~〝恋人ごっこ〟する燐ひめ ⑨ 四方を客席に囲まれた広いセンターステージの上だった。アリーナもスタンドも全ての席で黄色のサイリウムが不規則に揺れている。所々混ざる赤や水色は所謂推しメンのアピールだろう。
黄色と黒を基調にしたユニット衣装を身に付けて、イヤモニから流れ出す聞き慣れたデビュー曲に合わせて声を飛ばす。指先で誘うようにファンを煽る。
ニキが両手を大きく振りながらステージ際を歩き回り、こはくが軽快にダンスのステップを刻む。
当然のように肩に乗ってくる腕と耳のすぐ側で聴こえる空間を貫くような声に、知らず口角が上がった。
ふと見上げた関係者席ではいっとう愛しい弟が〝HiMERU〟のウチワとペンライトを両手にブンブンと大きく手を振っていて、それを落ち着かせようと慌てるジュンとか、Edenとか、何やら談笑しているALKALOIDの姿が見えた。
――あぁ、これは夢か。
唐突に理解する。
「てめェらまだまだそんなモンじゃねェだろ!叫べ!!」
肩の重みが消えたと思ったら、マイクを通さない腹の底からの声がHiMERUの鼓膜を揺らした。その咆哮に応じて客席が沸き立つ。襲い来る洪水のようなそれに、満足そうなそいつ。この世界の全ての幸福を手に入れたような顔。眩さに視界が霞む。
まったく。人の夢の中でくらい少しは遠慮して大人しくしたらどうなのだ。
***
「――る、くん。HiMERUくん?」
ぱっと勢い良く瞼を上げると「うわびっくりした」と目の前のニキが一歩後ずさった。
「……椎名?」
「ちょりーす、ニキくんっす」
窓から射し込む西日を背負って緩い顔を見せるニキと反発力のあるオレンジ色のソファに、ここがカフェシナモンであることを思い出す。
そうだ。頼みがあるとかで呼び出されて、ニキのバイトが落ち着くまで奥のボックス席で本を読んでいたのだった。膝の上に落ちていた文庫本を拾い上げて閉じる。何処まで読んだのか分からなくなってしまった。
「何か良い夢見てたっすか?起こしてごめんね?」
「別に寝てませんが」
「なんでそんなバレバレの嘘つくんすか」
意味無いでしょーと苦笑いしながら一度席を離れたニキを追いかけて視線を巡らせると、いつの間にか人の数は疎らになっていた。ゆっくりと時間を過ごしている客が多いのか、アイドル達の楽曲をアレンジしたBGMが静かに耳に届く。
カウンターを廻ったニキはすぐにトレーを持って戻って来た。いくつも乗った小さなガラスの器、透けて見える中身はカラフルで可愛らしい。
「お待たせしました、ジェラートの試作品っす。今度デザートメニューに加えようと思ってて。カフェタイムもバータイムも出せるやつね」
「なるほど?」
「いろいろ作ってみたんで、本場イタリアに行ってきたHiMERUくんの意見を聞かせてほしいっす」
テーブルに一つずつ並べられた涼し気な器。右からバニラにイチゴ、チョコレート、レモン、ピスタチオ、ミント、リコッタチーズ……と続く。どれも美味しそうで目移りしてしまうのだが、HiMERU的には問題が二つ。
「たかだか一ヶ月滞在した程度ですし、違いなんてわからないのですが」
「現地の空気感が大事なんすよ。街の人が食べ歩きしてるの、何味が人気だったかなーとか」
「これだけの種類と量はカロリーオーバーになります」
「オーバーさせたいっす」
「喧嘩なら買いませんよ椎名」
完璧な〝HiMERU〟を維持するために、生活全般において常に最適となるよう計算しているのを知っているだろうに。
するとHiMERUの剣呑な視線を受けてそれをさらりと受け流しながら、ニキの眉が少しだけ八の字に傾いた。
「また少し、痩せた?」
思いがけない指摘だった。体重は変わらずキープしている、毎日確認しているのだから間違いないのだが。
「……いいえ。少しも変わりありませんが。何故?」
「んー、なんて言うかあんまり美味しくないニオイがするから。HiMERUくん元々鶏ガラみたいなのに」
「そんな美しくないものと一緒にするなという気持ちと、鶏ガラなら美味しそうな匂いなのでは?という気持ちで混乱しています」
「なはは、そっか。いや、僕の気のせいなら良いんす」
頑張り屋さんっすからねぇ。とニキはHiMERUの頭をポンと一度撫でた。珍しい……いや、もしかしたら初めての行動かもしれない。こんな時、彼もまた世話焼きだと思い知る。これみよがしな親切はしないくせに自分の手の届く範囲にいる人間を放っておけない、優しくて損な性格だ。それはこはくも、それから燐音もそうだった。そういうユニットだったのだ。
「HiMERUは幼い子供ではないのですが」
「ごめんね。ほら僕ぁ単純だから、食べたいものは食べたいし欲しいものは何したって欲しいっす。採りにだって行きます」
崖を登るイメージなのか、ガツン、とピッケルを壁面に突き立てるような仕草にその光景がありありと見えてくるようで思わず笑ってしまった。そんな秘境まで食材探しになんて……行ったことありそうだな。本気で。
何を言いたいのかを図りかねて言葉に詰まるHiMERUを他所に、ニキは聞いたことも無い食材名を指を折りつらつらと数え上げる。それから少し憂いの滲む表情でHiMERUの目を深く覗いた。
「でも、僕の周りにいてくれる人たちはみんな難しいっすね。ステージの上では『おまえは何がしたい!?』とか『考えることを止めんな!』とか叫んでたくせに、自分が本当に欲しいものは口に出さないんだもん」
誰かさんの悪いとこ伝染っちゃいましたかね。
それはどこか呆れたようで、それ以上に慈しむような呟きだった。
「……何の話でしょう」
「ジェラートの話っすけど?」
料理人らしい少し荒れた手が、さらりとHiMERUの髪を擦り抜けていく。はらはらと落ちた長い前髪が視界を少しだけ隠してくれた。
「たまには好きなもの食べて。欲しいもの、欲しがれば良いっす。そうしたらダンスレッスンしてカロリープラマイゼロっす」
――自分は単純だ、と言う。言い換えれば何事にも素直だということだ。そんなHiMERUには無い美点を持つニキに今の自分は「美味しく無さそう」に見えるらしい。少し懐かしい夢を見ただけなのに。
気遣いは不要、と切り捨てるにはHiMERUは情を抱きすぎていた。
「……椎名」
「んぃ」
「全種類食べます」
デザートスプーンを握りながら言えば、ニキの表情が物語の猫のようにニンマリと崩れた。アイドルとして許容し難い顔は止めてもらいたい。
「でもやっぱりこれ全部は食べ過ぎなので。半分こ、しましょう」
「うんうん。一緒に食べるっすよー!」
そう足取り軽く厨房に入ったニキは、自分用と称して通常サイズのスプーンを手に戻ってきたから、どっちが試食なのだと反射的に突っ込んでしまった。
「現地での流行りは瀬名先輩にでも聞いてみるとしましょう。ちょうど、この後事務所に戻って先日の撮影データの確認をするので。リモートで」
「教えてくれますかねー?瀬名くん、そんな余計なこと考える暇ないから!とか言いそうっすよ」
「案外面倒見の良い人なのですよ。口ではどれだけ文句を言おうと、細かい調査資料を送ってくれるとHiMERUは推理します」
あれこそ「素直じゃない」の代表格であろうけれど「良い人」だ。根本的に。カロリー云々とHiMERU以上に手厳しく言いながらも対応してくれるだろう。
「それはそうと、これを食べたら椎名もダンスレッスンしましょうね。体重、戻ってないでしょう」
「……はいっす」
項垂れたニキを横目にいただきます、と一掬いして口にしたイチゴ味のジェラートは、舌の上で溶けて少しの酸味を残した。何種類も並ぶ中から無意識のうちに鮮やかな赤いそれを一番に選んでしまったことに、後から気付いて可笑しくなる。
「美味しいです。……でも、HiMERUは違う味のほうが好きですね」
***
瀬名泉は仕事に対して一切妥協しない。次々提示される画像への指摘にも容赦は無く、とは言えそのほとんどが的を射たものであったから反論の必要もあまり無いのだが。HiMERUがしたことといえば議論が堂々巡りにならないようスタッフと泉との間に入ることだった。それでも、気付けば窓の外は深い夜の色。
「時間、間違えたな……今更だけど」
時差を考慮してはいたものの、昼を過ぎたところでエンジン全開絶好調の泉と朝昼の仕事をこなして一日の最後のミッションとして取り組んだこちらとでは、頭と口の回転速度が違い過ぎた。次の機会にはもう少しこちらの都合をゴリ押ししよう。
それはそれとして、リモートの接続を切る直前ニキの要望も忘れず口にしたところ、「はぁ こっちはそんなくだらないこと調べるほど暇じゃないんだけどぉ!」と予想通りの反応。その後には「ていうか、ジェラートはまずミルクでしょ!一応こっちのスタッフにも聞いて教えてあげるから、メニュー考え直しな!」とこれまた予想通りの反応だったから、笑いを堪えて礼を言うのが大変だった。心強い協力者ができたとニキに伝えたらきっと喜ぶ。
芸能事務所という性格上深夜に働いているタレントもスタッフもいるのだけれど、その姿も数えるほどになった廊下を早足で進む。一応顔を出して報告してから帰ろうとエレベーターを十八階で降りた。
近頃声高に言われている節電のためか薄暗い室内。誰もいないように見えたのだけれど、ブラインドが降りた窓際一番奥の席からカタカタと一心不乱にキーボードを叩く音がした。右手でノートパソコンを操り、左手でタブレットをスライドする。器用なものだ。もっとも、その表情からは大分生気が失われている気がしてならないが。
「お疲れ様です」
デスクから落ちたのだろう、無造作に床に転がる栄養ドリンクの空き瓶を拾い上げて声をかけると、胡乱気な目つきで顔を上げた茨はHiMERUを目にするなりバッと背筋を伸ばした。
「これはこれはHiMERU氏!お疲れ様であります!随分と長い打ち合わせでしたね」
「もう一度言いますが。あなたこそ『お疲れ様です』、副所長」
よくよく見ればデスクの片隅に茶色い瓶やら翼を授ける缶やらが山ほどあるではないか。何徹目なのだろうかこの人は。
拾った空き瓶を山に加えたところで、「聴きましたよ」と茨がキーの上を走る指先を止めないまま口を開いた。
「昨日収録された新曲のデータ。さすが、と言いましょうか。おひとりで歌うことの勘も随分取り戻したのではないですか」
「――HiMERUはいつ何事でも完璧にこなすのですよ」
「そうでしたな!いやぁ失敬。Crazy:Bの皆さんそれぞれが目覚ましい活躍をしておられて何よりです」
相変わらずテンプレートのような誉め言葉を口にする。本心からかどうかわからないし、例えそれが本心ではないと見抜かれたところで何の不都合もないのだろう。ビジネスと割り切った付き合いは嫌いではなかった。楽で良い。
それはどうも、と口を開きかけたところで、「――ですが」と先んじて落とされた茨の声から芝居色が消えた気がした。
「正直、あなたはともかく、桜河氏や椎名氏が個人でここまでの成果をあげるとは嬉しい誤算でしたよ」
「おや、不思議なことを言いますね。利益を上げると想定していたからこそ、ユニット活動もできない我々を今でもコズプロ所属のままにしているのではないのですか」
ニコリと対クライアントの時に使う顔で笑って見せれば、あっはっは!と大きな声が空気を揺らした。
「所属アーティストを大事にしているだけですので!――それで、これからどうされるおつもりで?」
「質問の意味を理解しかねますが」
「知らぬふりでも構いませんがね。HiMERU氏なら耳に入れているでしょう。――ユニットとしてのCrazy:Bのステージが見たい、という要望が増えています。特にここ最近、あなた方個々の露出が目立つたびに」
――言われなくても。SNSのチェックも怠っていないHiMERUは、そんな声が以前より多く上がっていることなどとっくに把握している。その中に「三人でも良いから」という呟きが少なからずあるということも。けれど、あの場所は。
「天城燐音氏の置かれた状況を公表すれば、あるいは。あなた方三人での復活もやむ無しと受け入れられるとは思いますが」
間違いなく大炎上、それから華々しく復活を遂げる。自分達らしいと言えばそうなのかもしれない。それでもきっとそのステージは一人分の立ち位置にぽっかりと空白ができる。そのブランク越しに見えるものに自分は満足できるのだろうか。
「……七種。あなたの欲しいものは何ですか?」
耐性の付き過ぎた栄養剤を前に、いくつもの案件を同時に操って。己さえも駒のように動かすこの男は何を望むのだろうとふと思った。答えなんて返ってこないと知りながら。
「何もかもを手に入れたいようにも、全てをどうでも良いと思っているようにも見えるので」
HiMERUの冷えた問いかけに、茨の口角がゆるりと上がる。
「あなたにお答えする必要、あります?」
喰えないやつ。そこには見えない壁が瞬間で構築されていた。まぁ良い、HiMERUに影響が無いのなら。
「ありませんね。忘れて下さい」
視線を合わせることも無く。お先に失礼します、と薄暗いフロアを今度こそ去ろうとしたのだけれど。
「ああ!失念しておりました!!」
とHiMERUの背を掴む仰々しいセリフに、うっかり足を止めてしまった。
「HiMERU氏に客人がお見えですよ」
「客?こんな時間に?」
先にそれを伝えるべきだったのでは?思わず壁の時計を確認すると、まだ深夜と呼ぶには遠いけれど世間的な終業時間はとっくに過ぎた頃だ。非常識と言っても差し支えないのだが。
「あなたがいつフリーになるかわかりませんのでまた後日、ともお伝えしたんですがね。次いつ都合が合うかわからないから待つと仰って」
ひらりと隣のミーティングルームを示す掌に、HiMERUは取り急ぎ足を向けることにした。茨の物言いと対応から見るにどこぞの重要人物という訳でもなさそうだが、だからと言って己を訪ねてきた人を無作法に長時間待たせることなどできない。
「すぐに行きます。施錠は……まだ大丈夫そうですね」
「自分、まだまだ片づけねばならない案件が山ほどありますので!戸締りはご心配無く!……まぁ、珍しい客人ですから。後ほど自分も少し顔を出しに行きましょうかね」
「?それは」
「先程の」
遮るように。タスクを進める指先を一瞬止めた茨は、底知れぬ海のような瞳でHiMERUと真っ直ぐに対峙した。
「少しでも全体が見渡せる場所へ。自分、高い所が好きなもので」
手にしたいのはそれだけだと笑わない笑顔が告げる。視線を受けて、HiMERUは長い睫毛をゆっくりと一度閉じて開いた。
成程、彼には彼にしか見えない景色があるらしい。
コンコン、と立てた指の関節でノックを二回。それからできるだけ静かにドアを引いた。
「失礼します。お待たせして申し訳あ……」
踏み入った小さな一室。ブラインドを下げた窓と、乳白色の蛍光灯。
入り口に背を向けるように配置されたアイボリーの合皮のソファ。その背もたれから覗く赤い髪に、HiMERUの足は縫い付けられたかのように動きを止めた。
良く知っている色。見間違えるはずもない、その燃え上がるような色。
「――久しぶり」
立ち上がったその人は記憶の中より少しだけ落ち着いた話し方をする。
ゆっくりと振り返った鮮やかなターコイズブルーが、HiMERUを映してきらりと煌めいた。
「会えて良かったよ。HiMERU先輩」
「天城、一彩……」