髭面リーゼントのキューピッド「オレ、男が好きなんだよ」
煙草の煙と共にベランダで吐き出されたのは、口調とは裏腹に重たい告白だった。
友人の横顔をまじまじと見つめてしまったのは、今思っても失策だった。
リーゼントを下ろして完全にオフスタイルの水戸が、後悔するように顔を背けたからだ。
「あー、悪ぃ、忘れて。酔ってるっぽい、オレ」
「嘘つけ、酒強いくせに」
背後のガラス扉を隔てた室内では、いい具合に酔っ払った桜木軍団の残りの面々が高鼾をかいている。
酔っ払っていたのは野間も同じだった。ベランダに出れば酔い醒ましに煙草を吸っている水戸がいたので、からかってやろうとした。アルコールの勢いに任せて、お前花道がバスケットにうつつ抜かしてる間にまた告白されやがって、あの子とはどうだったんだよ、と小突いたしっぺ返しがコレだった。
男が好き。男が好き、ねえ。
少なくとも自分たちが水戸といてその気配を感じたことはない。水戸は本当に、そういうことを隠すのが上手な性質なのだ。
「……あ、これ花道にも言ってねえから。内緒な」
温度のない声音に、野間は真夏にも関わらず寒気を覚えた。
自分の身の危険を感じたのではない。うっかりすると目の前の男は、このままふと消えてしまいそうな予感がした。
「バーカ、お前のそんな話、酒の肴にもなりゃしねーよ。誰が言いふらすかってんだ」
ヘッ、とあえて悪態をついてやれば、ようやく水戸の頬に笑いが戻る。
「……ありがとよ」
「んにゃー。……なあ」
「ん?」
「お前、誰か好きなヤツでもいんの」
こればかりは何となく、勘というやつだった。あの水戸がうっかり心の内をさらけ出すほど疲れているのは何故なのだろうと考えた時、ごく身近に、野間の知り合いに、その該当者がいるような気がした。
「……なーいしょ」
少しばかり間を作ってから、水戸はぽわ、と煙の輪を吐き出した。
月に照らされた横顔が寂しそうに微笑んで、ああそうか、と逆に確信を得てしまった野間はうつむいた。
――お前、苦しい恋をしてるんだな。
その日から、野間は水戸の、秘密の共犯者になった。
秘密ではあるものの、水戸が心密かに想う男は誰なのだろう。
日々を過ごす中、それが引っかからない日はなかった。
(ごめん洋平、好奇心に負けてごめん)
思いながらも、ついつい水戸の視線の先を探ってしまう。花道を含めた軍団の中の誰かではない、と野間は思った。さすがにその中の誰かを特別視しているようなら今までにアレ? と違和感を覚えたことだろう。
内緒にするくらいだからバイト先ではない。学校の面々。
(クラスの誰かかなー)
それとなく探ってみるが、自分たち以上に親しそうな男友達もいなさそうだ。そのあたりで野間の推理は暗礁に乗り上げ、おまけにバスケ部がIHの全国出場を決めたために遠征費捻出のバイトで忙しく、疑問は脳の片隅に追いやられることになった。
鳴りを潜めた疑念が一瞬で吹き出し、確信に変わったのは、そのIH三回戦のことだった。
最強と名高い山王工業相手に全力で挑み続ける花道たちに、全員がペットボトルを握りしめて観客席から檄を飛ばした。白熱した試合の中、得意の3Pを入れようとシュートフォームに入った三井に、敵の選手が激しくぶつかる。
「ミッチー!」
わあっ、と観客席が悲喜こもごもの悲鳴をあげる。
結果として、その指先から放たれたボールはリングをくぐり、ファウルをもらった三井はとんでもないブーイングの中見事にフリースローを決めてみせ、湘北応援サイドは沸きに沸いた。
やったな、と振り返った野間は、そこで一人席に座り、膝頭を握りしめたままの水戸を見てしまった。
その表情に、安堵と心配と、歓喜と震えが全て内包されていて、あ、と思わず野間は声を漏らしそうになった。
――そっか、そうだったのか。
野間の顔を見て、気づいたことに気づかれたのだろう、水戸が何かを言いかける。
野間はバシンと万感の思いをこめて大楠越しにその背中を叩いた。
「オラ、洋平も声出せ! 応援だ!」
お前の好きな人と親友の晴れ舞台だろ。応援しなくちゃ男が廃るぜ。
野間の言外の言葉が伝わったかどうか、水戸はグッと薄い唇を引き結び、手でメガホンを作って叫ぶ。
「湘北ーッ!!」
少年らしいまっすぐな声が、広島の体育館に響き渡った。
友人の好きな人に気づいたところで、一体何が変わるわけでもない。
むしろ、水戸は花道が入院したことで湘北の体育館には近づかなくなった。
三年と一年、親友の部活の先輩という遠い位置、まあ離れてみればこんなもの、といったところだ。周囲から見れば自然な位置でも、水戸の内心を知る身ではそうはいかない。屋上で二人きりになったタイミングで、こっそり言ってみたこともある。
「いいのかよ」
ミッチーを応援しなくても、と省いた言葉はしっかり汲み取られたらしく、水戸は軽く首を振った。
「不自然だろ」
「んなワケ」
「あるある」
あくまで花道の応援という名目で体育館に出向いていた水戸にとって、その看板は外せないものだったらしい。いくらでも口実は思いつくだろうに、少しでも疑われたくないのか、何なのか。
「……ミッチーは三年なんだぜ。選抜までは残るらしいけど」
「らしいな」
「冬になったらいないんだぜ」
焦れてつい声が大きくなった野間に、また水戸は表情のないあの顔を見せた。
「忠」
「……んだよ」
「――いや、そうだな。でもオレ、どうこうする気はねえから」
話はここで終わり、と打ち切られてしまった。
いいのかよそれで。めげない告白五十連敗の男を親友に持っといてそれはないんじゃねーの洋平。
色々と言いたいことはあったが、じゃあ自分がその立場だったらどうする、と問われれば野間は怯んでしまう。
もしも自分が男を好きだったら。相手の男が自分を好いてくれる確率は? 万が一交際まで持ち込めたとして、その後は? きっと、水戸はこの何百倍も自問自答を繰り返してきたことだろう。
ミッチーが女だったら。洋平が女だったら。
だったら、とっとと告っちまえよ、と背中を冗談混じりに押してやれたのだろうか。
野間はため息をついて帰路についた。
友人の悩みが伝染したのか、このところため息が癖になりつつある。当の本人は涼しい顔で今日も喧嘩したり教師に怒られたりクラスメイトと笑って話しているので、勝手に野間が一人損している気分だ。
秋も迫ってきたというのに寝苦しく、どうにも眠る気になれない。アロハシャツを引っ掛けてぷらぷらと夜の街に繰り出したが、特に目的があるわけではなかった。
繁華街近くを通ったが、警邏の巡査に咎められることがないのは持ち前の老け顔と髭のおかげだろうか。
居酒屋で一杯やるか? と看板を物色していた時、耳が揉め事の気配を拾った。
「……なせって!」
「……だって……だろ……!? お前……」
「お前とはもう終わってんだろ! オレは今――……!」
少し遠いせいで全容は聞き取れなかったが、確かに聞き覚えのある声だった。野間が声のした路地に入ると、はたして三井が柄の悪い男と揉めている。
「だーもう! オレは家に帰るとこだっつーの! 離せ!」
「少しくらいいいだろうが!」
「嫌だって言ってんだろ!」
「前は散々暇だから遊んでくれって言ってきた癖に……!」
「いやそれは……」
何この修羅場。
何が起こっているのかいまいち分からないが、とりあえず三井を助けることにする。何せバスケ部スタメン最弱、喧嘩では15センチ以上体格差のある相手二人それぞれにボコボコにされた経験を持つ三井なので。
「こらお前たち! ウチの前で何やってんだ! ケーサツ呼ぶぞ!」
野間が路地の入り口から飲食店の人間を装って声をかけると、相手の男の方が怯んだ。
「……覚えとけよ、三井!」
お手本のようなセリフを吐いて、路地裏に走って消えていく。
三井の方はハーッ、とため息をつくと野間の方を見た。
「……お前、野間?」
「お、名前覚えててくれた。そうそう、野間。野間忠一郎でーす。ミッチーこんなとこで何やってんの」
「ちょっと寝付けなくてウロウロしてたら……あー、昔の知り合いにとっ捕まって……」
三井はそこで額を掻きながらちらりと野間を見た。
「……お前、どこまで聞いてた?」
「どこまで? うーん、あいつと揉めてたとこは聞いたけど。お前とは終わったとかなんとか」
「っァー……」
そこまで聞かれてたか、と三井は呻いた。
「……アレ、元彼」
「ふーん。…………え!?」
「だからまあ、そういうこと。黙っててくれるとありがてえ」
「う、うーん、えっとちょっと待ってくれるかなミッチー。えーと何? ミッチー、男が好き?」
直截的すぎる物言いに、ぼん、と三井の頬が爆発した。
「おっまえ……! いや、その通りなんだけど、言い方ァ!」
「え、え、ちょっと待ってな、整理するから」
三井を置き去りに野間は忙しく状況を整理する。
水戸は三井が好きで、三井は男が好き。イコール、これはいけるのでは?
「ミッチー!」
ガシッ! と肩を掴まれてうお、と三井の肩が跳ねた。
「な、なんだよ」
「ミッチー誰か好きな子いたりする!?」
「えっ……いやその」
目が泳いだ。脈アリ。いけるぞ洋平!
そこでふと体を押し返された。三井は整った顔を思い切り渋く歪めている。
「言っとくけどお前じゃねーぞ」
「いやオレも巨乳のおネェちゃんが好きなんでミッチーはちょっと」
「じゃあなんでそんな興味津々なんだよ! 距離の詰め方こえーぞお前!」
友人の恋が懸かってるから、とは口が裂けても言えないので、野間は言い訳を考えて黙り込んだ。
三井は路地裏に落ちていた鞄を拾い上げ、ついた泥はねを払いながら小さくこぼす。
「……面白いもんじゃねーよ、男同士のアレコレなんて」
静かな声音に、野間は怯んだ。
やってしまった。
水戸のことを思い返せば、迂闊に触れるべきでないのはわかっていたのに。
「――男だろうがなんだろうが、全力で茶化せそうなら行くのがオレらの信条だからさァ。悪いねミッチー。怒った?」
軽薄を装ってへらりと笑えば、決まり悪気に二年上の先輩は笑った。
「別に。ただ、趣味悪いぜ」
「趣味悪いのはミッチーだろー? なんかミッチーがああいうのと遊んでたの意外だわ」
「……オレもグレてた時は色々あったんだよ!」
オラ帰るからどけ! と腹を拳で押され、野間は三井に道を開けた。三井はてっきりそのまま帰る気だったらしいが、たった今絡まれているのを見た野間としては放っておけないし、何せこちらは花道入院以降暇を持て余しているのだ。万一さっきの男が気を変えて戻ってきて三井を襲いでもしたら。野間は、二度と水戸の顔を正面から見られない。
「……ついてくんなよ!」
「えー、だってミッチーまた巻きこまれるかもしれねえし」
「そこまでトラブルメーカーじゃ……いや、そん時は走って逃げるから大丈夫だっつの」
「ていうか暇なんだよアイス奢ってくれよミッチー」
「人の話聞けや!」
青筋を額に浮かべながらもちゃんとアイスを奢ってくれる上に「どれがいいんだよ!」と選ばせてくれるあたり三井は面倒見がいい。
アイスバーをちびちび舐めながら、結局野間の思考は三井と水戸のことに戻ってくる。
「なあミッチー、さっき誤魔化そうとしてたけどさ、好きな子って誰? 子って言葉に反応するくらいだから年下?」
「んぐっ」
急に矛先を向けられた三井が、アイスを飲み込み損ねて噎せた。
その顔は耳まで赤く、野間は当たりを確信する。
「ほーん年下かぁ。バスケ部関係?」
しつこいのは自分でもわかっている。
もしかして、という希望が捨てきれないのは、あの時の友人の寂しそうな横顔が目に焼きついて離れないからだ。
「二年? 一年?」
いち、という言葉に耳の赤さが増した。
え、これはもしかしてもしかするのでは?
「なあ、それひょっとして――」
「あーもううるせーな! そーだよ! 面食いで悪かったな!」
面食い? ツラのいいヤツが好きってことか?
そこまで思い、ふと野間は背中に冷や汗が伝うのを感じる。
水戸は確かに男として格好いいが、群を抜いて顔貌の整った男が、一年にはひとりいる。
「あの……ミッチー、面食いっていうのは」
「あいつの顔が好みっていうこった! イケメンが好きなのオレは! あーもう何で自分で解説しなきゃならねえんだよクソッ」
「あ、そ、そう、ふーん」
そういえばさっきの男も顔整ってたな……と思い出し、野間はがっくり肩を落とした。
確かに流川はイケメンという言葉のイメージモデルにできそうな顔だ。野間の十六年の人生の中で、彼に匹敵する顔面の持ち主にはお目にかかったことがないレベルであり、つまり三井もそういうことなのだろう。
そうだよな洋平。まず男が好きってだけでハードルが高いのに、そいつが自分を想い返してくれる保証なんてどこにもない。隠しておきたくもなるよなぁ。
「じゃ、じゃあもう駅だからここでな! お前も早く帰れよ。あと、今日のこと周りに言うなよ! バスケ部に来て宮城とか……あー、あと流川とかに言いふらすなよ!」
「なんだよミッチー信用ねえなあ」
お気をつけてー、と呼びかけて、野間はその背中を見送りながら心のなかで呟く。
――なんだよどいつもこいつも流川流川ってなあ。
花道の好きな晴子ちゃんも、洋平の好きなミッチーも、いい男があんたらに惚れてるってのに見る目がねえぜ。
よし、と野間は太く息を吐いた。
「忠一郎の忠は、ダチに忠実の忠だぜ」
見てろよ。オレがお前らのキューピッドになってやる。
小さくなっていく背中を睨み据えながら、野間は断固たる決意で拳を握った。