【リアルタイム連載版】オリンピックの天桃7/22
日本チームの監督がSNSに上げた集合写真の中で、天満はいつもの何かに挑むような顔つきでべろりと舌を出していた。撮影が終わったあとでまた小言を言われたんじゃないだろうか、と考えてくすっと笑ってしまった。パリオリンピック、日本代表。その五人の一人として、天満は今、フランスの地に立っていた。
「……かっこいい!」
思わず声に出てしまう。主将を務める選手の隣で胸を張る天満。自信に満ち溢れて輝く、俺の恋人。着実に結果を積み重ねてきた天満がそこに並んでいるのは当然といえば当然だが、やっぱり少し信じられない気もしてしまう。自分とこんなにも心を近くする人が、オリンピック代表としてSNSに載っているなんて。
日本は前回のオリンピックで頂点を逃している。今回こそはと覇者奪還の気運は高まり、男子体操のメダルの行方に注目が集まっている。天満はもちろん、金メダルを取るつもりだ。俺もそう信じている。しかも最低でも二つだ。団体と、個人総合。宇髄天満は、きっと獲る。
スマホにセットしている世界時計を確認し、パリはまだ夕方か、なんて思っていたら突然、メッセージアプリのバナーが着信を報せた。天満だ。
「もしもし」
『もしもし? ごめん、そっち今、結構遅いよな。起きてた?』
アプリ越しの声は、日本で聞くときと変わらない。でも、この通話の向こうはパリだと思うとなんだかわくわくした。
「うん、起きてた。ちょうど、監督のSNSで天満を見てた」
『ああ、本部長の』
あの人マメだよな、と天満は電話口で笑った。
「そっちはどうだ」
『選手村が結構いい。周り綺麗だし。でもどこ行っても室内があっちぃ」
「ああ、見た。監督がクーラー置いてくれたって」
『ああ、そうそう』
監督のSNSによれば、フランスは日本より気温は低いものの、日本のようにキンキンに冷房を効かせる文化がないせいで日本人には暑く感じるのだという。
『桃はどう? 日本すげえ暑いんだろ』
「うん、毎日熱帯みたいだ。部活で汗がすごい」
『夏休みも剣道部か』
「ああ」
天満の声が心地いい。ずっと聞いていたくなるが、そうはいかない。今、天満は日本を背負う男なのだ。
「天満、休憩時間なのか」
『そう。そろそろ戻る』
「うん」
名残惜しさに何かを伝えようと思ったところで、体に気をつけて、とか、頑張れ、なんてもう何度も伝えているし、変にプレッシャーになるような言葉も良くない。オリンピックの代表選手にかけるにふさわしい言葉のリストなんて俺は持っていなくて、スマホを握り締めてただ、胸を詰まらせた。
『桃寿郎』
スピーカー越しに突然、名前を呼ばれてドキッとした。天満はほとんどいつも俺を「桃」と呼ぶ。名前をちゃんと呼ぶときは、改まったときだ。
『名前呼んで。俺の』
天満の落ち着いた声が耳に囁く。誘われるように口を開いた。
「……てんま?」
『もっかい』
「――天満」
『……もっかい』
「天満」
大切な、大切なみっつの音を唄う。その肩に大きな大きな期待を背負う彼に、何も贈れるものはないけれど。ささやかな望みに応える声に、めいっぱいの思いをこめて。
――よし、行く。天満はそう言って『じゃあな』と短く残し唐突に通話が切れた。
しばらくスマホを見つめて、余韻に浸った。途切れた通信の向こう。俺は少しでも、天満の力になれたのだろうか。
(がんばれ、天満)
再びSNSのアプリを開けば、そこには監督がアップしたパリの風景が広がっていた。美しい青空。その下に天満がいる。大きな戦いを前に、心を燃やす天満がいる。
体操男子予選まで、あと五日。
7/23
『昨日はなんと、監督のお誕生日! ――選手のインスタグラムでは、体操男子日本代表選手たちが揃ってお祝いした様子が上げられていました~』
母親が見ていた朝のテレビ番組から聞こえてきた女性アナウンサーの声に、ぱっと顔をテレビのディスプレイへと向けた。天満からの写真や、SNSでも何度か見た練習用のユニフォームを着た選手たち数人が映る動画が流れていて、その中に天満の姿を探そうとしたらあえなく映像は途切れて、画面はスタジオに変わってしまった。
『――選手のインスタは今、とっても人気なんですよね! 現地の様子や、選手たちの素顔が見られると、体操ファンのあいだで話題になっているんだそうです』
スタジオにゲストで呼ばれている女性タレントが『私、フォローしてます。体操選手、みんなかっこよくって』とはしゃいだ様子でコメントしている。うん、わかる、と胸の中で強く頷く。頂点を目指すアスリートたちは皆オーラがあって目を惹くし、努力を惜しまない姿勢が本当に格好いい。そして特に、宇髄天満がかっこいい。俺にとっては。
夜になって、部屋でレポート課題に取り組むため机に向かっていると、スマホが小さく震えた。天満から写真が送られてきた。明るい午後の空に見下ろされた、静かな川面が写っている。
(セーヌ川かな)
選手村がそのそばにあるらしい。課題の手を止めて、送られてきた写真を眺める。遠い地で、時間すら違う場所で、数日後に迫った大きな挑戦へと向かう天満を思う。そうしているとまた別の写真が送られてくる。どこか室内で和太鼓が打ち鳴らされているシーンだった。演奏しているのは現地の方々のようだ。
《壮行会的な》
と、画像に続けてメッセージが届いた。『素晴らしい催しだな!』と返事をすると、しゅぽっとURLが送られてきて《ここに動画もある》と続いた。タップすると、朝のテレビで言及されていた選手のSNSアカウントの画面が開いた。天満が送ってくれた動画のあと、画面をスクロールするといくつか別の動画が再生された。アカウントの選手本人の競技シーンやインスタライブのアーカイブ、フランスでの生活動画。その合間に代表選手たちが顔を出すものもあったが天満はほとんど映っていなかった。
《そいつのインスタ人気らしい》
『うん、テレビで言ってた』
《ふたつ前くらいのやつ見た? 監督としゃべってるやつ》
『それ、天満出てたか?』
《いや、俺は映ってない》
『ごめん、天満しか見てなかった』
正直にそう送ると、天満からの返信が止まった。ふと、俺のしていたことは失礼な行為だったかもしれないという考えに及ぶ。朝のテレビ番組で映像を目にしたときも、気になったのは天満が映っているかどうかということばかりだった。天満はひとりでフランスへ行っているわけじゃない。日本選手団、チームだ。天満とともに表彰台を目指す仲間はもちろん、もっと全体に関心をもつべきなのではないか。
『すまない。見てくる』
そう打ち込んでまたSNSを開こうとしたら、画面にメッセージが浮いた。
《見なくていい》
そしてもう一度、
《いい》
逸るように連続して届いた短いメッセージ。そして、それには続きがあった。
《俺だけ見てて》
思わず電話をかけたくなった気持ちをぐっと抑えて、指を動かした。天満たちの様子はわからないから、俺から気軽に電話はかけられない。話したいけど、声が聴きたいけど。
『見てる!』
今はただ、変わることのないその想いを指先に乗せて。
そう、見ている。俺はこの場所で、この夏を、天満の姿を目に灼きつける。
体操男子予選まで、あと四日。
7/24
今日、テレビやネットで体操競技の本番会場の写真が取り上げられていた。選手たちを待つ会場は厳かで、研ぎ澄まされた空気が伝わってくるようだった。広い競技場を、まだ誰もいない観客席がびっしりと囲んでいる。数日後には、そこは歓喜と興奮に満ちた観客でいっぱいになっているだろう。
ああ、行きたかったな。
何度も反芻した思いを、また胸の中で繰り返す。できるなら、この競技場を埋める観客のひとりでいたかった。パリでの天満の演技を、この目で見たかった。
『来なくていいから。桃は桃の生活して』
フランスには行ったことがないし、観戦チケット代も含めて渡航にはそれなりに費用もかかる。それでも、当然天満を現地で応援したいと思っていたところに本人から思いも寄らない制止がかかって、俺は完全に虚を突かれた。
『まだどの日程で演技するのかもわからないし、だからって全日程チケット取るのなんて現実的じゃないだろ。何日も現地にいたらそれだけ金もかかるし。桃がどうしても来るっていうなら俺が金出すけど、桃はそれじゃ嫌だろ』
『それは嫌だ』
『だろ』
『でもパリにも行ってみたい』
『じゃあ別の時に一緒に行けばいいじゃん。俺が向こうで練習してるあいだ桃がひとりで観光してるなんて嫌だし。危ないし』
『炭彦と行けないかと話していて』
『余計嫌だね』
普段、天満と言い争うことなんてないけど、このときばかりはすんなりと受け入れられなかった。パリ行きを視野に、隙間時間にできるアルバイトを増やして貯金する計画も立てていた。お金のことだけじゃなく、いろいろな点を調整する必要も出てくる。でも、恋人がオリンピックの舞台に出るんだ。行かない選択肢なんてないと思っていた。
『だって、オリンピックだぞ。四年に一度しかないんだ。次は行けるかわからない』
『俺、四年後も出るよ』
『天満は行けても、俺は次のオリンピックの時はもう就職してる。仕事してたら、好きに休めるかわからないだろう』
『でもその分、今より経済的には余裕あるんじゃないの。……それにさ、』
天満は、強張る俺の両頬に左右の手のひらを添えて、ほぐすようにひたひたと軽く叩いてから包み込んだ。大きな手に、固いマメの感触。大好きな、優しいてのひら。
『四年後はちゃんとパートナーとして一緒に来てもらうから』
――その意味を理解した数秒後、俺はよほど変な顔をしていたのか天満に思いきり笑われて、結局、パリ行きについては今回は折れることになったのだ。
だけど、今から思えば『桃は桃の生活して』と言った天満の気持ちは想像できた。天満は、自身がオリンピアンだからといって、俺に何かを変えてほしくなかったのだ。身の丈以上のお金を使ったり、様々な事情を差し置いて海外へ飛ぶ段取りをつけたりも。
『桃が日本で普通にしてくれてると、俺もいつも通りできる気がする』
日常を生きていてほしい。そんなふうに言われた気がした。少なくとも、今は。
だから、オリンピックシーズンになって、あらゆるメディアで話題に上がるようになって、天満がパリへ旅立って、開催が数日後に迫った今も。俺自身の生活は大きくは変わらない。目の前のことをひとつひとつこなして、自分のスピードで。時々、海の向こうの天満を思って。
関東の梅雨が明けて、晴れた日はいっそう日差しが強くなった。
『持って帰ってくるから、日本で待ってて』
夏空の太陽が、天満が約束した金メダルみたいに輝く。
体操男子予選まで、あと三日。
7/26
『お土産買ったから。おばさんたちにも』
天満から届いたメッセージに『ありがとう』と返事を打つ。昨日は練習が休みで市内を回る時間があったというから、その時に選んでくれたんだろう。おばさん、というのは俺の母親のことだ。父も母も天満と俺が親しいことを知っていて、オリンピックでは天満のことを応援してくれている。恋人だということはまだ言えていない。隠しているつもりはないが、俺たちが友だち以上の関係にあってもなくても、両親から見ればただ息子が親しく付き合っている相手というだけだと思うと伝えるタイミングを逃していた。この年になって友だちと何をして遊んだかなどわざわざ親に報告しないのと同じで、会った先でキスしたとかそれ以上のことをした……とか、あえて言うはずもない。
天満は俺との関係を周囲に対し明確に伏せていた。そうすることで、俺を守ってくれている。天満は世間に名前が知られているうえ、週刊誌やネットニュースの記者に無礼な態度を取られると二倍か三倍くらいにやり返すところがあって、言わば目をつけられている。いつもスキャンダルを狙われているのだ。
『ほんとはすっげー言いたい。桃は俺のだって』
いつか天満は、ぶすっとした顔でそう不満を漏らした。
『桃に誰にも近寄ってほしくない。……好かれすぎなんだよ、おまえ』
後ろから俺を抱きしめてぐりぐりと頭に顔を擦りつける天満を好きなようにさせながら、不思議に思ったものだ。天満が言うようなことはまったくないし、天満こそ常にいろんな人から好意を寄せられてきているのに。
「桃寿郎、今日の夜体操の番組あるみたいよ」
新聞の番組表を見ていた母が言う。
「ああ、予約してある!」
オリンピック開幕直前の今夜、中継チャンネルでは体操の代表選手を取り上げた特別番組が組まれていた。こういう番組は、練習中の天満が見られる貴重な機会なので必ず確認するようにしている。
「開会式でも天満くん見られるの?」
「天満は出ないんだ、明日試合だから。でも開会式は観るつもりだ!」
「ちゃんと教えてもらってるのねえ。ほんと仲良いわね」
母は新聞のページをめくりながら、グラスのお茶を傾けた。
うん。仲いいんだ。
胸の中で呟く。それが恋だと、いつか口にする日が来るのだろうか。
ついに今夜、オリンピックの幕が上がる。
体操男子予選まで、あと一日。
7/27
真っ赤なユニフォームに包まれた足先が、宙にぴんと伸びる。そして、ぐるりと回転する。回るたびに鉄棒がしなる。バーから手が離れる。会場がわっと沸く。離れた手がまたバーを掴むと、滑り止めの粉がぱっと飛び散った。
息が、できない。
俺はテレビの前でぎゅっと拳を握って、天満の体が鉄棒を軸にして回り、跳び、舞うのを見つめていた。天満から度々体操競技についての説明を聞いて、技の名前や内容はだいたい頭に入っている。五輪での技構成もおおまかだが聞いていた。鉄棒は天満の得意な種目のひとつだから、高い難易度の技をいくつも入れてDスコアという技術点の加算を狙うという。難しい技であればあるほど落下や怪我などのリスクも伴う。天満は、大丈夫。そう信じていても、やっぱり心配もするし、緊張する。日本を背負っての演技だ。その重圧は俺にはとても想像できない。剣道にも世界大会があるが、事実としてそこまで世間に注目されていない(競技者としてもっと知られてほしいとは思っているが)。体操を取り巻く状況はまったく違う。日本には常にメダルの、特に頂点である金メダルの期待がかかり、それでいて他国の勢いも凄まじい。また勝敗は単純な勝ち負けではなく、技の難易度、出来栄えや美しさなどが細かく評価される。ひとつのミスやふらつきで即減点され、0.1点の差が敗北に繋がることもある。天満が戦っているのはそういう世界だ。
『日本とか、チームとか意識してない。自分のことしか考えてない』
天満はいつもそう言っていて、それはある意味事実だ。過去の自分や、その瞬間の一瞬一瞬と向き合い、魂を削るように技を磨き上げている。少しでも高みへと。だけど天満はちゃんと周りの努力を見ているし、自分の力がチームにとってどれだけ重要かもわかっている。だから万が一天満が原因でチームが点数を落とすことがあったとしたら、きっと誰より責任を感じて胸を痛める。宇髄天満はそういう人だ。
だからこそ、強い。そうならないように、競技の間じゅう、細やかに、されど華やかに、自分の全身を律している。
『決まりました、これも巧い』
『ちょっと人間離れした動きというか』
実況のアナウンサーと解説の元選手が感嘆の息を漏らす。
『これだけ巧いんですが、安定感というのとはまたちょっと違うんですよね、この選手は』
『ですね。ヒリヒリするというか』
『常に挑戦していますからね』
日本はここまでで跳馬と平行棒を終えて、鉄棒が三種目目だ。絶賛の演技もあれば、ミスもあった。団体では二位につけている。天満は六種目すべてにエントリーしていて、いまだノーミスだ。引き続き点数の引き上げが期待されている。
『さあ、ここから大技二連続きます』
『〝譜面を描く男〟宇髄天満です。描いた譜面、奏でられるか! 注目です』
天満の両手がバーを放つ。体が宙へ舞い上がる。捻って、捻って、回って――ガシャン、と大きな音とともに、天満の手はしっかりとまたバーを掴んだ。沸き上がる歓声。そしてすぐに次の離れ技。これも成功。会場に拍手が鳴る。
『完璧です、宇髄天満!』
『素晴らしいですね。まだ余裕があるように見えます』
はぁっと、無意識に止まっていた息を吐きだした。
(天満……! やった!)
天満の技がうまくいくと自分のことのように嬉しい。だけど同時に、不安に似たものが胸に過ってぎゅっと心臓が痛んだ。『余裕がある』。解説の人が言ったとおり、天満にはまだ余力がある。その余力を、個人総合と種目別で使う予定なのだ。挑むのは危険を伴う、すごく難しい技だという。
(……天満は大丈夫)
俺にできることは、信じることと、祈ることしかない。
画面の中の天満が回転の速度を上げる。下り技だ。ぐんぐんとスピードのついた身体が、勢いよくバーから離れる。斜め、正面、くるくると回って――ぴたり、天満の両足が床面を踏んだ。
『止めたっ! 完璧な着地です!』
『あ、ニンジャコールが聞こえますね』
『海外の会場ではお約束といいますか』
アナウンサーと解説者はそう言いあってふふっと笑った。会場には、ニンジャ、ニンジャ、とコールが響いている。天満が以前、どこかのインタビューで『先祖に忍者がいたらしい』と話した内容に尾ひれがついて、『忍の末裔』『動きがどことなく忍者っぽい』などと日本の忍者に憧れる海外の人々の間で話題になり、その演技が大人気なのだとか。ちなみに天満自身はニンジャコールは少し恥ずかしいらしく、今も、着地後にぐっとガッツポーズを決めたあとは周囲の歓声に無表情を貫いている。
『高い点数が出ましたね。各技、しっかり点数に繋げています』
『宇髄選手、オールラウンダーではありますが中でもこの鉄棒と、あと鞍馬はちょっと他にいない完成度を誇っています』
『〝神の化身〟とも呼ばれていますね』
『いろんな異名がありますね、この人は』
『いろんな意味で目立ちますからね。このあとの種目も注目です』
テレビカメラがベンチに戻った天満を抜く。天満はあえてカメラから視線を逸らしながら、ぴっと裏手でピースした。
それから改めて、カメラをじっと見た。一秒、二秒。そして本当にわずかに唇の端で微笑んだ。
それが俺へのメッセージであることを、天満と俺だけが知っている。
天満はそのあとの、ゆか、鞍馬、吊り輪でもノーミスで演技を終えたが、日本の団体予選の結果は二位。ネットニュースやSNSでは、日本選手の活躍を褒めたたえる声もあれば、想定ほどには結果が出せていないという批判や、他国の技術の高さから優勝を懸念する声もあった。その中で、宇髄天満への期待は並々ならぬものになっていた。
頑張れ、天満。声を届けたい気持ちもあるけど、試合が始まったら俺からは連絡しない。どっちが決めたわけでもないが、いつからか自然とそうなった。天満から連絡が来て返すこともあるが、来ないことの方が多い。それでよかった。全部の結果が出るまで、天満は天満の世界で、俺は俺の場所で。
カメラ越しに二秒。視線を交わせば、心は繋がっている。
団体決勝は、三日後だ。
7/30
日本時間深夜。今、どれだけの人が俺と同じようにテレビ画面を見つめているだろう。
体操男子団体決勝。あと一種目を残し、日本は二位だった。ここまで、決して安定した道のりではなかった。予選二位だった日本は正ローテーションといって、ゆかから始まって鉄棒で終わる順番のコースを予選一位のチームと一緒に回る。天満だけじゃなく、代表選手はみな着実に演技を積み重ねていたが、思いがけない演技中の落下や、実施の技が認定されなかったことでのDスコアのダウン、着地のブレでEスコアに伸び悩むなどから点数はおそらく計画を下回り、一位のチームに大きく水をあけられていた。一位のチームだけでなく、ほかのチームも次々に素晴らしい演技を披露していて、一時は、日本は優勝どころか表彰台も危ういのではという雰囲気さえ漂っていた。
天満も苦しそうだった。大きなミスはなかったが、思ったよりEスコアが伸びず悔しそうな表情を見せるシーンもあった。平行棒の演技を終えたときには、肩で息をしながら会場の電光掲示板を睨むように見上げていた。負けたくない。その想いがカメラを通して伝わってくるようだった。天満は、鞍馬、跳馬、平行棒と演技をしてきていた。体は疲れているに違いない。だけど、瞳にはなおはっきりと、静かな闘志が燃えていた。
いくつかのミスはあっても、日本チームは全員、前を向いていた。誰ひとり優勝を諦めていなかった。互いに励まし合って、メンバーの間でミスをカバーしあい、ひとつひとつ点数を積み重ねる。天満は率先してムードを作ったり中心になったりするタイプじゃないけれど、その確かな実力が周囲の気勢を押し上げていた。みんなは天満を信じているし、天満も周りを信じている。失敗した後輩の肩を叩き力強く頷きかける仕草、主将に声をかけられてぐっと拳を握ってみせる様子。時には声を張り上げ、メンバーとともに鼓舞しあう。そんな天満の姿に、胸が熱くなった。
そうした全員での積み重ねが実を結び、最終種目の鉄棒を前に、日本はふたたび二位につけたのだった。それでも点差はまだ小さくはなかったが、相手チームのミスもあり、日本の最終演技者である天満の実施の直前には一位のチームに0.1差まで迫っていた。残る演技は、天満と、相手チームのエースだ。
もし、天満が相手チームが追い付けないほどの圧倒的な演技を見せたら。日本の優勝はほぼ確実になる。万が一、逆のことが起きれば――その時点で金はない。
まさに天満の肩に、優勝が懸かっていた。
「天満……!」
思わず、声に出して呼びかける。しんとした深夜のリビング。もうすぐ午前三時。いつもなら熟睡している時間だけど、全然眠くない。
『名前呼んで。俺の』
電話越しの天満の言葉を思い出す。
「……てんま」
この場所から、どうしたって声は届かないけれど。
「天満、天満……っ」
カメラの向こうの天満に、必死に呼びかけた。こんなことしかできないのがもどかしい。だけど、できることなら、海を渡って、時間を超えて。想いが、届きますように。
天満の演技が、始まった。
それからの一分ちょっと、息をした記憶がない。
天満の体が舞い、バーが大きく揺れて、両手がまたしっかりとバーを掴みなおすたび、会場の歓声が耳を打った。それ以外は天満の揺らす鉄棒の音しか聞こえなかった。アナウンサーや解説の人が技の名前を言っていたけど何も頭に入ってこなかったし、天満に説明してもらっていたものも入っていただろうけど、どれも思い出せなかった。ただ、跳び上がるたびに舞い散る炭酸マグネシウムの粉と、朱い旋回だけが目に灼きついていた。
『――ここまですべて完璧です、宇髄天満。残すは着地!』
『下り技も高難易度ですね』
『O.1点でも多く積み重ねたい! 宇髄天満、その〝異次元の鉄棒〟に金メダルが懸かります!』
会場は、静かだった。その中で、天満の体が宙を舞う。朱い残像が螺旋を描く。そして両足が、マットを踏んだ。まるで舞い降りるみたいに。
ワッと会場が爆発した。天満は俯いて、両手の拳をぐっと高く掲げた。そして腕をふわりと下ろしながら顔を上げたとき、そこには達成感と安堵が浮かんでいた。
そして最後の選手が演技を終えて――日本チームのメンバーはそこで初めて、歓喜の声を上げて抱き合った。
『日本、金メダルーー!』
「わあああああああ!」
いても立ってもいられず大声で叫んだ。叫びながら涙が滲んだ。テレビ画面の中で選手たちも涙を拭っている。顔を真っ赤にして泣いている選手もいた。前回のオリンピックではわずかな差で敗れ、銀メダルに終わった。優勝は悲願だった。
天満は泣いていなかった。その代わり、すごく嬉しそうに笑っていた。きっと明日の新聞やネットニュースでこの笑顔が使われるだろう。天満がテレビで満面の笑みを浮かべることなんて殆どない。とても貴重なショットなのだ。
『日本とか、チームとか意識してない。自分のことしか考えてない』
そんなふうに言いながらも、個人で勝ったときよりみんなで掴んだ勝利のほうがよほど嬉しそうにする。そういうところが、天満らしい。
表彰式を終えて、選手たちへのインタビューが行われた。天満は誰より冷静で無難なコメントだったけど、その表情には隠しきれない喜びが滲んでいた。さっきみたいに素直にニコニコしてもいいのに、と思いながらその様子を見ていると、コメントを終えた天満がふとカメラに目を留めた。一秒、二秒。そしてぴっとピースしてみせた。晴れやかな笑顔だった。
もうすぐ朝四時。熱い戦いを目の当たりにしてとても眠る気になれず、一睡もしないまま庭での早朝稽古に入った俺は、数時間後に素振りしたまま寝ているところを父に見つかって叱られて、すっかり空が明るくなってからやっと布団に入り込んだ。柔らかい枕に頬を擦りつけながら、天満を思った。天満の次の戦いは、明後日。個人総合の決勝だ。
(頑張れ、天満)
俺も、頑張る。俺も――。吸い込まれるように眠りについた俺の横で、スマホが光る。届いたのは、天満からのメッセージ。それは勝利の報告でも、メダルをかけた写真でもなく『おやすみ』のスタンプひとつ。俺がそれに気づくのは、次に目が覚めたときである。
8/1
体操男子、個人総合決勝。日本時間ではまた深夜にあたり、両親は『天満くん観たいなあ』と言いながらも、起きていられないと結果を楽しみにしつつ先に寝てしまった。
世間的にも天満の成績には注目が集まっていた。天満は前回のオリンピックのときに個人総合で優勝していて、二連覇がかかっているのだ。俺が天満と出会ったのはオリンピックのあとだったから、こうしてリアルタイムで体操の競技経過を追いかけるのは初めてだった。
知り合ってからずっと、天満の努力を見てきた。
天満は外に対してはいつも飄々としているけど、胸の内には秘めた熱を抱えている。派手なことが好きだと口にしながらも、その実、こつこつと練習を重ね、常に五感を研ぎ澄まして細やかに技を調整し、唯一無二の『宇髄天満の体操』を実現している。〝存在が奇跡〟とか〝体操の神に愛された男〟などと言われることもあるが、本当は奇跡でも、神さまの采配でもなくて、天満の堅実な努力に裏打ちされた結果なんだ。もちろん、天才的なセンスがあるのも事実だけども(忍者の血を引いているからなんだろうか?)。
天満は予選二位。団体予選では周囲とのバランスから演技の内容を調整していた面もあったし、他国にも確かな実力を誇る選手がいる。
でも、俺は確信していた。天満は必ず個人総合でも金メダルを獲る。やると言ったらやるんだ。宇髄天満は。
個人総合の決勝は、全選手が六種目すべてを演技する。予選二位通過の天満はここでも正ローテーションのグループで、同グループの選手は皆表彰台を狙える実力者ぞろいだ。もちろん、他のグループにもメダル争いに関わってくる選手がいる。わずかなミスがポイント差を生み、結果にダイレクトに影響する。どの選手も緊張した面持ちで自身の演技の場へと赴いていた。
天満の表情は、静かだった。ああ、と思う。多分、今の天満に周りの音は聞こえていない。天満は音に敏感で、自分の体や器具の調子なんかを微妙な音の違いで聞き分けて演技に生かしているという。同時に、それらを妨げる周囲の雑音を自分の意志で完全に切り離すことができた。自分の世界に入り込んで、すべてを遮断する感覚。その感覚は俺にも覚えがあって、それを天満から説明されたときに共感できると言ったら、天満は驚いていたっけ。正確に理解されることが少ないから、取材などではあまり話さないようにしているらしい。
競技が始まり、天満は淡々と各種目をこなしていく。ゆか、あん馬、つり輪。どれも素晴らしい演技だった。実況、解説ともに絶賛、もうひとりの日本人選手もすごく調子が良く、うまくいけばワンツーフィニッシュできるんじゃ、なんて期待が囁かれる。それでも、体操競技では上位の点数の差はわずか。ローテーションによって、他の選手と抜きつ抜かれつしながら競技は進む。特に、天満は全種目の中でつり輪のみ少し点数を落とすため、残りの跳馬、平行棒、鉄棒では完ぺきな演技が要求される。
『さあ、宇髄選手の跳馬です。ここも高難易度の技が予定されていますね』
『宇髄選手は、着地はほぼ止めてきますからね。高さ、回転数が見どころになるかと思います』
天満の、いかなる時もブレない着地は〝無重力の着地〟とも評され、天満の体操の代名詞にもなっていた。着地で一歩ずれるとEスコアから0.1点がマイナスされることから、世間では〝0.1を引かせない男〟などと呼ばれることもあった。
だから、誰しも疑っていなかった。跳馬を跳んだ天満の両足が、いつものように吸いつくようにマットに下りたつことを。
『――あっ⁉』
「――――!」
天満の跳馬は美しかった。ロイター板を踏み、全身が高く高く舞い上がり、目で追えないほどの速さでくるくると回り、そして――マットについた右足が、ほんのわずかに前へ出た。
『一歩、動きました。宇髄天満』
『これは珍しい場面です』
『これは少し、悔しそうな表情にも見えます』
俺は、着地の瞬間からしばらく息が止まってしまっていた。テレビ画面では、右足が一歩出た天満の着地の映像がスローモーションでリプレイされている。角度を変えて、幾度も。ああ、この編集はあとで録画を見た天満がぶちぶちと不満を言うだろうな――と思ったら、やっと息が吐けた。
カメラが天満を追う。マットを降りた瞬間こそ、眉間にしわを寄せて舌打ちでもしそうな顔をしていた天満だったが、ベンチに戻った今は点数の公表を待ち冷静な表情を取り戻していた。
俺はソファに腰をかけて、ごくりを唾を呑んだ。わずかな着地のブレ。オリンピックという舞台で、天満も緊張しているのだ。そう見せないようにしていても、垣間見せる傲慢不遜な態度でよくも悪くも『帝王』なんてあだ名をつけられていたとしても。個人総合二連覇、団体優勝に続くふたつめのメダル、並び立つ世界の強豪たち。重圧がないわけがないのだ。
天満の跳馬での競技順は一番手だった。そのあと同グループ五名の演技が続き、ローテーションが終わった時点で天満は全体の二位だった。
『さあこのグループ、残すは平行棒と鉄棒となりました』
『宇髄選手の平行棒の競技順は六番手、最後です』
『現在、一位は――の……』
天満は、コーチから肩や腕をマッサージされながら無表情でベンチの背に寄りかかっていた。平行棒と鉄棒。どちらも天満の得意な種目だ。だけど、何があるかわからない。それがオリンピックなんだと、出発前に天満自身も言っていた。
まるでその言葉が現実になったかのように、天満のグループの平行棒開始直後、金メダル候補として注目されていた他国の選手の演技で落下のミスがあり、会場と実況席がどよめいた。
『これは、――さん、どうですか。このあとの宇髄選手の平行棒でほぼ勝負が決まるということも?』
『そうですね。宇髄選手は平行棒を得意としていますので、かなり難度の高い構成になっています。ミスなくやりきれば、金が見えてくると思います』
解説の人の言葉に、テレビの前の俺の拳にも力が入った。
天満は、平行棒を『嫌い』と言った。理由は『難しいから』だという。一般的に、体操競技でもっとも難しいとされる種目はあん馬だというが、天満に言わせれば『難しくないし、好きでも嫌いでもない』。ちなみに唯一、若干苦手とするつり輪は『難しいけど好き』だという。
難しくて、嫌い。だけど巧い。天満にとって平行棒は複雑さを抱える種目だった。確かに天満は、平行棒で失敗したときが一番苛々しているように見えた。
天満の番が来る。
(――あ)
天満の顔から、表情が完全に消えた。天満の世界が、閉じる。そこには天満以外、誰もいない。観客も、チームメイトも、コーチも、監督も、ほかの選手も、実況も、解説も、――俺も。それでいい。
(いけ、天満)
誰もいない世界へ。自分だけの、天へ。
天満の左右の手がぐっとバーを掴み、ひらりと体を持ち上げる。あんなにがっちりした体型なのに、まるで体重がないみたいだ。ぐるりと足が回って、倒立。足先はぴんと上空を向いている。
二本の棒を天満が自在に操る。体や足が、びゅんびゅんと弧を描きながら左右に動く。まるで、踊るみたいに。開脚した赤い足が宙を舞い、確かな狙いを持って放たれた指先からは、ぱっと白い粉が散る。そして手のひらはまたバーに吸いつき、体が大きく旋回する。
俺は、出来栄えを見るというEスコアを細かく判断することなどできないが、天満の平行棒が他の人とちょっと違うというのは理解できた。ダイナミックな動きなのに大味さはなく、むしろ緻密だ。それでいて、華やか。止めるところはまるで彫刻にでもなったかのようにぴしりと止まり、動くところは羽でも生えているかのように軽やかで、あの筋肉の重さは本当に、いったいどこへ消えてしまっているんだろう。あっちへいったと思ったら、知らないあいだにこっちにいる。まるで分身しているかのようで、これが海外の人たちが言う「忍者っぽい動き」なんだろうか。
『……ちょっと黙ってしまいました』
『いや、そうですね。こう、思わず静かになってしまう演技というか』
『ここまで素晴らしい演技です、宇髄天満』
『美しいですね』
『ええ。ここも、はい、E難度。成功です』
『ちょっともう、怖いんですよね。この人』
解説の元選手が苦笑いを零す。天満の平行棒は、Eスコアをマイナスするところがほとんど見当たらないのだという。
『さあ、下り技です』
『これを止めたら、ちょっと……かなり高い点数が期待できるのではないかと思います』
『先ほど、跳馬では一歩、動きがありました宇髄天満。平行棒、こちらはどうだ。下り技も、E難度!』
天満の体が、膝を抱え込んでくるくる回る。そしてすとんと、着地した。天満の足裏はしっかりと体重を受け止めて、吸収した。わずかにも動かなかった。すっと、両腕が上がった。競技場を仰ぎ見た天満の表情には、世界が戻ってきていた。
『止めた――――っ!』
『宇髄天満、得意の鉄棒を残してこれ以上ないほどの! 確実な実施を決めました!』
このときの天満の平行棒のEスコアは、のちのちまで語り継がれるものとなる。
天満はその後、天満曰く『難しくて好きだし、得意』という鉄棒でいつも通りの素晴らしい演技を完遂し、ローテーションの最後の選手のスコアを待ち、――優勝を決めた。
『宇髄天満やりました。オリンピック個人総合、二連覇――!』
天満は一度、ぐっと拳を天に掲げた。そこまでは良かったが、寄ってきたカメラに気づくとすぐに悪戯っぽい表情を浮かべ、べえと舌を出した。ひやっとしたが、歓喜と称賛の声を上げて次々に飛びついてきたチームメイトたちにあっという間にもみくちゃにされて、有耶無耶になったのでちょっとほっとした。
笑顔の仲間たちに囲まれる天満を見ていたら、鼻の奥がつんとした。目に涙が滲む。
「……おめでとう、天満」
なんの立場でもないけど、俺はあなたを誇りに思う。一度瞳が潤んだら止まらなくなって、ぽろぽろと零れる涙を手のひらで拭った。天満はすごい。天満の演技がみんなを力づける。俺を、奮い立たせる。
日本は表彰台の一位と二位に乗り、会場の応援チームは大盛り上がりだった。
表彰式のあとで、天満のインタビューがあった。
「まあ、はい。ほぼ予定通りできたんで。途中から、そうっすね。見えてました」
金メダルが見えてましたか、とインタビュアーに念を押され、天満はにやりと笑って『ハイ』と答えた。こういうのはだいたいあとでネットで色々言われるが、天満はそれも含めて楽しんでいる節があった。
その直後、ちょっといつもと違うことがあった。
すっと黙った天満がカメラをじっと見る。一秒、二秒。あ、と思って俺もテレビを見つめる。カメラの向こうで、天満は何か言いたそうに口を開いた。インタビュアーも天満の言葉を待っていた。だが天満は考え直したように口を閉じてカメラから視線を外すと、インタビュアーに向かって『種目別もメダル取りまっす』と不遜な態度で言ってのけて、仲間の元へ戻っていった。
天満は、何を言おうとしたんだろう。
その日から、テレビもネットも体操競技の結果を大きく取り上げ、天満と日本チームのメンバーの姿をメディアで見ない日はなかった。それくらいの快挙だったのだ。そして、天満にはまだ種目別決勝が四種目残っている。日本が、天満が、あといくつ金メダルを持ち帰るかということが、世間から大注目を浴びていた。
天満からはまた、個人総合で金メダルが決まったあとに「おやすみ」のスタンプが送られてきただけで(俺は『おめでとう!』とだけ返信した)、あとは連絡はなかった。
種目別も楽しみだけれど、それより、今はすべての戦いを終えた天満が帰ってくるのが楽しみだった。早く直接おめでとうを伝えたい。戦い切った体を抱き締めたい。
このとき、俺はもちろん知らなかった。天満が帰ってくるより前に、フランスにいる天満と連絡を取らざるを得ないとんでもない出来事が待っていることを。
8/5
オリンピックの日程は進み、勝利を掴んだ選手たちが現地から国内テレビへ生出演したり、メダリストたちを祝福するセレブレーションパーティの様子がネットで話題になったりと、競技を問わず五輪の祝祭ムードが盛り上がる中、体操競技はまた別の意味で灼熱の盛り上がりを迎えていた。
天満が、あん馬の種目別決勝で金メダルを獲ったのだ。日本がオリンピックであん馬を制するのは史上初めてだった。天満は先に演技して高得点を収めた他国の選手と厳しい競り合いとなったが、難度の高い技を着実に決め、更に、9.00という驚異的なEスコアを叩き出し見事、頂点に立った。
世間は沸いた。天満は、あん馬、跳馬、平行棒、鉄棒でそれぞれ種目別決勝に進んでいる。もしかすると。史上初のエントリー種目全制覇の瞬間を目撃できるのではないかという期待が国内のみならず、世界各地に満ちていた。
オリンピックの代表選手への内定が視野に入った頃、天満は言っていた。
『今回の大会が、経験とか、身体的な面を総合すると自分のピークだと思う。だから、全部イケるとしたら多分、今回なんだよ』
〝全部イケるとしたら〟。天満ははっきりそう言った。間違いなく狙っている。誰も成し遂げたことのないような、とんでもない快挙を。
それからの天満の活躍を、どう言葉にしたらいいかわからない。
高さ、技の難度、どこで止めたとしても美しくしなやかな伸身と旋回。天満は跳馬でも表彰台の頂点に乗り、日本中の爆発するような期待を背負って、最終日の平行棒と鉄棒を迎えた。
最終日の放送は、夕飯時。父親はまだ帰宅していなかったが、ようやく母と一緒にテレビの前に座れた。早めに夕食を終えて、『天満くんどうかな?』『全部金メダル?』と自分のことのようにわくわくしている母につられて、俺も落ち着かない気分で映し出された競技会場を見つめていた。
『日本、宇髄天満。驚異の五つ目の金メダルがかかります。とにかくミスなく、確実な演技が求められますね?』
『そうですね、とてもハイレベルな戦いになると思います……が』
解説者は、どう言葉にすればいいかわからないというように少し言いよどんで、半分、降参するみたいに言った。
『……なんですかね、この人はもう、多分そういうレベルの体操をしない……ように思いますね』
実況のアナウンサーが唸るような相槌を打つ。解説者の人の言いたいことは、おそらくこの大会で天満の体操を見てきた人にはだいたい伝わっていただろう。
ミスなく、確実に。天満にとってそれはもはや当然であって、天満が目指しているのはさらにその上。この先きっと、誰も見たことのない世界が待っている。
そして。
『宇髄天満、平行棒でも金メダル――! 五つ目の金!』
「天満くん一位! 一位よ!」
「うん、……うん!」
隣から母が俺の肩を揺さぶる。ずっと呼吸を忘れていたせいか、なんだか頭がくらくらした。天満が、今大会五度目、表彰台の一番高い場所へ上がる。掲げられた国旗を見上げる天満の表情はどことなく緊張していた。
(……天満)
ここまでやったら、もし鉄棒で金メダルが取れなくても、誰も何も言わない。賞賛しかしようがないだろう。だけど天満は、あと一種目、あとひとつ残された金メダルから一時たりとも目を逸らしていなかった。常に自分自身と戦い続ける天満の体操は、まだ、終わっていない。
そして迎えた最終種目。男子のオリンピック体操競技は本当にこれが最後だ。
鉄棒はこれまでの種目の中でもっとも過酷な点数争いになった。どの選手も自身の記録を塗り替えるほどのスコアを叩き出し、誰が金メダルでもおかしくない試合だった。まさに、0.1が勝負を分けるぎりぎりの戦い。
天満はまた六番手。天満の演技のあいだ、会場は水を打ったように静かだった。鉄棒のバーの軋む音だけが響く。一本のバーを軸にして舞い跳ぶ天満は、まるで、鉄棒という楽器を弾いているみたいに見えた。誰もが沈黙して、天満の演奏を聞いていた。そして演奏が終わりに近づく。最後の小節。音はすべて収束し、天満の足裏に吸い込まれて、消えた。
大歓声が沸き上がった。観客席の全員が、その瞬間、声を出すことを思いだしたみたいに。体操競技のために設えられた、ターコイズブルーの会場が揺れる。
天満のスコアが出るまでに少し時間がかかった。ベンチから電光掲示板を見上げる天満の額に汗が光っていた。会場ではニンジャコールが沸き起こり、誰もが天満の紡ぐ圧巻のスコアを待ち望んでいた。
そして、スコアが出る。歓声と、絶叫と、口笛。最終番手の選手を残し、天満が、――トップに立った。
『宇髄天満、銀以上、確定です! 六つ目のメダルは確定!』
『いや、これは――歴史が生まれる瞬間に立ち会っていますね』
『さあ、残すは一人。宇髄天満、六つのメダルは確定です。あとは何色か!』
足音が聞こえる。その瞬間が近づく足音が。それを誰もが耳にしていた。
最後の選手の演技も素晴らしかった。予選一位の選手である。天満と甲乙つけがたい出来栄えで、しかも、天満よりDスコアの高い構成だった。だが、オリンピックの舞台には魔物が潜むと言われる。その魔物に誘い込まれたかのように、着地の瞬間、最終演技の選手はほんのわずかにホップした。
0.122。それが、天満と最後の選手のスコア差だった。
『帝王宇髄天満、六冠――――――――!』
『オリンピック史上初、初です! 団体、個人総合のほか、四つの種目別を制しました! 伝説の誕生です!』
俺はリビングでわああと叫び、母は大はしゃぎで拍手を続けた。天満が、天満がやった! 握った拳がぶるぶる震えて、手のひらに爪が食い込んでしまいそうだった。どれだけ叫んでも、どれだけ天満の名前を呼んでも、足りない。おめでとう、天満。おめでとう。
やっと晴れやかな表情をした天満が、観客席に向かって大きく手を振る。会場全体が、天満の輝きに魅せられていた。世界一の輝き。金色の輝きに。
表彰式が終わり、今日獲得した二つの金メダルを首から下げた天満がカメラの前にやってきた。
『宇髄選手、おめでとうございます! 史上初めて、六つの金メダルという結果になりました。今のお気持ち、いかがですか』
興奮した声色で質問するアナウンサーに、天満はちょっと首を竦めて『ありがとうございます』と返し、後ろ頭を軽く搔きながら唇をへの字にした。
「そうですね、全体的には良かったと思うんですけど。最後、相手のミスで貰っちゃった感じもあるんで、次はもっと確実なところ目指していきたいですね」
『次、という言葉が出ましたが、四年後も期待してよろしいですか』
アナウンサーの質問に、天満はにやりと笑う。
「あぁ、はい。期待は勝手にしてください。それ応える義務はないんで。――でも」
わざととわかるくらいにぞんざいな答え。隣で母が、『天満くんってこういうとこあるわよね』と言いながら、試合を見ながら飲んでいたお茶を片付けようと腰を上げる。だが天満は一瞬言葉を切ったあと、笑顔の中に真摯な表情を覗かせた。
「――でも、エネルギーにはさせてもらいます。応援ありがとうございました」
メディアの前で時々口が悪い天満には批判もついて回るけど、こうした表情ひとつで、たまにしか更新されない天満のSNSのフォロワーは一気に増える。以前何かで見かけたところによると、天満は二十代から三十代の女性ファンからこういった態度を『憎らしカワイイ』と言われて愛されているらしい。天満はそれを聞いて『それってキモカワイイとかと同じカテゴリじゃね?』と眉をひそめて嫌がっていた。
『宇髄選手、では最後にテレビの前の視聴者に一言、お願いします』
そうアナウンサーに振られた天満の長い睫毛が瞬いて、カメラを見た。
(――あ)
二秒、見つめてくれるかな。
しかし、期待に前のめりになってテレビ画面の天満と目を合わせた俺の予想に反して、天満はカメラに向かって声を発した。
「もも」
口の横に手のひらをかざして、カメラの向こうに呼びかけるみたいに。カメラの、向こうの。
――え?
そうして天満は、今日一番の笑顔で言った。
「結婚しよ!」
「……え?」
『え?』
『ん?』
『んっ?』
俺。インタビュアー。実況のアナウンサー。解説の元選手。ハテナの声が連なった。
『ん、今のは、ん? プロポーズしましたか?』
『そのように聞こえ……え?』
『宇髄選手! 今のはどなたに?』
インタビュアーが慌ててマイクを向けるが、天満はからからと笑ってみせて『すいません、メダルが重くて首凝るんで』と煙に巻いてカメラの前から姿を消した。去り際に、ひらひらとカメラに手を振って。
この瞬間、タイムライン型の短文SNSが『もも言った?』『もも?』『だれ?』『マジ?』『うそ泣く』『プロポーズやば』『特定班頼む』といった視聴者の呟きで溢れ濁流となっていたことを、俺は知らない。
「……そういう仲良しだったの?」
片付けようとしていた湯呑を手にしたまま、母が驚いたように言った。
この大会を通じて天満が俺にくれたものが、体の奥底で光を放っていた。まだ困惑の中にいる俺に、その光が力をくれた。
「うん。……好きなんだ」
すごく、好きなんだ。優しくて、視野が広くて、ちょっとあまのじゃくで、ときどき傍若無人にふるまいながらも、ほんとうは繊細で。だけど口にしたことは必ず実現させる、有言実行の努力の人。世界中がその姿を目にしただろう。俺の誇り。――大好きなひと。
母の顔をまっすぐに見て答えた俺に、母は、そう、と優しく微笑んだ。
テレビの中はざわめきを残しながら、次の女子の競技の中継に移ろうとしていた。天満のオリンピックが終わる。最高のオリンピックが終わって、そしてここから、新しい何かが始まる。
俺は天満に電話をかけようと、リビングを出た。