途中の話③ 家に帰ってリビングに行けば、すー、と寝息を立てて爆睡している弟。ソファーからはみ出した足を見て、寝づらくないのかと思いながら、葵は静かに冷蔵庫を開けた。
缶のオレンジジュースを取り出して、片手でプルタブを開けて片手で冷蔵庫を閉めた。
弟を見下ろしながらオレンジジュースを飲む。相当疲れたのだろう。ピクリとも動かない弟に生きているか心配になりながら、しばらく寝顔を見つめていた。
「あら、お姉ちゃんおかえり」
そうしていると母が帰ってきた。寝ている楓に気が付き、声を潜めた母は静かに買い物袋を置き、冷蔵庫に買ってきたものを詰め込む。
「勝った?」
「私は」
「……楓負けちゃったの?」
葵は何も答えずにオレンジジュースを半分飲み、テーブルに置いた。残念ねー、なんて呟いた母は、手早い動きで冷蔵庫から食材を取り出し、夕飯の準備をし始めた。
「すごい寝てるわね」
「起きない」
「部屋で寝たらいいのにね? ソファー、小さいでしょ」
中学まではソファーでもおさまるサイズ感だった弟は、いつの間にか可愛くないレベルにまで大きく育った。はみ出た楓の足を少しだけ蹴りながら、葵は幼い頃の記憶を思い出す。
葵、もっかい。
……もっかい。
……もっかい!
勝つまでやる! 帰らない! いやだ!
バスケに限ったことではない。弟は負けず嫌いで、何事も自分が勝つまでやった。でも葵も手加減しないので、どうしたって勝てないこともあり、泣く弟を引きずって家に帰った記憶がある。多分小学校低学年までそうしていた。
「……」
もう可愛げのなくなった弟の瞳が、ゆるゆると開いた。ぼんやりとこちらを見ている楓を見ていると、楓は顔を逸らすように寝返りをうち、再び目を閉じた。
「部屋で寝たら?」
「……」
「……」
聞こえているだろうに無視する弟に、葵はため息をついた。負けた後で機嫌がよくないのだろう。それは仕方ない。
「お姉ちゃん、先にお風呂入ったら? 汗かいたでしょ」
「ん」
母に言われ、葵は風呂に行くことにした。リビングを出る前に弟の大きい背中を眺め、何か言おうかと口を開いたが、何を言っても無駄だと思い、結局何も言わないで風呂へと向かった。
「楓、何食べたい?」
「……」
「起きてるでしょアンタ」
母親に起こされ、楓は気だるげに身体を起こした。本当は姉が帰ってきた辺りで意識はあったが、話しかけられるのが嫌で目を閉じていたのだ。
「お姉ちゃんの後に風呂行きなさいよ」
「……」
「珍しいわね、疲れたの?」
ぼんやりしている楓に、母がそう聞いた。楓は頭をぽりぽり掻きながら、姉が置いていったオレンジジュースに手を伸ばした。まだ半分入っているので、全部飲み干す。多分風呂上りに飲むつもりだったのだろうが、知ったこっちゃない。どうせ怒りやしないだろう。葵が楓に対して怒ったり、理不尽な八つ当たりをしたりすることは絶対になかった。
「から揚げ」
「えっ!? ハンバーグじゃだめ?」
「別にいい」
聞いたくせに、と文句を言いたくなったがぐっと堪えた。空になったジュースの缶を流しですすいで置いておく。口の中が甘ったるくて仕方なかった。
「……あいつ」
「ん?」
「……進路、決まってんの」
母は玉ねぎを刻みながら、さあねと答えた。
「聞いたらいいじゃないの」
「……」
「昔はあんな仲良しだったのにねえ」
母の懐かしむような声が部屋に寂しく落ちた。楓はしばらく母の背中を眺めていたが、やがて諦めたようにリビングを出て行った。
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