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    DasonHen

    @DasonHen

    画像化すると長くなる文はここ
    あとたまにえっちな絵を描くとここ(報告はサークル内)

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    DasonHen

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    ・n日後に初夜に至るさめしし
    ・過去は捏造する
    ・これは3つめです

    二時限目 はい、みんな三人組つくってー。ちょうど十グループになりますよー。
     ……あ……獅子神くんか……。ちょっと待っててね……ううん、大丈夫だよ、どこも行かなくていいよ、一緒に授業しようね。ちょうどの人数だからね、えーっと……あ、鈴木さんのグループ、二人だから入れてもらおうか。ね、先生も一緒にお願いしに行ってあげる。入れてって言いに行こう。
     ねぇ、鈴木さん、桜井さん……あー、えっと、ごめんね、二人が仲良しなのは知ってるんだけど、三人組を作ってほしいんだ。ごめんね。獅子神くん余っちゃってるから、グループに入れてくれないかなぁ?ほら、獅子神くんも入れてほしいって、ね、お願いしてみようか。大丈夫だよ。ねぇ?大丈夫だよね鈴木さん……
     あ、あっ、あー、ごめん、ごめんね、嫌だったね、無理させようとしちゃったね、ごめんね、先生が悪かったね、大丈夫、大丈夫だから、鈴木さん、ごめんね泣かないで……うん、うん……そうだよね、嫌だったよね……
     ……そしたら特別に、ここは二人組にして、獅子神くんは先生とやろうか。ね、それならいいよね……
     
     
     最悪だが、静かな目覚めだった。
     頭を枕に付けたまま、ぐるりと部屋を見回す。いつも通りの寝室がある。いつも通りのシーツの感触がある。室温も丁度良く保たれている。大丈夫だ。寝汗はかいていないし、動悸もない。体は至って健康そのもの。大丈夫。
     ベッドサイドの時計を見ると、まだアラームをセットした時間より一時間ほど早い。
     外はきっと、明るくなって気温が上がってきたところだろう。
     
     息を、吸って、吐く。また、吸って、吐いて、もっと吐く。つい浅くなりがちな呼吸を、深く、深く、全身に酸素を行き渡らせるイメージで。
     幼い頃から繰り返して、行き場のない焦燥感を何度も落ち着かせてきたそれを繰り返す。
     それでも、体に何か重い液体が染み込んでいるような、ずしりと伸し掛かるだるさは抜けなかった。
     
     久しぶりに見た夢だ。寝る前に、少し昔のことを思い出してしまったからだろうか。明日は外出するからと、早めにベッドに入ったのが裏目に出て、寝付く前の頭で色々なことを考えてしまったからだろうか。
     途中から、何も考えないよう意識して眠りについたのに、あまり意味はなかったらしい。
     
     恥ずかしく、居た堪れなくて、みじめで、悲しい。積極的に死にたいと思ったことはないけれど、ああいう時だけは、この世から消えてしまいたいといつも思っていた。
     そういう過去が、オレの記憶には沢山こびりついている。学年が一つ上がるたび、担任の先生が変わるたび、細部は異なるものの毎年毎年、同じようなことを繰り返していた。繰り返して、繰り返して、それはもはやトラウマにすらなり得ない日常だった。
     どうせ、年度末には教師も周りも慣れて、一人でいても遠巻きにされるだけになる。それまで、とにかく無感情のふりをして、待つ。それがあの時のオレが思いつく対処法だった。保健室とか、どこかに逃げてしまえば、そして家に連絡でも入れられてしまえば、状況は遥かに悪化してしまうことなど目に見えていた。
     みじめで苦しくてたまらなくて、それでもあの時はその日一日をどうにか終えることに必死だった。
     
     だが、まぁ、言ってしまえばそれだけだ。
     嫌だったけれど、誰も悪くない。先生も、三十人クラスをまとめて、決まったカリキュラムをこなさなければならなかった。クラスのみんなは汚くて臭くて陰気なクラスメイトとなんて近づきたくない。親からオレと関わっちゃ駄目だって言われていた子もいた。ヤバそうな奴は避ける。当たり前だ。
     全部ぜんぶ、当たり前のことだ。
     
     とどのつまり、馬鹿げている。そうやって、いちいち、ちまちま、過去の記憶を無意味に反芻して傷口を掘り返して。
     オナニープレイかよって。
     
    「…………あー、」
     
     イライラする。ムカつく。駄目だ。こういう日は、負荷が大きめの筋トレをするか、難しそうな料理に挑戦するか、一人でドライブにでも行ってしまった方がいい。
     時計を見る。時刻は六時。なら、ジョギングの時間をとろう。それからストレッチも長くやって、シャワーをゆっくり浴びて、そして出かける準備をしよう。
     大丈夫。大丈夫。
     
     
     九時半になったら家を出て、村雨を車で迎えに行く。今日、彼を買い物に連れていく約束をしたから。
     数日前に予定を聞かれて、買い物に行くと答えたら「私も同行して良いか」と言われた。オレが見に行くのはトレーニングウェアと家財道具だ。とても村雨の興味を引くようなジャンルではない。何故?と聞く前に、先回りして「ついでにここに行きたいのだが」とレストランのホームページが提示された。少し郊外の、車で行った方がアクセスしやすそうなフレンチ。ランチ営業もしているのだと。
     全然ついでの距離ではないのだが、まぁ、そういうのを楽しみたいのだろう。友人のうち、他のメンツはどうもフレンチには誘いづらいところがある。
     ようは、お供。あと足だ。
     
     フレンチは脂質が気になるところだが、最近見るものが増えて消費カロリーが増えたのか、どちらかというと体重は落ちていた。一食くらい、ランチくらい、後で一週間しっかり制限すればきっと。そう結論づけて、村雨には了解の返事を送った。
     了承したのだ。それを自己都合で反故にするなんて、あり得ない。目敏い男だから、きっちりとしなければ見抜かれてしまう。嫌な気持ちなんて、自分でも忘れてしまうくらいでないと。
     季節は夏だ。日が昇ればもう暑い。屋外運動に向いている季節ではないだろう。知っている。でも、それくらいが良い。汗だくになって、それからシャワーを浴びて、スッキリすれば良い。
     
     
     シャワーを浴び終え、朝食代わりの青汁を飲む頃には、だいぶ気分は凪いでいた。心地よい疲労感が、絡まった頭の澱みを少しずつ解いてくれる。
     今日も天気が良い。真夏日と言って良い晴れの日。今日行く店のドレスコードがフォーマルでないことを再度確認して、半袖のカットソーに腕を通した。歯を磨いて髪を整え、シルエットを確認して、靴が磨かれているのもチェックする。
     いくらただの買い物だって、運転係だって、村雨が誘ってくれるのならそれは楽しい外出だ。オレが買い物している間は村雨が暇になってしまうから、待たせるためのカフェも見繕った。勿論、ついてくると言うなら従うが、あまりそうするメリットは見つからない。
     持ち物を確認して、車の鍵を手に持ち玄関に向かう。
     どうか、良い一日になるよう、祈るような気持ちで外に出た。
     
     
     村雨はシャツにジャケットを合わせたいつものスタイルだった。買い物半分、ドライブ半分で車を転がし、途中でカフェに寄ってお茶をする。目の前の村雨はなんと昼食前だというのにケーキまで食べていた。
    「なんでそれで太らねーんだか」
    「一口いるか?」
    「いや、いいよ」
     正直に言って、あまり腹が減っているという感覚はなかったので、オレが頼んだのはコーヒーではなく多少は胃に優しい紅茶だ。そこに、村雨の食べるクリームたっぷりの甘いケーキをいただく気にはならなかった。
     オレに断られた村雨はぱくぱくとケーキを平らげていて、それがとても小気味よくて笑ってしまう。
    「おかしいか?」
    「たくさん食べるやつって見てて気持ちいいんだよ」
     オレの返事に釈然としないという感想を隠しもせず、村雨は首を傾げる。それがまたなんとも子供みたいで、思わずさらに笑ってしまいながらまた紅茶を一口含み、飲み込んだ。
     
     トレーニングウェアを購入する時も、家具や調理器具を見ている時も、村雨は飽きずに隣に立っていた。たまにふらっといなくなったと思うと肉料理に使う器具ばかりを持ってくる。ランチはフルコースを食べるはずだというのに、だ。
    「わーったよ!晩飯にでも作ってやっから!」
    「別に今日である必要はない」
     渋々というていで出した提案に、返ってきたのはたいして楽しげでもない答え。それにおや?と、違和感を覚えた。村雨が、こちらが肉を調理すると言うのにそれを断ってくるのは珍しい。
     うちで夕食を摂る、がイコール肉を食わせろという意味になる村雨だ。それが必要ないということはおそらく、今日はランチが終わったら解散したいという意味なのだろう。
     本当はもっと早く帰りたいのかもしれない。少しだけどきりと鳴った心臓は無視して、了承を返した。
     
     
     買い物を終え、車に乗り込み目的の店までのナビを開始する。エンジンを切っていた車内はあまりに暑い。すでに、脱いだオレのジャケットは後部座席に置いてある。
    「出るぞ、大丈夫か?」
    「ああ」
     ちらりと村雨を見ると、涼しい顔をした彼とばっちり目が合って少し驚いた。なんでこちらを見ているんだ。反射的に視線を逸らして、前を見る。
     
     なるべく車を揺らさないよう気をつけながら立体駐車場をぐるぐると降りている最中に、村雨が声を上げた。
    「駐車場を出たら左へ曲がれ」
    「左?」
     ナビを確認すると、そちらは右に曲がるようにと道筋を示していた。目的地とは逆方向だ。
    「どっか寄りたいとこでもあんの?」
    「そんなところだ」
     バックミラー確認のついでに見た村雨と、今度は目が合うことはなかった。スマホをいじっている訳でもない。たいていの用事は先程までいた建物内で済んだはずだ。
     このあたりの地理に詳しい訳でもあるまいに、彼は一体どこへ向かおうとしているのだろうか。
    「……もしかして体調悪い?」
    「そう見えるか?」
    「いや、見えねーけど、隠してんのかなって」
    「私はそのようなことはしない」
     ぴしゃり。オレの浅い考えなどいつも通り一刀両断だ。
     基本的に、村雨は無意味な嘘をつくことはない。そこまで言うのなら本当に、体調不良ではないのだろう。これだけ暑くても村雨はジャケットを着たままだが、それはいつものことだ。
     それでは何故?
     
     駐車場を出て左に曲がる。ナビが大慌てでルートを変更し、元の道に戻れと指示してくる。
    「次の信号を左」
    「……おう」
     またしてもナビとは逆方向だ。このあたりはたくさんの店が立ち並んでいるが、どれも大きな専門店ばかりのため少し立ち寄れるような、例えばコンビニなどはあまりない。中継地になるような場所がないのだ。
     村雨が、買い物の最中にスマホをいじっていたのは見た。目を離した時もあったので、その時に何かがあってもオレには分からない。何があった?
    「私が合図するまで道なりに進め」
    「はぁ?このまま行ったらお前、」
    「いい。そのまま進め」
     村雨が示した道は広く、信号や脇道も少ない都道だ。一度入ってしまうとUターンも難しく、ここに入れば確実に、予約したランチに到着するのが遅れてしまう。
    「なぁ、時間……」
    「問題ない。予約は取り消した」
    「…………は、?はぁー!?」
     信じられない言葉に思わず横を見ると、村雨は動じた風もなく「前を向け」と静かに声を上げた。
     意味が分からない。分からないながら、言われた通りに都道へ入る。この道を真っ直ぐ進んだ先は、村雨やオレの自宅の方向だ。つまり。
    「…………帰れってか」
    「行きたいところはないと言っただろう」
     それって、お前なんかと行きたいところはないって意味か?
     そんなことを尋ねる勇気などある訳がないので口を噤む。怖いものを見ないで蓋をする、悪い癖。分かってはいるが、今は運転中だし、せめて村雨を家に送り届けるまでは、嫌な空気感を作りたくなかった。
     それからだったら、何を告げられたとしてもきちんと受け止めようと心の準備をする。文字通り、どんなに嫌なことだったとしても、何でもだ。
     
     正直、もしそんなことを思ってるんだったらちょくちょく手を繋いでくるのは何だったんだよとか、昨日もそっちから連絡してきたのはなんでなんだとか、思うところはある。
     ただ同時に、人の心なんてそんなもんだよな、とも思う。見えないものだから、知らぬうちに変質したって分かりやしない。
     
     もう駄目なのかな。駄目かも。あーあ。
     まぁ、そんなもんか。
     
     
     無言が落ちた車内で、先に声を上げたのは村雨だった。
    「……あなたは勘違いをしてるな」
    「何も言ってねーけど?」
    「その返答は『なにか思うところがあります』と言ってるようなものだ、マヌケ」
    「…………」
     御名答である。手厳しい意見だ。しかしこの意識というのが、こいつや他の強い奴らからしたらできて当たり前のことなのだと思う。それこそ息をするのと同じくらい自然に。
     
     オレは確かに、指摘される通り「人から見た自分」をコントロールすることが苦手だ。おそらく今後、銀行のゲームで、そこがネックになることもあるのだろう。未だ、そのコツは掴めないでいる。
    「……村雨礼二先生の診断と、その根拠を教えてもらうことは可能でしょうか?」
     口角を上げながら慇懃無礼に問いかけたが、オレのビビりきった心なんて村雨には丸分かりだったろう。ただ、どんなに無意味でもこの作り上げた矜持を捨ててしまったらもう、オレは二度と人の形をとることができなくなってしまうような気がした。
     
     何を間違えたのだろう。何が彼の気に障ったのだろう。それだって気になるがもちろん「村雨礼二がなにを見ているのか」を、ギャンブラーとして是非とも知りたいというのも本当だ。
     転んでもただでは起きたくない、臆病なくせに陰湿で狡猾な本性が顔を出している。たとえ傷ついても何かを得たいのか、それとも自分が傷つくだけに足る報酬が欲しいだけなのかは、自分でもよく分からない。
     
     村雨は呆れたように溜息を吐いてから、ゆっくりと口を開いた。
    「……最初に会った時からあなたの体は熱を持ち、筋肉が張っていた。私の家に来る前に、外で激しい運動をしていただろう。少なくとも数時間は継続したはずだ。」
    「今日の集合は早かった。わざわざその前に運動する理由は、早く起きてしまったか、そのままでは外出できない状況にあったからだ。あなたのする運動は室内トレーニングが主なのに、そちらではなかった。ついでに、あなたの顔から日焼け止めと化粧品の匂いがする。浮いた隈を隠しているな。では、理由はこの両方だ」
    「別に、あなたが多少夜眠れておらずとも、落ち込んでいようとも、それ自体は帰宅の理由にならない。ただ……極め付けは、紅茶だ」
    「このクソ暑い中、ジャケットを羽織ったままでホットティーを飲むなど、自分は心身共に不調ですと言っているようなものだ」
    「さらに、たまに聞こえるあなたの腹の音からするに、今は蠕動運動があまり活発ではない。フレンチなど食べたら下すぞ」
    「よって予約は取り消した。解説は終了だ。帰宅する」
    「私の家ではない、あなたの家にだ」
     
    「…………すっげーな」
     返事や相槌を挟む暇もなく、村雨の大サービス解説を聞いて出たのはあまりにも情けない、凡人の感想だった。事実、オレは凡人なのだからなんら間違いはないのだが。
     紅茶を頼む時は、自分でも少し引っかかっていた。ただ、村雨はそんなこと気にしていないだろうと楽観視してそのまま注文を終えたのだ。読みが甘かったと言うより他ない。村雨礼二は、どんな些細なヒントも見逃さない男であるのに。
     しかし、他はどうだ。匂いの全くない日焼け止めなんて存在しないし、腹の音や調子なんて、どうしたらコントロールできるというのだろう。
     対応策など、思いつきもしなかった。
     全部、真似なんてできないほどに遠くにいる男なのだと実感する。
    「納得したか?」
    「納得はした。今度リスケする。まずお前んちでいい?」
    「あなた、私の話を無視する練習でもしているのか?」
     気遣いのつもりでした声かけに、返ってきたのは苛立ちを含んだ声音だ。どこを間違えたのか、瞬時に自分の発言を振り返って——思い出した。村雨の発言。彼の家ではなく、オレの家だと。
    「あー……え、オレんちに来るってこと?」
    「来られてはまずいものでも?」
    「ねーよ、そしたらスーパー寄っていいか?オメーの分の昼、作んねーと」
    「いらん。宅配で良い」
    「え?食いたいもんねーの?フレンチは時間かかるから無理だけどよ、例えば……ハンバーグとか、あとパスタとかならすぐ、」
    「マヌケ」
     口が滑った。その自覚があったため大人しく閉口する。言わなくても良いことを言ってしまった。焦って行動して失敗するなど、二流どころか三流がやることだ。
     村雨はオレの言葉が続かないことを確認してか、呆れ返ったように嘆息した。
    「……必要なのは休息だ。医者の言うことはよく聞くように」
    「…………はいよ」
     
     
     ほんの数時間前に出てきた家に逆戻りして、何故か家主より先にずんずん歩く村雨に廊下を先導されながら考える。
     本当に、他人との時間というのは常に考えて、悩んで迷ってばかりだ。一人ならどんなに醜くても歯を食いしばって全てを耐えれば良いのに、目の前に誰かが居るだけでそうはいかなくなる。特に、恐ろしいほどに察しが良すぎる男が相手だというのも尚のこと悪かった。
     どれもこれも、平常心を保つ訓練だと思えば決して逃したくない機会ではある。しかし、それに他人を巻き込むというのはあまり気が進むものではない。
     
     腹のことも、もともと何も感じていなかった筈なのに指摘されるとどうにも調子が悪いように感じる。さらに自宅に帰ってきたという安堵感のせいか、今朝吹き飛ばしたはずのだるさが、再びずるりと後ろから纏わりついてきているような気すらした。
     病は気からというのは常日頃から意識していることではあるが、よもやここまでとは。
     
     二人一列になって洗面所まで来たところで、おもむろに村雨はこちらを振り返った。
    「あなたはシャワーを浴びて寝室で休んでいろ、私は少し出かけてくる」
    「はぁ?なんでさっき済ませなかったんだよ」
     流石に驚いて声を上げると、村雨は表情ひとつ変えずに「マヌケ」とだけ呟く。その後に嫌味が続かないことを鑑みるに、理由は教えないから自分で考えろ、ということだろう。彼の言葉をそう受け取り、口を閉じると村雨はすぐに踵を返す。
    「あなたの頭に詰まった湯豆腐には登録されていない語彙のようだが、休息とは何もしないということだ」
     それでは、と言い捨てる言葉と共に洗面室の扉は静かに閉まった。
     
     
     上手くやる、というのは本当に難しい。ギャンブルが弱いというのは前提として、それ以外のことも。後悔は後からするから後悔と呼ぶし、人間はそう簡単に変われない。未熟な自分にどれだけ臍を噛んでいても、間抜けな顔で同じ間違いを繰り返す。
     ままならない。
     頭から湯を浴びて、全身の汚れを洗い落とせば少しは気分も良くなるかと思ったが、そう上手くいく筈もなかった。シャワーコックをひねり、湯を止める。村雨はまだ帰らない。
     
     オレを先に家に帰したのは、村雨の気遣いだ。ダメ押しまでされてしまえば間違いようがない。出かけたのは気分転換か、買い物か。
     そこまでされるほどに未熟な自分がただ、悔しかった。
     
     オレがもっと強くて、もっと周囲を見ることができていれば、こんなことにはならなかった筈だ。過去を思い出しても、不調があっても、例えば村雨の実力であればなんら問題なくそれを隠し通せただろう。
     できなかったから、いまオレは恋人の時間を不当に奪っている。弱いというのは本当に罪深い事だ。生きるだけでも苦しくて、挙句他人に負担まで強いてしまう。
     昔から、いい子にしてたってダメダメだったくせに、それすら出来なくなったらもう。
     
     ガチャ、と遠くで微かに玄関のドアが開く音がする。村雨が戻ってきたのだろう。中身を握り潰されたように痛む胸を拳でドンドンと叩いて息を吐く。濡れた体を拭いていると、すりガラスの向こうに黒いシルエットが現れた。
    「ただいま」
    「……おか、えり」
     言った方が良いのか他を探した方が良いのか迷って、結局この場ではおそらく適切な、ひどく言い慣れない言葉を発してみるとまるで自分の不完全さが浮き彫りになったような気がした。村雨は何も言わないでただそこにじっと立っている。
     何を続ければ良いのか分からず、もう拭き終えてしまったくせに何度も髪の毛にタオルを滑らせる自分が滑稽だ。
     
     数十秒だろうか。少しの間を開けて、村雨の方から再び声がかかる。
    「シャワーを借りたい」
    「えっ、悪い!」
     オレじゃなくて、浴室が目的だったのか。
     恥ずかしい勘違いに悲鳴をあげたくなりながら勢いよく浴室のドアを開けると、そこには全身を真っ赤にして汗を浮かせた村雨がふらふらと立っていた。
     
     
     クーラーの設定温度を最低まで下げて、保冷剤をくるんだ濡れタオルをいくつも用意する。枕が濡れるからとドライヤーで髪を乾かそうとする村雨を、半ば無理やりそのままベッドに寝そべらせた。
    「……言ってくれりゃ別に車くらい貸したぜ?」
    「駐車場がない」
     その返答に、村雨が出かけたのが近所のコンビニであったことを知る。徒歩五分程度の距離だが、晴れた真夏日の真っ昼間に行くには少し辛い。村雨にもオレにも日傘を持ち歩く習慣はないから、家にはそういった物品もなく。
    「タクシーは?」
    「二十分待ちだった」
     確かにそれなら歩く方を選ぶだろうな。納得しながら、保冷剤を晒された額に乗せた。
     医者である本人が「熱中症ではない」と言っているためそれが真実だとは思うが、それでもぐったりとベッドに横たわる彼を見て何もしないでいられるほど薄情者にはなれない。
     特に、いつもは心配になるほど青白い頬があそこまで真っ赤に染まっているのを見てしまって、平気でなどいられる訳がなかった。
    「……正気じゃないな」
    「あ?何がだよ?」
     ストローを差した経口補水液を数口飲み込み、村雨はまるで嘲るような口調で呟く。
    「私のことだ」
    「…………」
     基本的に、村雨は自分に自信を持っている男であるし、負けず嫌いの面もあるので彼が自嘲しているところを見たことはあまりない。ただ、それは自信が事実に基づくものであるからだ。事実を事実として俯瞰し診断する。彼は医者という立場の人だから。
    「……なんで?」
     聞いていいのだろうか。少し迷いはした。しかし、聞かずに想像を巡らせてオレが分かってやれることなどおそらくないので、素直に問いかけるのがおそらく一番良い。言いたくないのなら、言わなければ良い。
     
     村雨は閉じていた目をゆっくりと開いてこちらに視線を寄越した。暗い寝室で、いつもの暗赤色は漆黒にしか見えない。
    「あなた、リビングの袋の中身は見たか?」
    「え、いや、見てねーけど」
     もしかして冷蔵品が入っていただろうか。袋が結露していないので、常温品だと思い放置していたのだが。それとも何か見なければならないものが入っていたのか。
     椅子から腰を浮かせる。しかし、手首が熱いものに掴まれて立ち上がりきることはできなかった。村雨の手だ。
    「いい、見に行く必要などない」
    「…………何買ったんだ?」
     座り直して、寝そべる彼に向き直る。わざわざ言及したということは、中身に関してはオレに知られても構わないということだ。
     目を合わせて数秒。それを逸らしたのは村雨の方からだった。
     
    「…………」
     薄い唇が何度かもごつき、弾き結ばれる。
     言い淀んでいる。あの村雨礼二が。
    「……あの、聞いちまったけど、別に言いたくねーなら……」
     コンビニで何を購入したらそんなに言いづらいのだろう。先ほどまでさほど気にしていなかったあの袋の中身が逆に気になる。気にはなるが、嫌がる村雨を無理やり問い詰めるほどのものではない。
     手首に回る村雨の手が何度もオレの手の甲をなぞって擽ってくるから、なんだか甘やかされているみたいで落ち着かなかった。すりすりと皮膚をなぞる指が、手慰みにそうしているのは分かる。
     何かを言うべきかどうか、迷っているのだろう。
     
    「…………お粥だ」
    「え?」
     なんの前触れもなく突然発せられたそれは本当に本当に、蚊の鳴くようなとはまさにこの事というくらいの小さな声だった。それこそ聞き間違いかと思ってしまうくらいの。
    「なに?お粥っつった?」
    「……笑いたければ笑え」
     オレが揶揄してそう言った訳ではないことくらい分かるだろうに、村雨はオレの手首から手を離し、寝返りをうって拗ねたように向こうを向いてしまう。
     どうやら聞き間違いなどではなかったらしい。
    「粥?お粥?なんで?」
     なぜわざわざこの暑い中でお粥なんて買いに行ったのだろう。頼んでくれればうちにある材料ですぐに作ったのに。
     そもそもなぜお粥を。
    「……宅配できる食事は消化に悪いものが多い。私は料理などできない。あなたを休ませると言っておいて本人に作らせるなど本末転倒だ」
     ぼそぼそ、もごもご、普段のナイフの如き鋭い物言いはなりを潜めている。ひどく苦い薬を飲んでいるかのようにもたついた舌で、背中を丸めて村雨はなんだかとても信じられないことを言っている。
    「このクソ暑い中に徒歩で出かけるくらいなら、帰宅途中にスーパーに寄った方が良かった。結局あなたにこうして介抱させてしまうことくらい予測できた。短絡的すぎた。私の判断は正気ではない」
     聞けば、確かにそれは正気とは思えない判断だった。優先順位を間違っていると言う他ない。
    「…………え……もしかして、オレ、の……?」
    「それ以外に何がある」
     もしかしたら村雨がすごくお粥を食べたかったのかも知れないという可能性は即座に否定された。
     そうすると何か。この男は、わざわざ自分が面倒な目に遭ってまで、オレに食べさせる物なんか用意しようとしたのか。
     
    「…………ごめん」
    「……何故あなたが謝るのだ」
     口をついて出たのは、おそらく村雨が望む言葉ではなかった。拗ねて小さくなっていた背中が伸び、ごろりとこちらに向き直る。まるで逃げたがっているオレの気持ちを察しているかのように、再び手が掴まれた。
     ああ、嫌だ。逃げたい。逃げ出してしまいたい。
     
    「……そんなことさせて、ごめん」
    「あなたに何かを強要された記憶はないが」
     だろうな。自意識過剰だ。村雨は村雨の意思で行動していて、そこにはオレの意思など介在していない。
     だが村雨礼二という男が、恋人というものを前にするとこんなにも甘い人間であることなんて知らなかった。人のために、自分がやりたいと思って何か行動ができる優しい人だということを知らなかった。
     否、こいつが自分を優しくないと言いながらその実、めちゃくちゃに身内贔屓で甘い人間であると、オレは知っていたはずだ。ただ、その相手が他でもない自分に向いてしまう可能性を考えていなかっただけ。
     オレの、想像力の欠如が悪い。
     
     村雨礼二は、特別をたくさん作ることができる。その相手に獅子神敬一すら含めてしまえる。
     その事実は、光栄というよりむしろ怖かった。
     
     そう、怖いのだ。
     受け取る資格なんて、ない。
     
    「そういうの、やんなくていいから」
    「それは私が決めることだな」
     あやすように手を撫でられる。もう、この白くてなめらかな細い手と自分の無骨な手を繋ぐことには慣れてきてしまった。そうやって、この人から甘い汁を吸い上げることに、オレは少しずつ慣れてきてしまった。グロテスクな寄生虫が宿主に取り付き、その命が枯れるまで栄養を吸い尽くす。そんな絵が頭に浮かぶ。
     吸い上げた後に、何かに成れる訳でもあるまいに。
     
     
    「…………オレ、お前のことそんなに好きじゃないと思う」
     
     結局、こぼれたのはあまりにも非道い台詞だった。
     言い方が悪い。それは分かっている。
     しかしその半分はわざとで、もう半分は本気だ。ずっと胸に蟠っていた違和感を、言葉にしたらそうなった。
     曲がりなりにも恋人という関係を結んでおいて何を言っているんだろう。自分でもそう思う。
     最低な男って、こういう奴のことを言うんだろうな。
     
     オレは、お前が何か、オレのために捧げてくれるものに釣り合うようなものを差し出すことはできない。いつも自分中心に生きていて、自分のためにしか動けないオレはお前のために生きて、お前に殉ずることすらできない。
     差し出された甘い汁はたっぷりと吸い上げておきながら、だ。
     
    「……オレ、お前よりオレのことを優先させるよ」
     言葉にすると、オレの本質はほとほと最低男のそれでしかなくて自分で自分に呆れた。
     でも、どんなに最低だと自分を唾棄しても、オレは怖かったら立ち止まるし、お前の手だって拒否するだろう。
     自分が傷付かない範囲までしか、オレは誰かに何かを差し出すことができない臆病者だ。今までもそうだったし、これからもそうであることくらい容易に想像がついた。あまりに、割りに合わない。投資なら真っ先に切り捨てる不良債権。
     捨てない理由が見つからない。
    「……ごめん」

     沙汰を待つ罪人のような気持ちで、しかし心は意外にも凪いでいた。罪悪感ばかりが胸を占めている。これが犯した罪を認めるということだろうか。
     数秒の無言。
     その後、微かに息を吸う音が聞こえて目を瞑る。
     これで、本当の終わりだ。
     
    「知ってる」
     
     そして、あまりにも、あまりにもやわい、笑みすら含んだ穏やかな声が、オレの伏せた目を引き上げた。
     顔を上げた先、眼鏡を外した裸眼がゆるやかに弧を描いている。
    「…………」
    「知ってる。その上でこうした」
     握られていた手に力が込められる。まだ熱いそれが、離す気などないとでも言うように絡められる。
     正気か?いつか目の前のこの人に言われた言葉が頭を過ぎった。
    「…………な、んで……」
     喉も、唇もカラカラに乾いていて、寒いくらいに冷房が効いているはずの部屋が暑い。絞り出した声はカサカサに掠れて、震えてすらいる。
    「正気ではないのだろう、私は」
     フフ、という笑い声が続き、しかしそれに先ほど同じ言葉を吐き出した時の自嘲めいた色は乗せられていなかった。
     どうやら本人は何かを想起して、納得しているらしい。信じられないことに。
     
     二の句を継げないでいるオレを、ひどくやわらかな表情を浮かべた村雨が見ている。
     何を言ってもおそらく、無駄なのだろうと。それだけは分かる仄かな笑顔だった。
     それでもまるで苦し紛れのように、臆病者の口は汚濁を吐き出す。
    「オメー……バカだろ」
    「失敬な」
    「やめといた方がいいぜ、こんな不良物件」
    「事故物件もオカルトマニアから見れば城くらいの価値がある」
     蓼食う虫も、というやつか?
     村雨があまりにも自信満々にそう言うのが面白くて思わず吹き出してしまうと、村雨の方もにやりと口角を上げる。
     
     村雨はギャンブラーではなく医者だ。しかし、自分に利があるから、という理由以外で行動する狂人ではある。
     そうでなければ、命を賭ける賭場になど出入りする筈がないのだ。だから。
    「……でも、お前が報われないかも」
     往生際悪く、石橋を叩いて叩いて、それでも一歩を踏み出せないオレを見て村雨が笑う。
    「『報われる』の定義が分からんな。あなたが私との交際に了承した時点で、私の目的はおおむね達成している」
    「……うえっ」
    「なんだその声は」
     思わず飛び出したオレのえずきに、不服そうな顔をした村雨が眦を少し吊り上げた。しかしオレが見ることができたのはそこまでで、あとは逸らした視線の先にあるエアコンのリモコンしか見えない。
     とんでもないことを言われた。頭がその内容を処理して、意訳して、噛み砕くほどその実感は高まっていく。
     交際した時点って。
     なにそれ、お前、だって、そんなの。
    「何故顔を逸らす?」
    「な、なぜって、そりゃ、その、」
     顔が熱い。口角が勝手に上がっていくのが止められない。さっきまで絶望してたくせに、なんて現金な奴。浅ましい自分が恥ずかしくてたまらなくて、どうにか隠したくて掴まれていない方の腕で顔を覆う。
     
     だって、そんなの、オレのことが、好き、みたいな。
     
     そこまで言葉にして心に浮かべたら、今度こそ本当に全く制御できないほどの熱が全身を襲った。血行が良くなりすぎて頭がガンガンするし指先が痛い。手に汗が滲んでいるのが分かるが、村雨は何も言わない。
     言われないのをいい事にできる限り彼から背を向けた。こんな卑しく浅ましい期待、外れていたら恥ずかしすぎて向こう十年くらいは蒸発すると思う。ギャンブルもやめる。
     いや、ちょっとしたやつはやるかも知れないけど。
     
    「……こちらを向け、獅子神」
     握られている方の手が引かれる。力は込められているが、オレの方が強いからまだそちらを向かずに済んでいる。ただ、それもいつまで保つか。
     心理戦で、オレが村雨に勝てたことなど一度もない。
     しゃらりと音がして、村雨が枕元に置かれていた眼鏡をかけ直したのが分かる。ますます、そちらの方など向ける筈がなかった。
    「こちらを向けと言っている」
    「…………むり……」
    「無理ではない。首を少々右に回すだけで良い」
     それが出来たらこんなことにはなっていない。
     どうやったら動けるのかを忘れてしまったみたいに、壊れてしまったからくり人形のように、オレの体は指先ひとつすら動かない。
     
     痺れを切らしたのは勿論、村雨の方だった。
     ごそ、と衣擦れの音がして、村雨が体を起こそうとしているのが分かる。ぐらぐらと揺れる手。熱中症寸前だった体で、無理やり起きあがろうとしているのだ。
    「……っ、ぅ」
    「あ、おい……!」
     当たり前だが、村雨に無理をさせたい訳ではない。むしろその逆で、村雨はオレのことなんて利用するくらいで構わない。そう思っているのは本当だから、体は自然にふらつく彼の体を支えるように動いた。
     そうして気付く。自分が謀られたことを。
     
    「……捕まえた」
     ピントがずれそうなほど近くで満足げに、白い歯が揃って晒されている。首の後ろに村雨の両手が回っていて、顔はもう反らせなかった。彼の背に回した腕にはしっかりと体重がかけられている。動けない。
    「……う、嘘吐き野郎」
    「嘘など吐いていない。そう見えるよう動いただけだ」
     悠々と詭弁を口にして、村雨はただ笑った。熱い手に後頭部を何度も撫でられている。
     何をされるのか怖くてたまらないはずのそれがしかし、うるさすぎる心臓の鼓動に紛れて遠い。
     
    「……獅子神」
     決して大きくはない、むしろ小さく、低くて深い声でオレの名をなぞり村雨が笑う。自分の震える片手が、彼の肩口の服を握り締めているのがまるで映画か何かを見ているようで。
    「好きだ。あなたの声すら知らなかった時から」
    「…………」
     返事はできなかった。今、目の前で、腕の中で起こっている出来事を処理することに手一杯で、それ以上のことにリソースを割くことができない。
     
    「……報われない私を憐れむのなら、どうか逃げてくれるな」
     ずるい言い方。そんな風に言われたら、選択肢などないのと同じだ。
     首に回された手に力が込められて、腕にかかっていた重みが消える。しゃら、とグラスコードがオレの肩を撫でて、漆黒がどんどん近付いてきて、ぼやける。
     息が詰まって、体は硬直したように動かなくて、それでも時間は止まらない。
     
     柔らかくて熱いそれが自分の口を塞ぐのをただ、海で溺れ死ぬ子どものように、静かに受け止めることしかできなかった。
     
     
     はたしてどこからが彼の診察だったのだろうか。
     考えてみても、酸欠にふらつく頭では答えなど導き出せる筈がない。
     
     
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