~〝恋人ごっこ〟する燐ひめ ⑩ よく似てきたな、と初めに思った。
アイドルという特殊な職業上、赤いくせ毛が跳ねるその髪型にそう大きな変化は無いのだけれど、頬の丸みが無くなったことや少しつり目がちの眼差しが知り合った頃のあいつを彷彿とさせる。
立ち上がった姿と視線の交わる角度、多分身長も伸びたのだろう。HiMERUの中では未だ〝快活な少年〟の印象が強い一彩は、ゆとりを感じさせるほどの空気を纏う青年になっていた。考えてみれば彼もとっくに成人年齢を越えているのだから、そうでなければ困るのだろうが。どこか畏まった場にでも参加していたのだろうか、身につけているスーツの着こなしにも違和感は無い。以前はそんな格好をすれば服に着られているように見えたものなのに。
「急に来てしまって申し訳ない。Crazy:Bの誰かに会えればと思って立ち寄ったのだけれど、あなたがいたことは僕にとっては幸運だよ」
「珍しい客人、があなたであったとは。正直に言って驚いています。――お久しぶりですね」
座るように促しながら、隅にある簡易テーブル上の電気ケトルに備え付けの水を入れる。一彩の前に置かれていた湯呑はとっくに空になっているようだった。インスタントだけれどコーヒーを淹れるとして、彼は砂糖やミルクが必要なタイプだろうか。気にしたことも無かったな。
「ALKALOIDも随分と活躍されているようで。最近はESでもなかなか会えないと椎名が零していましたよ」
「うむ、忙しくさせてもらっているよ。きっとこれは喜ばしいことなんだと思う」
「羨ましいくらいですね。あなた方のステージはいつ見てもひたむきな前向きさと勢いに溢れている」
来客用の白いコーヒーカップに、スプーンで一杯、二杯。素早く湯を沸かすことで知られたケトルがカチンとスイッチを保温へと切り替えた。
「それで、ご用件は何でしょう?先程の発言からはHiMERUでなくても良かったのだろうと受け取りましたが」
少し意地悪な言い方をしたのはワザと。一彩は数度瞬きを繰り返すと、先程の遣り取りを反芻したのか慌てたように手を振って見せた。なるほど、こんな風に己の言動を顧みることもできるようになったのか。成長とはおもしろいものだ。
「訂正するよ!誰かに会えればと思ったのは嘘ではないけれど、できればあなたが良かったんだ」
「なぜ?HiMERUはあなたと個人的な交流は無かったと記憶していますが」
ふふ、と少しの意地悪モード継続の笑いを零しながら、両手に持ったコーヒーカップの一方を一彩の前に置こうとして。
「兄さんが」
ガツ、とカップの角をテーブルにぶつけてしまった。黒い液体の表面がカップの縁ギリギリまで揺れて、徐々に治まる。笑顔は、まだ。顔に張り付けていられた。
「Crazy:Bのことを気にかけているから。以前に比べれば故郷でもアイドルの様々な情報を得られるようになったのだけれど、それは編集されたメディア上の限られたことだからね。それ以外のことはわからない。特に今のあなた達の情報は多くないから。話を聞いて、伝えてあげたいと思ったんだよ」
「そう頼まれたのですか?」
「いいや。僕が勝手にそうしたいと思ったことだ。兄さんは何も」
「……それで、どうしてHiMERUに?」
「あなたが一番状況を把握してそうだからね。それと多分、兄さんはあなたを信頼しているんだと思うから。よくあなたの名前が話に出てきていたよ」
最近は少し減ってしまったけれど。と続いた言葉は、HiMERUの胸の奥に沈んで一瞬の熱を灯す。それからじわりと溶けた。あいつの中で過ぎた過去になっているならそれで良い。
ゆっくりとブラックのコーヒーをひと口。口の乾きを誤魔化したくて飲み込んだそれは、苦いばかりであまり美味しくは無かった。身内用はこの程度で十分だということか、こんなところで経費削減をしないで欲しい。
「天城は――お兄さん、はお元気ですか?」
「うむ!ここのところALKALOIDの予定が詰まっていて僕もあまり戻れていないのだけれど、故郷の自治も対外折衝も滞りはない。素晴らしい君主だよ」
「そうですか。HiMERUの知っているお兄さんとはギャップが大きすぎて、もう別人のようですね。さすがにギャンブルからは手を引きましたか」
「賭け事のことは良くわからないけれど、兄さんはずっと変わらず立派な兄さんだよ。心配しないでほしい」
誇らしげに胸を張る一彩に、どうにか口の端だけを上げて見せる。〝別人〟になっていてくれと思うのはHiMERUの後ろ暗い願望だ。だってその方が気が楽だから。
頼りになる弟が補佐をして、忠誠心の篤い臣下がいて。公私を支える伴侶がいる。慕われ、皆の生活を守り導く主様。――都会になんて出てこなければ。アイドルを知らなければ、彼が歩むはずだったそんな人生。想像力の限界を軽く超えている。本当にHiMERUの知らないひとの生き方だ。もしそうであれば存在すら知ることのなかった他人で――もしかしたら、とっくの昔に〝俺〟はここから去っていたのかもしれない。
出会わなければ。
〝俺〟の生き方もきっと違っていたのだろう。
「Crazy:Bの活動を止めてまで結婚して、もう随分経つんですから。さすがに落ち着いてもらわなくてはあなた方も困るでしょう。――それで、我々の近況でしたね」
少々そっけない物言いになってしまったと自分でも感じたけれど、今更腰を据えて話す用件も無いだろう。できるだけ早く切り上げようと秘かに決めて正面に座る一彩に向き直る。
「HiMERUも桜河や椎名のすべてを把握はしていませんが。……?どうかしましたか」
顔を上げた先で、ターコイズの瞳が少し丸くなる。そうして無防備な表情を浮かべるとまだ少し幼く見えるのは彼が〝弟〟であるが故だろうか。
「……やはり、あなた達にも伝えていないんだね」
続く言葉を聞くべきではない、とHiMERUは咄嗟に思った。何故か胸が嫌なざわめきを見せたからだ。けれど強い瞳がそれを許してはくれなかった。
「知っておくべきだと判断する。おそらくあなた達のこれからにも関わることだから」
あの人の意志に背くことかもしれないけれど。僕は僕の責任の下で僕が「正しい」と思うことをするよ。
そう告げる一彩に迷いは見えない。そうだ、いつだってこうと決めたことは貫く少年だった。
整理をつけてきたはずのものが根底から覆されそうな得体の知れぬ悪寒、耳が働きを拒絶しようとしている。けれどそんなこと一彩には知ったことではなくて、待って、とHiMERUが形にしたかった言葉はそれを成すこと無く狭い口腔内で消える。
口を閉ざしたHiMERUとは裏腹に底が見えそうな程に澄んだ瞳は揺らぐ気配すら見せず、彼自身の「正しい」信念のためにその唇が動いた。
「兄さんは婚姻を破棄した」
――ほら。
「結婚はしていないんだ」
――やっぱり聞かなければよかった。二年。漸く二年も経ったのに。
*
賭けをした。
故郷のためでも家族のためでも仲間のためでもない、自分自身のためだけの賭け。
賭けたのは二年という時間。報酬はこれからの居場所。
一人で泊まるには少々広すぎるホテル上層階の一室で、窓ガラス越しに車のヘッドライトが流れる街並みを見ていた。
チカチカと点滅しては揺れる黄色や赤、淡いオレンジのそれらは、ステージ上から見ていた光の渦を思い出させる。揺れるサイリウムと鼓膜を支配する歓声。広いステージの端まで駆け回るユニットの〝もてなし役〟と〝艷めく花〟。それからいつだって本音は聞かせてくれなかった男。
「――っと、ヤベ」
涼し気な美貌を思い浮かべたところで、サイドテーブルに置きっ放しだった小箱を慌てて手に取る。ホテルのラウンジでテイクアウトしてきた生プリンが二つ。今夜限りで消費期限を迎えるそれを備え付けの小さな冷蔵庫に仕舞った。
弟が今日、自身の仕事のためにあのビルに向かうことは聞いていた。
兄想いの彼はきっと行動を起こすだろう。その結果ユニットの誰かに会えれば上々、それが〝あいつ〟であれば大フィーバーの大当たりだ。
何をどこまで語るのかは弟次第。けれど彼は真っ直ぐな男だから、きっと己の信念に従ってすべきと思うことをする。ここまでの勝率は高い。
それから後は。〝あいつ〟が何を欲して何を選ぶのか。それはもうギャンブルのカミサマだってわからない。
出会わなければ。
きっと本来生きるはずだった道を進んでいただろう。それだけの責務が自分にはある。
考える時間は十二分に過ぎた。過ぎるほどに距離を置くほどに想いは募る。自分勝手にも程があると呆れてくれたって良いから。
「もう一回。出会ってくれっかな」
恋人ごっこ。酒と快楽と軽い言葉で、一方的に始めてしまったあの日を今も忘れられずにいる。幾度も思い返してはできもしない「もしも」ばかり。だから今度は充分な時間を与えた。狡いやり方だ。たとえ次の賽がどちらに転がろうと、〝あいつ〟が自分の意思で選んだなら、その時は。
窓の外でライトが点滅する。掴めるような気がして手を伸ばしたその時、ベッドに無造作に投げ捨てたままだったスマホが着信を知らせた。
*
「……面白くもない冗談を」
笑い飛ばそうとしたけれど出来なかった。そんな戯れ言を口にするような青年ではないとわかっている。
「事実だよ。兄さんと〝彼女〟の間で何が話し合われたのかは伏せられているけれど、双方納得の上だと聞いている。兄さんは一人でも立派に政務をこなしているし、〝彼女〟は故郷を出た。元々聡明で行動力のある人だったから目的があってのことだと思う」
「……」
時計の針が進む音がやたらと大きく聞こえる。無意識に数を数えて、浅く呼吸を繰り返した。
「ならば他の人と、という話も出たのだけどね。天城の血を引く後継が必要ならばその責は果たす。けれど郷の誰とも結婚はしない。――そうあの人は合議の場で言って」
伴侶など無くとも何の不都合も無いと証明してやるとばかりに、すべてを取り仕切っていると言う。
思考回路が暴風雨に巻き込まれたみたいに散らばって、あちこちに叩き付けられる気分。
「――めちゃくちゃじゃないですか」
どうにか絞り出した声は情けなく掠れていた。
何を我儘言っている、周りの迷惑を考えろ。そう怒鳴りつけたい相手はどうしたってここにはいない。
「あなたもあなたです。そんな話をHiMERUに聞かせてどうしたいというのですか」
棘を含んだ物言いをしてしまう。目の前の同じ色をした髪と瞳への八つ当たりでしかなかった。
「大切な人を置いてきた、と言うんだ」
「……は?」
「いくら兄さんの決めたことでも理解できなかったからね。考えを聞かせてほしいと詰め寄った僕に、兄さんはあっさりと教えてくれた。想う人がいるなんて初めて聞いたよ。HiMERU先輩、近くに居たあなた達は知っていたのかな?」
あぁ馬鹿らしい。そんな話聞いたことあるわけないじゃないか。つまり自分とあのふざけた遊びを続ける中で他に誰かを想っていたということか。それを悟らせないくらいの配慮はできていたらしい。
これだからギャンブラーは嫌なのだ。気付かなかった自分が滑稽で笑いしか出てこない。感情がかき混ぜられて黒い水面がカップの縁から零れ落ちそうだ。
「そんな人がいるなら会わせてほしいと言ったのだけど。片想いだから難しいと躱されてしまったよ」
「そ、うですか……。HiMERUも聞いたことはありませんよ。我々はそんな個人的な話をするような仲でもなかったですし。……相変わらず自分勝手な」
こんな話、もう終わりにしよう。ユニット活動を休止して故郷に戻った天城燐音は、当初の目的だった婚姻はせず、それでも上に立つものとしてきちんと才覚を発揮している。その現実を未だこちらに連絡してこないということは、アイドル活動の復帰はまだ見通しが立たないということ。
まとめてしまえばこれがすべてだ。やっぱり今夜一彩に会えて良かったのかもしれない、格好悪く抱え込んでいたモヤモヤをやっと切り捨てることができそうな気がする。
こちらの話はほとんどしていないけれどもうそんな気分になれなかった。時間も遅いし、そろそろ。と立ち上がるよう促そうとしたのだけれど。
「うむ。今回だって、仕事とはいえせっかくこっちに来ているのだからその人に会いに行けば良いと言ったのに。手土産を持って来なかったからとか何とか言って」
スイーツ?が無いと会ってはいけないものなのだろうか。と続いた言葉に心臓が一度大きく跳ねて、止まってしまったかと思った。
来ている、とか、手土産、とか……一体何の話。邪気の無い声が酷く遠くに聞こえて、これが頭が真っ白という感覚かと悟る冷静な自分がどこかで見ている。
嘘だ。嘘、そんなはずがない。
(――もう、いい加減にしろよ)
頭が締め付けられるように痛んで、理解することを拒む。代わりに湧きあがるのは怒りにも似た激情だけだった。
首が痛みを訴えるほどに見上げた夜空に星は見えない。聳え立つビルの照明が黒い空を四角く切り取る。幕の上がらないステージ。
肩にかけていたトートバッグの奥底から取り出したスマホの画面に新着の通知は一つもない。
発信履歴をどこまでスライドしても、探した名前は見つからなかった。そこで思い至る。そうか、この端末で自分からあいつに連絡をしたことなど一度も無い。いつだって向こうから来るのを待っていた。来るから仕方なく付き合ってやっているのだという言い訳をいつまでも有効にするために。
画面を切り替えて、着信履歴。限られた人間しか知らないとはいえ、さすがに二年も前の履歴など残っていないだろう……と、少しだけ期待を込めて画面を上に流し続けて。
「……何やってるんだろうな」
見つけてしまった名前。一度拳を握って、開く。それから小さく息を吐くと、傾いた受話器のマークを冷たい指先でトンッとタップした。
すぐに聞こえだす呼び出し音。一回、二回。
「……」
十回、いや七回鳴って出なければ切ろう。そうして、発信履歴も着信履歴も全部消してしまおう。今後連絡が必要になったとしたら事務所を通してだけにする。
四回、五回。
あと少し。早く過ぎてしまえ。
六回。
ああでも、一度くらい怒鳴りつけてやれば良かったかな。あんたに出会わなければ〝俺〟はこんな想いに捕らわれず、ただ一人大切な家族のためだけに生きていけたのに。
――七回。
最後のコールがやっと鳴り終わる。運試しのラッキーセブン。
「……だよな」
少しだけホッとして切断マークに指をかけた時だった。
『――――メルメル?』
秘めやかな声。
想像もしていなかった静かな声が、そのひとしか紡がない名で〝俺〟を呼んだ。途端、心臓がぎゅうと鳴く。言ってやろうと思っていた罵倒もなにもかも喉の奥に消えてしまった。
「……っなんで、出るんだよ」
理不尽なそれを吐き出すのが精一杯だ。震える言葉尻を拾われたくない。
『そっちからかけてきたくせに』
「出るなよ馬鹿」
出ないでほしかった。だけれど、懐かしい声が耳朶を撫でるのにこんなにも鼓動が乱される。残り香だと思っていた声。腹が立つ。
『こっちのセリフっしょ。……来たら、もう』
馬鹿なのはお互い様だ。
ああ本当に、どうしようもない。