ナバルデウス×ラギアクルス 深く、深く、深く。
陽の光などとうに届かぬほどに深く。私の存在が塵のように小さく思えるほどに広く。
海原の果てに連なるこの場所は、まるで世界の裏側かのように、秘匿されている。私の身体は妙な緊張感に包まれ、心の臓は興奮とは違う高鳴りで、僅かに跳ねる。
厳かで重い空気が、ここには満ちている。
それを感じ取るからだろうか、私以外のありふれた生き物、魚の群れや小さな甲殻類たちは、この場所に近づこうとはしない。
その原因を、私はよく知っている。
この深海の底に潜む、悠久の存在。
闇の中で静かに息づくもの。
その気配だけで、水は重さを増し、私の身体に重くのしかかる。
夜空のように深い闇に閉ざされ、視界は閉じ、方向感覚が揺らぎ、上下さえも曖昧な空間。
だが、私は迷わない。
この闇が夜空であるならば、すなわち、光を放つものが浮かんでいるのが、自明の理であるがゆえに。
「……ヌシさま、ヌシさま」
本来届くはずもないその光に、私は手を伸ばす。
その光の源は、巨大な角を持つ者。
深海の底を住処とする、この海原を征する覇者。その輪郭は闇に溶け込みながらも、身体から拡がる淡い輝きが、月のように周囲を照らし出していた。
「……あぁ、其方か」
その声は低く、洞窟全体がその言葉に呼応するかのように重々しいうねりを響かせる。まるで深海そのものが呟いたかのような、水底を震わせるその響きに、私の鱗が微かに震える。
「はい。此度も御身の不調の因を取り除かんがため、海竜、ここに馳せ参じました」
私は恭しく頭を下げ、尾を静かに揺らす。
「……すまぬな、深海の圧は、其方に少々辛かろう」
「お気になさらず。務めに支障はございませんゆえ」
私は首を振って応える。その言葉とともに、巨体がわずかに動き、私に背を向けた。
「……そうか。であれば、早速務めを果たしてもらおうか」
「ご随意に」
その声に促され、私は息を整える。深く吸い込んだ水が私の体内を巡り、背に蓄えられた力が静かに目を覚ます。
私の背から放たれた蒼光が水を貫き、私の倍以上にもなる巨大な身体に届く。
それは痛みを与えるものではなく、むしろ古傷に染み込んだ疲れを癒し、凝り固まった身体を解きほぐすためのものだ。光が鱗を這い、微かな波動が水中に広がる。洞窟の壁に反射したその輝きは、夜空に瞬く星々を彷彿とさせた。
「ご気分はいかがでしょうか」
電流を流しながら、私は静かに問いかける。
「……あぁ、相変わらず其方は加減が上手い。身体が楽になる」
その声には安堵が滲み、巨体がゆったりと水底に沈む。私はその姿を見守りながら、己の役目を果たせていることに、静かな満足を感じていた。
「……すまぬな」
ふいに、ヌシさまが重々しく口を開く。
「其方は、いつでもこの務めを放棄してしまっても良いのだぞ」
ヌシさまは微かに目を細め、その瞳に寂寞を宿す。
その言葉の意味など、考えるまでもない。もう、ヌシさまはそのことを何度も何度も私へと伝えていたのだから。
私の一族が受け継いできたこの役目を、先代で終わらせるよう提案したのは、他ならぬヌシさま本人だった。
ヌシさまは、生き続ける定めから逃れることはできない。永劫の時の中、ただただ見送る側であることを強いられている。
私の母も、祖母も、そのまた先の先祖のことも、みな一様に見送り、ヌシさまは哀しみに憂いていたことを、私は知っている。もうその経験をしたくないと、私を遠ざけたがっていることも、理解している。
だが、その言葉に頷くことは、私にはできなかった。
「……何度言われようとも、私が務めを放棄など、しようはずもございません」
「しかし、其方の身体はまだ若く、力に満ち溢れている。其方は大海を巡り、光と風をその身に帯び、新たな命と共に未来を築く、時代の最先端を進む遊泳者なのだ。
我はもはや、崩れゆく過去の遺物。其方が、我と共に水底の泥に堕ちる理由など、ありはしないのだからな」
それもまた、ヌシさまの本心。
孤独に怯え、だというのに、孤独を許容する。私という唯一の世俗との繋がりを断つことを、是とする。
その判断を、その決意を導きだすことへの葛藤は、並大抵のことではなかったはずだろう。
あぁ、本当に……。
「それでも、私は最期まで、ヌシさまにお供させていただきます」
迷いなく、そう告げる。
水中に溶ける私の声は、少なからず熱を帯びていた。
「時代が御身を捨て置くならば、そんな時代など、私は自ら放棄いたしましょう」
揺るぎない言葉が、深海の闇に響く。
それは、どこまでも静かで、けれど私にとっての確固たる誓いだった。
ヌシさまは目を閉じる。まるで、その言葉を深く胸に沈めるかのように。巨体の鱗が微かに震え、光が一瞬揺らぐ。
「狭い思慮だ」
静かに放たれたその言葉には、呆れにも似た感情が滲む。
「其方はまだ、本当の海を知らぬだろう。こんな寂寞な暗闇とは違う、本当の広い海を、知るべきだ」
ヌシさまの瞳は、なおも遠くを見ていた。彼は私に陽光の下の海を見せたいのだろう。私に自由と新たな愛を知ってほしいと願うのだろう。
それが最良であると。私にとっての、未来であると。
その願いに、私は首を振る。
「御身が私の海です。私には、それで十分にございます」
「…………」
ヌシさまの眼差しが、一瞬揺らぐ。
深海の静寂の中で、ヌシさまの巨体がわずかに動き、鱗が微かに鳴る。
ヌシさまの身体から広がる光が、柔らかく波を描きながら、私を照らす。
──あぁ、なんと罪深いものであろうか。
私の胸の奥で熱が膨らみ、抑えきれぬ想いが溢れそうになる。この想いを抱くことが、許されぬものであることは、誰よりも私自身が理解している。無礼極まりないことなど、百も承知している。
彼との間に横たわる悠久の時が、私を彼から遠ざける。
だが、私はこの胸に宿る感情に、決して背を向けることなどできなかった。
「……まったく、其方の心は、我には勿体ないほどに重すぎる宝だ」
ゆっくりと紡がれる言葉には、驚きと、どこか諦めに似た柔らかさが混じっていた。
「眩しくて敵わぬ。まさに、陽の光を思わせる」
──陽の光。
その言葉に、私の胸の奥が熱くなる。
この深海の底で、陽の光の名を冠するという意味に目を細め、私はヌシさまの身体に額をつける。
ただ、静かに微笑む。冷たい水が私の首筋を撫で、心の臓が静かに鼓動する。
「……曰く、月の光は、陽の光がなければその輝きを失う。そう、御身より聞いたことがあります」
「……それもまた、因果よ」
私は、そっと目を閉じる。
今日もまた、私はヌシさまを抱く。これから先も、ヌシさまが私を自身から引き剥がそうとしようとも、それが私の役目であり、願いであるがゆえに。
私の心は、とっくの昔に、深海に縛り付けられているのだ。