黄昏 バゼルギウス ──己のナワバリを巡っていた最中、爆鱗竜の心が強く跳ねたあの瞬間のことを、今でも鮮明に思い出す。
陽の光に照らされ、若い樹木を思わせる綺麗な鱗を光らせるその竜を見て、アレこそが自分の番となる存在なのだ、と。
それが雌火竜であるということ、そうして、自分とは違う異種族であるということは、百も承知である。それでも、彼女を自分のモノにしたかった。それが自分がここにいる意味であるという、漠然とした確信があった。
生まれてこの方、もっぱら戦うことが生きる全てであったため、色恋沙汰には一切触れてこなかったのが、この爆鱗竜である。そのため、雌火竜をどのように射止めれば良いのか、それが分からなかった。
だがとにもかくにも、まずは彼女に近づこうという意思で、爆鱗竜は行動を移すことにした。
最初に行ったのは、雌火竜の食べているものを遠くから観察し、それを渡すことであった。
雌火竜が食べているものは、偶然にも爆鱗竜と同じ草食竜。これならば、そう難しいことでもない。
雌火竜が定位置に現れる時間帯を見つけ出し、そこを突撃することにした。
獲物を渡せば、きっと喜んでくれる……。
……と、思っていたのだが。
「ふろろ……?」
遠くに飛んでいってしまった雌火竜を見て、爆鱗竜は首を傾げていた。
雌火竜を見つけ、そこに向かい、爆鱗竜は草食竜の中でもよく肥えた個体を渡したのだが、雌火竜はそれを見て喜ぶどころか、警戒の色を爆鱗竜に示した。
なるべく優しく鳴き声をかけるが、そんなことは無駄だったようで、雌火竜は変なものに会ったと言わんばかりにどこかに飛び去ってしまったのだ。
どうも、獲物を渡すというのはダメであったらしい。食物という共通の話題であれば、そうおかしなことにはなるまいと思っていた爆鱗竜にとっては中々の誤算である。
しかし、そんなことでへこたれるような爆鱗竜ではない。
倒せないならば、倒せるまで攻撃をする。そうすれば、相手は確実に殺せるのだ。ずっとそうして生きてきたのだから、雌火竜に気に入ってもらえるまでアピールをすれば良い。
だが、趣向は変えねばなるまいだろう。
そうして次に考えたのは、踊りである。
たまたま見かけた竜が、雌の気を引こうと踊っているのを見かけた。
雌火竜にも、そのようなことをすれば良いのかもしれない。
その竜のことを遠くから見て、見よう見まねで踊りを会得した爆鱗竜は、早速雌火竜の元へと飛んで行った。
*
見向きもされなかった。
ただよく分からない時間を過ごしただけである。
だが、へこたれない。
次は自分を飾っている竜を見つけた。
なるほど、自分を豪華にすれば良い雄として見られる可能性があるのか。となれば早速と行動に移る。
雌火竜はどのような装飾を好むのだろうか。喜んでくれる雌火竜のことを想像しながら、いそいそと作業にとりかかった。
*
そもそも爆鱗が邪魔で装飾ができないことに気がついたのは、かなり時間の経ったあとだった。
取れやすい鱗と鱗の隙間に差し込んでも、すぐに外れる。これでは意味がない。
だが、へこたれない。
次は歌である。綺麗な鳴き声で気を引く。またも遠くから見よう見まねで練習し……
*
自分の声質ではまともな歌にならない。
それでもへこたれない。
次は……
*
まったくへこたれない。
次は……
*
へこたれない。
次は……
*
次は……
*
次は
*
次
*
次……
*
……次
*
……無駄なんじゃないか?
*
へこたれない。
次は……。
*
次は……。
*
かなりの長い年月が経った頃、いつものように爆鱗竜が雌火竜のことを見に行くと、衝撃の瞬間を見てしまった。
それは、火竜同士の争いである。
ナワバリ争いでもしているのか、と思っていたが、その争いが終わったあと、勝ったのであろうボロボロの火竜が近くにいた愛しの雌火竜と首を絡めているのを目撃したのである。
これには爆鱗竜も怒り心頭である。なにを勝手に自分の雌火竜に触れているのか。そんなこと、許せるわけがないだろう。
その場からすぐに飛び出そうとしたが、いや待てと冷静に考える。
あの火竜に勝つことは、そう難しくない。ゆえに、今ここで飛び出して、あの火竜を打ち負かしてしまえば良いだろうが、それではダメだ。
万全の火竜を打ち負かしてこそ、真にあの火竜よりも強いということが証明されるだろう。
だから、あの火竜の傷が癒えたのを確認した後、正当に勝負をしかけよう。
悔しい思いを浮かべながらも、爆鱗竜はその場を後にする。
勝負の時、それまでは精々仮初の番として彼女のことを守っていればいい。結局のところ、最後に自分の傍にいれば、爆鱗竜としてはそれで良いのだ。
*
そうして太陽と月が幾度も回ったその日、爆鱗竜は火竜に勝負をしかけた。
火竜との争い程度、何度もしている。負ける通りなどあるワケがない。
……実際、爆鱗竜の猛攻に、火竜が負けてしまうのも、さして時間はかからなかった。
──弱い。
爆鱗竜は火竜の首を脚で押さえつけ、底冷えした目でもがき呻く火竜を睨む。
こんなことで彼女を守れるとでも思っていたのだろうか。否、この程度で何が守れるというのか。もっと強い竜や、それこそ龍が相手ならば、どうするつもりなのか。
少ない期間とはいえ、こんな火竜に彼女を任せた自分の審美眼の無さに霹靂としてしまう。
だがもうそれもこれまで。安心すると良い。彼女は己が守ってやるのだから。
脚を退ければ、火竜が苦しそうに息をする。
ここまで彼女を守ってきたということに免じて、殺さないでやる。さっさと失せろ。
その思いを込めて、爆鱗竜は火竜に咆哮した。
戦う気概などとうの昔に消え失せた火竜は、その場から動くことも出来ず、ただただ震えている。
そんな情けない火竜など、もはやどうでも良かった爆鱗竜は、後ろにいた雌火竜へと目を向けた。
これで雌火竜は己のものである。
あぁ、まったく、遠回りをしたものだ。変なことをせず、ただただ強いことを見せつければそれで良かったというのに。
「かぅ──」
愛する雌火竜に、甘えるような鳴き声をかけようとした爆鱗竜は、その鳴き声を止めた。
理由など、明白である。
「グルルルァァァア!」
雌火竜から、ビリビリとした咆哮があげられる。突進してきた雌火竜のことを避けて大きく退けば、雌火竜は火竜のことを庇うような立ち位置で爆鱗竜の前に躍り出た。
……なぜ?
単純な疑問が、爆鱗竜から溢れる。
どうして、そんな顔をするのだ。
どうして、泣いているのだ?
勝ったのは、己だと言うのに、どうして?
動かない爆鱗竜を見て、雌火竜がちらりと火竜に目を向ける。火竜のことを心配そうに見る雌火竜に近づこうとすれば、雌火竜はまるで今生における全ての仇であると言わんばかりの、怒りの形相を、爆鱗竜へと向け、自身の声が掠れることも厭わずに吠えたてる。
なだめるなどという、そんな生易しい話など介入の余地もない。
彼女は、爆鱗竜のことを、明確な敵として認識しているのだ。
……あぁ、そうか。
爆鱗竜の心に、ぴたりと水滴が落ちる。小さな波紋の広がりは、徐々に心を埋めつくして。
爆鱗竜は、足下の地面を強く抉る。
彼女は、己を選ぶことは無い。強さがあれば選んでくれる、などという話ではなかったのだ。
分からない、分からないが、自分には無い何かを、この火竜は持ち合わせているのだろう。だから、自分は選ばれないのだ。
踵を返す。
最後に、もう一度だけ雌火竜の顔を見たくて、爆鱗竜は振り返る。
……すまなかったな。
そんな気持ちを込めて、彼女に鳴きかける。
そうして飛び去る瞬間、虚をつかれたような表情を見せた雌火竜の顔が、爆鱗竜の最後に見た愛する彼女の顔であった。
*
さざ波が爆鱗竜の脚を濡らす。
今はもう、なにをする気も起きない。ナワバリが侵されようが、攻撃されようが、そんに反撃する意思もない。
遠くから見た雌火竜の笑顔だけが、脳内を駆ける。
……もう、彼女と会うことは無いのだろう。
だからせめて、忘れないように。心から消え去らないように。
自分に笑いかけてくれる、無かった未来を夢想しながら。
水平線の向こうに、陽が落ちる。
夜になるその光景は、爆鱗竜の心と同様の影をこの土地に拡げていた。