光が当時医学生だった謙也を誘い、謙也がそれに応えるかたちでお笑いコンビを結成してから数年が過ぎた。結成時の感動は、ほぼバイトの収入のみでどうにか暮らしていく余裕なき生活によって思い出されることもなくなっていた。
光は父親の紹介で入った会社を退社、謙也は研修医試験の直前で大学を退学したという経緯から実家に戻りにくくなった手前、二人は一つ屋根の下でともに暮らしている。これは今のところ世間の誰にも漏らせない秘密であるが、ねじれ、絡み合う彼らの縁はいつの間にか恋へと発展していた。つまり、同居は何をするにしても色々と好都合なのである。しかしどんなに愛があろうともこのままの現状がずっと続くことを考えると、それは最早ぬるい地獄に等しいと光は危機感を募らせていた。
長いトンネルをなかなか抜け出せない状況に光は焦っていた。オーディションでも、時たま上がる舞台でも結果を残せない。返ってくるのは何かイマイチなんだよなぁ、という曖昧な反応ばかりである。順調に医師への道を進んでいた謙也の進路をがらりと変えたのは他ならぬ自分だ。彼が己の境遇を不幸だと思ってはいないか、気掛かりなのはその一点に尽きるのだった。
ネタ作りに行き詰まっていると、なんとなく点けていたテレビから聞き馴染みのある声がする。姿を見ずともわかる、小春とユウジだった。お笑いにかけては中学時代からすでにホープだった二人はすでに謙也と光の二歩も三歩も先に進んでおり、茶の間で見かけぬ日はないほどの人気者になっていた。隣で能天気そうに笑う謙也を見ているとなぜか腹が立ち、テレビの画面も見ずにチャンネルを変えた。当然謙也から不平が出たが、光はそれを無視してネタ帳を睨み続けた。
ある日事務所でネタ見せが行われた際、講師の中に小春が芸人代表として混ざっており謙也と光は少し驚いた。同時に光は、立場の違いをはっきりと思い知らされるようで心が重くなるのを自覚した。
約二分間のネタが終わり、講評に移る。講師からの辛辣なダメ出し。ただ、それに対して落ち込んだり、反発したりする気持ちはこの数年で鈍ったような気がする。粗方意見が出尽くした頃、講師の一人である作家が小春に話を振った。
「金色さんからは何かありませんか?」
「そうやねぇ、ちょっといいかしら」
小春は少しだけ考えて、やがて単刀直入に言った。
「これは素朴な疑問なんやけど、謙也クンは、ホンマにお笑いやりたいん?」
「え?」
謙也の顔がさあ、と青ざめ、身体が金縛りにあったかのように硬くなっていくのが隣に立っている光にも感じ取れた。
「アタシのアンテナがちょっと反応しただけなんやけど、なんやネタに集中できてへん気がするのよね。気のせいかしら」
その後どうやって場を乗り切ったのか、二人ともよく覚えていない。あたふたする気力すらも奪われて、気がつけばとぼとぼ家路についていた。「ホンマにお笑いやりたいん?」という小春のたった一言がひたすら謙也の脳内にこだましていた。それは今まで受けたどんなダメ出しよりも重さを持ったパンチとなって謙也を直撃した。
光は内心で小春に悪態をついた。何余計なこと言ってくれとんねん、小春先輩。ほんまにキモい。ただ、小春の言葉の鋭さとそれに対する謙也の反応が気になった。普段から頭の回転が早くキレのいい返事をする謙也がああまで狼狽えるのを見るのは滅多にないことだったからである。ひどく胸騒ぎがして、嫌な予感がしていた。
帰宅してなんだかひどく疲れた光はさっさと身支度を済ませて謙也が一人でテレビを見ているのを見届けた後、布団に入って知らず知らずのうち眠りに落ちてしまった。謙也は黙って画面に向かっていた。
悪い予感は的中し、翌日の夜、とっくにバイトは終わっている時間になっても謙也は家に帰って来なかった。携帯に連絡を入れるが返事はない。きっと何かバイト先でトラブルでもあったのだろう。そう思い込もうとしたが、結局夜更けの三時を過ぎても彼が帰ってくることはなかった。
不意に携帯電話が震えたので光は慌てて画面を確認した。謙也からの着信である。応答する指が震えた。
「もしもし謙也さん?今どこにいるんすか」
「なぁ財前」
電話の向こうから掠れた声がする。
「嫌や、それ以上何も言うな」
「俺ら、解散した方がええんちゃうかな」
絶句しているうちに、通話は切れてしまった。プープーと無機質な音が虚しく響く。光は耳元に寄せていた携帯を持つ手をだらりと下げ、そののち膝を抱えて座り込んだ。やはり、謙也は医師になりたかったのだろうか。お笑いの道に誘ったのは間違いだったのだろうか。様々な思いが胸のうちを駆け巡る。
いてもたってもいられなくなって、光は家を飛び出した。なんとしても謙也を探し出して、話をせねばなるまい。電車も終わったこの時間にそう遠くへは行っていないだろう。近所のネットカフェやカラオケに金髪で吊り目の男が来ていないか尋ねて回った。だが店員は首を横に振るばかりだ。他に思いつく場所はないか頭をフル回転させる。
息を切らして走る刹那、光の脳裏に中二の夏の出来事がよぎる。中二の夏。謙也と一緒に挑戦する最後の機会だったはずの試合はあまりにもあっけない形で終わってしまった。あの時謙也が千里に試合を譲ったのは、自分と組んでも勝ち目はないと判断したからなのか、千里の意思を尊重したからなのか。でも。そうだとしても、例えストレート負けしたとしても、光は謙也とともに試合をしたかった。その思いが捨てきれなかったから、今がある。
ふと、ある場所を思い出した。中学時代の冬に流星群を見に行った公園がある。その公園の小山に寝転びながら流れ星を数えたことを光ははっきりと覚えている。近くはないが行けない距離ではない。一縷の望みをかけて、光は再び走り出した。
公園に着く頃にはすでに空は白み始めていた。光は肩で息をする。当たり前のことだが、部活で鍛えていた頃と比べると体力はいくらか落ちたなと自嘲する。久しぶりに訪れた公園の遊具は真新しいものに変わっており当時の面影は薄れていた。ここにいなければ一旦帰るしかない。ふう、と息を短く吐いて小山へと向かった。
そこには見慣れた金髪姿の男が立っていた。間違いない、謙也である。
「謙也さん!」
呼びかけると謙也は一瞬たじろいだが、観念したように頭をかいた。
「……見つかってしもたか」
「ほんまにアホちゃいますか、勝手なことばっかして」
「すまん」
謙也はそう言ってしばし押し黙っていたが、やがて一言ずつ言葉を絞り出していった。
「電話でも言うたけど、やっぱり俺ら解散した方がええんちゃうかな思うねん。小春に言われて思ったんやけど、俺、お笑いに対して本気で取り組んでなかったなって。ただお前と一緒にいられるならそれでええと思ってたんや。というよりも、裏を返せばそれだけやったってことやねんな。俺とやっとっても、光やって先がないやんって。今からでも遅ないから、普通に仕事見つけて……」
「……ざけんな」
みるみる光の身体に怒気が漲り、痛いくらいきつく拳を握りしめた。自然と口から言葉が溢れ出す。
「ふざけんな!ただ謙也さんと一緒にいるだけじゃあかんねん!俺は、俺は謙也さんと一緒に戦って一緒に勝ちたいんや!それをアンタは、またそうやって勝手に自分で限界決めつけて逃げようとするんか?そんなん絶対に許さへん」
「俺と……一緒に……」
「せや、今度こそ俺と謙也さんの二人で……二人やないとあかんねん」
普段の姿とは全く異なり感情のまま喋る光に気圧されていた謙也だったが、じわじわとその情熱に心を揺さぶられていった。
「光……俺やってあの時光と一緒に試合、やりたかったんやで、やりたかったに決まっとるやん……う、う、」
話している途中で、あの夏以来ずっと仕舞い込んで見ないようにしていた感情が怒涛のように思い起こされた。心に収まりきらない感情は、涙となって謙也の両目からぽろぽろこぼれ出した。嗚咽で上手く喋ることができなくなって俯いた謙也を光が抱きしめる。光もまた、泣いていた。
「うぇっ、え、ええぇ……」
大の大人二人しておいおい泣いた。朝日が顔を出して、完全に朝が始まる。涙も渇いて身体が離れると、太陽に照らされた謙也の顔は晴れ晴れとした表情をしていた。
「俺、もう迷わへん。お前と天下取ったろうやないか」
「本気出してもらわないと困りますんで、よろしく頼みますよ。謙也さん」
「ありがとな、光。好きやで」
「はいはい」
しばらくぼうっと朝日を眺めていたが、一睡もしていないことを思い出して急に眠くなってきた二人は公園を後にし、家へと戻っていった。
これは余談である。
小春は密かに謙也に言ったことは間違いではなかったかと気にかけていたのだが、その年の暮れに行われる漫才の頂点を決める賞レースでの二人の姿を見た時にそれは杞憂であったと確信した。
光のなりふり構わぬ絶叫。なだめる謙也と、客席の爆笑。
「アタシとんでもないことしちゃったかも、ウフ!」