美しい年齢達 ”ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。”
そう書いた小説家は、35歳の時にフランスの浜辺で戦死してしまったそうだ。15年余分に生きた暁には、その傲慢さも少しは悔い改められていただろうか。
少なくともシャハブからすれば、彼の考えは全く傲慢なように思えた。世間が20歳の人間を美しいと定義付けるなんて、無邪気に信じていたのだから。
この業界だと、20歳にもなればそうそう新人とは見做されない。高校を中退するや、国中からニューヨークへ、ロサンゼルスへ、マイアミへ、グレイハウンド・バスの片道切符を買ってぞくぞく押しかけてくるポルノスター志願者は後を経たない。例え古い肉が腐ろうと、新鮮な肉のお代わりは幾らでも。動画サイトのプロフィール欄を検索してみるがいい。この国中の19歳が登録しているのかと思うほどの人数が現れる。明らかに盛っている人間もいれば、その容姿で名乗るのは幾ら何でも肌が弛んでいるだろうと思える者まで、19歳の示す射程範囲は様々だった。
シャハブ自身、自らがこの1年間ですっかり老け込んでしまったと、つくづく感じていた。ローゼンベルグを命からがら卒業し、モラトリアム期間の冒険と言う名目、実質は家出だったのだが、近頃ようやく母も諦めてくれたようだった。敬虔な分、いざ決意するや、すっぱり後腐れを切り落としてしまう女性だ。今ごろ彼女の視線は、出来損ない以外の子供達へ向けられているのだろう。息子の誕生日にテキストの一つも送ってこないということは。
19歳になって6日。4年前から吸っているビュールのフレーバーをブルーベリー・アイスからミント・アイスに変えてから6日目。ビル風でベランダに吹き戻された煙が目に沁みて、涙がじわりと滲む。
サンタモニカ・ブルバードに聳える高層アパートは至ってシンプルな造り。シャハブの佇む、ちょこんと天辺に乗せられたジグザグ・モダン風のペントハウスは後付けなのかも知れない。映画のスクリーンを思わせる眼下の真っ平な壁面に、揺れるひょろ長いパームツリーの影が落ちることで、粋な装飾と化している。
これぞミニマリズムの極致なんだよ、と監督は鼻高々、自らの審美眼とここを借りられた己の手腕を誇っていた。だからこそシャハブは、もしもこれがアメリカン・デコって言うものなら、そういう概念とはかなり遠いはずなのに、なんて余計な口は挟まない。黙って見ていろ。テヘランから亡命してきた両親が子供達に授けた中で、シャハブが未だ信奉している数少ない金言の一つだった。
「すごい声だな、下から苦情が来そうだ」
英語を訛らせる時は鈍重さが全面に出がちなドイツ語も、いざ母語を喋り出せば張りのある抑揚に変わるのだから不思議なものだ。こればかりはスイスの寄宿学校へ放り込まれたことに感謝し、シャハブは背後を振り返った。
ダフィットはシャハブより7インチ以上背が高く、5歳は年上。眩しい金髪と、蜜のような色の瞳を持つ美しい面立ちは、刺すような日光の下でこそ輝いてみせる。なのにその逞しい腕を磨く場所はアンダーグラウンドの世界。彼はボンデージ・アーティストのドミニオン・キーネルに付いてアシスタントをしている。
「仕方ないよ。マーヴってば、カメラの前でネコ役やるのは久しぶりだって言ってたし」
「カメラの前では、か」
てっきり出番だから呼びに来てくれたのかと思ったが、ダフィットはシャハブの隣で同じように柵へ凭れ掛かり、ジュールを取り出した。事実、部屋の中で撮影は佳境に入ったばかり。先輩俳優のマーヴィンは迷彩ズボンとサンドブーツを身につけた男達に両手足を押さえ込まれ揺さぶられ、逞しい胸を喘がせている。そう言えば彼、去年は誕生日ケーキに28本の蝋燭を刺していたが、さっき監督に尋ねられた時は27歳と答えていた。別に詐称しなくても構わないのに、とシャハブはいつでも思う。この業界、綺麗で屈辱への耐性さえあれば、何歳になっても案外需要はあるものなのだから。
「怖いか?」
「え?」
「泣いてるから、気分が悪いのかと思って」
目尻の滲みを顎でしゃくられ、シャハブは慌ててTシャツの肩口で塩辛い雫を拭った。
「ううん、違う。煙草の煙が目に入っただけ」
「ならいいけど」
白煙を吐き出しながら瞼を細める仕草一つでも、彼がこなすと様になる。これだけエレガントに吸ってみせるハンサムな若者がいるから、電子煙草産業は社会問題になるのだろう。
尤も、漂ってきた匂いは甘ったるく、お世辞にもクールな風格とは言えないものだったが。
「何のフレーバー吸ってるの?」
「クレーム。失敗した、間違って姉貴の奴持ってきちまって」
頭を掻きながら、ダフィットはシャハブの指先へ視線を落とした。
「この前まで、ブルーベリーじゃなかったっけか」
同じ現場へ入ったことは何度かあったし、自惚れでなく、彼がこちらを観察するような目で窺っていたことには気付いていた。だがまさか、ここまで覗き込まれていたなんて。
にこっと笑みを浮かべたのは、殆ど防御反応に近かった。周囲が可愛らしいと思ってくれる顔の形を、何とか作れていたはず。尤もそこから先はもじもじと赤面し、シャハブは「あげる」と手の中のものを突きつけた。
「僕も失敗したんだ。全然好みじゃなくて……使い切りだし、気に食わなかったら捨てて」
「そう? 悪い」
こうやって、何にも衒いなく差し出された物を受け取ってしまう辺り、彼の育った家庭環境が垣間見える。自らが同じような態度を取った時に受けた揶揄を、この男は浴びなかったのだろうことも。
幸い、一服して「甘いな、ミントの割に」とぼやいた口調へ感じた憎たらしさは、ガラスを叩く音に掻き消される。
「もう準備開始? 大丈夫なのかな」
薄々思っていたのが、監督はどうにも段取りが悪い。恐らく本物だろうオーガズムで疲弊したマーヴィンに、跪き床に頭を擦り付けるような格好で縛り上げられたシャハブのアナルをディルドで責め立てる元気があるとは思えなかった。
「今日中に撮影を終わらさなきゃいけないんだろう。巻いていかないと……待った、シャハブ」
肩にかけられた手が、翻った体を制止する。ダフィットは大柄な体躯に見合わず、機敏に動いて察することのできる男だ。少しびっくりしてしまったことに、気付かれたかもしれない──彼に名前を呼ばれたのは、初めてのことだった。
「カメラ回すまで、もうちょっと時間あるな」
手を貸して、と言われて差し出せば、すぐさま自らより大きな手のひらに包み込まれる。
「あの格好、体の末端が痺れるから」
親指から順に、爪の両脇を揉んで引っ張る指先も、体格の割にはごつごつしていない。俯いた拍子に、さらりと流れる金髪が額を擽るから、思わずシャハブは微かに身を強張らせた。
「リラックス……ドムは君を縛る時、少し強く縄を張りすぎてると思う。マーヴィンみたいに頑丈な人間を相手にするのとは違うのに」
「うん、まあ、そうなのかな……見た目ほどは痛くはないけどね。やっぱり彼、プロだし」
多くはない経験を思い返して首を捻るシャハブの目から、今度はダフィットが視線を逸らす番だった。ビュールの本体を口に咥え、手のひらの真ん中を親指で押したり、滑らせた指を指の間に嵌め込んで強く握ったり。するっと重なった手のひらは、さらりとしていながら火照っている、きっとお互いに。真上から照り付ける太陽も相俟って、くらくら来そうだ──薄く垂れ込め始めた朦朧に、ミントの香りが纏わりつき、熱く干上がってきた粘膜をひりひり痛めつける。
「ありがと、ダフィット。もう行くよ……あ、でも」
「ん」
「ちょっと最後に、一服吸わせて」
辿々しく訴えれば、ダフィットは無言のまま、空いている手をジーンズのポケットに差し入れた。
取り出されたデバイスのスイッチを入れ、真正面の端正な面へ掛からぬよう顔を背ける。水蒸気は熱波で瞬く間に溶け消えたが、バニラを思わせる甘い香りはいつまでも乾いた空気に残り続けた。己が渡したのと入れ替わりにビュールを押し込み、ダフィットはこの場において、彼ら二人にしか通じないドイツ語で囁く。
「甘いの、好き?」
「どうせ子供だから」
「別に大人でも、甘いものが好きな人間はいるだろう」
そう嘯く彼だって、現場では見習いの使い走りとしてガキ扱いされているのに。どうせ己と5歳も年齢が変わらない癖に。
手を離す間際、高い鼻梁が汗ばむこめかみを掠める。思わずシャハブは、処女じみた弱々しさで首を竦めた。
「子供なら、あんな美しい格好で縛られたりできない」
可愛いとかいたいけとかはこれまで散々褒められてきたが、美しいと言われたことは初めてかもしれない。
「馬鹿だなあ」と笑いながら吐き捨て、踵を返したときにはもう、マッサージの効果も現れていたのだろう。指先はじんじんと血の気が迸り、いっそ痺れるかのようだった。だからうっかり、忘れてしまったのだ。手のひらの中へ、固く握りしめたままなジュールの存在を。