不離一体 扉を閉めて、後ろ手に鍵を掛ける。本来ならば呪術で封印を施してやりたいところだが、私にそれは許されていない。私はピンチャンの羂索。それ以上でも、それ以下でもない、それで――それが良いと彼の手を取った、運命を選び取ったのだ。
「髙羽」
呪符が壁紙のようにびっしりと貼られた、窓のない部屋。中央に置かれた簡易的なベッドに、私の運命はいた。
名を呼ぶ暇も惜しく早足に歩み寄れば、髙羽が目を閉じていた。朝に薄目で後ろ姿を見た着古した高校ジャージではない。白い甚平、患者衣と言うべきそれは”治療”を受けるにあたって着替えさせられたのだろう。
隅から隅まで傷の有無を確認することは間違っていない。また、記憶は物にも宿る。嬲られる最中と同じ格好は苦痛を思い出す材料になってしまう可能性が高い。被害者の保護として妥当な判断で、だから、私に湧き上がる感情、何もかもへの殺意は抑え込むべき感情だ。長く息を吐いて、永く生きる中で作り慣れた笑みを顔に貼り付ける。
「久しいね。……千年、三年、一日すら経っていないのに、随分と堪え性がなくなったものだ」
髙羽は私に答えを返さない。白を纏って、目を閉じているだけだ。天冠をせず前髪を下ろしている他は、いつかのように、どこまでも静かに。衝動的に胸までかかった布団を捲り上げる。傷ひとつない体が呼吸に合わせて微かに上下する様に、告げられた通りに眠っているのだと理解して、湧き上がってきたのは違和感だった。
……私が髙羽と共に生き続けることを許され、せせこましいアパートが帰る場所となった日だ。
客人用の布団もない、そもそも布団を置くスペースすらない散らかり放題の部屋。一枚の布団に大の大人が二人、体をみっしりと詰め込んで眠るという面白いに至る形で、私は一日を終えた。
『おやすみ、羂索』
『この有様で身を休められると思えるんだ。すごいね君』
『しょ、しょうがないだろっ!お客さんなんて上げたことなかったんだから…』
少しでもコンパクトになろうと胎児のように丸まる姿も面白いでしかなかった。千年に渡り混沌を振り撒いた呪詛師を『俺が面倒見ます!相方なんで!!』なんて啖呵を切っておいて、馬鹿じゃないだろうか。あぁ、馬鹿だからこうなっているのか。
『君のはじめてか。悪くないね』
そう面白いを胸に目を閉じた私は、数時間でべんっと蹴り起こされたのだった。当然初めてのことだ。信じられない心地で身を起こして振り向いた先、髙羽は眠っていた。
『…………あのさぁ』
『ぐー……ぐー……』
半開きの口から涎を垂らし、四肢を自由に投げ出し、髪も寝間着も乱し放題に――涙声のありがとうを告げた男と同一人物かを疑うだらしない寝顔で。
「ねぇ、髙羽」
ベッドの傍に置かれた丸椅子を横倒しにする。ガタン、ガンッ、力加減をしくじったか派手な音が鳴ったが構わなかった。私と彼の間にある何もかもが邪魔だ。もっと近くで感じたい。シーツの上に腰を下ろし、頬へと手を差し伸べる。……触れる直前に手を止め、一秒、二秒、待てど私がそうしたように握り込まれることはない。
「そんなとこじゃ休めないだろ」
あの日。無言で彼を叩き起こした私に返されたのは『だ、だから俺は廊下に寝袋でいいって言ったじゃん…』なんて気まずそうな言い訳で、私はそれに上辺ではなく心からの大笑いで、ああ、駄目だ。どうでもいいことばかり思い出してしまう。のんびりして良い状況じゃないのに。
「……やめなよ。ちっとも面白くない寝顔なんて」
触れた指先から、体温が伝わってくる。私よりも高い、そのくせに布団の中で有効活用してやれば冷たいと怒るのが常の髙羽は、ただ静かに”在る”だけだ。指先、掌、片手だけでは足りずに両の手で挟み込む。ようやくだ、と思った。帰ってきたのだ、私の手の中だけに、髙羽。髙羽。
「私の髙羽」
頬に添えた指が白んでいた、知らず知らずに指に力が、微かながら呪力を含めて込められてしまっていた。そう私が気付いたのは、ぱちりと閉ざされていた瞼が開いた後、
「――――ッ」
恐怖に染まった目、悲鳴すら上げられず引き攣る喉、何かから庇うように顔の前で交差する腕を目の当たりにしてからだった。
「あ、…れ…けん、じゃく」
「…………そうだよ」
一瞬だった。秒数にすれば三秒もない。私を腕の隙間から見上げ、私の名を上擦った声で呼んだ、目の前にいるものが”何か”ではないと認識した髙羽から怯えの感情は既に消えている。あるのは驚きだけだ。恐らくは自分が咄嗟にとった行動に対するものも含まれた。
わかっていた。髙羽が生きて私の手の中に帰るということは、そういうことだ。あぁ、わかっていたとも、だが、殺してやりたいで気が狂いそうだ、だが。
「おはよう。髙羽」
それでも共に生きていたい、一点だけが私を繋ぎ止めている。両手を離し、咄嗟が出ないように組み直す。名残惜しかったが、彼から恐怖を引き摺り出す結果となってしまっては本意ではない。
「あのさぁ。君はツッコミ担当、以前に私は挨拶してるんだよ」
「お、……はよ、羂索。でも、なんで」
「……こっちが言いたいんだけどね、そのセリフは」
髙羽がはっと息を吐いて、瞳に感情を渦巻かせる。しまった、と思った。私は糾弾したいのではない。なのに何故が、本心が口をついて出て行った。
万が一。髙羽が錯乱し術式を制御できなくなった場合の最善手を、私は導き出せていない。夢の舞台を通してオチを与えられたのは、髙羽が芸人としての精神状況にあったからだ。今の彼がそうであるかは。
「そっか……そうだよな。オマエが探してくれたんだ」
変わり続ける髙羽の瞳が最後に宿したのは、幸福だった。私を見て微かながら笑っている、すわ世界を巻き込むかもしれない術式の暴走が起こらなかった理由の一端が私にある、それは好ましい光景のはずだ。
なのに、私が浮かべる笑みは作り物のままだ。いや、なのに、ではない。彼の認識が間違っていることを私は理解している。
「随分と甘いこと言ってくれるね。私の縛りは知ってるだろ。高専に泣きついただけ。君と同じだ。何でも殺してやるから助けて、って」
「違うよ。……んっ!?いやいやいやいや本当に違うしっそんな物騒なこと言った覚えないぞ!!?」
がばりと起き上がった髙羽が声を大きくする。顔の前でぶんぶんと手を振る、ツッコミ担当らしいリアクションも久し振りのように感じる。全力のそれは上辺ではない笑いを誘ってくれて、ああ、やはり私には彼しかいないのだと思わされる。
「同じだよ。君は私を選んだ。私は君を選んだ。他はどうでもいいのだと宣言してね。そこに自覚があるかないかの違い」
本来。”超人”を持つ髙羽にしても、真っ当に生きていい人間ではない。宿儺との戦いにおける功績と善性で許されているだけだ。
……つまり、髙羽が私の助命嘆願をしたのは『奇跡的に回路がオフになっているだけで兵器を山と積んだスーパーロボットが「自分が安全装置として核弾頭を胸に抱いたままでいるから大丈夫」』とバグり散らかした発言を人類にやらかしたような無茶苦茶で、脅しに自覚がないのだから面白すぎた。違う。面白すぎる。現在進行形で、だ。そうでなくてはならない。
「私は自覚してるからね。物騒には物騒で返すし、使えるものは何だって使う。私はピンチャンの羂索として生きると決めたのだから」
私は面白いのために、お前と共に生きるのだ。無茶苦茶ではない当然のことを宣言して、髙羽の黒目を覗き込む。円らな瞳は更に丸くなって、瞬きを数度返して、終わりに俯きとも頷きともつかないリアクションが返される。
「ごめん、羂索。馬鹿だった。俺に何かあったらピンチャンは終わっちまう。オマエも、なのに」
謝罪の言葉で、頭を下げたのだと理解する。私の生は髙羽と共に在り、終わりも同時でなくてはならない。これは望む望まないの感情以前、縛りの話だ。髙羽も知っていることで、ああ、馬鹿さ加減に腹が立つ。自分が死ねば私も死ぬから動いたのだと、縛りで生きていると誤解されているなんて、本当に。
「謝るな。馬鹿」
私は生きたいと思っているだけだ。死にたくないと思っているのではない。私が厭うのは、憎むのは、悔やむのは。
「…………馬鹿なことを、した。謝ってもどうにもならない」
心の支えなのだから、日課なのだから、私に気を遣っているのだから。呑気なことを思って、思い続けて、今に行き着いた。
自惚れかもしれないが、私は誰よりも知っていたのだ。髙羽史彦という人間の善性を。善性の踏み躙りやすさを。千年以上もの永い間、私は踏み躙る側であったのだから。
なのに、とんだ馬鹿になったものだ。一年にも満たないうちに、ただの人間の思考に染まり、髙羽が踏み躙られる可能性を忘れた。呪詛師の羂索であったならばあり得なかったことで何のことはないピンチャンの羂索として生きるということを理解していなかったのだ――私は――私は――
「ありがとうな」
ぽん、頭に何かが触れる。子供にするように、一度、二度、撫でる動きでそれが髙羽の掌なのだと気付かされた。
「思っちまったんだ。俺なら大丈夫だろ、だってすっごいオバケもオバケの親玉もドツいてきたんだぞって。馬鹿だよなぁ。うん、俺の勝ち」
「慰めてるつもり?馬鹿……ってさぁ、言いたくないのわかるだろ。自虐ネタ止めてくれるかな。本気で」
「……自虐じゃないよ。事実だもん。大丈夫って思ったのは俺の意思。だから、何でもするから、大丈夫にしなきゃ、って思った。俺がそうしたら……全部大丈夫にできるって……」
からかう目的のぐしゃぐしゃに乱すものでも、睦み合う最中のゆっくり絡めるものでもない。私がする類ではない優しげな手付きで髪を撫でる髙羽の表情は笑っているようにも泣いているようにも見える。
「……大丈夫に、したくて……ちょっと……わかんなくなった」
ふわふわと覚束ない話は、私に苦痛を話したくないからだろう。恐怖心からか、気遣いからか、両方か。微かに手が震えていることは指摘せず、ただされるがままでいれば、髙羽が目を閉じた。
「でも、……でも。思い出せたんだ。俺の面白いはオマエで、なのにオマエがいないんだから……全然大丈夫じゃないや、って思い出せた。思い出せなかったら、たぶん……俺、俺じゃなくなってたよ」
「離したのも、繋ぎ止めたのも私だと?はぁ……本当、甘いねぇ。二人して馬鹿だなんて、どうかしてる。コンビとしてもカップルとしても」
眦にも声にも薄く涙の幕を張って、大の大人がするには情けない顔だ、……だが、私も似たようなものなのかもしれない。鏡がない以上はわからないが、何となくそう思った。
いつの間にか頭に置かれたきりになっていた手に、自分のそれを重ねて握り込む。ぴく、跳ねる気配があったが、振り払われることはない。何よりの答えだった。
「私は慈しむべき少年って歳じゃないでしょ。バの付くカップルの年上彼ピ。ごめん、ありがとう、どっちも違う――ワガママ言われるぐらいでちょうど良い」
「!バ、……カッ、……け、羂索、……オマエ」
「せめて馬鹿の埋め合わせはさせてよ。今は無理でも私たちにはこれからがあるだろ。縛りと思ってくれても構わない」
緩く握り込んだ手を、自分の目の前にまで連れて行く。お笑い芸人として漫才をする最中、ただの人間として生活をする最中。何度も私が触れてきた、私に触れてきた手。白魚のようなしなやかさ、とは正反対のごつごつとして血色の良い、だが愛おしくて堪らない手。
指を絡めるだけでは足りずに唇で触れ、耳まで赤くなった彼から半裸になると余計目立ってうんぬんと芸人根性溢れる説教を受けることも珍しくない、ああ、だが、今はよろしくない。
「何でも言ってごらん。大丈夫だから」
ゆっくりと手を下ろさせて、シーツの上に乗せたところで離す。名残惜しくはあったが、私たちには時間があるのだ。気を逸らせて不用意に彼を傷付けるような真似は、
「じゃあ、……今。ギュッてしてくれよ。バカップルらしく」
したくない、と思っていたのに、欲のまま生きている自負がある私にしてはそれはもう非常に珍しいことに自制心を利かせたと言うのに、何をほざいてるんだこいつは。
「………は……」
ぶつ、血管が切れる幻聴が聞こえた気がした。それも複数回。
「はっ……はあぁあああ?あのさぁっ。本気で馬鹿言うことないだろ」
「え!?えっ!?バ、バカップルってオマエが言ったんじゃん、今できることにしたし……」
「あー、あー!そこだよ。今の部分。顔見たときからはあぁああもう見る前から触れたくて仕方ないのに今触るのは無い馬鹿だ猿だ最悪だと抑え込んでたのに一言で無に帰す真似してさぁっ?信じられない。年上彼ピが包容力で何とかする生き物だと思ったら大間違いだから」
優しく撫でられたばかりの髪をがしがし掻き乱しながら思いの丈を吐き出す。へ、あっ、戸惑ったようなぶつ切りの音を髙羽が発して、だが声色に恐れや拒絶はなくて、余計にムカつくやら嬉しいやらああクソ訳がわからない。
私は自分の思惑を外れる混沌を愛してきた。今日に限り憎悪を抱きはしたが、いや、それにしても今はないだろう。万策尽きてはあっと再度溜め息を吐いたところで、とん、胸元に温かいものが触れた。
「俺、大丈夫じゃないまま、なんだと思う。……たぶん、きっと」
額をくっつけて小さく首を振る。私はこれを知っている。布団の中で甘える際の仕草だ。一枚の布団を分け合い、お前の取り分が多いと引っ張り合い、その果てに大人しくなった彼がする”いつもの”と言える、本来ならばもっと密着しながらの。
「羂索はここにいる。俺の相方で、俺の大好きな人で、俺が帰りたかった……わかってる。頭では、……」
私に触れる温かいの質が変わる。口にしたようにギュッと、額だけでなく顔を埋めるようにして縋りつく彼から、雫になっていくつもいくつも流れて落ちていく。
「……頭じゃないとこで、わからせてくれよ。帰りたい。俺の場所に、けんじゃく、、」
帰りたい。けんじゃく。帰りたい。小声で繰り返されるのは、ワガママと言うにはささやかすぎるものだ。返事の代わりに背中に腕を回す。そのまま抱き寄せるようにすれば髙羽の体が跳ね、”彼”が直に伝わってくる。
次第に浅くなる呼吸。早鐘を打つ心音。目で見るよりも細かな震え。じっとり汗ばんでいる体。大丈夫じゃないを示す何もかも、髙羽には止められず、苦しんでいるのだろう、ならば。
「おかえり。髙羽」
安堵を促す囁きを吹き込んで、回した腕に力を込める。お前を脅かすものなど何もないと、全て受け止める居場所が在るのだと、理を超えたところでわからせるために。ひっ、……ひっ、ひ、喉を引き攣らせる音がリアクションに加わる。何かを言おうとしている、違う、何かを堪えようとしている。
「もう、大丈夫。ここは舞台じゃない。客も審査員もない。ピンチャンの髙羽とも違う、私だけの、ただの髙羽史彦が帰る場所だ」
頭に手を添え、ぐしゃぐしゃと撫で回す。先に髙羽がそうしてくれた子供にする手付きは、相応しくないと思ったからだ。いい子だと褒めるものではいけない。むしろ、今の彼にはいい子でなくてもいいのだ、と思わせる必要がある。
「ほら、挨拶は大事だろ。おかえり……私の髙羽」
「た、だっ……ぃ」
ひっぐ、ぐすっ、えぐ、繰り返されていた音に湿っぽい色が乗っていく。私からは見えないが涙だけでなく鼻水も涎も垂らしているに違いない。断りもせずに悪い子供だ、だが、それで良い。
御年35歳なんて途方もない年齢差、年上も年上の私からすれば子供を通り越して赤子同然なのだ。私に包容力があるかはさておき、抱擁をしてやることはできる。
「っひ、ヤ、だった、……羂索、おれ、ほとっ、は」
「……無理もないことだよ。でも、もう大丈夫だ。私がいるからね」
「な、んで、って…!助けが…った、…思っ、ちま、って」
「当然だろ。芸人、呪術師である前に人間なんだから、君は。……大丈夫。おかしなことじゃない」
「っ、あぁあ、あ、けんじゃく、こ、かった……けんじゃく、」
大丈夫。……大丈夫。もう、大丈夫。堰を切ったように縋って泣きじゃくる髙羽に囁き続ける。そこには何の算段もない。良いも悪いも関係なく、私の前では嘘偽りなく感情を表出させて欲しい。つまりただの欲だ。
”超人”の仕組みは術者自身も、千年を生きた術師も、高専の連中も誰も完全な理解はできていない。恐らくは感情が威力を左右しているのだろう、という曖昧なものだ。次の瞬間には術式が暴走し、私、どころか世界が滅んでいるかもしれない。
だが、まぁ、髙羽がいない世界など、誰が生きてても死んでても同じなのだ。私たちが駄目ならば、全部駄目。それでしょうがないじゃないか。
「大丈夫にしてみせる。君の相方で、恋人で、不離一体が」
さぁ。扉が開くまで、私は、世界は滅ばずにいられるかな――腕の中に彼がいるならば、爆破オチでも私としては最高だけども。近くから遠くから呪力のうねりを感じながら、不思議なことに私の心は凪いでいた。