ばついち流 夜、流川のすることはいくつかある。まず晩御飯。自分の分だけならタンパク質やらなんやら、栄養素だけを考えたご飯でいいのだが、子どもがいるとなればそうもいかない。バランスが取れて、なおかつそれなりの見栄えでないと娘の食欲が誘えない。
といっても流川に自炊する能力はあまりない。母親が教えてくれた味噌汁のレシピくらい。ご飯も炊飯器さえあればまあ炊ける。あとは買ってきて並べるだけ。家事代行でも雇えばいいのだが、それはおいおい。とにかく今はまだ少し落ち着いていない時期なのだ。
ご飯が終わったら娘を風呂に入れる。これは勝手に入ってくれるから問題ない。そのうちに食器を洗ってしまい、一息つく。そしたら娘が風呂から上がってくるので、髪の毛を拭き、ドライヤーで乾かす。そろそろ自分で乾かしてほしいから最近は黙っているが、そうするとドライヤーを持ってきて渡してくる。いい加減言葉で伝えないと、とは思っているが、どうしてか言うことが出来ない。このままでいいと思っているのかもしれない。
もみじは自分に似て静かなのかと思いきや、意外とよく喋る。良く頭が回る子で賢い。自分と同じようなテンションなのに自分の倍以上喋るのが面白かった。
流川の膝の上に座って、自分で髪を梳くもみじは、まるでその日の体力を使い果たすかのように、眠くなるまでずっとしゃべり続ける。
最近は学校の話の他に、三嶋の話も出るようになった。暇な時間にカルタをしたとか、オセロ、チェスなどのボードゲームもしているとか。元から持っていたのか、わざわざ買ったのか、後で聞かなければならない。あの人のことだからどうせ誤魔化すのだろうけれど。
「きょうはあたらしいケーキを食べたよ」
「なんだそれ」
「しんさくのいちごケーキ」
「へえ」
確かに店の前のボードには、季節限定のケーキが紹介されていた。しっかり見たことはないが、ああいうのを使って購買意欲を上げているのだろう。
「おとうさん、たべたことない?」
「……」
はて、どうだっただろうか。言われてみれば、店の商品を食べた記憶はない。高校時代にバレンタインで手作りのケーキをもらったことはある。確かに美味しかった記憶だって残っている。素朴だけれど、優しい味がした。
「ハジメがね、もみじの誕生日にケーキつくってくれるって」
「……よかったな」
もみじの誕生日は八月の終わり。夏休みが終わる直前あたりだ。今年も誕生日プレゼント等を用意しなければならないと思ったが、ケーキは三嶋に頼むことが出来そうだ。ひとつ負担が軽くなってよかったと流川は思った。
だんだんと眠たげな眼をしてきた娘に、もう寝ろと言って寝室に連れて行った。寝つきはものすごくいい。自分に似たのだろう。
そうして一人になって、静かになった部屋の中で流川は息を吐き出した。見渡しても、必要な家具しかない。例えば、家族の写真だとか、前の嫁が使用していたマグカップなどは全部処分してしまったから。
どうしても胸に押しとどめた気持ちの悪い感情がある。だがそんなのを娘に吐露するわけにもいかない。そうやって数年経ち、消化しきっていたつもりだったのに、あの人の前でそれが溢れてしまった。
あの人の表情は変わらなかったが、しかしきっと失望された。コントロールが効かない自分の感情に苛立ち、舌打ちを……すると娘が怖がるので、息を吐き出すだけに留める癖があった。今だって娘は寝てしまっているが、舌打ちはできなかった。
あの人とならこんな風にはならなかっただろう。いや自分が勝手に三嶋をいいように解釈しているだけなのかもしれないが、それでももう少し上手くいったはずだ。でもそれを勝手に諦めて、一生言わないつもりでいた。高校の時からあの人の眼にはただ一人しか映っていなかった。
流川だってわかっていた。宮城が彩子のことを好いていたことくらい。だったら自分も三嶋も一方通行で、それならまだ救われたのに、けれど流川よりか三嶋はまだ希望があるようだった。
今の自分は三嶋にどう映っているのだろうか。娘の面倒を見ろなんて図々しい奴に嫌気がさしているんじゃないか。でも困っていたのは本当だ。
ただ信頼できる人だから頼っているだけ。そこに、娘を迎えに行くわずかな時間、あの人に会えるのを心待ちにしている自分の欲が、僅かにでも滲んではいけない。娘を利用して抱き込むような、そんな最低な真似をあの人にしたくない。あの人の傍で楽し気にしている娘を見るたびに、自分は手を伸ばしてしまいたくなる。いつか理性に糸が切れてしまう前に、終わりにしなければ。
時計の針が、てっぺんに到着しようとしている。流川はリビングの電気を消し、欠伸をひとつこぼして後頭部を掻いた。
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