べさせてあげたいなって、考えてたの」
アオイは考えていたことを素直に口にしたが、やっぱり気恥ずかしく、顔が真っ赤になる。
すると隣から突然、低くくぐもった笑い声がした。
「くく、そっか。……オレのために……」
「……?」
ペパーは左手で顔を隠していて、表情が伺えない。上を向いた三日月のような口角だけがちらと見えた。
何か気に障ることを言ってしまっただろうかと、アオイが戸惑っていると、ペパーはにかっと歯を見せて笑った。
「へへ。ありがとな」
まるで少年のような屈託のない笑顔に、アオイの心臓がぎゅっと締め付けられた。
ペパーはさらにアオイへ詰め寄る。
「なあアオイ。アレまたやってくれよ」
「え?」
「うたってくれよ。もう喉大丈夫か?」
そうキラキラ光る水面のような色の期待を浴びせられれば、アオイはとてもノーとは言えなかった。
人前でそこまで歌った事も無いアオイは、まだまだ恥ずかしさが拭えない。
だけど、ペパーにたくさんの歌を知って貰いたいという気持ちも確かにあった。
「じゃ、じゃあ……こういうのは、どうかな」
アオイは昨日の子守唄ではなく、村でよく歌われていた唱歌を選んで歌った。耳馴染みのよいメロディーと、歌詞がお気に入りの曲だ。
相変わらず、歌っている間もアオイをじっと見つめているペパーは、アオイが歌い終えるとたちまち笑顔になった。
「……いいなそれ。もっかい、うたってくれよ」
ペパーはどうやら、この曲も気に入ったようだ。その日も、次の日も、ペパーはアオイに同じ曲をリクエストした。
***
「今日も、同じ曲で良いの?」
「おう、頼む」
「私も好きな曲だから、気に入ってくれて嬉しいな。……じゃあ、歌うね」
アオイはその日も同じように、同じ曲を歌っていた。
冒頭は、ゆったりと。叙情的なメロディーはそのままに、少しずつ盛り上がっていく──
──ふいに、遠慮がちに低い声のハミングが重なる。
アオイは一瞬驚いて歌唱が止まりそうになった。……いや、止まってはいけない。咄嗟にそう思いなおして、そのまま歌い続ける。
少しだけ調子の外れたオクターブ低い声が、アオイの高い声と溶け合って混ざり、実に心地良く響く。
牢の中で紡がれる優しいメロディーは、確かにしっかりとふたつ重なっていて。
それがアオイには、なにより嬉しかった。
歌いながら自然と笑みがこぼれて、アオイはそっと目配せをする。ペパーは、アオイの目線に少し照れたように笑った。
歌い終わるとすぐ、アオイは拍手を贈る。
「ペパー、すごい!上手だね!」
「……すまん」
何故か謝りながら、目を伏せるペパー。
「えっ?なんで謝るの?」
「その……オマエがうたってるの見てたら、なんでか分かんねえけど、オレもうたいたくなっちまった」
わりい、もうしねえから。とバツが悪そうに顔をしかめるペパーの手を、アオイは思わず握りしめていた。
「ねえ、そんな事言わないで。もう一回歌おう」
「……は」
「私、すごく楽しかった。嬉しかったよ。……ペパーは?」
「う……オレ、なんかここがふわふわして、気分が軽くなった気がして、……なんだろうな、これ」
ゆっくりと噛みしめるように、苦しそうに胸をおさえるペパーに、アオイは優しく笑いかける。
「……ペパー。あのね、それはきっと──」
アオイの紡いだ言葉に、ペパーはやはりどこか苦しそうに笑うのだった。
***
「アオイ、今日は土産があるぞ」
いつものようにアオイの隣に座ったペパーは、何処からか白い包み紙を取り出した。
不思議そうな顔をしているアオイの目の前にそれを広げた途端に甘い香りが広がって、同時にブラウンの瞳がたちまち輝く。
「わああ……!これ、ペパーが作ったの!?」
「……おう。ちゃんと出来てっかはわかんねーけど」
アオイが以前ペパーに教えていた、ママのアップルパイのレシピ。ペパーはそれを再現して作ってきていたのだ。
「わ、私が食べてもいいの?」
「そのために持ってきたんだけど?」
「えへへ、ありがとう」
自分で用意しておいて、なんだか照れている様子のペパーに笑いかけて、早速ひとくち囓った。
すると、じゅわっと広がるりんごの甘みとシナモンの風味が口一杯に広ががった。
……ああ、なつかしくて、おいしい。
一口をゆっくり無言で噛みしめるアオイを、ペパーは不安そうな瞳で見つめる。
「……うん、うん。すごいね、ペパー。本当に美味しい。……おいしい、っ、」
そう呟きながら、アオイの大きな目から涙が溢れる。
「おい、な、なんで泣いてんだ?」
アオイの反応が予想外だったペパーはおろおろする。ペパーを不安にさせてはいけないと、アオイはすぐに笑顔を作った。
「ごめん、懐かしくて涙がでちゃった。……ペパーは、優しいね」
「あ?や……やさしい……??」
ペパーは目を見開いて、初めて聞いた言葉であるかのように、ぎこちなくオウム返しをする。
その様子がなんだかおかしくて、アオイは思わず吹き出した。
「あはは、何でそんなに驚くの?ペパーは誰よりも優しいよ」
「……は、……そんなんじゃ、ねーよ」
アオイの無垢な言葉を聞いて、ペパーは静かに目を伏せた。
***
──アップルパイを作ったのは、人間の食事についての研究、ただそれだけ。
そして、わざわざここまで持ってきたのは……アオイに食べさせるため、だ。
それが『優しい』のかどうか、ペパーには分からなかった。
──でも。
「ありがとう、ペパー」
アオイがペパーだけに見せてくれる笑顔を、その瞼に閉じ込める。沸き上がってくる感情は、やっぱり『優しい』のとは違う気がする。
……そんな綺麗なものじゃなくて、もっと、身勝手でどろどろとした、なにか。
それがなんなのか知りたくて、知りたくなくて、……もう、知ってしまっているような気もして。
ペパーはアオイに聞こえないくらい、小さくくぐもった声で、自嘲するように笑った。
***
──人間なんて、魔族に滅ぼされるのを待つだけの矮小な存在だと思っていた。
でも、その考えは間違っているのだろう。アオイと出会って、オレは少しずつそう思うようになっていた。
魔族は人間よりも身体能力も魔力も優れた、完璧な存在である。
しかし、魔族には人間に間違いなく劣っているものがある。
それは例えば、歌を歌って楽しむこと。例えば、美味しいものを食べて嬉しくなること。例えば、誰かの事を想って笑ったり、悲しんだりすること。
例えば……恋をすること。
それはきっと、この世で最も度しがたく、尊い、人間のみが享受できるものなんだろう。
『──それはきっと、“しあわせ”って言うんだよ』
いつか一緒に歌ったときに、アオイが教えてくれたことだ。
アオイの言う『しあわせ』を、オレがすべて理解することは出来ないだろう。
なぜなら、オレは人間のガワを被っただけの魔族で、アオイと同じではないから。
アオイのいる場所に、“本当の”オレは決して立つことが出来ないから。
……分かっている。だからもう、こんなことは終わりにしてやろう。
惜しむことなくたくさんの事を教えてくれたアオイを、……この、苦しくて、優しくなれる、唯一の感情を教えてくれたアオイを──
魔族の手から、解放してやろう。
***
「ペパーはさ、もしここから出られたら、どうしたい?」
そんなたわいもない、希望的観測であろう話題を、自分を捕らえている原因であるペパーの前で無邪気に笑いながら話すアオイのことが、たまらなく可哀想でいとおしい……そう思うのも、もう。
自らの罪に向き合うように、ペパーはその言葉を噛みしめて俯く。
「……」
「……ペパー?」
アオイが心配そうにペパーを覗きこむ。ペパーは目を伏せて、それから小さく息を吐き、再びアオイを真っ直ぐに見つめる。
「……アオイ」
「うん……?」
「あのな。……オマエを、」
──オマエを、ここから出してやれるかもしれない。
「……え」
固く強張った表情のペパーと目が合ったアオイは、思わず息を飲んだ。その瞳にいつもの輝きはなく、苦しそうに揺らいでいる。
アオイは混乱する頭で、それでもペパーの表情から何かを察した。……もしかしたら。
ペパーは自分を犠牲にして、アオイを脱出させる方法を知っているのではないだろうか、と。
「ねえ。……それは、ペパーも一緒に行ける?」
一緒に行けないのなら──
アオイが訴えるように見つめた先のエメラルドは、海の底に沈みそうなほどに暗く沈んでいて。
「オレは……一緒には行けねえ。けど、アオイは自由にしてやれる。なあ……」
──アオイ。オマエにここは、似合わねえよ。
アオイの肩にそっと手を置いたペパーは、今にも泣きそうに歪んだ顔で笑っていた。
***
『……ペパー、私だけ出られてもだめだよ、そんなの嬉しくない。もし出られる方法があるのなら、一緒に出られる可能性もあるかもしれないでしょ?ね、まずそれを考えようよ』
アオイはそう言って、ペパーの申し出を拒否した。
ペパーには、なんとなくアオイならそう言うかもしれないという予感があった。でも。
「……期待なんてしても、仕方ねえだろ」
愚かな思考に大きなため息が出る。魔族が感情に振り回されるなんて、きっとあってはいけないことなのだ。
やはりもうすべて終わりにしなくてはいけない。
──ぺパーは、魔法を唱えた。
***
「……んぅ……」
アオイの意識が浮上する。なんだか、体が浮いているような気がする。いい匂いがするし、なんだかあたたかくて気持ちいい。まだ夢うつつだろうか……
……いや、浮いている。
いつもの白い天井ではなく、どうやら外のようだ。
いつもより視界が高い。肩と膝に腕が回されていて、どうやら誰かに抱きかかえられているようだ。誰に……?
その顔を見上げて、アオイは咄嗟に小さな悲鳴をあげた。
仮面を被ってはいるが、尖った耳に立派な角、さらに漆黒の翼。
──魔族だ。今、魔族に抱きかかえられている。
悲鳴こそあげたものの、アオイは何故か不思議と恐怖を感じなかった。あたたかい体温と匂いに包まれて、安心すらしてしまった自分に内心で驚く。
それに、この面影を、どこかで……
仮面の魔族は、アオイの悲鳴に反応してこちらを見た。その奥に光る目は、仮面に阻まれてアオイからはよく見えない。
魔族はアオイをゆっくりと地面に降ろすと、マントを翻す。
そして、アオイをちらと見た後一言短く呟くと、振り返らずに飛び去ってしまった。
「……じゃあな。アオイ」
何度も聞いた、低く優しい声色。薄明の空へと飛び去る漆黒の姿を、アオイはただ呆然と目で追いかける。
「……ペ、パー……?」