「ない……」
冷蔵庫の前で、声が震える。
今日は学部の試験の最終日。いつもの悪い癖で自分の覚えの早さを過信した謙也は結局一夜漬けならぬ三夜漬けを余儀なくされ、数日まともに睡眠を取れていなかった。だがそれも今日で終わりである。自宅に帰ればとびきり美味いと噂の大好物・ミルクプリンが謙也を待っている、はずだった。
「なぁ、ここにあったプリン知らん?」
「え、知らんっスけど。謙也さんが自分で食ったんやないんですか」
「いーや絶対に食っとらん! 光、正直に言うてや? 食ったやろ?」
「食ってへんすわ、なんで謙也さんのプリンを俺が食わなあかんのですか」
「前に一回食うたことあるやんか! 俺は忘れてへんで」
両肩を揺さぶられながら光は思い出していた。真夜中、もはや趣味の域を超えつつある作曲活動を行なっていた光は大きくあくびをする。もう少しで曲全体が纏まりそうなのだが、どうにも足りないエッセンスがあるような気がしてならない。
──気分転換に何か食べようか。
寝巻きから着替えてコンビニへ行くのも面倒だったので冷蔵庫を開ければ、眼前に薄いクリーム色をしたプリンが鎮座していた。そっと寝室を覗くと、謙也はすうすう気持ち良さそうに寝ている。
つい、魔が差した。
「あー……。でもあの時はちゃんと俺から謝ったやないですか。プリンはちゃんと買い直したし」
「せやったらなんで今は謝らんの」
「だから、食ってへんって。何? 疑ってんすか、俺の事」
「それしか考えられへんもん」
「あっそ……勝手にそう思ってればええんやないですか。感じわる」
そう言い捨てて光は自室に篭ってしまった。流石に大人気なかっただろうか。疲労感がどっと押し寄せたあとで、光に対する罪悪感もじわじわ湧き出してきた。
だが、光が食べていないならプリンは一体どこへ行ったのだろう。冷蔵庫を奥まで見渡してみるがそれらしき物は見当たらない。そのうち本気で疲れてきて、謙也は一度考えるのをやめてソファに転がった。
天上をぼうっと眺めていると腹が間抜けに一つ鳴いて、夕飯の支度に意識が向いた。食材は何があったか、冷蔵庫の野菜室を開ける。ほうれん草、もやし、キャベツ、にんじん、プリン……。
プリン?
謙也の顔が青ざめた。野菜室の奥、ビニールに包まれた野菜をかき分けていくうちに出てきたのは紛れもなくあのミルクプリンだった。
思い出した。というより、すっかり忘れていた。次は確実に食べようという考えで自分にしか分からない場所、野菜室にプリンをしまっていたことを。それなのに俺は、なんてアホな。
光の部屋の戸をノックするが返事がない。恐る恐る中に入ると、光がこちらを睨んできた。あからさまに不機嫌である。
「勝手に入って来んといてくれます?」
「光……スマン!」
言うなり頭を下げた。
「その……ありました、プリン……。」
「はぁ、で? どこにあったんすか」
「野菜室に……。疑ってほんまにすみませんでした」
「そんなこったろうと思った……エサの隠し場所忘れるリスみたいやな。リスって、くく、アホや」
我ながらあまりに言い様がひどくておかしく、光が笑みをこぼしたので謙也はほっと胸を撫で下ろした。
「超スピードでぜんざい買うて来るから、夕飯のあとで一緒に食べよな」
「はぁい。あと、謙也さんが学校行ってる間にカレー作っといたんで。今夜は牛すじカレーっすわ」
「ほんまに? めっちゃ嬉しい、ほな三十秒で行ってくるわ!」
「慌てて走って道の真ん中で転ばんといてくださいよ。それと……今回は小さい事やけど、それでも謙也さんに疑われるんは結構きついんで、そこんとこお願いします」
「うん、ごめんな」
心なしか光の身体が小さく見えて、たまらずぎゅっと抱きしめた。光も安堵したように息を深く吸って吐く。短く頬に口付けて、謙也は部屋を後にした。
今日も日が暮れていく。外に出るなり目に飛び込んできた夕陽の輝きに目を細めた。少年から大人になろうとするさなか、二人は共に暮らす日々のかけがえのなさに気がつき始めていた。