導入 連絡があったのは、実に十年以上ぶりであった。一方的にテレビや新聞などのメディアで活躍を見ることがあっても、直接会って話すということはなく。既に遠い存在となった一個下の後輩は、彼にしては珍しく、切羽詰まった様子で連絡を入れてきた。
娘の面倒を見てほしいっす。
はあ、と気の抜けた返事をしてしまった。電話越しであったから、彼の表情などは全く分からない。というより、聞いたことのない声色だったから、想像もつかなかったというのが正しい。
別にいいけれど、それはともかくとして顔を見せに来てほしいと、そう話をまとめて電話を切る。四月の心地よい日、店を開く前のことだった。
*
街中に、ひっそりと佇むこのカフェ……といっても、フードを店内提供というよりケーキのテイクアウトをほとんど収入源としている店は、私が前店主から引き継いだものだ。前店主のおじいさんと店員の私で経営していたこの店は、おじいさんが急に亡くなってしまったことにより、私のものになった。身寄りもなかったおじいさんだから家族からとやかく言われもせず、というか亡くなったら私に譲る気であったらしい。
開店は正午から。閉店は十七時、もしくはケーキがなくなり次第。定休日は火曜日。店前にカレンダーを設置して、基本ここでスケジュールを伝える。あと季節のケーキは近くのボードに提示しておく。売り上げは、前店主の引継ぎとあって、前の顧客が続いているのでそれなりに安定している。
土曜日、午前十時。カランカランと入り口の鈴が鳴り、来客を知らせる。
「はーい今行きます」
店内の奥の方で作業していた私は一旦手を止めて、扉の方へと向かった。
扉の前に人影が二つ。ひとりは背が高く、凛とした佇まいでこちらを見ている。最後に会ったのは何年も前のはずなのに、すぐに彼だとわかった。
もうひとり、小さな影がいた。彼のズボンを掴んで、こちらをじっと見ている。笑いもせず、ただ静かにこちらを見る姿は彼にそっくりだった。
「久しぶり」
「っす」
軽く頭を下げた彼の声は、やはり記憶と変わりない。私は少し身をかがめ、小さな女の子にも笑いかけた。こんにちは、そう言えば彼女は彼のズボンに隠れるように身を縮めた。
「挨拶しろ」
「いいよ。まあ、中に入って流川」
少女を咎める流川をなだめながら、店内の席に案内する。こじんまりとした店内に彼の大きな体は狭そうに見えた。それに隣にいる少女の影響もあるのだろう。
「コーヒー飲める?」
「いや、大丈夫っす」
「そう言わず……娘ちゃんはピリピリしたのとか大丈夫かな。オレンジジュースの方がいい?」
そう聞けば、流川は少女を見た。どうする、という無言の問いかけに少女は何も言わない。親子でテレパシーでもしているのかと馬鹿なことを思っていると、流川がなんでも大丈夫だと答えた。
コーヒーをふたつ、青いクリームソーダをひとつ作る。小さなグラスに炭酸水と着色されたシロップを注ぎ、アイスクリームを乗せる。サクランボとクマのビスケットを飾れば、我ながら可愛らしい出来のドリンクが完成した。
少女の反応はやっぱり薄かった。が、僅かに興味を示したのか、クリームソーダを彼女の前に置くと、もじもじ動き出した。
「どうぞ」
そう言って笑えば、少女はおずおずとスプーンを持って、てっぺんのサクランボをぽんと押し退けてからアイスを食べ始めた。
「お名前は?」
「もみじ」
「いい名前だね」
アイスから目を離さないまま答えたもみじに、私はそう答えた。そして流川を見れば、何故か彼は複雑そうな顔でこちらを見ていた。
「全然変わらないね」
「先輩こそ……老けてないっすね」
「うそ、この間リョータが来た時、年相応の顔になったって言われたけど」
そんな軽口を叩きながら、雑談をいくつか交えて、流川はやっと本題に入った。
アメリカの……というより世界のトップが集うバスケリーグに所属していた流川が日本に拠点を移すことになった。早すぎやしないかという声はあまりない。何故なら日本では流川の度重なる怪我を報道してきたからだ。
日本人初、という快挙を彼はいくつも達成してきた。日本のトッププレイヤーと言っても誰も反論はしないだろう。今は日本にいるだけで、そのうちまた海を越えるのかもしれないが、私の知るところではない。
そんな彼が結婚をしたのは、早いことに向こうの大学を卒業してすぐのことだった。その知らせを聞いた時、あの流川が……? と思わずリョータに聞き返してしまったほど。ちなみに、離婚したのを聞いたのはその五年後のことだった。
まあ、ちょっとわかる気がする、と失礼ながら私は思った。だって流川だ。不愛想でバスケ一筋、そんな彼が恋人に対して甘い顔を見せるなど想像がつかない。だが意外だったのが、娘の親権を流川が取ったことだった。
「学童に、行きたくねえって言われて」
ほとほと困り果てたように流川はそう言った。小学一年生のもみじは、そんな流川に目もくれず、もくもくとアイスクリームを食べている。
「シッターも探したんすけど……こっちのやつはいまいちわかんねえし」
つい先日こちらに来たばかりの流川は、もみじの預かり先を決めかねていた。もっとゆっくり探したいというのが流川の本音だろうが、仕事の関係でそんな暇もなさそうだ。両親は、それぞれの親の介護があって余裕がなく、他に頼れる人もいない。というか、どこに頼ればいいかわからない。可哀想な状況だ。
「仕事が終わるまで、ひとりにさせんのもアレなんで……」
大人になったなあ、と内心思いながら私はコーヒーを飲む。恋人も子どももいない私からすれば、一個下の彼の方がよほど大人びて見えた。
ひとり親、というのが珍しくなくなってきた現代ではあるが、シングルファーザーというのはまだまだ少数なのではないか。目の前で苦い顔……いやいつもと大して変わらない顔にも見えるが、ともかくそういう顔の彼に私は努めて明るく話しかけた。
「ま、店の中で待ってられるなら、ここに来てもらって構わないよ」
そう言えば、流川はわずかに目を見開いた。希望を見出したみたいな顔をしていた。
「いいんすか」
「いいよ別に」
「……」
「苦労してるみたいだしね……ああでも、もみじちゃんはそれでいい?」
アイスクリームはなくなって、ただのソーダをストローで飲んでいるもみじに話しかける。彼女は特に嫌がりもせず、というか話を聞いていたかすらわからないが、とりあえず頷いてくれた。
「……」
彼は黙って、私に頭を下げた。もみじはそんな父を見て不思議そうにしていた。
「じゃあよろしくね。私の名前は三嶋一。好きに呼んで」
そう言えば、流川が呼んでいたのを聞いていたのか、私をじっと見てから……せんぱい、と呟いた。そんな娘を流川は小突いて、ハジメさんだ、と訂正したのを見て、私は思わず吹き出してしまったのだった。
*