【スリーピング・デューティ】恐るるべき子供 知り合ってすぐの頃、と言うことはまだリグレーが高校生の頃だが、マルボロが写真集を貸してくれた事がある。
友人達と釣りに出かけた帰り道、とっぷりと日も暮れた森でオーバーヒートした車の中、アレと遭遇したらどうしようと震え上がっていたところに現れた救世主。初めてまともに会話をした時から、リグレーはすっかりハンサムなおまわりさんに首ったけだった。
マルボロはリグレーが法定年齢に達するまで手を出さない代わり、色々な知識を授けてくれた。例えばモータウン・サウンドの素晴らしさとか、コミックが原作ではない映画の面白さとか。
半世紀以上前に活躍したカメラマンの業績についても、学びの一環として教示しようとしたのだろう。当時のリグレーが知る女性のポートレイトといえば、スポーツ・イラストレイテッドに月替わりで掲載される裸体が関の山だった。どれだけページを繰っても、淑女達はビキニのトップスすら外そうとしない。と言うか、そもそも水着写真がない。この乙に澄ましてオートクチュールの服を身につける、鶴のように細い淑女達の一体何が良いのだろう。ショッピングモールまで車で3時間走らないと詣でられない田舎のティーンエイジャーがそう考えるのは、ある意味当然の話だった。
けれどその頃のリグレーは、とにかくマルボロに好かれたくて仕方なかった。だから一週間後に本を返した時は「面白かったです」なんて精一杯涼しい顔で答えたのを記憶している。
マルボロは明らかに信じていない口調で「分かったか?」と念押しした。はい、と素直な学生そのものの口調で返事したリグレーは、勿論自分が何も分かっていないことを知っていた。
実を言うと、それだけで十分だったのだ。マルボロは今でも、リグレーの無知を馬鹿にしない。例えどれだけ世界がワールド・ワイド・ウェブに接続されていても、こんな鄙びた村落に住んでいる限り、学べる知識というものには限界がある。与えられたものを拒絶しないだけでも十分だった。
そもそもマルボロだって、あれだけ色々躾けようとした癖、リグレーが一定以上賢しらになるのを望んでいない節がある。きっとおじいちゃんになっても、あの男は自らのことを「坊や」と呼ぶのだろう。それまで生きていられたらの話だが──若くして死ぬ方法は無限に列挙することができた。凍った雪道でタイヤを取られて木に激突する。不摂生が祟って糖尿病になり足が腐る。アレの鋭い爪で引き裂かれる。ゲイであることがバレた挙句、スローガンを刺繍した赤いキャップの酔っ払い達にチェーンで殴られた後、橋から川へ放り込まれる。
腹上死したかの如く、ぴくりとも身じろぎしないで惰眠を貪る自らへ、しばしばマルボロがスマートフォンを向けていることは知っていた。眠りが浅い性質なので、シャッターをタップするカシャリという音で目が覚めてしまう。
「なに……?」
「何でもない。良いから寝てろ」
シー、と小さく囁き、汗ばんだ髪を撫でる手つきはあくまで優しい。けれどじっと見つめる瞳が怖いほど真剣だと、夜闇の中ですら気付けば、意識にかかった靄も押し除けられる。
「そんな写真ばっかり撮って、誰かにスマートフォンを見られたらどうするんです」
「ちゃんとロック掛けてあるから大丈夫さ」
服も身につけず、マルボロは芸術に取り組んでいた。幾ら天が圧して潰すような暑さが本格化したとは言え、こんな夜更けには多少空気も冷涼を増す。未だ眠気に浸っている脳に、彼が咳をし続けて死ぬ、という想像が、突如侵食して広がる。
まだモバイルを弄っているごつごつした男の手を掴み、リグレーはそっと引いた。
「一緒に寝て」
不気味な白々しさを放つ画面から顔を上げたマルボロは、しばらくまじまじと年下の恋人を見つめていた。やがて端末をナイトテーブルに伏せて置き、湿ったシーツの中に滑り込む。
「えらく甘えん坊だな」
「だって寒いんです」
「こんな季節に何言ってんだ。寝冷えしたか」
頬を両手で包み、こつんと額を押し当てて、熱がないことを確認してから、再び相手の目を覗き込む。
「本当に変わった子だよ、お前は」
もはやどちらも情事の火照りは引き、リグレーが相手の分厚い胸板に触れても、とくとくと穏やかな鼓動を感じ取れるのみだった。今夜はこれ以上求められないという確信が、落胆と安堵を同時に連れてくる。感じている全ての気持ちを隠さず、猫のようにお互いの鼻先を擦りつければ、マルボロが蕩けるような笑みを浮かべたと、唇に掛かった吐息で知る。
「変わり者だが、おじさんの可愛い可愛い坊やだ」
頬から滑った手のひらが項を掴み、力強く引き寄せられる。接吻はあくまでじゃれ合いの延長でしかない。軽く吸われて、それから充血を残した粘膜に歯を立てられる。ぷちりと弾けてしまう前に舌で舐められて慰撫されるから、お返しにリグレーも、益々ひたりと体を寄せて、体温を分けた。己が熱いのではない、マルボロが冷え切っている。何も羽織らずに遊んでいるなんて、幾ら頑丈でも心配になってしまう。
くったりと力を抜き身を委ねることが、こんなにも心地良いなんて、彼に恋をするまで知らなかった。差し入れられた指先で後頭部の髪を遊ばれながら、リグレーは彼がこれまで与えてくれたものへ思いを馳せた。プリンス、ブライアン・デ・パルマ、ノーマン・パーキンソン──どうしても思い出せなかったカメラマンの名前が、不意に脳裏へ蘇る。
「あのさ、マー」
軽く首を振ることで、再び汗ばみ始めた額に張り付いた髪を払い、リグレーは囁いた。
「昔、俺に写真集を見せてくれたことがあるでしょう。ノーマン・パーキンソンの」
「ノーマン……ああ、そんなこともあったな」
「あの時、マーが俺に聞いたこと、ずっと気になってたんです。『分かったか』って」
目を閉じ、ひんやりした広い肩に顔を埋れば、もはや落胆など己の何処にも見出すことは出来ない。マルボロの腕が己の腰に回れば、ただただ安堵だけが胸を満たして、今にもはち切れんばかりだった。
「やっと分かりました。俺は、あんなにも洒落た人間じゃない。でも、マーの目を通して見た時だけ、俺はきっと、フィルムの中にいるみたいな、素敵な存在になれる」
「大した自信だな」
「笑っても構いませんよ、お互い様なんですから」
謎が解けるのと同時に、マルボロがやたらと写真を撮りたがる理由も何となく分かった気がする──これに関しては、そこまで深く追求する気はない。そんな野暮よりも、こうして本能に攫われ、現実を噛み締めながら寄り添っている方が、余程幸せだった。2人で捏ね上げた美にとっては、流血の惨事すらもインスピレーションとなる。
「ホリー・デロップのこと……」
「死体は見つからんだろうな。ったく、無駄なことを」
マルボロが「無駄」と断言したのは、彼らがかつて通っていた高校で変わらず蔓延るスクール・カーストの事であり、大人しい図書委員の女の子を帰り道で置き去りにして行方不明に追い込んだチアリーダー達の行為を指す。もう捜索は一週間続き、明日最後の大攫えをしたら、ボランティアも撤収させる予定だった。
「あんな可愛い子をいじめるなんて。彼女、オードリー・ヘップバーンに似てません?」
「そうか? 全然……」
そこで言葉を途切れさせるのと同時に、マルボロはスペアリブを骨から剥がすように噛んでいたリグレーの耳から、唇を離した。片手で手探りしてシーツを引き上げ、まだ引っ付き合ったままの体にぐるりと巻きつける。
「何にせよ、せめて遺体の一部でも見つけて、チャールズとジェーンに返してやらないと」
「千切れた腕だけ渡すより、いっそ何も見つからない方が、救いになるように思えますけど」
その頃にはもう、リグレーも広い肩に収まりのいい場所を見つけている。額を押し付けて目を閉じれば、ふわあ、と間抜けっぽい欠伸が柔らかく鼓膜を打つ。
「そういうところが、何も知らない坊やだって言うんだ」
あやすよう優しくリグレーの背中を叩きながら、「おやすみ」と言う前に、マルボロはそのような趣旨のことを口にした、のだと思う。リグレーがそれ以上反抗せず、再び微睡の中へ引きずり戻されるに任せたのは、理解できたからだった。自分の考えは間違っていない。この愛する男は、自らのことを散々子供扱いするが。
そもそも子供は何も知らないと思っていることこそ、大人特有の傲慢さに他ならないのだ。