『雨の街を』
「ねぇ、カルロ。
本当に出掛けるの?
すぐそこだからあたし一人で大丈夫よ?」
玄関先で車のキーを片手に支度を待っていたオレの瞳を、ジュリオの淡いブルーの瞳がどこか心配そうに見上げる。
ジュリオが用事があるのは、我が家からゆっくり歩いたとして15分もかからない場所にある、一軒の小さなパン屋だ。
ジュリオはその店のクロワッサンが大のお気に入りらしく、ここのところ3日と空けずに通っている。
一度オレが軽口でそれをからかうと
「なら一度食べてみたらいいわ。
カルロだってきっと虜になるに違いないから!」
そう膨れたジュリオが買ってきたクロワッサンは、世界中のどのホテルの朝食で食べたものとも比にならないくらい、美味しかった。
レーサーという職業柄、ウエイトコントロールも必要とするオレは、それを食べるのは週末だけと決めていたけど、かくしてこの店のクロワッサンは我が家の休日の朝の定番におさまった。
「まあ、それもそうだな。
……ジュリオ、散歩がてら歩いて行くぞ」
キーをポケットへと捩じ込み、オレは先にドアを押し開く。
慌ててジュリオがあとを追いかけてきた。
土曜日だというのに今朝の街はやけに静かで、すれ違う人もまるでいない。
ジュリオはオレにぴたりと寄り添いながら、また心配そうにオレの顔を仰ぎ見た。
「なんだ?
さっきからそんなにジロジロと……うっとりした顔しやがって。
お前は自分の夫の顔がそんなに珍しいのか。
いい加減に慣れてくれないか」
「んもう、とんだ自信家ね。
カルロ。
……大丈夫?」
「だから、何が?」
ジュリオの視線は、オレの瞳を通りすぎ、天を仰ぐ。
つられて視線を追えば、まだ大粒のまばらな雨粒が、たん、たん、と大きな音を立てて頭上の傘を叩いているのが見えた。
その傘越しの空は、まだ朝だというのに、淡いグレーの厚い雲に包まれている。
西を見ても雲が薄い様子は特に見受けられないから、今日はもう、一日こんな天気なのだろう。
そんなことを頭で独りごちるオレの腕を抱きしめるように、ジュリオのその両手はしっかりと絡められていた。
「ほら。
雨、けっこう降ってるじゃない。
だから今日は家で留守番してくれてても全然よかったのに……」
ジュリオがそう囁くから、そこでオレは初めてその心配そうな表情の訳に思い当たった。
子供の頃……雨が嫌いだったオレのことを、ジュリオは慮っていたのだ。
ああ──今日は雨だな。
外を見てそう思ったから、キーを弄んでいた左手を、傘に持ち替えた。
オレたち夫婦の持つ別荘は、雨の多いあの日本にある。
滞在中、急な通り雨に降られて偶然手に入れた、軽くて大きい透明傘が気に入り、同じものをモナコにも持ち帰ってきた。
日本の夏の終りに降るあの大雨でもない、この程度の雨なら二人で入っても充分事足りるほど大きなビニール傘。
だから、二人でも傘は一つで充分だろう。
と、そう考えた。
人はおろか、今朝は通りすぎる車すらもまばらだったけど……万が一、下手くそなドライバーの操る暴走車に、水溜まりの泥でも跳ね上げられては、今年の冬に買ってやったばかりのジュリオのお気に入りの白いコートは、一瞬で台無しになってしまうだろう。
だから、ジュリオには歩道のやや内側を歩かせた。
この時間なら、ちょうどクロワッサンの焼き上がりに間に合う頃よ、とジュリオは言っていた。
だから、家に帰ったらまだほんのり暖かいクロワッサンとともに、サラダや常備菜をジュリオが食卓へと用意する間に、オレは豆を挽き、丁寧に珈琲を立てるとするか──豆は先週買ったばかりの深煎のマンデリン、あれにしよう。
こんな雨の日には、スッキリとどこまでも澄んだ軽やかな味よりも、深い含蓄のある香りの強いものが似合う気がした。
朝食分よりも多めに立てておいて、保温しておけば、午前の間二人でゆったり読書をする伴にはうってつけに思われた。
──今のオレにとって、雨はそれ以上でも、それ以下でもなかった。
そしてオレ自身その事に、指摘されて今、初めて気がついた。
それはなぜか。
……その理由について、オレはよく分かっている。
ジュリオがこうして側にいるからだ。
大人になったオレには、今は家族となったジュリオと暮らす『我が家』がある。
そこに帰れば、いつだって暖かく、心から安らぐことができるとオレは知っている。
そこには、どんなオレのことも、いつも受け入れ続けてくれた人がいるからだ。
子供の頃の自分が、片意地を張り、毛嫌いしていた──そんなジュリオの優しく甘やかな愛情にくるまれているうちに。
オレはいつしか、雨空ももう、気にならなくなっていたらしい。
登り坂の角を曲がり、白く煙るパン屋の看板が見えたところで、後方からエンジン音が近づいてきた。
オレは、傘の中の体を庇うようなそぶりで、ジュリオを抱き締めた。
オレのそんな話を、さっきまで黙って聞いていたジュリオは、今度は嬉しそうにこちらを見上げて、微笑んでいたから、そのまま……赤く艶やかな唇を奪う。
やがて車が通りすぎ、視界の端で右折し、消え行くのが見える頃。
オレたちの傘は、ふわり、と、濡れた路面に着地した。
多少の雨など、構いはしない。
そんなものは、もうどうだっていい。
降りしきる雨に、肩を、頭を、うたせながら。
今はただ、ジュリオの甘い唇だけがほしかった。
fin.