そういうふうにできている(名夏) ずきずきと痛む頭を抱えて猫はぐったりと椅子に伸びた。
昨夜は明らかに呑み過ぎた。久しぶりに二日酔いを感じているが、それもこれも散々猫にやたら美味くて高値い酒を出してくれた名取のせいだ。用意された多量の酒のほとんどを猫ががぶ飲みしたのだが、その自身の呑みようは思いっきり棚に上げて全ての責任を名取になすり付けて恨めしく見上げる。
目線の先では、名取ではなく夏目が嫌そうな顔で見下ろして来た。
「先生、ちゃんと座れよ」
「うるさいわ、小僧のせいだ……妖の酒なんぞどこで手に入れた……」
「もらったんだよ。でも人間は呑めないからね、あんな強い酒」
「そんなのがばがば呑んだ先生が悪い」
「ほんとにね。寝ててもいいよ、朝ごはん出さないだけだから」
「それは出せ!」
叫ぶと自分の声が響いてまた頭が痛む。猫はぐったりしつつもテーブルに手をかけて何とか重い身体を起こし、決死の覚悟で座り直した。
頭がぐらぐら揺れる。呆れたような夏目の声と宥める名取の声がやや遠く聞こえるが、頭が重い今は却ってちょうどいい。
しばしぐらついているとことりと眼の前に皿を置かれる。
簡単な洋食の朝食を出されていた。焼いたハムに目玉焼き、葉物野菜をちぎっただけのサラダとパンは皿の上で雑多に並んでいて、隣にはインスタントらしきスープも置かれている。三人分の皿やカップは大きさも色もばらばらで何の統一感もない。塔子の作る手の込んだ和食とは大違いだ。
しかし、ろくな調理道具も調味料も、皿すらもなかっただろう名取の家から出てくるものにしてはまあ上出来だ。これをもし夏目に作らせたら目玉焼きひとつもろくに焼けやしないだろう。そう思えばずいぶんまともな気がする。
揺れる頭を何とか支えてスープが入ったマグカップを取った。
「もらうぞお」
「いただきます」
「どうぞ。それで?」
「ええー……」
不機嫌を装ったような名取の声に、夏目がうんざりとした声を返す。
一昨日からずっとこれだ。どうせ不機嫌のふりなだけの名取は夏目の子どもじみた態度もため息ひとつで許してしまうし、夏目は最初っからごまかして許してくれるものだと思っている。
本人たちは結構真剣にしているが、猫からしたらただの茶番劇だ。
「何でオークション会場行ったの」
「もういいじゃないですかあ……」
「良くない。昨日先に寝ちゃってさ、結局なんだったの」
「名取さんもすごい呑んでたでしょ、寝てたときすごいお酒の匂いしましたよ」
「猫ちゃんより呑んでない」
もそもそとレタスを噛む猫の真横で子どもじみた声の応酬が続いていて辟易する。
先日のオークション会場の騒動の中で見た絵のことを聞きたいと言って、よせばいいのに名取に電話したのが一昨日。その場では危ないことをして、とやや低い声で怒られていたくせに結局夏目が神妙にしていたのはほんの一瞬で、すぐに甘ったれた声でタクマの家に行こうだの前日は名取の家に泊まるだのと楽しそうに話して、その翌日には猫を引っ張って名取の家にいる。
多忙なはずの名取もまたすぐに予定を空けたものだ。何だかだと名取は夏目に甘すぎるなと思いながら猫はレタスを飲み込んだ。
「ほんと、先に話してしてくれれば良かったのに」
「そんなとこだと思わなくて」
「知らなかったの?」
「ぜんぜん。紅子さんもどんなところか知らなかったから」
「まあわかりにくくしてるだろうから仕方ないかな」
はあ、と大仰にため息をついた名取からはさっきまでのやや拗ねたような響きさえもなくなっている。
最近しょっちゅう聞かされるやたら甘えた声にうんざりした。名取だって夏目だってこんなばかみたいに甘えた声で他の者と話したりしない。多分本人たちはわかっていないだろうが、全然違う。それを知りもせずに。
「とにかく無事で良かったよ」
「はい」
笑った名取がくしゃりと夏目の髪を撫でて、夏目も嬉しそうにしているのを横目で見ながら猫はハムを齧った。
何だろうこれは。こんな甘ったれた声の応酬で本当に喧嘩をしているつもりなんだろうか。これは犬も喰わないと言うやつではないだろうか。犬ではない猫だって絶対に喰いたくない。たぶんばかみたいにまずい。
眼を逸らして、大きく口を開けて残りのハムを口に入れる。美味い。
「小僧。ハムもっとよこせ」
「こら、先生」
「ハムはもうないな。ちょっと上げるよ」
「仕方ない、それで我慢してやろう」
「はいはい」
まだ名取の皿に乗ったまま口を付けていないハムを半分に切り分けると、名取はそれを猫の皿によこした。
まだ残っていたパンにハムを乗せてかじるとまた美味い。
「すいませんね……」
「いいよ、朝そんなに食べないし。夏目、食べる?」
「はい」
こくりと頷いた夏目の口に名取がぽいっと残ったパンを放り込む。指先が触れそうなほど近いけれど何も気にしていない様子に猫はため息をつく。
もうそんなことだって当たり前として。
うんざりしながら残ったパンとハムを一気に口に突っ込んだ。
「先生も終わり? 片付けるよ」
頷くと、名取は猫の皿を取って自分の分と重ねた。先に自分の皿を下げた夏目の後を追って名取も台所に入って行くのを見届けてから椅子を降りた。
笑う声が聞こえてくる。やたらしあわせそうだ。
奇跡みたいだって、自分には有り余るまどやかで最上の幸福を得たのだと。二人ともそう思っているんだろうって、手に取るようにわかって呆れながら猫は夏目のリュックの隣で伸びた。
猫から見たら奇跡なんかひとつもない。過不足もひとつもなく、全部お互いの身の丈に合うもの。ただ帳尻が合っただけだ。
因果とはそういうものだ。自分が蒔いた種で芽吹いたことはいつか帰ってくるし、自分で起こしたことではない不幸や悲しみなら生きるうちのどこかで好転するだけ。別々に生きた日々に積み重なった悲しみを、出会って積み重ねた二人分の想いでひっくり返しただけ。猫からしたらわかりきった人の生の巡り合わせがあるだけだ。
人はそういうふうにできている。永くを生きる猫が見るものを人の子たちは知らないだけで、猫だってそんなこと教えたりしない。知らないまま、慌てて騒いで必死に重ねて繋ぎあって笑いあって。
そうやって生きている。
「全く馬鹿らしい」
「何だよ先生」
皿を片付けて戻った二人に悪態をつく。すいっと夏目の手を取る名取の仕草はなんの憂いもなく、ただ当たり前のこととして手を繋いでいた。
夏目も当然のようにそのまま手を引かれている。ずっとそうだったかのように、ひどく近い距離にいる。
そうだ。本当はずっとそうだったんだよ。人はいつか幸せになるようにできている。
などと教えてはやらないけれど。
「なんでもなーい。タクマとやらのところに行くんだろう、とっとと出かけるぞ」
「はいはい、行こうか」
「はい」
けっと悪態をついた猫のことを笑う声が耳に落ちた。
何でもないことみたいに繋がれた手。ずっとずっとそうしてきたことみたいにごく自然に手を重ねる二人を見届けて、さっさと夏目のリュックに潜ると猫は大きくため息をついた。
もどかしかった距離を縮めて、溶け込ませて行く人の子たちを猫はいつも見ているだけだ。
重ねた全部、そこにある友情も恋も愛も混ぜ合わせてひっくるめた全部が全部、名取と夏目だけのものだから。