──このまま雨の中に呑み込まれて、消えてしまえれば良いと思った。
スノーボーダーとしてやっていけない様な大怪我を経て、何の縁だかジムリーダーをやる事になった。今のぼくに残された、唯一と言っても過言ではない、課された責務をどうにかこなしていく。ポケモン勝負は嫌いではない。だから、特に戦闘方面での支障は無かった。
けれど、ジムに挑む最終試練となるに等しいぼくの元にやって来る学生が、戦況が劣勢になっていくにつれ、段々と憔悴していき、諦めてしまう様が、嘗ての自分と重なって見えて。何度も何度も挑戦しても勝てずに、最終的に諦めてしまう様に、あの頃の自分を思い出して。
それを何回も何回も繰り返して。
──ある日、それに耐え切れなくなって、ナッペ山から逃げ出した。
右も左も分からないまま、宛もなくパルデアを彷徨う。アルクジラとチルタリスがそんなぼくを心配して、後をついてくる。途中、アルクジラがはぐれそうになってボールに戻しはしたけれど、チルタリスはぼくの後を何も言わずについて来てくれた。
彷徨って彷徨って、人気の無いベンチに座り込むと、程無くして雨が降り出した。ぽつぽつと雫が落ちていただけのそれは、やがてざあざあと瀧の様な雨に変わっていって。
嗚呼、このまま雨に打たれて、消えてしまえれば良いのにと思った。それでも、チルタリスはその綿毛みたいな羽毛をぺしゃんこにしながらも、ぼくの傍から離れない。
雨粒が容赦なく体温を奪っていく。それはまるで、あの時みたいで。がちがちと歯の根が噛み合わない筈なのに、何故か寒さは感じられない。
頬を伝う雫が涙なのか雨粒なのかの区別さえつかなくて。ぼたぼたと雫が伝う中、不意にそれが途切れた。チルタリスが弱々しく鳴いた。その声に敵意は見られない。のろのろと、重い頭をもたげる。
そこで見えたのは女性と思しき人の腕と傘の柄で。嗚呼、誰かが傘を差し出してくれたのか、なんて他人事みたいにぼんやりと思う。
「風邪、引いちゃいますよ?」
鼓膜に響いた声に、思わず目を見開いた。聞き覚えのある、それ。のろりのろりと更に頭を上げる。
目に飛び込んできたのは長い長い、雪みたいな白髪。自身が濡れるのも構わずにぼくに傘を差し出すその人物を、ぼくは知っている。ぼくだけが、知っていた。
──“ナンジャモ”。体を張った、体当たり配信をしている、配信者だ。正直、動画の伸びは芳しくないけれど、ぼくはその体当たり方針が気に入っている。まさか、こんな形で会うなんて思わなかったけれど。
何の反応も示さないぼくに、彼女は息を吐く。嗚呼、そうだ。彼女だってぼくなんかに傘を差し出した所為で風邪を引かせてはいけない。
そんな事を考えていたら、彼女がぼくの腕を取り、勢い良く引っ張って、無理矢理ベンチから強制的に起立させられた。思わず彼女の方を見ると、やや顰めっ面をしながら
「ほら、行きますよ。こんな所でこのまま雨に打たれて体調崩して、チルタリスに心配掛ける気ですか?」
告げられた言葉にぐうの音も出ない。恐る恐るチルタリスの方を見てみれば、雨でぐしゃぐしゃになりながらも、先程とは変わって力強く一声鳴いた。
それを聞いて、彼女はよし、と小さく呟く。
「じゃあ行きましょう。ボクの家、此処から近いんで」
何かとんでもない言葉が聞こえた気がする。けれど、今のぼくにはそれを考える気力もなくて。引っ張られるままに、彼女の後をチルタリスと共に着いていった。
「ただいまー…」
ひゃー、濡れた濡れた。漸くぼくの腕から手を離して彼女が先に部屋の中に踏み出す。ふと、気付いた様に此方を振り返り、
「其処から動かないで下さいね。今タオル持ってきますから」
そう告げて、そのまま廊下の奥へと姿を消した。
「動くな、なんて言われても動く気すらしないけど」
呟いた言葉は存外弱々しく、自分が思っている以上に体力を消耗しているのだと気付かされる。チルタリスが心配そうにぼくの顔を覗き込む。それに大丈夫だと答える様に、頭を撫でる。何時もより冷たい体温に、つきりと胸が痛んだ。
途端、視界が白に埋め尽くされた。なんだ、と思う間もなく、その上からわしゃわしゃと髪を拭かれる。この状況でそんな事をするのは家主しかいない。
存外名残惜しく手が離れていった隙に、視界を覆う白を思い切り下げる。鮮明になった視界の中、彼女がチルタリスにタオルを被せて、その羽毛の水分を拭き取っている姿が飛び込んできた。
「あ、お風呂場はこっちです。今沸かしてるので入ってる間に沸くと思いますよ」
「は?」
ほら、早く早く、風邪引きますよ。言いながら彼女にまた腕を取られ、そのまま風呂場に押し込まれる。
「洗濯機の使い方分かります? ……分かる、なら入ってる間に洗っちゃって下さい。その……、流石に男性用の服は持ってないので……」
チルタリスも一緒に入っちゃう? 入らない? あ、女の子だから恥ずかしい? そうかそうか。それではごゆっくり。矢継ぎ早に言葉を重ねられ、中々釈然としないまま、そのまま言葉に甘える事にした。
脱衣所に出ると、まだ乾燥が終わっておらずどうしたものかと思っていたら、未開封の男性物のスウェットが若干濡れたレジ袋から無造作に出された状態で置かれていた。あの雨の中、また外に出たのだろう。罪悪感と、気遣いが同時に胸を襲った。
リビングと思しき場所に歩を進めると、果たして彼女は其処にいた。ドライヤーで乾かされたのだろう、ふわふわの羽毛を取り戻したチルタリスの羽をブラシですいている。その傍にはハラバリーにタイカイデン、レントラーにムウマージもいる。
ぼくに気付いたチルタリスが声を上げると、それに釣られて彼女とポケモン達も此方を見やる。
「あ、上がりました? 良かった、顔色大分良くなりましたね」
にこやかに笑いながら語る彼女の顔色は果たして寒さに青ざめていた。それはそうだろう、ぼくなんかに一番風呂を譲った上に、雨の中再び外に出たのだろうから。
彼女の腕を、今度はぼくが取る。ひやりとした冷たさが服越しにも伝わってきて、酷く胸がざわついた。驚く彼女に言葉を紡ぐ。
「ほら、あんたも入ってきたら。家主なんだから」
「え、あ……、はい……」
しどろもどろに頷きながら、彼女は風呂場に姿を消した。
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諸々用事を済ませ終えても、外の雨は勢いを緩める事はなかった。一晩位なら泊まれば良い、と言う彼女の言葉に警戒心は無いのかと言いたくなったが、このさんざめく雨の中、帰る手段がないのも事実で。大分苦い顔をしながら不承不承に承諾すると、彼女は可笑しそうに笑った。いや、誰の所為だと。
ただ、問題はもう一つあった。寝具をどうするか、だ。曰く、誰が泊まりに来る訳でもないからベッドは一つしか無いとの事。それならば家主である彼女が使うべきだ。
けれど、彼女はそれに否を唱える。
「あんなに雨の中じっと濡れてたんですからちゃんとしないと風邪引いちゃいますよ!」
正論だ。ぐうの音も出ない。怯んだ隙に、彼女はぼくの腕を掴んでベッドに放り込む。さっきから力業が過ぎないか? 彼女。
横になると、途端に疲労感と眠気が同時に襲ってくる。何時もと違う寝具の匂いが、何故か酷く心を落ち着かせた。
とん、とん、と布団の上から優しく叩かれる。寝かし付けられる歳でもないのに、何処か心地良い。けれど、何か足りない。
「サムい……」
口にして、嗚呼そうだと腑に落ちる。そうだ、寒いんだ。温もりが欲しくて、彼女の腕を掴む。大きな瞳が、更に大きく見開かれた。
「どうかしました?」
「サムい……」
「寒い? なら、毛布持ってきましょうか」
「いらない」
え、と洩らす彼女を尻目に、そのまま腕を引っ張って、ベッドの中に引きずり込む。
「あんたが温めて」
半ば眠りに落ち掛けてる頭で言葉を紡ぐ。腕の中で踠く彼女の肩口に顔を埋めて、強く強く抱き締める。
嗚呼、温かい。チルタリスとはまた違う温もりと柔らかさが心地良い。鼻腔を擽る匂いに、とうとう眠気は落とされて。すう、と何も考えずに目を閉じた。
──これなら、悪夢も何も見ないで済むな、なんて思考も、睡魔と共に一緒に泥の中に沈み込んだ。