全てにおいて速く。それが忍足謙也の生きる指針であり、そうして生きることが彼のアイデンティティでもあった。また、それで人生が上手くいっている。そう確信していた。
ところが、近頃何かがおかしい。彼の中で滑らかに動いていたはずの時計の針が錆びつき、リズムが狂っているのだ。その理由を紐解いていくとある人物にたどり着く。一つ下の後輩、財前光である。
謙也の速さへのこだわりを光は「アホくさ」と一蹴した。身も蓋もない言い様にはじめは面食らった謙也であるが、不思議と憎む気にはならなかった。生意気な言葉の裏側に、意外に愛情深い眼差しでこちらを見ている素顔が見えた気がしたのである。それを何となく理解した時、謙也の中で光の存在は「可愛い後輩」として定着したのだった。そこまでは、よくある話である。
出会ってからはじめて共に過ごす冬。寒風吹き荒ぶ中一人で帰ろうとする光の姿を見つけて追いかけた。イヤホンで音楽を聴きながら歩く背後に忍び寄り、肩を叩こうとしたまさにその時不意に振り向かれたので驚かされたのは謙也の方だった。
「なんやもう!いつから気づいとったん」
「謙也さんの動き、うるさいんですぐわかります」
「そこはわかっとっても引っかかる所やろ」
「そういうお約束みたいなリアクション、俺しないんで」
「相変わらず可愛げのないやっちゃな」
「……寒いんで早よ帰りたいんスけど」
光の顔が僅かに曇り、最後の一言が余計であったと気づく。自分から無愛想に振る舞っておきながら、指摘されれば傷付いてみせるのは繊細なのか、逆に図太いのかわからない。ともあれ彼のへそを完全に曲げてしまうのは居た堪れない気がした。
「スマンスマン!肉まんおごったるからちょお付き合うてや」
「あんまんがいいっすわ」
「何でもええから」
コンビニに寄って二人分の温もりを買うと、すぐそばの公園のベンチに陣取る。辺りはすっかり暗くなっていた。
夕方すぎで空腹もあったがゆえに勢いよく肉まんにかぶり付いた謙也であったが、出来立ての肉まんの中身は思いの外熱く、危うく舌を火傷しかけた。
「あっつ!あっつい!」
悶える謙也の姿を隣で見ていた光、耐え切れずに吹き出した。思わず声がこぼれ出す。
「ふ、ははっ、アホや」
はじめて聞く笑い声、はじめて見る砕けた笑顔。その時、謙也は時間が止まったかのようにゆっくり進むおかしな感覚に陥った。ゆっくりという言葉を聞くだけで体がむず痒くなるほどせっかちな謙也であるが、その性格をもってしても、この瞬間がいつまでも続けばいいと思ってしまうほど心地良いことに戸惑った。
それから、何を話して別れ、家路についたのかよく覚えていない。何が何だかわからずに、自室のベッドに転がって天井を眺めていた。
この気持ちは何だろう。あれからふとした折に光が見せた笑顔が心を捕らえて離さない。
光のことが、好き?
それを実感するには、ずるずると少しずつ、まるで底なし沼に嵌ったみたいに深みへと沈んでいくかのような時間を要した。恋とは瞬時に理解するものだと謙也は信じていたが、これでは真逆だ。スピードスターとはかけ離れた現況に危機感を持たなければいけないはずなのに、受け入れてしまっている自分がいた。
簡単なサーブが返せなくて、ネットの向こうの光は不満げに首を傾げた。
「どうかしました?これじゃ話にならんすわ」
「くそ、それもこれもお前が……」
そこまで言いかけて、はっと口を噤んだ。
「俺が何て?最後まで言うてくださいよ」
「なんでもない!次こそ行くで!」
振り切るように再び飛んできた球を返す。今度は上手くいって内心ほっとした。
部活が終わって着替えを済ませていると、蔵ノ介に小突かれる。
「謙也、財前と何かあったん?」
「聞こえとったんか……いや、別に何もないけどな。なんでや?」
「最近お前、らしくないで。ぼうっとしとるし、何よりあれや、速ないんや。動きに迷いがあんねん」
速くない。気にしていたことをずばりと言われてしまった。流石部長と言うべきか、蔵ノ介はしっかりと部員のことを見ている。
「せやけど、どうすりゃええんや」
謙也はため息をついた。本当に、らしくないと自嘲した。
数日後の帰り道、背中を急に叩かれた謙也は素っ頓狂な声を上げて飛び上がった。背中を叩いた犯人を見れば、光である。
「謙也さん油断しすぎ、リアクション大きすぎ……これはいつかのお返しってことで」
「ざ、財前!お前な……」
何か言い返したかったが、悪戯っぽく笑う光の顔を見ると出かかった言葉は力無くしぼんでしまう。
「……謙也さん、ホンマ何か変すよ」
「だ、誰のせいやと思て」
「俺のせいなんすか?」
「え……」
また、時が止まったようになる。
「この前のこと、最後まで言うてください。俺が、何なんすか?」
「俺は、お前が」
強引に引き出される言葉を声に出した途端、止まりかけた時が物凄いスピードで動き出した。
全てにおいて速く。それが忍足謙也の生きる指針であるが、こんな速さは未知の領域だ。音速光速全てを凌駕して恋が走り出す。振り落とされまいとして、謙也は覚悟を決めた。