【天桃+宇煉】魔法学校パロ 校長室へ向かうため早足で廊下を歩いていた桃寿郎は、突然、どんと背後から体重を感じたと同時に温かい何かに包まれた。
「わっ」
あきらかに何かが自分の背中にのしかかっているが、左右をきょろきょろとしても見えるのは自分の浅葱色のローブの肩や袖、白い石造りの廊下の壁や床ばかりだ。だが、覚えのある重みと、ほんのり鼻を掠めるミントとヴァーベナの甘く爽やかな香りに、桃寿郎は思い当たる人物の名を口にした。
「……天満?」
「わかった?」
何もない空間からにょっと現れた顔は精密な魔法で作られたように整っていて、銀の髪も睫毛もきらきらと輝いている。宇髄天満。この魔法学校の最上級生であり、桃寿郎にとっては五歳年上の先輩にあたる。魔法の実力は確かだが、魔法よりも自身の身体を操るほうが好きなのだと言って、マグルの世界で体操競技に興じている少々変わった男でもある。
精巧な美貌に十七歳という未完成さが相まって、彼の外見は周囲を強く惹きつけた。天満に憧れる者は多かったが、天満は桃寿郎が入寮した当初に上級生として世話を焼いたのをきっかけに、めっぽう桃寿郎に構いたがった。たとえば、ほかのどんなに可愛らしく天満を誘う、幾人もの女生徒よりも。
桃寿郎を驚かして満足そうにしながら天満が何かを脱ぎ去る動作をするにつれて、肩から腕、そして全身が露わになる。その様子に桃寿郎は目を見張った。
「透明マント! どこで手に入れたんだ」
「夏に家に帰ったときにさ、蔵漁ってて見つけた。親に訊いたら、昔ここに通ってたご先祖様が遺してたらしい」
「テンゲン・ウズイ?」
「そそ」
テンゲン・ウズイはこの学校の歴史を語るうえで必ず名が登場する九人の大魔法使いのひとりであり、天満の血縁だった。テンゲン・ウズイを知る者は、天満の姿かたちは彼にそっくりだと口々に言った。天満自身は彼を写真の中でしか見たことがなく、確かに似ているがそこまでだろうかと首を捻ることがしばしばあった。
「古いやつだけどまだ全然使えてるだろ?」
「ああ。すごいな! でも本当に隠れるなら、コロンを抑えないとすぐ天満だってわかるぞ」
天満のまとう特徴的な香りで正体を暴いた桃寿郎の指摘に、天満は一瞬驚いたような表情をしてからやがて頬を綻ばせた。
「それわかるの、おまえくらいだよ」
「そうか?」
きょとんとした桃寿郎は、校長室へ向かっていたことを思い出してローブの肩を小さく跳ねさせ、廊下の先へ向かって足を速めた。その横を天満がついてくる。
「どこ行くんだ?」
「校長先生に呼ばれている」
「へぇ。なんで?」
「わからない。またあとでな」
あっさりと散会を告げた桃寿郎に、天満は悪戯っぽい笑みを満面に浮かべて更に肩を並べた。
「俺も行く」
「え?」
「これ着てってさ、バレないか試してみようぜ」
天満は、今は手の中で姿を現しているベルベットのように艶のある紫色をした厚いマントを傾げて見せた。透明マントで身を隠し、校長室へ同席しようというのである。桃寿郎は目を丸くした。
「無理だ。キリヤ先生だぞ。偉大なひとだ。すぐバレる」
「いやでもさ、テンゲン・ウズイだって相当な魔法使いだったんだろ」
「……天満、知ってるだろう。ムザン・キブツジの伝説」
桃寿郎が神妙に声を落とす。校長室へ直結する廊下には二人以外誰の姿もない。それでも、まるでその名前は口にしてはいけない音のように、二人の足音の合間にひそやかに響いた。天満も、頷きながらわずかに眉根を寄せる。
ムザン・キブツジ。この学校の卒業生であり、そしてこの国の魔法史を語るときに避けては通れない、邪悪な闇の魔法使いの名だった。彼とそのしもべたちによって善良な魔法族の人々やマグルが何人も命を落とし、更に恐ろしいことに彼らはその肉を口にしたというのだ。
ムザン・キブツジを輩出した罪を贖い、人々の安寧を取り戻すため、学校は全舎を挙げて悪に立ち向かった。そのとき中心となったのがテンゲン・ウズイを含む九人の魔法使いだった。学校の卒業生と在学生とで構成された九人は、いずれも齢若い魔法使いでありながら高等魔法を使いこなし、その他の正義感溢れる生徒たちを率いてムザン・キブツジの排除におおいに貢献したという。その九人をさらに束ねていたのが現校長のキリヤ・ウブヤシキだというのだから、容易に測りかねるほどの実力をもつ魔法使いであることは明白であった。非常に長命であるともいえ、キリヤが何歳であるかを正確に知る生徒もいなかった。
ムザン・キブツジとの戦闘では、偉大なる九人の魔法使いですらも次々に命を落とした。その中で、テンゲン・ウズイは最後まで生存し、やがて三人の純血の妻との間に、天満に繋がる子孫を残したという。
一方、落命した魔法使いの中に桃寿郎の血縁者がいた。名をキョウジュロウ・レンゴクといい、彼自身は若くして絶命したため子孫を残さなかったが、彼の弟である千寿郎がやがてマグルと結ばれ子を成し、その血が桃寿郎へと連なっていた。
キョウジュロウ・レンゴクについては多くが残っておらず、桃寿郎は彼の顔を知らなかった。だが直系の先祖である煉獄千寿郎がいくつか書を残しており、非常に聡明で、それでいて勇ましい魔法使いであったと記されていた。桃寿郎の周りで唯一キョウジュロウ・レンゴクを直接知っている人物である校長のキリヤは、桃寿郎が入学した際に『キョウジュロウにそっくりだ』と言って微笑んだ。
学問で名を遺した千寿郎、そして勇気をもって悪に挑み命を散らした誇り高き魔法使いであるキョウジュロウ・レンゴク。二人の存在は桃寿郎の目標でもあった。『キョウジュロウに似ている』というキリヤの言葉は、桃寿郎の心にほんのりと喜びの火を灯した。
「まあ、見つかったらすぐ退散するよ」
校長室に続く長い螺旋階段は、無数の細かな貝殻が埋め込まれ白く光っていた。一段上がる度に、ブーツの裏底がシャリリと繊細な音を鳴らす。いつのまにか周囲の壁がなくなり、螺旋階段はまるで天に向かって伸びているように見えた。空は見えないにも関わらずあたりは陽光が注ぎ込んだように明るい。額縁に納められた蠢く絵画たちがなにもない空間にふわりふわりと浮いている。どこからか鳥の鳴く高い声が聞こえた。
階段を昇りきったところに、重厚な扉があった。桃寿郎がちらりと隣の天満を見る。天満は得意げな顔をして頷き、頭からマントを被った。天満の姿がすっかり消えたのを確認し、桃寿郎は扉をノックした。
「校長先生、桃寿郎です」
しかし返事はなく、桃寿郎は首を傾げる。すると扉が勝手にギイ、と奥へ開き隙間ができた。校長に招かれたかと思った桃寿郎だったが、すぐにそれがマントを身につけた天満の仕業だと気づく。
「中で待てばいいよ」
透明な天満が小声で囁く。桃寿郎は少々戸惑ったが、最上級生である天満が言うならそういうものなのだろうと考え、校長室に足を踏み入れた。
桃寿郎は、校長室に来たのが初めてだった。こじんまりとした室内は、数段の下り階段が取り囲みすり鉢状になっていた。左右の壁は書物のぎっしり詰まった棚で埋まっている。階段を下った底部分は今では珍しくなった畳と思しき素材が敷き詰められ、草色の床にどっしりとした背の低い木製の机が置かれていて、それが校長机だろうと思われた。机の前には月のよく見える夜空のような色をしたふかふかの座布団があり、中央のへこみが校長が普段そこへ坐して仕事をしていることを示していた。部屋はさして広くないが天井が高い。見上げた上空へは木造の梁が複雑に張り巡らされ、そこから歴代の校長の肖像画が吊るされている。高窓にはすべて襖が張られ、半透明の陽射しが柔らかく室内を照らしていた。
校長机の背後の位置に、床が一部板張りになっている場所があった。そこだけ壁が奥まっており、筆で書かれた掛け軸が掛けられている。漢字のようだがずいぶん昔の字体であるようで読みとれない。板張りの床の上に花が活けられ、その横に透明な水を湛えた大きな水盆があった。
桃寿郎はその水盆に目を留めた。水面がぼんやりと輝いていたからだ。桃寿郎の隣で天満が姿を現す。マントを脱いだのだ。
「天満」
桃寿郎が嗜めると、天満はなんでもないというようにくるくるとマントを丸めながら言った。
「大丈夫。校長が来たら足音でわかるから。それよりさ、……あれ」
天満も水盆に興味を示したようだった。さすがに多少おそるおそるといった足取りで、短い階段を下りていく。
「天満」
「前来たとき、あんなんなかった気がする」
呟きながら階段を降りブーツで畳を踏んだ瞬間、天満の足元の井草がしゅるしゅると伸びてブーツに絡みついた。
「げっ」
「天満!」
細い井草は蔓のように天満のブーツを絡めとり、それを無理やり両足から剥ぎ取った。天満の黒い靴下が露わになると、井草の蔓はまたしゅるしゅると戻っていき、畳は何事もなかったように静まり返った。その上に脱がされた一組のブーツが転がっていた。
「……土足厳禁だそうで」
慌てた姿を見せてしまったことで気まずさを抱えながら、天満が桃寿郎を振り返る。
「勝手に入ったらいけないんじゃないか」
「でも、入ること自体は止められなかったぜ」
心配そうな顔で見守る桃寿郎を背に、天満は校長の机の脇を通り部屋の奥へと進んでいく。掛け軸の前へとたどり着いた天満は水盆を覗き込み、それから振り返って桃寿郎を呼んだ。
「来いよ。見るだけなら大丈夫だろ」
桃寿郎はこくりと頷いて、あらかじめブーツを脱いで階段の上に揃え、天満のあとに続いた。
「……光ってる」
天満の後ろから水盆を覗き込んだ桃寿郎は思わず呟いた。
硝子の水盆に湛えられた水は横から見ると確かに透明な水であるのに、上から見下ろすと真珠のような輝きを発していた。水中には白濁とした煙のような筋がいくつも漂い、不思議な模様を描いている。だが横から覗き直すと、やはり水盆の中にあるのは魚すら泳いでいそうなほどに透き通った水だった。
「すげえ。なんだろうこれ」
天満が目を輝かせながら水盆をさらに深くのぞき込む。そのとき桃寿郎は水中に小さな人影を見たような気がした。
「誰かいる」
「え?」
天満が桃寿郎を振り返り顔を上げたときだった。まるで水中から引っ張られるように天満の頭が飛沫を上げて水盆へ沈んだのだ。
「天満⁉」
桃寿郎が手足をばたつかせる天満の背中を慌てて掴む。引っ張り上げようとしたが天満の身体はびくともせず、すごい力で水の中へと引き寄せられているようだった。このままでは天満が溺れてしまう。なんとか天満の顔を水から出さなくてはと桃寿郎がばしゃばしゃと飛沫の立つ水面へと顔を近づけた瞬間、ぐっと何者かに引っ張られるような力を感じ、桃寿郎は身体ごと水盆の中に〝落ちた〟。天満とともに。とても二人の身体が入るような大きさの器ではなかったが、そのとき桃寿郎が抱いた感覚は、落ちたと形容するしかなかった。
「――ッ!」
咄嗟に止めていた息を吐き出し目を開くと、隣には天満が倒れていた。
「天満、天満っ」
天満の身体を揺すって気づく。天満のグレーのベストもシャツもパンツも、何ひとつ濡れていない。絹糸のような髪もいつもどおりだ。自身のローブや服を確認しても、水に濡れた重みは少しも感じられなかった。あたりを見回せば、そこは学校の廊下だった。白い床、白い壁、白い柱。日頃見ている光景と同じだ。だが、桃寿郎が普段受けている講義が行われている部屋の付近ではないようで、桃寿郎にはそこが校内のどのあたりかわからなかった。あの靴を脱がせてきた畳の蔓のように、校長が仕掛けていた魔法でどこかに飛ばされたのだろうか。そう考えながら桃寿郎がふと自身の足元を見ると、橙色の靴下が目に映った。ブーツは校長室に置き去りらしい。
「……桃?」
目を覚ました天満が起き上がる。そしてはっとしたように桃寿郎のローブの肩を掴むと、桃寿郎の身体をあちこち見回した。
「大丈夫か。怪我は?」
「大丈夫だ。濡れてもいないし……、あの水盆に落ちたような気がしたんだが」
天満も同じ感覚があったが、やはり状況は掴めず唸るしかできなかった。天満は透明マントとブーツがないことに舌打ちしながらその場に立ち上がった。桃寿郎も続けて立ち上がり、改めて周囲を見る。
「ここって、どのあたりだろう」
天満が、窓の外の景色と廊下の作りに目を走らせ、眉をひそめた。
「北塔の……立ち入り禁止区域じゃねえかな」
「えっ」
桃寿郎が天満の顔を見ながら大声をあげる。魔法学校のルールは厳しい。ポイント制になっていて、称賛を得る行動があればポイントが加算され、逆にルールを破るなど在校生としてふさわしくない行動を取ればポイントは下がっていき、マイナスが続けば退学もあり得る。意図せず立ち入り区域に侵入しているというなら、教員たちに見つかる前に早急に立ち去らなければならない。
桃寿郎が、行動に移るため天満の手を取ろうとしたとき、突然すぐそばで足音がした。
「――!」
「!」
天満と桃寿郎が揃って息を詰める。
目の前に、桃寿郎たちと同じ制服を着た男子生徒が立っていた。それまでまるで何もなかった空間に、彼は突然に現れたのである。二人は身体を強張らせた。二人が驚いたのは、彼が急に姿を現したからだけではなかった。
天満に似ている。
銀色の髪、薄い眉、つんと高い鼻、白い頬、美しい顎の稜線。天満より少し背が高く、目はより切れ長だった。だが瞳の色は同じアメジスト。そして手に、紫色のもったりとしたマントを抱えていた。
「おい、それ俺の……っ」
思わず食ってかかった天満だったが、男子生徒は無反応だった。それどころか二人がまったく目に映っていないかのように、まるで視線が合わない。男子生徒の視線は、天満と桃寿郎の背後の空間に注がれていた。
「よお」
男子生徒が突然口を開き、天満と桃寿郎はびくりとして互いを引き寄せ合った。しかし、男子生徒は二人を気にするそぶりもなく、それどころかずんずんと二人の目の前に迫ってくる。
「おい、おい、ちょっ……」
今にもぶつかるというところで、男子生徒の姿がふっと消えた。否、彼は二人の身体を通り抜けたのだった。まるで亡霊のように。
「――え?」
天満と桃寿郎が呆然として、先ほどまで彼がいた空間を見つめる。
「あれ? え?」
「……彼は、亡霊なのか」
校内のあちこちには、過去にさまざまな理由で命を落とした亡霊たちが彷徨っており、時に楽しげに、時に哀しげに死後を謳歌している。だが彼らは皆、半透明の姿をしておりすぐに亡霊だとわかる。男子生徒ははっきりと人の姿をしていた。
「宇髄」
その場にもうひとつ、声が響いた。天満と桃寿郎が振り向く。先ほどの男子生徒は確かに二人の背後に移動していた。その先にもうひとり、男子生徒が立っていた。その男子生徒の姿を見て、天満と桃寿郎はふたたび息を呑んだ。
彼は桃寿郎にそっくりだった。天満と男子生徒よりもさらによく似ていた。年齢が桃寿郎より少し上なのだろう、精悍な顔つきは桃寿郎がそのまま成長したかのようだった。髪も桃寿郎より少々長い。よく似た質感の、ところどころ燃えるような赤が混じった金の髪の一部を後頭部で結わいていた。桃寿郎たちと同じ、グレーのベストに白いシャツ、紺のネクタイの上に山吹色のローブを羽織っている。
「相変わらず、姿現しがうまいな」
「君は何回俺に無免許でやらせる気だ」
「まあまあ、もうちょっとで試験受けられるんだし。誤差っしょ。バレてないし」
「カガヤ校長が校内のことを知らないとは思えない。見逃されているんだろう」
「なら余計いいじゃん。煉獄だから許されてるってことで」
二人の男子生徒は、天満と桃寿郎の存在など気にも留めずに会話を交わしている。実際、彼らには自分たちの姿が見えていないのだろうと二人も気づき始めていた。
「……もしかして」
桃寿郎が天満の腕を掴む。伝わるわずかな震えに、天満は桃寿郎を引き寄せて、自分の腕を掴む手を取ってぎゅっと握ってやった。
「テンゲン・ウズイ」
天満が囁くように、しかし確信をもった声色で名を紡ぐ。桃寿郎はうんうんと頷き、自身によく似たもうひとりの男子生徒に目を移した。
「あっちは、」
「キョウジュロウ・レンゴク――」
二人の声が重なった。
「ここは――〝現在〟じゃないんだ」
桃寿郎の言葉に天満も頷く。テンゲン・ウズイとキョウジュロウ・レンゴクと思われる二人は会話の中で、校長の名を「カガヤ」だと言った。カガヤはキリヤの父親であり、先代の校長の名だった。
今、天満と桃寿郎が立っている場所は学校内で間違いない。だが時間軸が違うのだ。なぜか二人は、過去の学校にいる――。テンゲン・ウズイとキョウジュロウ・レンゴクが学生として在籍している時代に。そしてどうやら世界に干渉することはできず、傍観だけが許されているのだった。
〝姿現し〟は難しい魔法だった。そのときいる場所から姿を消し(〝姿くらまし〟と呼ばれる)、望んだ場所へ出られるが、失敗すると命の危険があることから免許制を取る国が多く、桃寿郎たちが通う学校では十六歳から試験を受けられることになっていた。魔法族の成人年齢である十七歳になるまで免許が取得できない学校もあるという。
「だがこうしてここで会えるのもあと少しかもしれない。まもなく、校内での姿くらましに制御がかかるという噂だ」
「鬼舞辻無惨の動きが活発になってるからな」
「ああ」
天満は、掴んでいる桃寿郎の手をぎゅっと握り直した。ムザン・キブツジ。名を聞いて実感が湧いてくる。彼がまだ生きている時代なのだ――ここは。ひゅっと周囲の気温が下がったような感覚に陥る。言い伝えでしか知らない悪が、もしかしたら今この瞬間にも周囲に潜み、彼らへ息を吹きかけようとしているかもしれないのだ。
桃寿郎は彼らの会話に耳を澄ませながら、彼らの様子を興味深げに観察していた。テンゲン・ウズイは透明マントで、キョウジュロウ・レンゴクは姿現しで、この禁止区域に集合することを約束していたのだろう。この場所はこの時代も禁止区域であるはずだった。でなければ彼らがこそこそ集まる必要はない。密会の理由は、ムザン・キブツジを討伐する計画に関することだろうか。いずれにしても、把握できる事実としては。
「ご先祖様たちは、親しかったんだな」
そうだな、と頷く天満の声を聞きながら、桃寿郎はその事実を噛みしめていた。九人の魔法使いとしてともに闘ったということから知り合いであるとは理解していたが、その中でもこうして二人きりでなにかを相談するほどに仲が良かった。それがなぜか、桃寿郎の心を浮き立たせた。
「聞いたか。魔法省の幹部がまた鬼舞辻無惨のしもべに襲われたという話だ」
「ああ。現れたのは要注意の六人のうちのひとりだろ」
「そうだ。占い学の先生が次に奴らが現れる可能性が高い場所を特定した。鬼殺隊として俺が行くことになった」
「え、聞いてねえけど。俺は?」
「君にはまた別の任務があるらしい。そのうち指令が下るだろう」
テンゲン・ウズイはふぅん、と理解を示しながらも表情を曇らせた。
「気をつけろよ」
「――ああ」
天満は、テンゲン・ウズイの自分に似た顔をじっと見つめた。姿かたちが似ているからだろうか。天満には、彼が今考えていることがわかるような気がした。実際、彼と天満は似ている。顔だけではなく、入学時に支給されたローブを着ていないところなんかも同じだ。この学校のローブは特殊な素材でできていて、身につけた本人の体型に合わせサイズが変わるため卒業まで一貫して使えるほか、使用者の成績に応じて色も変わっていく。支給時は薄桃、最終的に全教科を極めた者のローブは金色に染まる。入寮二年目の桃寿郎が浅葱色であるのは早熟であるし、もうすぐ十六歳、つまりまだ最高学年に至っていないキョウジュロウ・レンゴクのローブが金色のひとつ前である山吹色であるのは、彼の存分な優秀さを示していた。
ローブの色を見ればその者の現在のレベルがわかるため、指導の面からも日常的な着用が推奨されていた。だがローブの色は校舎内でのヒエラルキーにも直結する。天満はそれを厭い、正式な場以外ではあえてローブの着用を避けていた。たとえその色が成績優秀者の色に染まっていたとしても。おそらく、テンゲン・ウズイも同じであろうと天満はほとんど確信していた。だから勘づいた。大切に想う相手も、きっと同じだと。
テンゲン・ウズイの手がキョウジュロウ・レンゴクの頬にかかる。
天満は『ああ、どうしようかな』と思い、目線だけを動かして隣の桃寿郎をちらりと見た。桃寿郎はおそらく何も気づいていないだろう。――彼らの関係について。
テンゲン・ウズイの手に誘われるように、キョウジュロウ・レンゴクが顔を上向け瞳を閉じる。テンゲン・ウズイがそこへそっと唇を落とした。
天満と繋がっている桃寿郎の手が驚きに跳ねた。天満の推測通り、桃寿郎はこんな展開をまったく予想もしていなかったのだ。なんなら人がキスしているところを見るのも初めてだった。しかも、自分に似た男と、天満に似た男が。それぞれの血縁者同士が唇を寄せ合っている。
テンゲン・ウズイの首に、キョウジュロウ・レンゴクの腕が回る。二人のキスは徐々に深くなっていき、荒い息遣いや互いの咥内を貪る濡れた水音までもが天満と桃寿郎の耳に届くようになっていた。
「――どうして」
桃寿郎は顔を真っ赤にして、空いている片腕で口元を隠していた。
「恋人同士なんだろ」
「……こいびと」
「まあ桃にはちょっと早いな。行こ」
天満が桃寿郎の手を引っ張る。足が固まってしまっていたようで桃寿郎の身体はすぐに動かなかったが、天満に再度引っ張られると橙色の靴下の足元はようやくよろりとその場を離れた。
どこへ行けば良いかわからぬままぱたぱたと二人で廊下を駆けながら、桃寿郎はまたしても呟いた。
「どうして」
「だから、あの二人は、」
「だって、テンゲン・ウズイは結婚して子どもがいただろう。だから天満がいるんだろう。でも、でも――」
だったらあの二人の関係はなんなのか。混乱する桃寿郎に、天満は言った。その答えは、歴史が語っている。
「キョウジュロウ・レンゴクは死んだからだ」
桃寿郎が立ち止まる。繋いでいた手を引かれる形になり、天満も足を止めた。
信じられない、という気持ちで桃寿郎の胸はいっぱいだった。さっき見たあの自分にそっくりな男子生徒が、山吹色のローブをまとい、あんなに凛とした振る舞いをし快活に会話していた男が、あのあと、ムザン・キブツジとの闘いの中で命を落としたというのか。テンゲン・ウズイを残して――。
天満は、血の気を失った顔で立ち止まっている桃寿郎を見ながら、自身の先祖であるテンゲン・ウズイを思った。彼はキョウジュロウ・レンゴクを愛していた。目を見ればわかる。血が繋がっているからか、もっと深いところで繋がっているからか。キョウジュロウ・レンゴクを失って、彼は悲しみに暮れただろう。天満も同じだ。もし桃寿郎に何かあったら、耐えがたい悲しみと後悔に襲われるだろう。だからこそ、入学当初に桃寿郎を見つけたときから、できる限り桃寿郎のそばにいた。天満にはわかったからだ。有象無象から憧憬の対象だとされる自分などよりよほど、桃寿郎がもつ眩しさがいずれ誰も彼もを強く惹きつけることを。まだ芽吹いたばかりの桃寿郎の魅力が花開くそのときまで、自分がそばで守りたいと思ったからだ。誰にも彼を傷つけさせまいと思ったからだ。
キョウジュロウ・レンゴクが死んで、テンゲン・ウズイは結婚して子を成した。そこにどの程度の傷みがあったかどうか、天満にはわからない。いずれにしても、その選択の結果により天満は存在している。そして、桃寿郎と出会った。
彼らが自分たちを出逢わせてくれたのだ。彼らの死闘の末、今はもう、魔法学校の生徒たちはムザン・キブツジに怯えて生きることはない。命を賭して巨悪と闘う必要のない穏やかな世界で、テンゲン・ウズイの子孫である天満と、キョウジュロウ・レンゴクの血縁である桃寿郎が出会ったことに、意味がないわけがない。
「桃、おいで」
天満はそっと桃寿郎の腕を引き、ふらりと倒れるように近づいてきた身体を抱き寄せた。浅葱色のローブの下のまだ華奢な背中を感じながら、桃寿郎を安心させるようにその背を撫でる。そして腕の中の桃寿郎に静かに語りかけた。
「……俺たちはさ、まだあの二人みたいに恋人同士じゃないけど、俺は桃寿郎をすごく大事に思ってる。俺にできることはなんでもする。卒業しても会いに来るから。だから、桃はいなくなんないで」
キョウジュロウ・レンゴクみたいに。
天満があえて言葉にしなかった部分も、桃寿郎には伝わっていた。天満の胸にすがるように額を押しつけながら、ぎゅうっと痛む心臓の意味を桃寿郎は懸命に知ろうとしていた。キョウジュロウ・レンゴクもきっとこうして心を痛めたに違いない。テンゲン・ウズイを置いていってしまったことに。愛する彼に悲しみを植えつけてしまったことに。たとえそうして痛む心臓すら、失ってしまったとしても。
今度はずっと、そばにいる。天満を悲しませたくない。あのときみたいに。
桃寿郎は天満の背に腕を回した。ぎゅっと抱き締めれば、ミントとヴァーベナのあの甘く爽やかなトーンが香った。それで気づいた。天満の香りが鼻をくすぐるのは、こうして密接に触れあったときだけだ。だから天満は言ったのだ。それを知っているのは桃寿郎だけだ、と。
ぐにゃりと、周囲の景色が歪んだ。白、黄色、灰色。壁や床や柱や影がマーブルになって、身体がぐんと引き上げられる――。
「――っはあっ」
ざばっと水盆から顔を上げ、二人はぺたりと尻餅をついた。不思議と顔周りは濡れていなかったが水に潜ったあとのように肺が苦しく、呼吸を落ち着かせるににしばらくかかった。
「……そこにはね」
背後からかけられた声に、二人は慌てて振り向いた。そこには、この部屋の主である校長のキリヤが立っていた。小柄な老人だ。つるりとした額に、穏やかな笑みを浮かべてキリヤは続けた。
「記憶が入っているんだよ。君たちが見ていたのは記憶だ」
誰の記憶かは、聞かなくてもわかった。盆に記憶を移せた人物はひとりしかいない。
「校長先生、勝手に部屋に入ってごめんなさい」
桃寿郎が立ちあがり頭を下げる。天満も、床に落ちていた透明マントを抱えながらいそいそと立ち上がり、ぺこりと会釈した。ここへ来るときには透明マントで悪戯を仕掛けようとなどと考えていた天満だが、実際にキリヤの前に出ると自然と畏敬の念を抱いてしまう。老齢のキリヤ・ウブヤシキにはそうした不思議な雰囲気があった。
「そうだね。土足はだめだよ」
畳の上に転がった天満のブーツを見て、自らが仕掛けた魔法が作動したのを知りキリヤは、ふふ、と笑い声を零した。
「それで校長先生、なんの御用でしたか」
天満が恥ずかしそうに靴を取りに行っているあいだに桃寿郎は尋ねたが、キリヤはとぼけた顔で首を傾げた。
「さて、なんだったかな。忘れてしまった」
「え?」
「二人とも戻っていいよ。一緒にね」
桃寿郎は目をしぱしぱと瞬かせながらも、はいと返事をした。畳を横切り階段を上がり、揃えたブーツを履き直す。狐につままれたような気分に襲われながら、桃寿郎は天満とともに入り口で一礼した。
「失礼します」
ギイ、と音を立てて校長室の扉が閉まる。
二人の姿が完全に見えなくなってから、キリヤは閉じた扉に向かって優しく呟いた。
「仲良くしなさい」
そして、キリヤは光を湛えた水盆のそばへ移動すると、ゆらゆらと揺れる水中の白濁色の記憶へと微笑みかけた。
「これでいいかい、天元」
水面が、陽射しを浴びた魚の背のようにきらりと光った。